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──何やら暖かい。目を開けると、そこは霧がかかった森の中だった。
「ここは……」
周りの風景に見覚えがある。ここは確か、まだ俺が幼いころに遊びに来ていた森だ。俺の家は両親が共働きで家を空けることが多く、暇を持て余していた俺は家の裏にある森によく遊びに来ていた。だが──
「──なぜ、俺はここに……?」
先程までの記憶が少しずつ蘇ってくるに従って生じた疑問を、ぽつりと呟く。
俺と捕虜の女が落ちた場所は、港からそう遠くない崖だった。俺の実家があるのはもっと奥地に入り込んだあたりなので、あそこで落ちた先がここだというのは考えられない。誰かが運んだのでは、ということも考えられるが、空はまだ暗い。俺の実家がある場所まで距離は相当なものだから、この線もなさそうだ──そこまで考えてからふと足元を見ると、俺が履いていたのは先程までの革靴ではなくサンダルだった。妙だ、と思いながら自分の服装を見てみると、Tシャツに七分丈のズボン。ベルトは巻かれていない。
ここまで確認して、ようやく俺はある1つの確証に至った。
「──夢、か」
俺の容姿は、どう見ても幼少期の頃のものだった。きっと夢の中で回想にふけっているのだろう。と、俺の体が突然ひとりでに動いた。
「──?」
そのまま俺は、庭に設置されているひとつのブランコに腰掛けて漕ぎ出した。
「……」
体を動かしているという実感はないが、視界だけは良好である。これが夢の中での感覚か、と少し気味悪がっていると、不意にどこかからかすかに声がした。
「──ゃん!お──ん!」
ふと上を見上げると、家の窓から自分より──もちろん夢の中でだが──幼い誰かが手を振っている。従姉妹だろうか、と少し考えてからすぐに否定する。俺には年下の親戚はいないはずだ。
「……お前は、一体誰だ?」
揺れる髪に向かって、ようやく感覚を取り戻した小さな腕を掲げようとして──俺は目が覚めた。
「ここは……」
何だか頭の痛みがひどい。それに固い地面に落ちたはずだが、何故か俺の頭は柔らかく暖かい何かに乗っていた。そういえばベンジャミンリリーは無事だろうか。いや、それよりも前に──
「──あの女は?」
「はい、あの女です」
突然俺の顔を覗き込むようにしてあの女の頭が現れ、俺はドキリとした。この状況の中にこれ以上我が身を置いていては耐えられないと感じ、すぐに起き上がる。
「──そういえば、生きてたんだな俺たち」
何故か少し照れくさくなりながら、彼女に話しかける。
「えぇ、どうやら大きめの木に引っかかったみたいです。私はすぐに起き上がったんですが貴方がなかなか起きてくれないものだから、だいぶ待ってたんですよ」
そう言われ、俺は先程まで頭が乗っていた物体の正体を悟り、さらに恥ずかしさが増す。まさか、なかなか起きなかったせいで赤子の如くあやされるようにして、あの女の膝の上で眠っていたというのか。
「そ、そうだったのか。……そういえば」
先程から彼女との会話に違和感を覚えていたが、その正体がふっと頭の中に浮かんだ。
「あんた、英語話せるのか」
俺がそう言うと、彼女は嬉しそうに微笑んだ。
「えぇ、小さい頃はアメリカに住んでいましたから。英語もドイツ語も話せますよ」
「へぇ…英語とドイツ語のバイリンガルか、俺の目指すところと一緒だな。ところであんた──」
「──レイチェル」
突然彼女の口から発せられた言葉の意味を、俺はすぐには理解できなかった。
「……何だって?」
「レイチェル──それが私の名前です。いつまでもあんた、と呼ばれるのは嫌ですから」
レイチェル、か……何だかそんな単語を、かなり前にも聞いたことがあるような気がする。今よりも遥かに前、幼少期の頃に──
「あのー……」
レイチェルという名のその女に呼ばれ、俺は思考を止めると彼女の方に向き直った。
「……何だ」
「まだ、あなたのお名前を聞いてません。私だけ言っておいてあなただけ秘密なのは、ずるいと思います」
腰に手を当てて少し頬を膨らませ、拗ねる子供のような仕草に何故か懐かしさを感じつつも答える。
「……マックだ。マック・フェイト」
「マックさん、ですね。しばらくの間、不束者ですがですがよろしくです」
──おい、その言い方はよせ。周りに誰かいたらどうすんだ。
が、幸い俺たちを取り囲むのは木々ばかりで、人の気配は全く感じられない。
ふーっと息を吐くと同時に、上着のポケットから振動が伝わってくる。そういえば携帯用端末を持ったままだった。通信機能は故障しているようだが幸いGPSだけはまだ生きているらしく、画面上には自分たちが今いる場所と、既にベンジャミンやリリーが戻っているであろう軍寮が表示されていた。もう一度ふーっと息を吐き、レイチェルに向かって声を掛ける。
「レイチェルさん、そろそろ行こう。幸いGPSは生きてるし、これがあれば俺たちの行くべき場所に帰れるはずだ。……その後あんたがどうなるかは、俺にはわかんないけど」
最後に俺が消え入りそうに放った言葉は、間違いなく彼女に届いたはずだ。しかし、彼女は少し笑っただけだった。
「いえ、いいんですよマックさん。私は捕虜の身ですから、何をされても。……あと、私のことはレイチェル、と呼び捨てでいいですよ」
にこやかにそう言ったレイチェルはよほどの精神力の持ち主だな、と苦笑しながら言葉を返す。
「そうさせてもらうよレイチェル、俺もマックでいいさ。……しかし、強いなあんたは」
今度の俺の言葉に、彼女は首を横に振った。
「いえ、私は戦闘訓練など何も受けていませんので……」
だが、俺は喋りを止めなかった。
「そういうことじゃないさ、あんたは心が強い。きっと俺なんかよりずっと強い。その心の強さがあるなら、生まれた時代が違えばきっと輝いて──」
そこまで言ってからふとレイチェルの顔をみると、彼女は何故かこちらに背を向けていた。
「……レイチェル?」
「そ、それ以上はダメです!私、褒められ慣れてないので、もうパンクしそうなんです……っ!」
首をぶんぶん振りながら、少し大きめの声でそんなことを言ってくる。
「レイチェル……」
そんな彼女に向かって手を伸ばすと、俺はレイチェルの頭にその手を置いた。
「──ッ!!」
彼女はびくりと肩を震わせると、俺の手からすり抜けるようにして近くの木の影に隠れると、顔だけを出してこっちを見てきた。
「や、やめてください突然!言ったじゃないですか慣れてないって!……とっところで!」
そこではっと我に返ったのか、さきほどまでの大人しげな口調に戻る。
「……ところで、この後どうするんですか?この暗い中だと、とても進めませんし」
言われてみればそうだ。俺たちがいるのは暗闇に包まれた森の中、このままGPSだけを頼りに進むのは危険すぎる。
「──仕方ない、ここで野宿するか。あんた、キャンプとかの経験は?」
俺が野宿と言うと、彼女は何故か嬉しそうに微笑んだ。
「えぇ、もちろんありますよ。戦時中はいつも、最前線で野宿ばかりでしたから」
そう言われて思い出す。これまでなんとなくレイチェルと接していたが、彼女はドイツ軍の捕虜だ。加えて最前線で、と言っている。彼女はただの民間捕虜ではない、おそらく大戦中も戦っていた兵士だ。しかし、大戦中は女性が最前線に駆り出されることはないはずだ。それに、今それを問いただしている時間はない。出来るだけ早く野宿の準備を整えねば――と思考を巡らせていると、何やら体の左半分が熱い。ちらりと横を見ると、レイチェルが既に火をおこし、さらに調理器具の準備まで済ませているところだった。
「すごいなレイチェル……この短時間で、そこまで出来るなんて」
すると、彼女は少し照れ臭そうに笑った。
「いえいえ、ほめても何も出ませんよ。それより、そろそろご飯にしましょう」
夕食は、俺が偶然にも持っていた携帯用保存食一人分と、レイチェルが探してきたキノコや木の実という実にシンプルなものだった。それにしてもキノコなどの目利きもできるとは、彼女はいったい何者なんだろうか。そう思いつつ、早速いただこうと火の十分通ったキノコのスライスに、即席で作った箸を伸ばす。
「――ちょっとマックさん、ストップ!」
……が、直前でレイチェルに止められてしまった。いったい何をする気なのかとしばらく彼女を見ていると、レイチェルは自分の体の前で両手を合わせた。
「戦時中に、仲間の一人が教えてくれたジェスチャーです。もともとはこのキノコも、木の実も、お米だって生きていたのですから、命を頂くという行為に感謝を込めてこのジェスチャーをすると言っていました。……それでは、いただきます」
そう言ってから、レイチェルは夕食を食べ始めた。しばらくすると隣で黙って見ていた俺に向かって、「マックさんもやってください」と催促する。少し恥ずかしいが、俺も両手を身体の前で合わせる。
「……いただき、ます」
「よろしい。さぁ、冷めないうちに食べましょう」
彼女の作った料理は、その原材料からは考えられないほど美味かった。キノコは薄くスライスしたものに、携帯食の中に入っていた乾燥わかめを砕いたもので味付けをしつつじっくり焼く。木の実はすり潰してジャム状にした後に、それを別の大きな木の実につけてデザートとして頂いた。
「しかしすごいな、これほどの料理を短時間で、さらにあの少ない原材料で提供できるとは……軍寮よりも量は少ないはずだが、すぐに満足できる味だった」
俺が何気なく呟くと、レイチェルは少し照れ臭そうに自分の髪をいじった。
「いえ、これも全て軍部で得た知識ですから。マックさんこそ、料理の手伝いありがとうございました」
屈託のない笑顔を向けられ、思わずどきりとしてしまう。俺に妹がいるとすればこんな感覚なのだろうか。
彼女の顔を直視できず、視線をそらしながら答える。
「い、いや……これは小さいころに親父に刷り込まれた技術だし……俺自身はほとんど何も出来てないし、それに――」
「マックさん……?」
レイチェルが心配そうに話しかけてくるが、俺のしゃべりは留まることを知らない。
「――それに、俺はただの通訳者だ。あんたと違って、いざ最前線に立ったら何もできない貧弱な野郎さ。こんな俺みたいな奴と一緒じゃ、レイチェルだって――」
そこまで言ったところで、突然唇が何かで塞がれた。思わず地面に倒れた衝撃だろう、焚いていた火が消え、月明かりだけが俺と、俺の上に覆いかぶさった何かを照らした。それがレイチェルだと気が付いたのは、その姿勢のまま固まってからしばらく経った時だった。
暫くそのままの格好でいたのちレイチェルは唇を離すと、俺の耳元にささやいてきた。
「……自分のことを、そんな風に言わないでください。私はマックさんのことが好きですよ?今はそれだけでいいじゃないですか」
そう言うと、彼女は自分の両腕を俺の腰に回してきた。あまりに突然のことが次々に起こって混乱していた俺は、ほとんど何も考えずに彼女と同じ動作をする。そのままの格好で、俺はレイチェルがしてきたように、彼女の耳元で囁いた。
「なぁ、レイチェル――ひとつだけ頼みがあるんだが、いいか?」
それを聞いて首を傾げるレイチェルに、小声で言葉を続けた。
「……今晩、一緒に寝て欲しい」
「――!!」
瞬間、レイチェルが息をのむ声が聞こえた。恐る恐る彼女の方を見ると、その表情に現れていたのは、驚きと恥じらい──そして感動。
「……はい」
その時の彼女の顔を、俺はずっと忘れないだろう。
最後まで読んでいただきありがとうございます、第2話です!来週ちゃんと更新できるかとても不安です…
さて、レイチェルさんとマックさんがより一層深い関係になりましたね。この先に待っているのは一体…?
連日高い気温が続いて大変かと思われます。私もその影響か筆が乗りませんが頑張っていきましょう!
それでは、次回でお会いしましょう。
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