第1話 リース 死にそう!大ピンチ
雪は世界をまるごと呑み込み、音を消していた。
白い絨毯のように広がるパウダースノーの上に、リース=グラスゴーは仰向けに転がっていた。
金の髪は雪に散り、蒼い瞳はうつろだ。
ポーツマス学院からの追放――作業着の裾の泥と血のにじみが、まだ冷たい体にやけに重くのしかかる。
息は浅く、腰のあたりがずきりと痛む。
凍えるような寒さが肋骨を挟んで裂けていった。
「もう、だめ……」
呟く声が雪に吸い込まれて、戻ってこない。
お腹は鳴り、空腹の奥底から鈍い痛みが広がる。
父も母も、いない。
あの二人の元に行けるなら、もう思い残すことはない——そんな絶望が胸を締めつけた。
指先は冷たく、まともに動かせない。
目の前に広がる空は、まるで遠いスクリーンのように薄く、彼女の世界の色を失わせている。
雪の表面はふわふわで、指先に触れた感触は柔らかかった。
思わず笑ってしまいそうになるほど、何もかもが遠い感覚だ。
「この雪、あー露天風呂に入ってからの雪見酒に最高ね……」
薄く、冗談のように漏れた言葉が、自分の耳に返ってきて、リースの脳裏に小さな火花を散らした。
露天風呂——雪見酒——えええええ!
その瞬間、リースの頭に激しい痛みが走った。
脳の奥を誰かが握りしめ、ぐいとねじるような鋭い予兆。
呼吸が一瞬止まり、視界にちらつく光の群れの中で、断片的な映像がぶつかり合った。
白いオフィスの蛍光灯、カチカチと打つキーボードの音、無数のメールの件名、終わらない会議、締め切り、消えない目のクマ——
「私、前世で……働いてた?」
記憶──というよりは記録が、感覚とともに流れ込む。
リースは自分がただの十六歳の学院生だと思っていた。
しかし、そこに差し込まれたのはまぎれもなく別の人生の痕跡だった。
スーツを着て、ヒールの高い靴で駅のタイルを踏みしめ、満員電車で息を詰め、パソコン画面の明かりだけが夜を照らす世界。
キャリアウーマン。
責任と期待に押し潰されそうになりながら、「あと少し」と自分を騙して働き続けた日々。
最初はやりがいだった。
形になる数字、達成感、上司の小さな笑み。
けれど会社の業績はだんだんと悪くなり、部署は縮小され、人が減るたびに仕事が増えていった。
「増員してください」
と何度も頼んでも、返ってくるのは無機質な返事。
「ただいま求人募集中です」
とだけ表示された採用ページの冷たさ。
終わらない残業と、終わらない責任。
家に帰るのはいつも深夜、食事はコンビニの温め直し、休日はメールの通知で目が醒める。
そしてある朝、目が覚めたらもう動けなかった。
胸の奥が重く、呼吸が浅くなっていく。
病院の白くて冷たいベッド、機械のピーピーという音、看護師の慌ただしい足音。
周囲は「過労」という言葉でざわめいた。
あの世界では、生活と仕事の境界が溶けてしまっていたのだ。
リースは、前世の最後に
「まだやらなきゃいけないことがあった」
と叫んでいた自分の声を、なぜだかはっきりと思い出す。
「最悪……」
と、小さな笑いが零れた。
雪の白さと病室の白さがごっちゃになり、どれが現実か分からない。
前世の自分は、命を削るように働いて、最後にはそこで終わった。
こんな形でまた終わるなんて、冗談にもほどがある。
ただ、ここは雪の世界。
冷たくて静かで、死ぬには美しい場所かもしれない。
でも、死ぬ前にもう一度だけ──あの時諦めたことをやってみたかった。
露天風呂に入って、湯上りのお酒、全身で自由を感じること。
口にしたのは、ほんの一言だった。
「死ぬ前に、もう一度、温泉に入りたかったな……」
その言葉が、どこかの記憶と繋がったのか。
前世の記憶は、リースの中で折り重なり、鋭さを増してくる。
オフィスの会議室で、同僚に向かって笑顔で
「週末は温泉に行くんです」
と言った自分。
忙しさに紛れてキャンセルしてしまった約束。
行けなかった温泉旅館の露天風呂。
最後に残された「やり残し」が、彼女の胸に刺さる。
痛みは消えないが、思考は少しずつ整理されていく。
追放された理由、家族の不在、今の痛み。
全部がつながって、妙に冷静な受け止め方が出来る自分に気づく。
確かに、今は極限だ。自力で立ち上がるのは難しいかもしれない。
でも、記憶の断片が教えてくれたのは──死ぬことが答えじゃない、ということだったのかもしれない。
「こんなところに、なんで私がいるんだろう」
リースは自嘲するように呟いた。
雪の粒が唇に触れて冷たい。
視線の端に、学院の影がちらつく。
追放された日の夕暮れ、白い雪道を一人で歩いた自分。
もう一度やり直す機会が与えられたのか、それともただの偶然か。
脳の痛みはまだ鮮烈で、断片的な記憶が次々溢れ出す。
だが、確かなのは一つ――このままでは確実に死ぬ、という現実だった。
「なんでこんなところにわたしはいるのだ」
呟いてから、リースは深く息を吸った。
空気が肺に入る冷たさが、少しだけ生きている証のように感じた。
雪の上に散らばる金の髪が、光を受けて綺麗に見える。
それを見て、ほんの少しだけ笑ってしまう自分がいた。
雪の静けさの中で、リースの視線は遠くの木立の陰にある小さな黒い点に留まった。
人か、建物か、それとも単なる影なのか。
まだ足は動かない。
でも、思考は動いている。
前世の記憶が混ざったことで、彼女の中に小さな種火が灯ったような気がした——生き延びる方法を見つけたい、もう一度だけ風に乗りたい。
そんな願いが、うすく胸に膨らんだ。
雪は静かに降り続ける。
リースはふと、次のことを考えた。
今の現状を整理して、どうしてここにいるのか、何が起きたのかを知る必要がある、と。
だがそれは、どう説明するべきことだろう——そう自分に言い聞かせながら、彼女は瞼を閉じ、雪に混ざる冷たい風を感じた。




