*かべのなかにいる*
樽鎧男を倒さないと出られない部屋(ミキサー兵器はなんだか怖いので放置)を出て、迷路化した下水道を遡る。
帰りの道順は『猫目』が憶えている。あるいは先んじて、魔法の地図『マジックマップ・オブ・クレアボヤンス』を確認したのだろう。……切田くんも、道順をふわっとは憶えていたので負け惜しみを言いたくなったが、実際に道案内を任されたのならば、多分いくつかは間違えたはずだ。
往路の汚名返上とばかりに先頭を行く。――煌々と光る照明内、大鼠が慌てて踵を返すのが見える。
頭上に浮かぶ照明球は、更に光量を増した『飛ばないマジックミサイル』。その脅威を本能で感じ取ったのか。……はたまた、単に眩しいのが嫌だったのかも知れない。
中継の伝声管部屋を抜け、本来の下水道へと戻る。
下流へと進むにつれて、足場の状態が徐々に悪くなってくる。満ち潮か、引き潮か。逆流する海水が汚水と入り混じり、管理通路を浸し始めている。……正直、あまり良い気分ではない。
我慢しながらジャブジャブ進むと、最後尾の『猫目』が眼帯をつまみ上げ、斜めに天井を眺めた。「あいつら、アタシたちを閉じ込めたつもりみたい。入り口の落とし蓋、つっかえ棒で塞がれてるね」
「…待ち伏せは?」
「いない。逃げ帰っちゃったみたい」
地上へと続くタラップの上面、閂の掛けられた落とし蓋。――怪物蔓延る『迷宮』を厳重に塞ぐ、分厚い金属隔壁さえも破った相手が、この程度の妨害で止められるはずも無い。
解っていても、やらずにはいられなかったのか。……それとも、慌てていて認識が及ばなかったか。嫌がらせ気分でしただけかもしれない。
何にせよ、大した障害ではない。
切田くんがスイと指を振ると『飛ばないマジックミサイル』が急上昇し、閂ごと金属の落し蓋を突き破る。蓋がポーンと、天高く舞った。
外はすっかり夜のようだ。――曇天。雲の隙間より差し込む月明かりは弱く、地上と地下の境目を僅かに表す程度。真っ暗である。
タラップを伝って地上に出る。雲隠れの僅かな月明かりに浮かび上がる、加工場の輪郭。微かに遠い、破楽戸酒場のおぼろげな影。
バヨネットの酒場は真っ暗だ。どうやら、ならず者たちは完全にとんずら決め込んだ様だ。酒場には一片の光さえ見えず、【ディテクトマジック】に魔力の光が映ることもない。
人の気配はまったく無い。『メイズ・フォレスト』とイェップ=ヤップを倒した切田くん達に対し、彼らは極めて高い脅威を抱いている。
(そりゃあそうだ。装甲自慢の重戦車が、――トップアタック。搭乗ハッチを抜かれて沈んだんだ。デサントは戦線を下げるしかない)とはいえ敵が、未だ物陰からこちらを伺っている可能性は残されている。……今は、明かりをつけるべきではないだろう。
流石に足元が危ないので、切田くんは歪んだ落とし蓋を掴み、下水孔へと載せておく。(フギギギ…)とても重い。(…『猫目』さんよりも力無いんか?お?)立つ瀬がない。
「さて、ここからは一緒に居ると面倒そうだね」そっぽを向いたまま、空々しく『猫目』はのたまう。「……それともキルタ。アタシと一緒に、婆ちゃんの居そうな所まで着いていきたい?」
(…『猫目』さんははっきりと、この場で僕らと別れたがっている)否定の気配。内心は既に決別しているのだろう。
仮にそうではなかったとしても、正しい判断と態度ではある。敵対した組織にどの面下げて顔を出すのか。無駄な戦闘が増えるだけだ。(ならば、引き止めたり食い下がるべきではないか)「やめておきます」「だよね」即答し、口元でニヤリと笑う。「落ち着いたらまた会おうよ。いつになるかはわかんないけど。…『聖女さま』もね」
「その時はよろしくねー。……アタシは相手に尽くすほうだし、実際役に立つと思うよ?」
(リップだろうな)別れ際の社交辞令。具体的な言い回しを避けるのもお断りの定番だ。(…少しは別れを惜しんでくれているのかも知れないけれど、…もう、会うこともないか)仮に機会があったとしても、その時はおたがい敵同士である可能性が高い。
ガバナは『スキルホルダー』との直接戦闘を嫌がっている。よって、差し向けられる敵の刺客は、切田くんたちの『スキル』に対抗・対策出来る、特殊な技能や異能を持った相手のはずだ。――そして、貴重な手札の損耗を嫌い、暗殺や奇襲、搦め手によって事をなそうとするだろう。
ガバナが『猫目』を刺客に使い、『デスレイ』や背後への忍び寄り、仲良しヅラして暗殺など。仕掛けてくる可能性は十二分にある。所属組織にやれと言われれば、『猫目』はやらざるを得ない。……外部に抑止力を持たぬ組織など、いつの世も卑劣に堕ちるが当然。積極的に卑怯な手を使ってくる事だろう。
ならば彼女に、日本刀や手裏剣、篭手などの強力な装備を渡したままでは危険、ということになる。……切田くんは少し考えるも、即座に意見を翻した。(…いや、取り上げるべきじゃない。装備を持ち帰ることは、『猫目』さんが組織を裏切っていないことを示す足しになるはずだ)
(あの黒衣の勇者が選んだ武装。どれも、極めて強力なものだし、ガバナにとっても益はある。功績としては十分だろう)
(……結局のところ、僕らと違って、『猫目』さんには帰れる場所がある。たとえそれがろくでもない場所だったとしても。……毎日の飢えと乾きに苦しみ、毎晩、獣の襲撃に怯えて眠る。そんな寄る辺のない流浪人になるよりは、ずっとましなはず……)
考え込む少年をチラと一瞥し、返事を待たずに『猫目』は言った。
「じゃあね〜。ふたりとも〜」
抜身の刀をフリフリ振って、背を向ける。……一度も振り向くことなく、少女は夜の闇に消えた。
黙って見送る東堂さんが、……自身だけに聞こえる声で、ボソリと呟く。
「……聞き分けのない子」
さて、のっけからの目的だった『迷宮』探索も一段落が着いた。それを踏まえて切田くんは、これからどうするかの答えを導き出す。
「この街を脱出しましょう、鋼さん」
「……切田くん……」虚を突かれて振り向く彼女。曇天の暗夜でさえ凛と立つ、細身の輪郭。切田くんは落ち着いた論調を続ける。
「僕らはまだ、奴らが取り囲む牢獄の壁を破ってはいません」
「『迷宮』探索がこうなってしまった以上、死中の活に拘るのは危険です。だから今は、強化よりも退避を優先しましょう。一度、相手の手中から完全に脱するべきです」
未だ姿の見えない膨大な敵。国の手配がかかり、巨大な裏組織とも敵対。敵の射程内に居座っての二正面作戦が始まろうとしている。(…ムーリー…)
流石にここらが潮時だろう。安全な場所まで退避して、その後のことはまた、落ち着いてから決めればいい。……戦うにしても、忘れたふりをするにしても。
東堂さんが、考え深げに覗き込む。
「もういいの?」
(…良くはない。恨みが消えたわけではないけれど、引っ張られすぎれば判断が鈍る…)
(敵の攻撃範囲から一旦逃れれば、不安や恐れや警戒といった、思考の邪魔をする要素を除去できる。もっと冷静な判断が出来るようになるはず…)思うところはあったものの、はっきり断言した。「ええ」
東堂さんは穏やかに微笑んだ。少年の手をそっと引き、自然と指を絡める。「…私も」
「一緒に行ってもいい?」
……覗き込まれている。
切田くんは即答した。「もちろん。一緒に来てくれますか?」
「いいよ?」いたずらっぽく彼女も即答し、そして破顔して、嬉しそうに笑った。
◇
少女は未だ、その場にいた。
作業場、屋根上の死角。――風下に陣取り、生き物の気配を完全に消しさって、見えない闇の中に潜む黒影。行儀悪く股を開いて座り込み、眼帯を上げて覗き見る『猫目』が、音を立てずにクスクスと笑う。「いくら『聖女さま』がぶっ飛んだ美人だからって、結局のところは」
「…床に入れば、抱き心地の悪い処女のマグロ」嫌味な笑みに、舌なめずりをする。
「一度アタシとやっちゃえば、その差は歴然。一度味わってしまえば、格落ち相手じゃ物足りなくなる。…フフ。快楽の手管は細かいことの集まりなんだ。お勉強には、とても時間が掛かるのさ」
闇に溶け込むせせら笑いを気安く崩し、少女は曇り夜空を陶然と見上げた。「…ねぇキルタ。感じたフリもしてあげるけど、…あたし、絶対メチャクチャ感じるよ」
「…だって、ガチで好きな人相手だよ?心が気持ちよがっているもの」そこには、僅かな隙間を縫って届く、月の光が広がっているはずだ。
「…いけないこと?そうだね。だけどそれは、永遠の重しになる。無かったことだと言い張っても、いくら綺麗事を並べても。忘れることなんて出来やしないし、永遠に納得が得られることもない…」
お手手繋いで仲良く去りゆく二人の姿が、暗闇に光る金色の両目にはっきりと映っている。
少女は嗤った。「…だからぁ〜。アタシが一度キルタを食べちゃえば、それでぜぇんぶ解決ぅ」
「ドロッドロに冷え切らせて、カラカラに萎えさせて。嫌なことをする気力も情熱も、ぜぇんぶアタシが奪い去ってあげるよ〜」
「だってぇ、アタシだってあたしに出来る、アタシの手札で勝負しないとぉ…」暗黒に浮かぶ黄泉の瞳が、クスクスと、チェシャ猫みたいに笑っている。
「…それにさぁ、クッソ真面目な重い女の介護だなんて、続ければ続けるほど疲れきってしまうだけだよ」
「…介護に疲れて、懊悩することにも疲れて…」
「……今はわからなくても、わかろうとしなくても。……疲れだけはその身に刻まれて、どうしようもなく降り積もっていく……」
「……あたしが救い出してあげる。キルタ」音もなく立ちあがる。
「いくらパワー負けをしていても…」
「ずっと暗闇を這いずり登ってきたあたしは、タフさならば誰にも負けはしない」
「…もちろん夜も」いたずらっぽく嫣然と笑い、『猫目』は背を向けた。
「……綺麗な世界に引きずり込んで、箱に閉じ込めて殺そうとする女から。アタシが、広がる世界に救い出してあげる」
「すぐに会いに行くから。…待っててね、キルタ」――夜風を切って屋根を飛び出し、少女は声を弾ませた。
「それで、あたしと一緒になろう?」
◇
ガバナ闇迷宮ギルドの主、バヨネットの名を持つ老婆は、いけしゃあしゃあと元の酒場に居座っていた。
自身の周り以外の全ての明かりを消して、全てのならず者たちさえ逃げ去って、なおも老婆は、ゆったりと煙管を吹かしている。
もうもうと煙立ち込める、巧妙に隠されし秘密の小部屋。――若い頃から名のある魔術師として鳴らしたバヨネット老婆は、この『入り口のない』隠し部屋を唯一使うことの出来る人間だ。(ヒヒッ。なにを慌てることなぞあるものかいっ!!どいつもこいつもケツの穴の小さいこと。奥のメスイキ腺までみみっちいねぇ、まったく。鍛えてないのかい!?キヒヒヒ…)くつろぐ老婆は余裕綽々、プカリと一服をする。
運良く当たりの『スキル』を引いて、無双気分でいる異世界勇者が相手とて。自分以外誰も入り込めないこの部屋までは手出し出来ないし、――仮に出来たとしても、いざという時の為の緊急手段は用意してある。問題ない。
よって今は、素知らぬ顔で距離を取り、後できっちり暗殺を仕掛けた後で、責任者からたんまり賠償金をせしめればいい。それが筋というものだ。
老婆が居座るこの場所は、二畳の広さもない隠し部屋だ。
魔法の灯りに照らされる、酷くヤニ臭い煙たい小部屋。狭い空間に押し込まれた豪華な椅子にゆったり座り、サイドテーブルの煙管盆へと、慣れた手つきでカンと灰を落とす。
すると、老婆の耳に、……リズム良く叩かれる連打音。(……煩いねぇ。休んでいる時に勘弁しておくれよ、まったく……)散々聞き慣れた、うっとおしい声が聞こえてきた。
『『猫目』でーす。『猫目』のお帰りですよー。婆ちゃんやーい』
備え付けの伝声管を通って響く、甲高くもくぐもった、クソ生意気な配下の少女の声。老婆は眉根を寄せて、うざったそうに鼻息を吹く。……問題児が帰ってきたようだ。「明かりをつけな。『猫目』」
『火種も魔法も持ってないよ。別にアタシはいらないし。欲しけりゃ婆ちゃんがホホイとつけりゃいいじゃん』『チンカラホホイって?おもしろ』
(何が『おもしろ』よぉっ!!)脳の血管切れそう。「……ええい……」忌々しげに空の煙管を咥え、(……まったく、聞き分けのない子だよ……)ため息混じりにフスーと息を吐く。
眼帯少女の瞳に宿る、暗闇を見通すスキル『猫目』。比較的発現のしやすいコモンスキルではあるが、裏の人間にとっては非常に使い勝手の良い『スキル』だ。(…羨ましいって考え方なんぞ、この歳になると擦り切れちまうもんだけれど…)――月の隠れた闇夜の室内でも、そりゃあ問題はあるまい。
(片方の目は潰された、と言っていたね。…まあ、アタシらでさえ歯牙にも掛けない、何も出来ない底辺を這いずる輩には。コモンスキルでさえさぞかし羨ましかろう。嫉妬から恨みを買ってもしょうがあるまいねぇ…)
(…さてと。あの脳足りんどもの話じゃあ、裏切ったことにはなっていたけれど…)ならず者たちのイキり仕草を、頭痛と共に思い返す。(あんな吹聴の熱の入りかたじゃ、話半分ってところだね。あの唐変木ども。…ああ、面倒くさいったらありゃしないよ。ちゃんと証拠を持ってきなっ!証拠をっ!)ドスドス足を踏み鳴らしたい。
酒場入り口近くの伝声管に、『猫目』が居るのはわかる。……馬鹿どもの言葉通りに裏切った可能性はあるが、――情報を集めようにも、現在の老婆がその様子を伺い知ることは出来ない。伝聞と伝声管だけがソースだ。
(…裏切り、ねぇ。…ふん…)現に今、反抗して言うことを聞かなかったわけだが。こんなのは日常茶飯事だ。いくら叱りつけても灸を据えても、少女の減らず口が止まることはない。そんな図太さがある。
(既に『ホルダー』二人の損失だ。三人目ぇ?屋台骨まで崩れちまうよ、…まったく。考えもなしに毒虫どもを引き込むたぁ、アルコルのうすのろめ…)
(…フン。それともわざとかい?グラシス組。アタシに戦争を仕掛けようってのかい?…だったら相手になってやろうじゃあないかい?)
老婆は慎重に探りを入れる。「…仕方のない子だねぇ。裏切ったんじゃなかったのかい?『猫目』。他のふたりは?」
『さっき適当に別れてきたよ。…ホンット無茶言わないでっての。この件はこうやって『酷いこと』になっちゃうって、婆ちゃんには最初からわかってたんじゃないの?』いつも通りの軽薄さ。……異常は感じられない。『あーんな滅茶苦茶あたしに押し付けてさ。無理無理ムリーよ。馬鹿じゃないの?ほんと酷。あの後アタシが、どんだけ苦労したと思ってるのさ。お給金の割に合わないんですけど?』――もちろん、鵜呑みにするわけにはいかない。
「…そんな口先で、本当にあたしが信用すると思ってるのかい?信用に値する対価はあるんだろうね」
『ふふーん。ほら見て?黒衣の勇者の装備だよ。特殊部隊の』
暗闇で見えない。
……そもそも、視線が通っていない。無人を偽装するためとはいえ、酒場の中は真っ暗だ。これでは映像を伝える遠見の魔法【ウィザードアイ】を使っても意味がない。……せめて、魔力を見ることが出来れば確認出来るのだが。
声を伝える【ベントリロキズム】が魔法詠唱を遠隔中継できないのと同じように、【ウィザードアイ】を通して【ディテクトマジック】の効果を使うことは出来ないのだ。
「…近衛の特魔戦の?馬鹿こくんじゃないよ!あんな呼ばれたばかりの新参に勝てる相手かね!」
『うまいこと罠に嵌めてたよ。それでも危なかったけど。…この曲剣なんて凄いよ?流石勇者の装備って感じ』
「……」どうも、話運びに嘘っぽさがない。老婆は眉を顰める。(こまっしゃくれたガキだけれど、騙しに来たことはないからねぇ…)
国の狗、黒衣の勇者どもは強力だが、あの狂ったゴブリン軍団を倒す力があるのならば、……なるほど。戦いようによっては勝ち目も無くはないのだろう。
そんな奴らが『敵』として、この暗闇に潜んでいる可能性がある。最大限に警戒せねばなるまい。……やはり『猫目』は裏切って、虚実を混ぜてこちらを引きずりだそうとしているのかもしれないし、裏切らずとも、召喚勇者どもに脅されているかもしれない。今は、動くべきではないだろう。
「今日は成果を置いて帰りな。よく吟味して、明日以降のお前の扱いを決めるとするよ。『猫目』」
『へーへー』伝声管越しの少女は、皮肉っぽく返す。
『あたしが婆ちゃんを裏切った所で、アタシにこの先どこに行けってのさ』
『婆ちゃんは厳しい人だけれど、あたしに目を掛けてくれてるじゃん。いつも良くしてもらって、感謝してる』
老婆は思わず鼻白み、……鼻白んだことに苛立って声を荒げた。「…いきなり何だい!そんな安いおべっかに金は出さないよ!」
『おべっかめいた都合の言葉だって、ありがたがってるのは事実なんだ。別に言われて損をするものでもないでしょ。…ところでさぁ、もうあいつらのところに行けとか言わないよね?婆ちゃん。あと歩合のお手当もね。危険手当もー』
「……まったく。考えとくよ。ほら、成果を置いてさっさと消えな」
『ばいばーい』伝声管の閉まる音。
……こうやって苛立たせはするものの、こんな様を晒す子供相手に慎重すぎたかもしれない。老婆は皮肉げに口元を綻ばせる。(あきれたお花畑だよ。『感謝してる』ときたもんだ)
まあ、子供の頭などそんなものだ。わからぬままに不安に踊り、大人に媚を売って庇護を求める。
気に触ることも多々有るが、結果的に『聞き分けの良い子』を演じると言うのであれば、……別に子供のひとりぐらいそのへんに置いてやってもいいし、炊き出し気分で最低限の飯くらい恵んでやってもいい。それが、大人の慈悲というものだ。
老婆は上機嫌に鼻で笑い、空になった煙管を詰め替えようと、サイドテーブルのタバコ入れへと手を伸ばした。
――殺気。
(……!?)長年鉄火場をくぐりぬけた老婆の勘が、この愚にもつかぬ根拠のない直感が正しいと、激しく警鐘を鳴らす。
「【フォース・シールド】っ!!」
右方側面。煙管を杖代わりにかざし、老婆は短縮された詠唱を叫んだ。
瞬時に展開される防御力場。――消費魔力、持続時間ともにキツいが、物理・魔法問わず、全ての攻撃を弾き返す魔導の叡智、絶対防御壁。
銀光が閃いた。鋼芯入り漆喰をぬるりと抜けて、白刃が伸び、煌めく。
絶対防御を豆腐みたいに切り裂いて、あっけなく老婆の前を通り過ぎた。――たちまち壁の向こうに引き抜かれて見えなくなる。
ボロリ、と、手首が落ちた。
ぺたんと床に落ち、煙管が音を立てて床を転がる。――老婆は叫んだ。「壁をぁあああっ!!…ああぁあああぁああぁぁ…」断面を晒した手首を押さえ、アーアー呻く。血とよだれが溢れて滴り落ちる。
怨嗟に壁の線を睨みつける。……何故ここがわかった。ここには隠し扉や出入り口など無い。伝声管の配管だって巧妙に壁中を這い、追うことなど出来ないはずだ。
「アハハ!わかんないでしょう!?アンタには!!」斬撃の痕を潜り抜ける、甲高く逆撫でるせせら笑い。
「どんなに綺麗な事を並べたって、積もり積もった憎しみの心は止められない!!……だって今も、ずっと害されてるってことだもんね!!」
へなへなと座り込んだ老婆は過呼吸を起こし、ヒハヒハ喘ぎながらも罵声を絞り出す。「…きょむすめぇ!」
「…何でわかんないかなあっ!ホンット!!」斜め左右、二度の斬撃。壁に三角形の痕が刻まれた。
ガン!と裏より打撃音。鋼芯入りの壁が揺れ、三角にくり抜かれて落下する。……瓦礫が床の手を、煙管ごと押し潰した。
――暗がり。穴の向こう。暗闇に光る金色の瞳。
「見て!よく見て!今だって、ほら!!」魔法の明かりを昏く映し込み、へたり込む老女に嬉々として声を弾ませた。「アタシの気持ちが害されている!!」
「…てぇ、…【テレポート】ぉっ!!」絞り出し叫んだ短縮詠唱は、不発。詠唱短縮の指輪は、手のひらと一緒に三角瓦礫に押し潰されている。――逃げ道などない。ここには出口も入り口も何もない。老婆は壁の中にいる。
鼓動に血を吹く、無いはずの手をかざし、バヨネット老婆は窓に向かって叫んだ。
「やめな!!」
三角窓の向こう。少女が何かを振りかぶる。――金色の両目で老婆の姿を見下げ果て、『猫目』はクスクスと、軽やかに嘲笑った。
「ざぁ〜こ♡」
平たい投擲物が、瞬時に絶対防御力場をすり抜ける。
バヨネット老婆の視界が、ゆっくりと天井を向いた。……廻る景色。壁や床や椅子、サイドテーブル、老婆自身の背中。
軽い打撃に床を舐める。……口をパクパクと動かすも、声が出ない。
そして視界は、じきに闇へと飲まれた。