第5話 シスターさんは見た
「この数日頑張ってたでしょ。遊びに行こ? ぶつけても良いよ? 夜遊び仲間のよしみでね」
見つめた先にいた燐音は畳み掛けるように楓都を深い夜に誘おうと、流し目を向ける。
至近距離から放たれる白い息遣いは、淫靡な期待感を演出させていた。
「俺はそこで乗れるほど甲斐性ないよ」
言って、苦笑いの楓都が視線を外す。
大胆不敵な性格をしている燐音は八割くらいは本気で言っているに違いない。きっと、彼が少しでも乗る素振りを見せたら確実に仕留めてくる。
彼女は躊躇しない。悪友にも近い楓都に遠慮などしないし、気を許しているのだ。
だから楓都はきっぱりと突き放した。
「本当に変わったんだ。あの楓都がねぇ。フラフラ夜の街に吸い込まれてたのに」
「限度はあるでしょ。家と義妹任されてるのに、もうこれ以上はないよ」
「義理堅いね。でも気が向いたらまた声掛けてよ。どこか遊びに行こう」
「それはもちろん。日中になるかシエルが居ない時にな」
幼い頃に親を亡くした楓都にとって、夜遊びは一つの拠り所のようなものになっている。特に目標も夢中になれるものもない彼は彷徨うように夜を渡り歩くのがいつしか趣味になっていたから、察しのいい燐音は長く付き合ってくれたのだろう。
けれども、家族が増えたというのは大きい事だった。
夜遊びするような不良でも変わらないといけない、と自覚したのだ。
きっと前までの楓都なら燐音を逆に翻弄するくらいの勢いで手玉に取っただろう。
ただもうそれは姿を隠した。
返答を受け取った燐音はガッカリというよりも充実した様子で、ふっと笑みを称える。
足をぶらぶらとさせながら、カフェオレを飲み干していた。
「星が綺麗だね」
「冬も近いしよく見えるよね」
「月に雲が掛かってるのが残念だけど。こういうのなんて言うんだっけな。まぁいいか」
ふと、見上げれば星が満天に煌めいていた。
澄んだ空、凍てつく冷気、枯葉が舞う気配に、手元のじんわりと暖かい缶コーヒー。
二人は冬の夜の散歩の醍醐味が詰まった風情に浸る。
「そう言えば燐音は夜遊び続けるのか?」
「いやあ。キリも良いしね、暫くはやめとく。そろそろ成績も上げとかないとね。進級出来ないとか嫌じゃん?」
「必要なら教えようか?」
「あー、あんた成績良いもんね。シエルの方も大変だろうし、一緒にお願いしてもいい?」
「中等部から学期末恒例だからね。困ったら家に来な」
「おー、助かる〜。んじゃ、またテスト前にね」
手を合わせて楓都を拝んでから燐音は、パタパタとスカートを翻して埃を払う。少し離れた鉄網のゴミ箱に狙いを済まして、カフェオレの缶をバスケのシュートのように放物線を描かせた。
カコンッ、と小気味いい音を立てて吸い込まれれば「いえい」と無邪気な笑顔の燐音がVサインをこちらに向ける。
「ナイシュー」
「さあ、帰ろっか」
「だね。よ、……っと」
「お、ナイス〜」
続いて楓都も缶をゴミ箱に投げ入れる。片手でスナップを効かしたコントロールシュートに、燐音の掛け声が二人きりの公園に響いた。
そうして、しんと静まり返った公園を後に、楓都と燐音は帰路に就く。
行きとは違い連れを伴っての帰宅の途だが、終始会話もなく淡々と歩を進め、自宅近くの分かれ道で立ち止まった。
「んじゃ。学校で」
「うん、じゃあな」
「あ、疲れてるなら休んでもいいと思うけどね」
「そんなことないよ」
「そう? やっぱりちょっと数日元気なかったように見えたんだよね」
「自分じゃ分かんないな」
「そっか」
別れ際、小さく手を振った彼女は寒々とした空気にふわりと甘い香水の匂いを薫らせて、楓都の顔を覗き込んできた。
疲労は確かにあったが、それは肉体的な方で精神は寧ろ気が楽だった……つもりだ。
しかし、普段から楓都を見ている彼女には何か違いが見て取れたのかもしれない。
血の繋がりがないとはいえ、一度は亡くなった神父の元にいたこともあり紛れもなく家族と認識していたから、気付かない内に落ち込むものもあったのだろう。
そうかも、と思いながら楓都は視線を明後日に向けながら髪をかき上げる。
そうしていれば、またふわりと香水が薫って、死角から頬に温かく柔らかな感触が押し当てられた。
「元気出た?」
「狙ってたな? 好きでもないくせによくやるよ」
唇が当たったのをすぐに理解する。
感触がしたすぐ後に振り向けば、踵を浮かせていた燐音がすっと下がっていくのが見えていた。
悪巧みは楓都も好きだが、こうしたものに関しては楓都より燐音が上回る。
悪戯っぽい笑みで「あ、顔色良くなったね」なんて、年頃の少女はキスを意にも介さない。
気を遣ってのことだろうから、溜め息を飲み込んだ楓都は困ったように頬を擦る。
彼女のここぞの躊躇いのなさは諦めがつくし、楓都にとって取り乱すものでもなかった。
なかったのだが、燐音の悪戯は思わぬハプニングを呼び起こし、楓都を強く動揺させることになる。
「楓都? な、んで……?」
まだ日も登らない静かな冬の明朝に、力のない声がそう木霊する。
声のしたT字路の一本道の向こうに目をやれば、ぽつんとシスター服の少女が立っていた。
数時間前、一緒に食卓を囲んだ新しい家族。
守るべき義妹の姿。
そのシエルは呆けたように二人を見つめ、それから泣きそうにくしゃりと表情を歪めた。