ファラリスの雄牛
早朝の街並み。瑠璃色の情景が現実の昼白色へと変わりゆく、霞掛かった快晴の空の下。照度に合わせて颯爽と、街の人々は動き始めている。
二人の前を流れる、忙しなくも疎らな雑踏。「……ええっと……」「……」(東堂さんも渋々腕を離した)「すみません」「いいえ?」道ゆく人々に、食料品店の所在を尋ねる。フードを深く被った怪しい格好ではあるが(覆面は流石にNG)、物腰よく尋ねれば、街の人たちは意外と快く答えてくれる。
「我ながら、邪悪の尖兵みたいな見た目だと思うんですけど…」(腹の裂け目とか…)覆面込みならそうかもしれない。
「他にもいるみたいよ。ほら」荷物に被せ膨らむ外套も、『迷宮都市』のような都市部では、荷物切りやスリ、ひったくりの対策となる。外套に荷物を入れ込むのはむしろ推奨される格好であるようだ。
人の移り変わりが激しい都市部である。同じような格好をした人間など珍しくもないのだろう。……そして、聞くところによると、食料品を売る店は近所にもある。
「あそこね」
東堂さんが指し示す先。朝からオープンしているようで、すでに客の出入りが散見される。――パンや肉を焼く香ばしい匂いが漂ってきている。(…うまそう)食欲をそそる匂いだ。肉だ。肉が食べたい。
店先には牛の大腿骨らしき骨が吊るされており、どうやら『調理肉も扱う』という看板代わりにしているようだ。(おにく〜!ヒュー!)お肉ファンボだ。脂の乗った、肉厚で熱々の鉄板焼き肉にかぶりつきたい。切り分けてなお口内に、ジュワと溢れる肉汁。(くぅぅ、うめぇ〜!!)食べてない。
看板の下には朝から立ち話に興じている人々もいる。平穏そのもの、呑気なものである。「…焼いた肉は、流石に保存は効きませんかね…」お肉が食べたい。チラチラ。「…別に、保存食以外を買ってはいけないわけではないのだけれど」「ありがとうございますっ!」非常に助かる。『好きにしろっ!』と言われたならず者の気分だ。肉汁。
「…ありがとうって…」顔を赤らめ、困った顔でむにむにしている。……多少の買い食いぐらいは構わないだろう。腹ペコ怪獣ゴーゴーだ。
ちょうど店から出てきた子供連れの母親が、パン籠と子供の手のひらを両手にぶら下げて、ゴーゴー気分でこちらへと歩いてきている。子供もキャッキャとはしゃぎながら、ゆらゆらと母の腕を振り回したりしている。――まったりとした、朝の景色が広がっている。
手指を絡める東堂さんが、その光景をじっと眺め、チラと横顔を眺めてきた。(ヒェ…)なんだか変な緊張を感じる。
楽しげにはしゃぐ子供が『見つけた!』と、空に向かって指を差す。母親も楽しげに、何が見えたのか尋ねながら、子供と一緒に空を見上げた。
「切田くん!?上っ!!」
「えっ」警告と同時に、母親が血相を変えて思い切り子供を突き飛ばした。――子供はなんだかわからないまま、もんどりうって道を転がる。(…えぇ…)
視界をよぎる、天より来たる一瞬の火球。
燃え盛る火球が母親を直撃し、爆発、炎上した。――豪炎と熱波。突き飛ばされ、油脂の炎に巻かれて、……周囲一瞬に埋め尽くす、脂と、パンと、肉の焼ける臭い。
「それは駄目でしょ!!!」
慌てて叫んだ切田くんが、即座に空中の何かをひっつかんで投げ飛ばす。――爆炎は大きく広がった球の外殻を形作り、……不思議な気流に巻き上げられ掻き消えてしまった。「『シェルブリッド』!…鋼さん!」
「…まかせて!」
転がる残滓へと駆け寄る『聖女』を横目に、空を見上げる。――遥か上空。翼を広げた鳥獣人とおぼしき飛行物体が急速接近して来ている。(飛行する亜人!?…異世界って、これだから…)
戦慄に駆られ、敵を引きつけようと走り出す。(…釣れなければ、狙撃してでも…)関係のない民間人を巻き込んで、無差別爆撃を加える『敵』。奥と合わせて三つの敵影を、背後に見上げる。(…くっ、多いな…)
(狙いは僕らか。…関係ない人を巻き込んでしまった?)悔恨を覆面に隠し、深く被る。(どうしてここが?トガリ隊長さんの言う【ロケート】の目印が、まだあるのか?)失せ物探しの魔法が指し示すものが、何処かにあるのか。あるいは【ロケート】とは別の手段か。――今の切田くんに探る術は、無い。
◇
「【ファイアーボール】の爆撃が外れた!?演習通りにやっているのにっ!!」己の戦果を眺め下ろす若き隊員が、唾棄すべき結果に歯噛みをする。――納得がいかない。おかしいだろ。「……そうかっ!敵の卑劣な魔法で妨害されたんだ。姑息な真似をっ!!」身体を通して燃え上がるインスピレーション。優秀で聡明な彼は、即座に正しき答えを導き出した。
破壊の呪文の代名詞たる攻撃魔法【ファイアーボール】は、燃料であるゲル状油脂の物質化を伴った魔法だ。大気中の酸素を取り込み燃え続ける魔炎は、空気抵抗では減衰せず、そして、重力の影響を受ける。
術式あるかぎり燃料が尽きるまで燃え続け、通常の水や風では消火することが出来ない。――その性質上、高所からの長射程攻撃が可能となっていた。【ファイアーボール】爆撃は飛行魔術師の十八番であり、籠城戦や密集陣形、大規模集積等を、戦場より駆逐する一因となった。
翼を広げて燦然と風に乗り、天高く垓下を見下ろす親衛隊員が、……地べたでピカピカ光る的を見つけた時。彼は、思わず笑ってしまった。「ブハハッ、見ろよっ!馬鹿がいるぞぉっ!!」
「ほ〜んと、世の中バカしかいないよなぁ…!」船での脱出を偽装して裏をかき、人混みに紛れ込んだところで。それほどの魔力付与で目立ってしまえば【ディテクトマジック】に丸映りである。「それじゃ偽装工作の意味無いだろ!ハハハッ!!」――高速滑空による相対的な風圧。彼の独白は、何処にも届くことはない。
魔除けを持ち出す隠密行動中なのだから、内蔵魔力を纏って防護壁にする、魔力消費のない『障壁』でさえ自重する局面のはずだ。つまり相手は、訓練も場馴れもろくにしていない、なにもわかっていない弱敵なのだ。(…こいつバカだから!バカ!)
したがって当然のこと、絶対優位の先制攻撃を加えてやったと言うのに。小煩い爺が血相変えて、こちらに接近する挙動を見せている。(……うわぁ。……なんだこいつ……)
副長程度のくせに妙に偉ぶるこの老人は、戦いが拙速を尊ぶということを理解していないのだ。「頭の悪い老害が、またそうやって意味も無く威張り散らして。どうせ今日も上から目線で、身勝手マウントをチラチラひけらかすおつもりなんだろっ!」湧き上がる正義の苛立ちが、若者の胸に、昏い衝動を呼ぶ。
「ちょっと自分が【フライ】を使えるからって、これみよがしに自慢しくさって。……見てろよ年寄り、こっちの機材は最新鋭なんだ。今や『羽付き』の方が、黴の生えた旧式魔法より優位性があるって事を、口先だけのロートル爺に教えてやるっ!!」カニンガム副長の使う【フライ】は、飛行系魔法最上位に位置し、若者の使う簡易飛行装備などとは性能の桁が違う。
風や重力の影響を受けずに飛行を行う副長の姿など、『ローターソプター』の巻き起こす気流さえも煩わしく感じる若者にとって、「うるっさいんだよ、老害っ!!」まさに苛立たしいものであった。「お前みたいな間違う奴に立ち向かわない事は、心に沿わない卑怯なやり口だろうがよぉっ!」
急速に高度変更、【レビテーション】の効果によって、襲い来る老人より逃れ急降下。「ざ〜まぁ〜」成功だ。うまく爺を振り払えた。「現場の不平もろくに聞けない、嫌がる命令ばかり出し続けるブラック老害のアンタには!まともな俺たちには従えないんだよぉっ!ハハハッ!!」
――そして今。眼下に繰り広げられる光景。標的である丸い魔力光は、道に倒れた市民にピタリと張り付いている。「……なにっ!?」
目を引くものは、救護に駆け寄る巡礼服姿と、――こちらを見上げ、場を離れようとする、同様の巡礼服姿。……何かを取り出し被る動き。奇妙な覆面だ。「こいつかっ!!」
顔を隠して魔力の球を市民に擦り付け、囮にして逃げる背中は、「……こいつうっっ!!」間違いなく、敵のものに違いあるまい。卑劣!!
「市民を盾にするかぁぁぁっ!!!」猛る正義を剥き出しに、親衛隊員は逃亡する敵の姿を躍起になって追走した。
敵が逃げ込む建物の影、ピカピカと緑光に彩られた球形が飛び立つ。「…飛んだぁっ!!?」――目が、合った。透明なオーブを掲げて飛ぶ、謎の覆面の魔術師だ。
「くぅ〜っ、卑劣なクズッ!見ているなっ!卑劣なクズぅっ!!」正義の苛立ちが、重なり募る。「【フライ】を使える敵だとぉ!?調子づきやがって。……しかもあの丸い防御壁、【ミサイルプロテクション】って奴か…!?」
「くそっ!!【ファイアーボール】を曲げて市民に当てたのはそれだなっ!?卑劣さと残忍さとぉ!マイナー魔法を得意げに見せびらかしてっ!!」
広範囲を防御する矢避けの魔法【ミサイルプロテクション】は、難度も高く、使い手の少ない魔法のひとつだ。有効に扱うためには魔術師が前に出ねばならず、維持する魔力も必要なため、使い勝手はいまひとつの魔法である。
「…逃すかぁっ!卑劣なクズっ!!」そのまま卑劣漢は踵を返し、飛び去ってこの場を逃がれようとしている。「待てと言っているのにっ!!くそぉっ……」
「……ふん。卑劣なクズの動きはいつも卑怯でワンパターンだ。風を切って滑空出来るこちらの方が、飛行速度はずっと速いんだぞ?」敵の弱腰をせせら笑う。「親衛隊相手にそんな魔法で引き込もるっていうのはさぁ!!」
「魔術師相手にろくに戦ったことのない、ド素人って事だろっ!!……接近して【ライトニング】を喰らわせてやるっ!」防御力場を貫通する【ライトニング】は、高圧電流の逃げ道が無いと魔法自体が発動しない。
発動させるには大気の絶縁を抜ける距離まで接近し、目標の身体を通して、雲か大地へと電流を放散させねばならないだろう。雷の通り道で、敵を挟み込む算段だ。――敵の高度が低いうちにと勢いをつけ、
「ヒィェッフゥーーーーーッ!!!」急降下しつつも、兵士は更に風を切って加速した。
一方、『ガラス玉』にすがりついて飛ぶ切田くんは、刹那の思考を巡らせる。(…空を飛ぶ亜人もどきは、現地空軍の人だったの?)気分はエリア51だ。UFO(UMA)じゃなかった。(枯尾花かよぉ…)
(…しかも魔術師の『障壁』に加えて、魔法を弾く抗魔鎧まで着ている?…そんな特盛セット相手に、鎧を貫くやつは通るのか?)『マジックボルト』はスキルの特性上、狙った場所に必ず命中するよう射出される。――しかしながら、あくまで弾道は直線。射軸線上より移動することで回避されてしまう。三次元機動を行う敵ならば、なおのこと正確な予測射撃が必要となる。
切田くんに空戦やFPSゲーム等の経験はない。(りろんはしってる!)育てていない勘に基づく予測射撃など、あてになるものではない。
(…誘導弾は砲弾と威力互換。抗魔装甲によって散らされると聞いている。…ならば、避けようのないギリギリ距離まで接近して、実績のある鎧を貫くやつを撃ち込んでみるか?)……ふと、ひらめきが走る。(…そういえば『精神力回復』の効果は、ある程度の物質を通して伝播できた。…ならば、同じく接触して発動する、この魔法でも…)
(奇襲するなら一撃で仕留めないとっ!!)敵の背中はすでに取ってある。高速接近、アンド詠唱。
「『黒鉄に宿りて震えよ魔力。灼熱の力よ、纏え』っ!…【ヒートウェポン】!」
螺旋を描き急接近した切田くんは、「バレるなぁぁっ!!」羽付きの無防備な背中に、跳び蹴りかまして詠唱術式を蹴り込んだ。――革靴とマント越しに術式が伝播し、白鎧まで到達した感覚。「…通った!」ヒットアンドアウェイで即座に離脱する。――「にゃんだァッ!?」一方、背中を蹴られた親衛隊員は、思わぬおちょっかいに仰天した。
「!!なんで後ろにぃぃィ!!?」あまりの屈辱に、目の前が真っ赤になる。
追跡していた【ミラーイメージ】による球形デコイが、覆面の映像と共に視界から消えた。「ィはあァッ!?」謀られた。騙されたのだ。卑劣!卑劣!
「!!人が気持ちよく戦っているのにぃィィッッッ!!!オノリャァァァッッッ!!!」激昂に白目を剥き泡を吹き、噛み締めた歯列がバキバキ折れて歯茎から出血する。――正義の憤怒と苛立ちに、若者の胸はみるみるうちにカァッと熱くなった。……否。
「…なんだ!?…熱っ、ほんとに熱いぞっ!?…何だ、これはっ!!」
近衛兵団の白い胸部鎧が熱を持ち始めている。加熱された金属は鎧下と制服を抜き、厚い装甲で守られていたはずの彼の胸を、焦がれるほどに焼き焦がし始めた。
「あああああ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っ!あ゛ーっ!あ゛ーっ!!…あ゛ぁーっ!!!」――絶叫。胸鎧が赤熱化している。白の塗装が黒く焦げて剥離し、地金となった赤光が、すぐにオレンジ色を超えて白熱光へと移行した。
煙と水蒸気たなびく中、光る胸鎧を脱ぎ捨てようと必死にもがく。――模造翼のせいで、両腕を曲げることが出来ない。振り払って翼を脱ぎ捨てようと、バタバタ羽ばたく。…取れない。…取れない。
「……あー、……おぁー、……おー……」ゴボゴボという絶叫は次第に枯れ、年老いた猫みたいな呻き声へと変わる。
背中の落下制御マントが限界を超え、たちまち煙を吹き上げて燃え上がる。――その途端、かつての白具足はストンと落下し、遥か下の石畳に激しく落着した。……市民の悲鳴が上がる。
死の舞踏を見守ることなく、切田くんは上空を見上げる。――残った敵はまだ二体。彼らのヘイトを抱えておかなければ、東堂さんが狙われる。(…残酷に一人殺ったんだから、恨みは必ず、こちらへと向くはず…)
高みより覗き込む魔力光。――部隊長らしき、もうひとりの白鎧姿。
そして、さらに後方。あきらかに時代錯誤なヘリコプター。
「まだ二人。…しかも何だ?魔法で動くヘリが有るのか?」(火薬やモーターの存在は確認した。…だったら、ガトリング砲やチェーンガンなんかもあるんじゃないの?)
質量の載った高速弾は、【ミサイルプロテクション】では捌ききれない。機銃弾の『迎撃』に手一杯となってしまえば、浮揚する白鎧に殺される。(…僕から行けば、挟み撃ちにされる。状況は未だ不利…)
(……ぐっ……)「…諦めてどこかにいってくれっ!!」祈りを込めて間合いを測り、『ガラス玉』を遠巻きに飛行させる。
◇
辺りに立ち込める、熱気と異臭。朝の正常な街並みの、黒く汚れた道ばたに倒れる母親。――惨状への期待と興奮に、徐々に集まる人だかり。
空中より降りかかった火球の炎は【ミサイルプロテクション】で消えたものの、高熱の油脂が皮膚に貼り付き、意識のない母親を今も浸潤している。……全身が爛れていく。
「…『魔力を以て命ずる。聖霊よ、守護の力となりて彼の身を守れ』。【プロテクション】!」
詠唱に答え、全身にまとわりつく黒い油脂がうっすらと浮き上がる。……皮膚からは離れたものの、焼け焦げた衣服が皮膚に貼り付いてしまっている。デブリードマンには時間が掛かりそうだ。
「……なあ、あんた」おずおずと寄ってきた男が、神妙な声をかけてきた。
「もう、助からない」『黙りなさいっ!!』地底ごと爆発したみたいな怒鳴り声に、訳知り顔はヒィと尻もちをついてしまった。
唇を噛み、手のひらを押し付ける。……ジュウと皮膚の焼ける音。たおやかな手指はそのまま油脂と防護皮膜を突き抜けて、女性の焦げた胸にピタリと添えられた。
異常なことが起こっている。
母親の炭化し爛れた皮膚が、――みるみるうちに肌艶を取り戻し修復していく。張り付く布地が自然と剥離し、欠片となってポロポロ落ちる。
「…おお」
「すごいなぁ…」
「有名な治癒師さんなの?」
「大丈夫かしら。心配ねぇ〜」
衆目の下、現在起こっている奇跡。疑うものも信じざるを得ない、説得力しか持たない光景に、囲みより一斉にどよめきが起こった。
厚く人垣が作られている。人々は『心配そう』な薄ら笑いを浮かべ、そうする自分を自慢げに誇示しつつも、――周囲の共感を求めて口々に何かを囀って、今も興味深げに治療の様子を覗き込んでいる。(……くっ……)東堂さんは、忌々しげに唇を噛んだ。
『……邪魔をして……っ』地の底より響く怨嗟を、その時、何かが制止した。
――小さな手が、外套の背中をつまんでいる。
肘や膝などを酷く擦りむいた、しゃくりあげる子供が、痛みと不安に泣きながら、彼女の外套を掴んでいるのだ。
(……っ!?こんな時に……!)小さな手によりガッチリ拘束され、逃げる事ができない。……人垣が鉄格子となり、善意を騙る黒いゲル状のなにかによって、徐々に彼女を焼き焦がそうとしている。
これでは母親ごと移動出来ないし、高温油脂が消えるまでは離れて【プロテクション】を解くことも出来ない。仕方無しにと東堂さんは、それでも何とか柔らかく、子供を見据えて滔々と語り諭した。
「下がりなさい。まだ危ないから。…お母さんは大丈夫だから、下がって」
拒絶を感じた子供は、しゃくりあげながらも不安げに手を離し、更に悲しそうな顔で地面の様子を眺める。
……そして身をかがめ、いまだ高熱の油脂に燻り続ける黒焦げのパンを拾おうとした。
「何をしているの!?」
思い切り掴まれた腕と、楽しみだったパンと、向けられる必死の形相に、子供はギャンギャン泣き出した。――東堂さんは思わず鼻白み、それでもあるべき姿を示そうとした。
「女の子でしょう!?シャンとなさいっ!!」そのキツい言葉に息を呑み、目を丸くして、……子供は更に、大きな声でギャンギャンと泣き喚き始めた。
人垣が、厚みを増している。――機会を逃さぬよう隙間無く取り囲み、薄ら笑いの祭典越しに、東堂さんを興味深げに覗き込んでいる。
「……くっ……」焦熱が、幾重にも包み込む。
その時。粘り付く黒い油脂が、粒子となって掻き消えていく。(…類くん…)どうやら術者が倒されたようだ。
母親は意識を失ったままだが、自発呼吸はあるし火傷も完治している。ギャン泣きする子供も治療済みだ。もはや、この場にいる必要はないだろう。
「髪と服は治せないけれど…」立ち上がって外套を脱ぎ捨て、バサリと被せる。……どよめきが起こった。
顕となった、女神の色彩。線細くも麗しき、美の化身たる精巧な造作。貴族の如く編み込まれた艷やかな黒髪と、遠目にも人を引きつける、端整なる氷の美貌。――傾国の美少女。
わぁと場が盛り上がり、ガヤガヤと姦しく騒ぎ出した。
「『聖女さま』ってやつじゃないのか?黒髪の。城には何人か居るんだろ?」
「教会に居るんじゃないの?」
「綺麗な子ねぇー」
「感謝でなら誘っても良いんだろ?」
「馬鹿、捕まるぞ」
「子供を泣かすなんて…」
「そうだっ!良くないっ!」
「見かけによらず冷たいんだ…」
「あんた言いなさいよ!駄目なものは駄目って言わないと!」
「『聖女さま』だったらうちの婆の骨折だって治してくれるんだろ?すっかり弱っちまって。…おい、あんたっ!!」
背中越しの怒声に表情を硬化させた『聖女』は、地面を強く蹴って天高く跳び上がった。
「おいっ!!」
必死に噛み付く声を振り返りもせず、屋根へと降り立った東堂さんは、意気消沈した声で呟く。「……子供なんて苦手なのに。……どうすればいいんだろ……」
空中で戦う切田くんの姿が遠くなりつつある。はぐれないよう地上から追わねばなるまい。
「類くん…」
途方に暮れるも、唇をキッと引き結び、……纏わりつく全ての迷いを振り切って、屋根伝いに走り始めた。