背を包む闇
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
走り続けた。碧の蛍光が見えなくなるまで。
どれだけ息が果てようとも、足が痛もうとも。
止まることはできなかった。……できるはずもなかった。振り向くことさえ憚れた。走って、走って、走って――――。
旧ルミネンス電光社を抜けると人気のない寂れた港湾に出た。
黒い海が広がっていた。目頭が熱くなった。
グレンは息を震わせて立ち止まった。
「ッーー……」
穏やかなさざ波の音がした。夜の冷ややかな空気が流れ込んでくる。
アズレアは解けるように手を離すと、ふらり、ふらりと数歩彷徨うように前へ進んで目を見開いたまま座り込んだ。
「我の……せいだ。ぜんぶ、最初から…………」
――街からは出られていない。夜の闇を裂く碧の光が後ろ髪をも照らしていた。船の道しるべとなるエーテルクラゲが暗闇の海をふわり、ふわりと漂っている。
灯台も、街の光も、闇をかき消す灯りがどこもかしこも満ちていた。逃げ場は、冷ややかな静寂に満ちた僅かな夜闇だけだった。
“「アズレア様、訂正してください。アズレア様のせいではありません。全てこの、グレン・ディオウルフバカ雑魚が無力なゆえでしょう」200000L”
声と同時に視界を過る同じ言葉。振り返ると、ナドゥル・クリシュナーが堂々たる態度で仁王立ちしていた。コードウォーカーとして重装に身を包んだまま、首には大量のドッグタグをぶら下げていた。
グレンは返す言葉もなく黙り込むと、ムギが一歩前へ出て、ナドゥルを険しく睨み見上げる。
「そのバカ雑魚に睾丸を破壊されて男ですらない貴方が何を言っているんですか?」
「黙れ。真実を口にすることがいつも正しいと想うなよ。雌犬風情が」
「あなたは雄でも雌でもないですが?」
ナドゥルとムギは勢いよく額をぶつけあった。歯と犬歯をむき出しにしていがみ合う。
静寂を無理でも振り払おうとするように、暗闇に呑み込まれてしまわないように声を荒らげ、気力をなんとか振る舞っているようにさえ思えて。
「…………悪い。ナドゥルが言ったことは、間違いじゃない。ムギが言ったこともな」
ぐしぐしと、弱い自分を振り払うように、グレンは滲んだ涙を拭った。
遠くを見つめて呆然とするアズレアに、空元気を振り絞って手を差し伸べる。
「……絶望的かもしれないが。俺達の目的は怪物退治じゃない。……逃げ切ろう。アズレア」
震えを必死になって止めた。アズレアの前で怯えていたくなかった。
「…………君はとんだ、お人好しだな……。グレン。我は……人格インクの君がどうなってしまうかだってわかって頼んでいたのに――君はっ……」
アズレアに飄々さは残ってはいなかった。――後悔。自責。罪悪感。青色には似合わない感情ばかりが露わになって、ギィ、ギィと。弱々しく人形の体躯が軋んでいく。
「はっ、アズレアが自分勝手で性格が悪くてむちゃくちゃ言う奴ってのは最初に会ったときから知ってたさ。わかったうえで一緒にいるんだ」
「……ふざけてるな」
潤んだ眼差しがじっと見据えた。暗闇のなかでも、吸い込まれるような青色だけはいつも変わらなかった。
「俺にとってはいっそ無茶苦茶なほうが刺激的だったんだよ。一人で黙々と仕事をするよりさ……。だから、可能な限りは――一緒にいたかったんだ。……こんなこと言わせるなよ。恥ずかしいし、……死亡フラグみたいじゃん」
気丈に振る舞った。なんて臭い言葉だろう。配信されているうえに、すぐ隣でいがみ合っていたはずのナドゥルもムギも黙り込んで視線を向けていた。
「……見世物じゃねえんだけどな」
グレンは大げさにため息をついて数歩離れた。灯りから逃げるように、暗闇に向かって、黒い海のさざめきに近づく。
すぐ後ろで足音が近づくと、青い髪が頬を撫でた。アズレアが隣に座り込んで、同じ場所をじっと眺めていく。
数十秒、数分? わからない。長く沈黙していた。気まずくなって、飴でもガムにでも逃げようとしてポケットに手を突っ込んだが包み紙しか残っていなかった。……全部、アレキサンダーが食べた後だ。
「…………グレン」
ぎゅっと、咄嗟にそんな紙ゴミを握り隠したとき、アズレアはただ淋しげに名前を呟いた。
「ッ、アレキサンダーならあ、案外逃げ切れてるかもしれないな。だって、電気だって効かないだろ? しわくちゃになっても、氷漬けになってても生きてたくらいだから――」
ぼよん。
不意にふざけた音が響いて、グレンは引き攣るように息を呑んだ。咄嗟に振り返ると、次元バッグから見慣れた巨躯が飛び出していていて、すっと丸っこいお手々が前に出された。
「はじめましてのぽー! ボクはねー、ボクの名前はね――?」
「………………アレキサンダー」
血の気が引いていくなか、絞り出すように口にした名前を前に、彼は小さく体を傾げた。
「……なんで知ってるのぽ?」
(心配してくれてるのぽ? でも大丈夫、僕はそれなりに強いのぽ。それに何かあっても苗床は作ってあるからすぐに次のボクが出てくるのぽ!)
(なにかあったらボクが何度ボコられたって蘇って助けてあげるのぽ)
無垢な言葉が何度も頭のなかを巡った。
頼りにもならないはずだった後ろ姿が視界の奥を過った。
「なにが……強いだ。…………馬鹿野郎が」
顔をそむけた。吐き出した言葉が震える。
分かっていたはずだ。振り向くことだってできなかったのだから。
なのに、今更になってどうしようもなくあの馬鹿面を殴ってやりたくなって――立ち止まってはいけないはずなのに。アズレアの手を引かなきゃいけないはずなのに。
どうしたらいいかわからなくなって、一人暗闇の奥へと歩き進んだ。




