愛犬に捧げる
前提
第一に、すべては世界の現れである
第二に、客観に手が届くことは無い
第三に、世界とは環境である
世界は観測によって生じる
物を見るのは容易い
生命を見るのも容易い
では、君を見るのは?
愛犬に捧げる
僕は君だったものを見つけた。
目を開けたまま、ただ横たわっていた。
頬に触れれば冷えて硬く、動かなかった。
半開きのくちもとは黄色い液体で毛が固まっていた。
その身体はいつもより重かった。
ものを食べなくなっていたのに。
1週間後、もう1人も逝った。
僕は君が君じゃなくなるのを見ていた。
苦しそうに、嗚咽し、涙を湛えてもがき、
手を伸ばしたあと、動かなくなった。
まだ熱はあり、柔らかい肌で手足も曲がる。
ただ寝ているようでも、鼻のつまった呼吸は聞こえない。
生物は死によって証明される
生と死に大差は無い
他者を認識することは出来ない
生きているように見えるだけ
君のように見えるだけ
生命に囚われたものはみな孤独である
しかし、孤独というのもおかしな話だ
全ては世界であり、それひとつしか存在していないのに
生命、意思、個人などそれらは全て世界の一部の表れに過ぎず
世界内部の相互作用の結果に過ぎず
細胞が形作る自分も、原子が形成する金属も
ただ等しく世界の結果であり経過だ
今まで食べてきた肉も、今まで呼吸してきた空気も、今まで踏んできたアスファルトでさえ
生命と呼ばれた経歴のある原子を持っているだろう
だから、モノとなって世界に還った君たちはこの世界に遍在しているのだ
そもそも僕はどのようにして君を君と見たのだろうか
それは生きているように見えたから、君のように見えたから
それならば、君を見よう
生きているか、死んでいるかは問題ではない
形があろうとなかろうと関係ない
神だとか幽霊だとかそういう話ではなく
この世界に君たちを見出すだけだ
死とは生命からの解放であり
主観の檻、渇きの渦である生命から解かれたならば
それは生命となり失った永遠性、遍在性の再びの獲得である
この世界には君たちがあるのだ
だから死を否定できない
恐怖はあっても否定することは出来ないのだ
だから忌むべき葬儀を行うのかもしれない。
葬儀とは焼き、埋め、流し、ときには他の生命に食べさせて世界へと近づける行為だ
けっして死んだ者のための行為ではない
むしろ生存者のための自己満足だ
だというのに死んだ者への思いをこの場で量ろうとする
そんな見るに堪えないものを何故肯定できようか
死んだ者にできることは何もない
それが死であるのだから
遺骨や写真に語り掛ける者、死者が居なくなったと喚く者
それらを目にすると怒りすら湧いてくる
何処を見ているのかと
君たちはただ愛という呪いのために、依存という支配のために
ここで生きることを強制された
子供よりも無力なのだから僕以上に君たちは縛られていたはずだ
かくいう僕も君たちの支配を試みたこともあった
君たちが支配されるのをどう思っていたかは分からない
それは無意識の領域に入るものなのだから気付いていたかどうかも分からない
それでも僕は君たちのお陰で生きてこられたし考えることができた
だから君たちに感謝している
もう抱きしめることも遊ぶこともできないけれど
ただ君たちがいるこの世界をしばらく生きて
いつか君たちと同じように還るつもりだ