第3話 下働き初日 ― 屈辱と決意
下働き初日 ― 屈辱と決意
夜明け前の鐘が、石造りの学院の塔から響いた。
リース=グラスゴーは、その音で目を覚ました。
昨日までは、柔らかな絹の寝具と侍女の手で起こされていた。だが今、彼女が横たわっているのは、講堂裏の薄暗い物置部屋。木箱や壊れた机に囲まれた狭い空間に、藁を詰めただけの寝台が一つ。埃と古木の匂いが鼻をついた。
制服もすでに返却させられ、今身に着けているのは粗末な灰色の作業着。鏡もない部屋で乱れた金の髪を手櫛で整え、冷たい水で顔を洗う。胸の奥に広がる虚しさを押し殺しながら、リースは立ち上がった。
学院長から言い渡された最初の仕事は、寮の廊下と食堂の掃除だった。朝食の前に終えろ――それが条件だ。
重たい桶に水を汲み、雑巾を持って廊下にしゃがみ込む。かつて自分がドレス姿で歩いていた大理石の床を、今は這うようにして磨いている。廊下に響く雑巾の音がやけに大きく、足音ひとつしない空気が痛かった。
やがて、ざわめきとともに生徒たちが廊下に現れた。授業に向かう支度をした上級生たち。彼らの視線は、床に膝をつくリースにすぐ突き刺さる。
「……おい、本当に掃除してるぞ」
「公爵令嬢だったんだろ? みっともねえ」
あざけりの笑い声が後ろから降ってくる。リースは顔を上げなかった。歯を食いしばり、ひたすら布を動かす。
「ここ、拭き残しがあるぞ」
誰かの声と同時に、足先で水をはねかけられた。冷たい飛沫が頬を濡らす。くすくすと笑い声が響く。
「お掃除女にふさわしい顔になったな」
「雑巾より似合ってるかもな」
悔しさで胸が詰まりそうだった。だが反論すれば、すぐに追い出される。学院に残ると決めたのは自分だ。父の無念を知るために。ここで折れるわけにはいかない。
やっと廊下を終えた頃には、腕は棒のように重くなっていた。だが次は食堂だ。大広間の長テーブルを一つ一つ拭き、落ちたパン屑を拾い、床を磨き直す。途中で厨房の女使用人に怒鳴られる。
「遅い! もっと腰を入れて磨きな!」
指先の皮が擦り切れ、じんじんと痛む。それでもリースは黙って働いた。
やがて朝食の時間。生徒たちが食堂に集まってくる。香ばしいパンとスープの匂いが広がる中、リースは隅で皿を並べ、食器を運んだ。
「おい、皿が冷えてるぞ!」
「水でも飲ませてるのか?」
次々に投げつけられる言葉。パン屑をわざと床に落とす生徒もいた。リースはそれを拾い、再び拭き掃除をする。背中に突き刺さる視線と嘲笑。胸が張り裂けそうだった。
――でも、泣かない。
泣いたら負けだ。父に恥じる。
昼前には裏庭の掃除が待っていた。風に舞う枯葉をかき集め、大きな桶に入れる。土の匂いと汗で全身が汚れる。手のひらには豆ができ、雑巾の水が染みて痛む。それでも休めば誰かに「怠けている」と囁かれる。
午後になると、講義室の窓拭きが割り当てられた。かつて自分が学んだ教室。外から見上げると、中で授業を受ける生徒たちの姿が見えた。
黒板の前には若い講師が立ち、生徒たちは真剣に杖を構えている。リースは窓の外からガラスを磨きながら、ふいに胸が締めつけられた。
――自分もあの中にいたはずだった。
父の罪がなければ。公爵家が健在であれば。
心の奥から、どうしようもない悔しさが込み上げる。だが、ガラス越しに視線が合った瞬間、誰かが笑った。指を差され、口の動きで「掃除女」と言われた気がした。
リースは黙って顔を伏せ、再び窓を磨いた。
夕刻、最後の仕事は厩舎の掃除だった。馬の匂いと藁の湿気が充満する中、汚れた床をかき出す。貴族の馬車で迎えられていた令嬢が、今は馬の世話をする身だ。体力の限界が迫り、吐き気が込み上げる。それでも手を止めれば、また嘲られるだけだ。
ようやく仕事を終えた頃には、空は赤く染まり、腕も脚も自分のものではないように重かった。手の皮は裂け、髪は乱れ、作業着は泥と埃で真っ黒になっていた。
物置のような寝床に戻り、粗末なパンをかじる。乾いて固く、喉を通らない。それでも食べねば明日動けない。
薄暗い部屋に一人きりで、リースは初めて大きく息を吐いた。
――これが、下働きとしての最初の日。
屈辱と疲労に押し潰されそうだった。けれど同時に、心の奥には小さな炎が灯っていた。
笑われても、蔑まれても。父の真実を知るために。
必ず、この学院で生き抜いてみせる。
藁の寝床に体を横たえながら、リースは涙をこらえて目を閉じた。
その瞳には、かすかな決意の光がまだ消えていなかった。




