03草原の狩人
陽光が恵となるかは、詰まるところ、景による。すなわち、恵の恵としての意義は相対のうちに定まり、すなわち恵は恵として存立しない。であれば、あらゆる事象は厄難として規定できず、評する視点抜きに世界を語れはしない。
歩み始めた商人の末は、その思料の及ぶところでない。欲する心の行き先が楽園であるのか。その時に至るまでは理解の範疇に入らず、ただその道中に覚える愉悦が心を正当化するのみ。
圏内になき物を手にし、その効用を喜び、これを当然視した時、人は欲を覚える。自らが滅んだ後にも残り続ける物を所有し、支配し、身を滅した後の時が確かにあると納得する。
肉体が不在の時においてさえも、自らが確かにあったことを証明するもの。ある人にとってのそれは子孫であり、地形であり、思想であり、あるいは物品である。
自らの死を、痕跡の消失と同定するならば、精神の苦痛は肉体のそれを凌駕する。これに縋り付く弱気な心を糧に生きる商人は、まさしく人そのものと言えようか。
ーー
なんてこった。ほんとうにできた。いや、あんたが言うんだから、きっとできると思ってたけど。でも、実際に見てみると、なんと言うか、目の前で起こったことを信じられない。おれはほんとうに見たんだろうか。
……まさか、こんな紐でなあ。
そりゃあ、ここがこう締まるとこうなって動けなくなるって、いやね、理屈ではそうかもしんねえけど、その通りになったのを見ると、ええ、ちょっと頭が追いつかないや。
こんなこと、あんたにしかできないよ。あんたが使うと、あれだな、紐は蛇、いや大蛇になる。手から離れた紐が、こうキュッと締まる感じは、まるで生き物じゃないか。
いやあ、たまげたよ。まだ胸が鳴り止まないぜ。まったく傷のない皮も嬉しいんだけどよ、それよりも、いいものを見せてもらった喜びのほうが大きいな。ありがとう。
ところでさ、この結びってのは、自分で考えたのかい。
はああ、どこの誰なのかは知らねえが、そいつは大した知恵者だな。でもよ、あんたが捕まえた獲物の首にかかってたってことは、その獲物をそいつは仕留められなかったってことだろ。だから、残された紐を見て、あんたが結びを知った。
そいつは、この結びの力を使いこなせていない。もう使えないと判断して、もう結びのことを忘れちまったかもな。とにかく、この結びは、あんただけの技だよ。な、そうだろ。あんたはこの草原の覇者になったってことだ。
ええっ、それ、ほんとうなのかい。おれをからかってるんじゃなくって。あの子、まだまだ小さいじゃないか。嘘だろ。
ああ、すまん、悪かった。あんたは嘘をつかない。それはわかってる。
でもよ、いくらなんでもよ、はああ、だって、なんと言うか、いや、悪いけど、信じられない。そんなことってあるんかい。どこかで結びを見つけてきたってことじゃないのか。で、それを参考にして。
……それでも、ちょっとあり得ないくらいすごいな。あの子、なんて言ってたんだよ。
いやいやいや、そんなことってあるか。だってよ、ほら、まだ一人で狩りにも出ない年頃じゃないのか。なんで、どうなれば獲物が動かなくなるのかってわかるんだよ。こんな結びを考えたやつなんていないんだぜ。
いやいや、いくらか試してみてって、そんな簡単なもんじゃないだろ。ん、ちょっと待てよ。試すってことはうまくいかないこともあったってことだろ。そんなにたくさんの紐があったのかい。貴重な紐を、あんた、あの子に好きなようにさせてたってことか。
だろ、そんなわけないよな。じゃあ、この紐って、どうしたんだよ。誰かからもらって、そいつから結びを教わったってことじゃないのか。
はあっ、えええ、それはないだろう。作ったって、そんな簡単な代物じゃあないぜ。そりゃあ、蔦から作れるっちゃあ作れるが、紐を見ただけで作り方がわかるってことがあるもんか。
ああ、そうだな。あの子は嘘をつかない。あんたの子だ。……嘘をつく理由もないしな。
おれみたいに街の人間からすりゃあ、狩人ってのは、なんて言うか、見た目が似てても根本的に違うなあと思ってはいるんだけどよ、それにしても、小さい頃から、こんなにも違うのかい。
そりゃあ、驚くさ。村だったらよ、あんたの子は、まだ畠にも出ていないくらいなんだぜ。兵隊の子でもよお、訓練って言うほどのこともしていない。なあ、狩人ってのは、みんなそんな小さいときから狩人なのかい。
やっぱりな。そらそうだ。んなことがあってたまるかって。狩人の子みんながそんなんだったら、こんな暮らしを、いや、なんでもない。
それにしても、ちょっと、おかしいぜ。
そりゃあ、あの子は利口だし、前々からそこらの子とは違うって思ってたけどよ。あんたみたいな、ほんとうの狩人を近くで見続けていたってさ、言っちゃあ悪いかもしれねえけど、そんなあんたですら思いつかない結びを考えるなんて。しかも、紐まで作ってさ。
そうだよ。いくらなんでもだ。考えれば考えるほど、不思議さ。
……なあ、あんたの子は、もしかしたら、ひょっとしたら神様、なんじゃないか。神様が、あんたを選んで、少しずつその力を見せてくれてるんじゃないか。
いやあ、なんて言ったらいいんだろうか。おれ、商人だからさ、いろんなところへ顔を出すのが仕事なんだよ。で、話し好きだろ。だから、おれはいろんな場所でいろんな話を聞いてるんだ。
そん中の1つでさ、神様って呼ばれている人が治めてるんだけどよ、まあ、そんな街は多いんだけどよ、その街では、治めている人が死んだら、普通の子とは違う、特別な力をもった子が街を治める人になるんだ。その子が神様ってことだな。
まあ、そんな顔せずに、ちょっと聞いてくれよ。
同じように神様が治めてる街とは違ってな、その街では、神様が死んだら、神様を探す。長老連中の命令で働き盛りのやつらが旅に出て探すんだ。これは珍しい。
ああ、普通さ、つってもわかりにくいか、それなりの街ではさ、いろんな人を、しかも、それぞれの思惑がややこしいのを治めなきゃならねえんで、治めてた人が死んだら大体の場合はその子、あるいは、諍いの末に街の有力者が、次の治める人になる。
すまん、わかりにくいな。でかい街では、なんて言うか、いい暮らしをしてるのと、ずっとしんどい思いをしてるのに分かれるんだよ。食うのに困ることがなくて偉そうにしてるのと、そうでないのにな。
いやあ、それはわからねえ。どこでもそうなんだから、街ってのはそういうものなんだろう。で、治めてる人が死んだら、いい暮らしをしてた人の中から次が出る。そうじゃないと……変わりすぎちまう。それを避けたいんだろよ。
でもよ、おれの言ってる街では、治める人を探すんだよ。街を治める神様を探すために、街の外へ旅に出る。もしかしたら、それまで豊かな暮らしをしてたやつが、いい思いできなくなるかもしれないのにな。
で、そんな決め方に、文句言うやつがいない。みんな納得してるんだよ。おれ、この話を聞いてさ、神様は、人の姿をしてるんだなあって思った。いや、違うな。人の姿をしてることがあるかもしれないって思った。
ああ、さすがに、いきなり街のすべてを治めるってことはないみたいだな。おれが世話になってたときだって、しばらくは長老連中がいろいろ考えて動いてたよ。
でも、なにか重要な決め事があったときには、まだ小さくってもよ、最後の最後には、その特別な子、神様が決めてる。それで街はうまいこといってるんだ。
だろ、そうなんだよ、おれだってそう思ってたさ。だから、正直なところ、ずっと昔のことだし、さっきまで忘れてたよ。でも、あんたの子の話を聞いて、ふと思い出した。
……ああ、間違いない。あんたの子は特別だ。いろんなところで、いろんな人を見てきたおれが言うんだ、間違いない。
いやいや、そんなことを言いたいわけじゃないさ。その街にあんたの子を連れていく必要なんてないよ。もしかしたら探しにくるかもしれないけど、気に入らんのなら、そんなの無視すればいい。
だってよ、おれ、思うんだ。神様はあんたのところで育つってことを選んだんだ。頼まれたとしてもよ、それを変えるのはよくねえ。あんたが決めることを、神様が選んだんだよ。
なんでなんだろうなあ。やっぱり、あんたが、ほんとうの狩人だからじゃないか。うん、そうに違いねえ。
だって、思うんだ。神様ってのはさ、たった街1つのためのはずがないじゃないか。きっと、このさ、おれらの生きてる世界ってのをずっとよくするために、あんたを選んだんだよ。
おれだってさ、あんたみたいな狩人を近くで見てたら、なんて言うか、人間ってのが、この世界とどう折り合いをつけてるのか、わかるような気がするよ。そういうのって、街で暮らすやつからは感じられない。そういうのを長いこと見ておこうってことなんじゃないか。
で、いつかきっと、この世界をすべてガラリと変える。
それにしてもよ、こうして傷のない姿を見ると、まだ生きているみたいだな。あんたがこいつの動きに合わせたにせよ、こいつは、こんな図体してるのに紐1つでやられたんだぜ。こんなふうに、あんたの子は、誰も思いつかないようなことを、これから人間にたくさん見せてくれるんだろよ。
な、まるでただ眠ってるみたい、ん、おいっ、まだ息してるぜ。
……ああ、焦った。こんなに焦ったことはない。
おい、そんなに笑うなよ。そりゃあ、腰も抜けるわ。
ははっ、まだまだ、あの子は、あんたのところで育ったほうがいいんじゃないか。この結びは信じられねえくらいの技だけどよ、これで獲物を仕留められるのはあんただけだ。いまのところはな。
それにしてもよお、不思議なものだな。生きているときと違わない姿で死んだと思っていたものが、まだ生きててさ。で、いま、あんたの手によって絶命した。ずうっと、こいつの姿は変わらないまま。なんなんだろうな、生きると死ぬってのはさ。
あんたもそんなこと思うときってあるのかい。
ははっ、まあ、そりゃそうだ。おれだって今日の狩りを見て、ちょいっと思っただけだ。そんなこと考えるよりも大事なことはたくさんあるわな。
ところでさ、いま、手持ちには、こないだ頼まれた手斧があるけど、丈夫な紐もあるぜ。紐をたくさん集めて縒り合わせたもので、ちょっと太いんだけど、結びの狩りにどうだろうか。せっかくだから、使ってくれないか。
ああ、ありがとう。受け取ってくれて嬉しいよ。木を相手にするのが欲しいって言うからさ、硬い岩から作った手斧を用意したんだ。で、もしかしたら住処に使うのかと思って、それだったら太い紐も便利だなと持ってきた。
たまたまだよ。こんな住処にあんたが暮らしてたらなって思うのを見つけてさ。いい雰囲気の、味のある住処だったんだ。
とてもたくさんの小枝で雨をしのぐんだけどよ、なんで強い風が吹いても飛んでかねえんだろうって不思議でな。そしたら、こんな太い紐を使ってた。なるほどなあって思って、じゃあ、あんたにもこの紐をって、分けてもらったんだ。
な、なかなかだろ。丈夫なところもいいんだけどよ、おれは見た目が好きでね。でも、なによりこのキュッと締まる感じが、こいつの真価だと思う。住処に使うよりも、結びの狩りに使ってもらったほうが、こいつも喜ぶんじゃあないかな。これだったら結構な大物でも仕留められそうだろ。
いいねえ。ありがとよ。ぜひ見せてくれよ。ここを立つ前に、この丈夫な紐がどんなふうに動くのか、この目で確かめられるのは嬉しいぜ。
そうだな。朝から動こうか。それがいい。じゃあ、今夜は世話になってもいいかい。
おれも、もっとあんたと話したいし、嬉しいよ。ありがとう。
あと、あんたの子から、この結びを考えた話を聞いてみたいしな。そしたら、次はどんなのを持ってこようかって楽しみができる。
そうだ、あんたの子は、銀の欠片とか気に入るかなあ。ちょっと珍しい石なんだけどよ、見れば見るほど、なんとも言えねえ、不思議な、でも心地いい気持ちが湧き出てくるぜ。
ーー
この半端者、なにを狙う。か弱き小者が、我の代用を生み出そうとするか。
我を騙る者は、到底成し遂げることのない幻影に囚われ、自らの限りを死の間際で見る。四肢の届く範囲の卑小な有様に合わぬ望みを悔い、この地上の覇者が緑葉であることを認め、始めから敗残者の定めであったと知る。深淵の景色を覗いたその時、ついに我に気づくのだ。
が、この半端者、我を騙るでなく、他の者に騙らせる。それで無辜な者でいられると思うたか。過程と結末を自らの報いとせず、いかな愉悦を得ようとする。
それにしても、興味深きは、幼き者を選んだこと。我に挑む一大事業を長期にわたると考え、すなわち自らの資質なきことを認め、次なる世代に託そうとした。
死が自らの終焉であると思い至らぬ点、やはりこの者、いまだ定住の者。
銀の棒を持ち歩く先、いかなる景を願う。流浪の暮らし久しく、それでもなお、定住の思想を捨てきれぬ。本意は、まさか、この地上すべてを領とし、自らの種が支配者となる先鞭をつけることか。
試してみよう。この地上の理を解する幼子を眼前に、自らの選択が揺れ惑うのか。耽美に内在する一粒の苦味が、完成と退屈の同義を隠す瞬きとなればよい。