第29話 キャンベル リースに出会う
リースと家事スキルの喪失 ― 冬の終わりの再会
翌日の午前、私は学院長室の扉を静かに叩いた。廊下には柔らかな光が差し込み、窓からは淡い梅の花の香りが流れ込んでくる。冬の厳しさを越え、季節は確かに春へと歩み出していた。
「失礼します」
中に入ると、学院長は相変わらず机に向かい、分厚い書類をめくっていた。春風がカーテンを揺らしても、彼の表情は変わらない。
「何だ、キャンベル。厨房の件か?」
「はい……。正直、もう限界です。人手が足りず、このままでは事故が起きかねません。ですから――」
喉の奥に溜まった言葉を、一気に吐き出した。
「学院を辞めさせていただきます」
その瞬間、室内の空気が重たくなった。学院長の眉がわずかに動く。
「辞める? ふん、君の努力不足ではないのかね。小娘が一人辞めた程度で、食堂が回らなくなるはずがないだろう」
胸の奥で、何かがぷつんと切れた。
「……努力不足、ですか?」
「そうだ。君の采配が悪いのだろう。あの娘がいた頃に頼りきりだったから、こうなったのではないか?」
あまりに無責任な言葉に、拳が小さく震える。外の風に乗って花びらがひとひら舞い込み、それが冷笑のように見えた。
「現場を知らない人間に、何がわかるというんですか」
気づけば声が荒くなっていた。だが、もう止められなかった。
「眠る間もなく包丁を握って、食事を用意する下働きたちの苦労を、あなたは一度でも見ましたか?」
学院長は黙したまま視線を逸らす。それを最後の合図と受け取り、私は頭を下げた。
「辞めさせていただきます。それでは――」
扉を閉じ、長い廊下を歩き出す。春の光が床にまだら模様を描いていた。背後から呼び止められることはなかった。
学院を出ると、街には春の香りが満ちていた。芽吹いたばかりの若葉が陽を浴び、商店街には子どもたちの笑い声が響く。冬の名残の冷たい風の中にも、かすかな暖かさが混じっている。
「……さて、これからどうしたものかね」
四十を越えた料理人に新しい仕事があるだろうか。厨房一筋の経験はあるが、学院を飛び出したという事実が影を落とす。
そんな思いで足を進めていると、背後から懐かしい声がした。
「あれ……? キャンベルさん?」
振り返ると、街角に立っていたのは金髪の少女――リース=グラスゴーだった。春風にマントがひらめき、頬には柔らかな紅が差している。
「リース……!」
思わず声が震えた。無事な姿を見た瞬間、胸の奥の緊張が一気にほどけた。
「お久しぶりです。まさかこんなところで」
「本当にね……。あんた、あのあとどうしていたの?」
問いかけると、リースは少しはにかむように笑った。
「実は、今は騎士団の寮で働いているんです。寮母さんの手伝いとか、食事の用意とか」
「なに……! そんなところで……」
意外だった。けれど、それ以上に胸に小さな希望が芽生える。
「私はね、学院を辞めてきたところなんだ。もう無理だと思って……」
リースは一瞬驚き、それから真剣な表情で言った。
「それなら……キャンベルさん、うちに来ませんか? 団長さんに頼めば、厨房で働けると思います」
「本当かい……! それは助かるよ!」
涙が出そうになる。再び鍋を振れる日が来るなんて思ってもいなかった。
だがリースは急に視線を落とし、少し声を潜めた。
「ただ、一つお願いがあるんです」
「お願い?」
「騎士団の募集は十八歳からなんです。でも……私はまだ十六歳なんです」
「なっ……!」
「だから、みんなには十八歳だってことにしてるんです。キャンベルさんが、そのことを内緒にしてくれたら……紹介できます」
その言葉に、春の風が一層強く吹いた。白い花びらが二人の間を舞い、秘密を隠すように散っていく。
リースの瞳は真剣だった。小さな肩を張り、必死に生き抜こうとしている。その姿が痛いほどに胸に響いた。
「……あんた……」
思わず声が震えた。だが、すぐに頷いた。
「もちろん、誰にも言わない。リースのことは、昔から知ってる田舎の娘ってことで通せばいい」
「ありがとうございます!」
笑顔がぱっと咲いた。春の日差しよりも明るく、希望に満ちた笑顔だった。
――この子は、必ず報われなければならない。そう心から思った。
芽吹きの季節に交わした約束。新しい門出は、静かな春の風と共に始まろうとしていた。




