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「人になにか言われるのがこわいんだろ。だから、自分を完璧にして、なに言われても平気だって知らんぷりしたいんだろ」
唇にあとがつくと思って、あたしはあわてて口元に手をやる。唇をかばう指先が歯に触れて、つい、爪を噛んでしまった。
かりっと、いやな音がした。見ると、爪の先がすこしだけ欠けていた。
「あ……」
あたしの顔から血の気が引いた。
あれだけ手入れしていた爪が。指先が。綺麗を保っていたはずの手が、崩れてしまった。
この手は、美しくない。
成沢くんといるといけない。自分の綺麗が崩れていく。美しい自分がどんどんなくなっていってしまう。
「夏美はナルシストって言わない。ただの臆病者だ」
「――わかってるわよ!」
震える唇から、自分でも驚くぐらい、大きな声が出た。
「いちいち言われなくても、わかってる!」
ひるんだ隙を見て、成沢くんから手鏡を奪う。彼の顔を見ることができなくて、とっさに睨んだのはブレザーの校章だった。
「なつみ」
「うるさい!」
勢いよく立ち上がって、反動で椅子が倒れる。その派手な音に騒がしかった教室がしんとしずまりかえって、視線が集まるのを感じたけどそれどころではなかった。
爪を直さなきゃ。唇が切れてないか確かめなきゃ。綺麗でいなきゃ。成沢くんから離れなきゃ。頭がいっぱいになって、身体がぶるぶると震えだす。
「なつ……」
「ほっといてよ!」
鏡と、ポーチと、目についたものをカバンに詰め込み、あたしは教室から飛び出した。
○○
あたしは綺麗。
あたしは美しい。
あたしはとても、美しい。
鏡を見ながら、あたしは自分にそう笑いかける。髪を伸ばして落ち着いた雰囲気にしているので、ほんのすこし口角と目じりを動かして、しっとりとした微笑みを浮かべるのが一番似合っていた。
あたしがとっさに逃げ込んだのは、立ち入り禁止の屋上へと続く階段だった。
そこへ走っていく姿は誰にも見られなかったようで、授業が終わっても休み時間が終わっても次の授業が始まっても、あたしを心配して追ってくる人は誰一人としていなかった。そもそもここは中学ではなく高校なのだから、授業に出るのも出ないのも個人の責任だ。
「……やっちゃった」
屋上への扉に背中をあずけて、呟く声は狭い踊り場の中で反響する。あたしの足元には、鏡や爪切りやマニキュアや、崩れたところを直す道具で散らかっていた。
爪と、手と、唇と顔を確認して、それでようやく落ち着いた。脱力して、あたしはこの場から一歩も動けぬまま、昼休みをむかえようとしていた。
あたしはただの、コンプレックスのかたまりだった。
中学校のはじめの一年間。さんざんいじめられていたのはもう過去のこと。あれこれ言われたのも過去のこと。二年生のクラス替えから生活は戻ったはずなのに、その一年の生活で、あたしはすっかり自分の容姿が嫌いになってしまっていた。
だからそれを、すこしでもましにしようと必死で磨いた。良いところはできうる限り引き立てるようにした。まだ整形をすることなんてできないから、自分のできる範囲で、とにかく美しくなれるように努力した。
『夏美ちゃん、爪ちっちゃくて可愛いね』
そんなあたしに、新しいクラスの子がかけてくれた声がとても嬉しかった。自分が密かに努力していることを、認めてもらえたのが嬉しかった。
『夏美ちゃんって、まつげ長いんだね』
『夏美の使ってるヘアピン、かわいいね。どこで買ったの?』
『夏美ちゃんって髪まっすぐだからうらやましいな』
褒めてもらえたところはとことん伸ばした。逆に、嘲笑われたところは必死で隠した。一年のころのクラスメイトと廊下で会っても、視線を感じたけど知らん顔ですれ違った。
あたしの陰口を言う人がいても、聞こえないふりをして、あとになって言われたところを直した。磨きあげたところはなんと言われても無視した。
見た目のことだけじゃなくて、勉強だって躍起になって取り組んだ。あれこれ言って来る人たちよりも悪い成績にはなりたくなかった。猛勉強のおかげで、あたしの入学した高校に、同じ中学の生徒はほとんどいなかった。




