逃げ道はない
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雨が降り始めた。気化したエーテルが雨雲に混ざり溶けて、大粒の雫となって地面を打ち付けていく。肌を伝っていく。淡い碧の雨だった。
弾けるたびに夜闇を朧げに灯す燐光。踏むたびに光彩を揺らす水面。
「ムカつくが、きれいだな」
走り続けたまま、アズレアは悪態まじりにぼやいた。濡れて冷える指先を互いに温め合うように強く交える。
「…………まぁ、それはそうだな。俺も、こうなる前は嫌いじゃない景色だった」
(言わなくていいのか? アズレアのほうが綺麗だってよ。喜ぶぜ? 言われ慣れてるとは思うけどよ。てめえからそんな言葉は言われちゃいねえからな)
駆ける足音が水音を跳ねていった。粗く白い吐息をこぼしていく。
(うるせえ。お前がそういうことを言うから言えなくなる)
(人のせいかよ。あーあー、確かにオレの影響力を鑑みると、器の小せえてめえには厳しかったか。悪ぃな)
入り組んだパイプばかりの狭い路地を駆けていく最中、青い炎が無自覚に灯った。淡い碧を塗り潰す青い炎の揺らめき。
アズレアは驚くように目を見開いたが、すぐにニヘラァと。妖しい笑みを浮かべて、握る手に一層力を込めた。
「ふぅむ、そのほうが綺麗だな? まぁ我とグレンの色ゆえ当然だな」
そう言って、青い視線でムギを睨んだ。
「恨まないでください。彼の手が私を選んだだけなので」
“三角関係なの?”
“威嚇じゃん”
“根に持ってる”
こんな状況でも他人事なコメントが無数に横切っていく。他愛ないことばかり書き込まれていて、今までだったら嫌気が差していたようなコメントさえも、見ていると涙が滲んだ。
弱気になっているのか? ……違う。こんな些細なことですら奪われたくないだけだ。碧に塗り潰されたくないだけだ。
(てめえは勝てる自信があんのか? オレとアズレアちゃんをぶっ殺した色付きに)
身体を灯す青炎から声が響いた。
(無理だろうな。……どうしたらいいかもわからない。けど、アレキサンダーは俺にとまらないでって言ってくれたんだよ。幸せになってくれって。……バカ野郎共が俺達のために死んでくれたんだよ)
アレキサンダーの言葉がずっと頭に残り続けている。
ボクはグレンが、インクで出来てたとしてもね。ボクとのたーいせつな思い出が綴られたグレンにはね。幸せになってほしいから――。
(……だから立ち止まれない。綴ったものを塗り潰されて、無かったことにされたくはないから。思い直すつもりもない。青いの決断だったって言われても変えるつもりはない。……死ぬ気で逃げ切るだけだ)
(てめえが命をかけてもアズレアを逃がすってか?)
ヴェルディオが自嘲混じりに尋ねてきた。
(……俺はもう、誰を犠牲にしても、泣き喚いたって後悔はしない。けど、……俺一人で死ぬつもりはない。俺は俺を犠牲にしてアズレアだけを逃がすつもりはない。泣かしたくはないから)
(自分勝手な奴だな。それにえぇ? てめえが死んだらアズレアちゃんが泣いてくれるって? 大した自信だな。まぁ……その通りだろうがな。わかってんならいいさ。てめえはその無謀さを貫け。我儘を突き通せ。青臭ぇが、それでいい。その青さを無くすなよ)
これではまるで父親だ。……父親なんて、居もしないから空想の存在でしかないが。少なくとも、説教臭いくせに自責を帯びた重い言葉が、青の色付きだった男から出たものだとは思いがたかった。
(……俺はお前みたいになりたくないだけだ。最初は……嫉妬したけどさ。今は違うんだよ)
ヴェルディオについて喋ってくれたアズレアの姿はずっと脳に刻みつけられている。すらすらと溢れ出てくる文句。荒々しく吐き出された言葉に込められた苛立ち。幼く剝がれていった飄々さ。泣きだしそうになって熱を帯びた双眸。……なにもかも、一生忘れることはないだろう。
叶うことならアズレアに、二度とあんな表情をしてほしくはなかった。
(……ヴェルディオ。お前はアズレアに置いて行かせた。育ての親か初恋相手かしらねえけどさ。庇うみたいに勝手にくたばってアズレアを泣かせた。苦痛のなかに置き去りにしたんだ。だから……俺はそうなりたくない。死ぬならアズレアといっしょに死ぬ)
逃げると約束しながら、我ながら酷い考えだった。けれど手を離すことなく眠れるなら。全てが終わる前にキスでもできるなら。それで全てを捨て去ってもよかった。
だが、そんなささやかな望みと甘えに唾を吐き捨てるみたいに、頭のなかで粗暴な声が荒々しく響いていく。
(ふざけてんのか? ガキが悲観的な夢語りやがって。ちょっとは見込みがあると思ったがオレの勘違いか?)
ガツンと、脳みそを殴られたみたいに視界が大きく揺れた。
「ッーー……」
走れなくなってその場によろめくと、アズレアは何も言わずに肩を貸してくれた。首元を撫でる青い髪が愛おしい。
呆然とするように、グレンはアズレアの顔を覗き込んだ。
不安げに見つめ返してくる青い瞳。僅かに赤らむ頬。そっと、包むように抱き締められて、グレンは自己嫌悪に息を呑んだ。
(わかっただろ? 一緒に死ぬなんて逃げ道はてめえにはねえよ。仮に二人仲良くお陀仏したなら、道の途中で歩けなくなっただけだぜ? こんなところでくたばったら最期、今度こそ肉体も魂も、全部エーテルに変わって都市の電力として洗濯機でも回して消えてくか【碧靂】の大切なお人形か?)
ほんの一瞬でも過った破滅願望に吐き気がした。




