第23話 リース視点 密命 ― 食堂の灯りと願いごと
密命 ― 食堂の灯りと願いごと(リース視点)
――カン、カン。
木の床に桶を置く音が響いた。
夜も更けた騎士団本部の食堂は、ひっそりと静まり返っていた。
昼間はあれほど賑やかだった声や笑いも、片付けを終えた後の今は影もなく、まるで別の場所みたいに静まり返っている。
「ふぅ……今日も、なんとか片付いた」
エプロンの端で額の汗を拭う。
この食堂で働き始めて三か月。
最初は焦がしたシチューや、塩を入れ忘れたスープで何度も落ち込んだ。けれど、いまではすっかり手が慣れて、団員の人たちから「おいしかったよ」なんて笑顔をもらえるようになった。
それが嬉しくて、疲れていても自然と頬が緩むのだ。
◆
「リース、まだ残ってたのか」
背後からかけられた声に振り向くと、紫の髪をした若い騎士――エリオットが立っていた。
鎧姿のままで、肩には薄く埃が積もっている。
「エリオットさん。今日はずいぶん遅いんですね」
「ちょっと、準備があってな」
彼は椅子に腰を下ろし、ため息をついた。
いつもより落ち着いた表情。私は胸がざわついた。
「……遠征ですか?」
「さすがだな。よく分かった」
苦笑しながら頷くエリオット。
「しばらく、この場所を離れる」
胸の奥に冷たい風が吹いたような気がした。
毎日食堂に顔を出しては冗談を言い、時には皿を運ぶのを手伝ってくれる彼がいなくなるなんて。
それでも私は笑顔を作る。
「寂しいですけど……。どうかお気をつけて。帰ってきたら、またシチューを食べてくださいね」
「……ああ。必ず帰ってくる」
彼は立ち上がり、静かに背を向ける。
その後ろ姿を見送りながら、胸の奥にじんわりとした痛みを抱えた。
寂しいけれど、無事に戻ってきてほしい――それが一番の願いだった。
◆
翌日。
昼下がりの食堂に元気な声が響いた。
「リース! やっぱりここにいた!」
金髪の少年、ロベルトだ。
十七歳の彼はまだ正式な団員ではないが、友人が団にいるため、よく遊びにやって来る。
「ロベルト君。今日も見学?」
「うん! ここにいると面白いからさ」
子犬のような笑顔で席に飛び込む彼を見ていると、不思議と疲れが和らぐ。
「そういえば昨日ね、街に新しい菓子屋ができてたんだ」
「菓子屋ですか?」
「そう! それがもう甘くて……で、その隣にある宿屋の主人がね――」
ロベルトは次々に街の話をしてくれる。
人混みや商人のこと、旅人の犬の話。
私は耳を傾けるだけで心が躍った。
そして――。
「あ、そうそう! 街道を北に行ったところに、温泉があるんだって!」
「……え? 温泉?」
その言葉を聞いた瞬間、私は思わず身を乗り出していた。
温泉――!
前世の記憶が鮮やかに蘇る。
休日に友人と湯煙に包まれた旅館を巡った、あの心地よい日々。
まさか、この世界にもあるなんて!
「本当にあるんですか?」
「あるある! 俺も行ったことないけど、日帰りでも行けるって聞いたよ。ねえ、今度一緒に行こうよ!」
胸が弾んだ。
けれど――。
「でも……」
すぐに冷静な自分が顔を出す。
「今は騎士団の方々も遠征の準備で忙しいですし、私も食堂の仕事が……」
「えー、そうなの?」
「はい。でも……手が空いたら、ぜひ行きたいです」
そう告げると、ロベルトは少し残念そうに肩を落としたが、すぐに笑顔を見せた。
「よし、約束だな!」
「はい、約束です」
小指を差し出され、私も笑って絡める。
◆
その夜、片付けを終えて食堂の椅子に腰かけ、私はひとり考え込んでいた。
「……もし、誰か代わりに働いてくれる人がいたら」
私が一日だけでも食堂を離れられるのなら。
誰か新しい人が加わって、料理や掃除を分担できるのなら。
そうすれば――温泉に行けるかもしれない。
けれど現実は、私ひとりで回している部分が多い。
いなくなれば、きっと団員のみんなが困ってしまう。
「はぁ……」
ため息をつきながらも、心の奥で期待する気持ちを隠せなかった。
新しい仲間が来てくれれば。
私の願いも、少しは叶うかもしれない。
温泉の湯気に包まれて、のんびりと過ごす自分を想像する。
その幻想があまりに心地よくて、思わず笑ってしまった。
「……いいなぁ、温泉」
夢みたいな呟きを残して、私は灯りを落とした。
夜の食堂はまた静けさに戻る。
けれど私の胸の奥は、湯煙のようにあたたかく揺れていた。




