お前じゃなきゃダメなんだよ
「グレン、……待って」
弱りきったアズレアの声。それでも止まることはできなくて、小さな手が力なく解けていく。青い熱が指先から滑り落ちる。
そして、小さな足音を上書きするように勢いよく靴音が背後に迫った。同時、殴打の衝撃が背を走り抜ける。
グレンは突き飛ばされながらも身を翻し、即座に態勢を整えた。
視線を向けるとナドゥルが握り拳を震わせて、じっと睨み据えていた。
「……目を背けるな。お前には一人で悲しむ時間なんてねえんだよ。そんなことも分からないからお前は、……バカなんだ」
ナドゥルの首にかけられた小隊達のドッグタグが重く揺れ鳴る。突き付けられるみたいにグレンは目を瞠った。息が詰まるなか、ナドゥルは歩み寄って力任せに一発、頬に鋭く拳が打ち付けられた。
乾いた音が夜闇に溶けて消えていく。エーテルの血が口のなかに滲んだ。
「本当ならオレは、お前なんか触りたくもねえよ! 止めたくもねえ! 勝手に一人でどっか行っちまえばいい! そして死ね! けどよ……お前じゃなきゃ……っ! お前じゃなきゃもうダメなんだよ!! お前がアズレア様から手を離してるんじゃねえよ!!」
怒号が劈いて――静寂が張り詰めるなか荒々しく息切れだけが響いていた。グレンは何も言えないまま、じっと青と碧の双眸でナドゥルを見据え続けた。
「オレは、オレは……アズレア様が大好きだ。愛してる。いくらだって命を賭けれる。他人の命だろうとな。叶うことならオレがアズレア様の隣にいてやりたかったさ。オレだったら今頃、抱きしめてる。キスしてる。お前とは違う。…………けど、お前じゃなきゃダメなんだよ。だからお前に、悲しむ時間なんて、……一秒だってッ! ねえんだよ!!」
勢いのまま首根っこを掴まれた。グレンは咄嗟に牙を軋ませて、ナドゥルの腕を振りほどくと力の流れを視て組み伏せる。
ナドゥルはそれでも怒号を張り続けた。止まろうとはしなかった。
「オレはアズレア様のためならお前にだって土下座してやる。頼むよ。アズレアの隣にいてくれ。オレは今回だけは辞退してやる。……頼むよ」
声は上擦っていた。喉の奥を掠める空気の僅かな音が、我に帰らせてきて、グレンは静かにナドゥルを解放した。どこに目を会わせればいいかわからなくて、俯いて下を見る。
「…………悪かった。お前の、仲間だっていたのに」
「謝ることは侮辱だ。犠牲だと思うな。オレの仲間をバカにするな……! ……わかったな!? 誓えよ!! 青色に!! 誰が死のうがお前が死のうが! 絶対に、二度と手を離すんじゃねえ!! …………クソが! 大嫌いだよ…………まじで」
ナドゥルは悪態をついて、すれ違いざまに肩を強く激突させた。……鈍い痛みが体に伝わると、不思議と少しだけ力が湧いてくる。
「……アズレア様。オレは可能な手段は取ります。今すぐ金がほしい便利屋を捨て駒にするなり、都市を巡るエーテル水道のインフラを破壊するなり。エーテル電光と対立している企業にクラウドファンディングだってしてやります。……どんな方法を使ってでもアズレア様をお助けします」
決然とした物言いで靴音が離れていく。他にもまだコードウォーカーの小隊が残っているのだろう。彼らの信号音がツーツーと何度か響くと、ナドゥルは一人頷いた。
「ぜひとも、オレのことは覚えておいてください。もしよろしければオレの名前を動画のタイトルに入れてください。それがオレにとっては墓標以上に……オレの存在した証明になるんですから。……グレン! わかったな!! オレの代わりだと思ってお前が!! アズレア様を――!! ……クソが。もう好きにしろよ」
言いたいことだけ言い切ると、開き直るみたいに清々しい笑顔をアズレアに向けて、ナドゥルは碧の街灯が照らす先へと向かっていった。
遅れて、端末に通知が響くと。彼から笑えるぐらい丁寧に街からの脱出ルートが記載された地図データが送られてくる。
「…………バカばっかりだ。……俺もか」
笑えてきた。グレンは頬を引き攣らせたままぼやいて、何度も、何度も涙を拭った。乾き尽きるまで、嗚咽を呑み込み押し殺す。
離れてしまったアズレアの手を握り直し、片膝をついた。――言葉が詰まる。こんなときに何を言えばいいかを知らなかった。
「自分勝手なこと言うけどさ。さっきアズレアの手を離したとき、凄く後悔したんだ。……あんな奴に殴られて、殴り返せないぐらいさ。……だから、俺はもう後悔したくない。……アズレア」
じっと向かい合った。小さな手を逃さないように、ぎゅっと強く握り締める。指を交える。動揺するように華奢な体躯が僅かに跳ねた。
「ッな、なにかね……グレン」
「俺と一緒にいて欲しい。……逃げ切ろう。絶対。アズレアに頼まれたからとかじゃ、青い誓約のためとかじゃなくて、俺が――――」
赤らんだ頬、困ったように揺れる瞳。少しばかりの爪先立ち。言葉を言い切るよりも先に、掴んでいたはずの手が解けて、ぎゅっと背へと回った。不意を突かれるように抱きしめられて、訳もわからず目を見開いていく。
「……グレン。我はきっと、君が思っていたより……強くないんだ……。青色の名前だって……もう保てるほど力もない。君の手を自分で……掴み直すこともできないぐらい……弱い奴なんだ。だから、失望させてしまうかもしれない」
「……色付きにしては威厳がないのは知ってるさ。ときどき思い出すみたいに寂しそうにしてたことも。……よくないことを企んでたことだって。だから失望なんてしない」
ギィと。きしむ音をたててアズレアは顔をうずめた。柔らかな熱と青色が密着していた。そう長い時間ではなかったはずだ。せいぜい、数十秒。
……息はまったくできなかった。長く、長く、長く……今まで綴ってきたものすべてを上書きしてしまいそうなぐらい。ずっと抱きしめられていた。
グレンはそっと抱きしめ返した。
小さな背が、深く息を繰り返していた。
区切りをつけるように、意思を立ち上がらせるように。長く、深く、息を吸って、息を吐いて。
そして、いつもの自信ありげな表情でジトリと青い眼差しが見上げてくる。
「ふん、少しは君も……頼れるようになったじゃないか。思わず我の乙女心がドキっとしてしまいそうなぐらいにな」
そう顔を真っ赤にしながら落ち着いた様子で言い切った。
「そもそも、アズレアがいないともう寝ることもできねえしな」
「君が頼めばいくらでもキスなんてしてやるが?」
「まだ眠るには早ぇよ。俺等はいい子ちゃんじゃねえんだから」
濁った夜空を見上げても、明るすぎる都市からは星一つ見えなかった。




