あばれネコチャン、愕然とする
いずれ『猫目』と呼ばれる少女が『デスレイ』を初めて使った相手は、自分自身の父だった。
無様に這いつくばって頭を押さえる男が泡を噴く様を、震えて眺め、――少女は、神さまが自分を助け、願いを叶えてくれたのだと悟った。
(……憎しみで人が殺せたら)請い願い始めたのは、そう昔のことではなかった。
そんな『悪いこと』など思いつこうともしなかった。『仕方がない、自分のほうが悪いのだ』という、植え付けられた“正しき思い”は、聡いはずの少女を呪縛のように支配し続けた。
目つきが気に入らない。そう言われ続けた幼い少女は、ならばと聞き分け良く、正しく男の言葉に従った。しかし、目を伏せても逸らしても、目をつぶってもその場を離れようとも、……聞き分けの良い子供という要求を忠実に守ろうとしても、何も変わらず執拗な躾や仕置きを繰り返されるという事態に直面し、少女は混乱し、怯え、ただ竦んだ。
何か見落としがあるのだ。『厳しい人』である父にそう言われねば、そうされねばならない理由が自分にはあるのだ。だというのに、今の自分ではそれを見つけられない。
少女はなんとか解決法を見出そうと、必死に男を、自分を、周囲の人々を観察し続けた。
少女の思いは正しかった。確かに自分は見落としていた。
その男は、自ら発した言葉の内容など関係なく、『言いやすく』、『相手よりも強く見える』、『気持ちの良い言葉』を垂れ流し、あたかも“正しさの証明”であるとひけらかしながら、己の近くにいる弱々しい少女へと、愉悦の衝動をぶつけていただけだったのだ。
思考を良きものへと歪める呪縛に苦しみながらも、長年を経てようやく『その答え』に辿り着いた少女の純粋な心は、あっというまに黒く塗りつぶされていった。
右目の痛みが引かなかった。片目をつぶって何度試しても、ぼんやりとした薄暗い光以外はそこに映らなくなっていた。――酷く流れた血の涙もすぐに止まり、ズキズキと深く突き刺さるような、眠れぬ痛みが何日も続いた。
おそらく右目は腐り落ちて、自身もそこから腐れが広がり、体中に毒が回って死んでしまうのだ。そんな死に様を何度か見たことのあった少女は、自分も同様の事態に陥ったことを確信し、恐怖に震えた。
「…罰が当たったんだ、アタシがいけないことをしたから、神さまの罰が当たったんだ!」
未だ全裸のまま倒れ伏し、膨れて悪臭を放つ父の元から離れて、少女は許しを乞うために、よたよたと神さまの元へと向かった。
◇
ニヤニヤとせせら笑う下働きの中年女が、功を誇って指し示したのは、ボロ服をまとう薄汚れた子供の姿だった。
青痣だらけで片目が潰れている。もはや男か女かもわからないほどやせ細り、そして教会の裏の壁へと力なく縋り付き、ブツブツ何かを言っている。……程度は悪いが、貧民街ではよく見る類の子供だ。
「いくら言い聞かせて追い払ったって、いつの間にか戻って来やがるんですよ、この浮浪児は。…まったく聞き分けのない。うちの子たちとはエライ違いだよ。ほら、助司祭様のお力で、なんとかしていただけませんかねぇ」
下働きの中年女が侮りを向ける。この教会では最も新参の若き助司祭は、何もかもにうんざりしてため息をついた。
救いと施しを求めて来た子供だ。わずかな食料や銅貨を握らせて追い払うのは簡単だが、そんなことをすればこの教会は、瞬く間にタカリによって埋め尽くされてしまうことだろう。……立場上、暴力に訴えるのも外聞が悪い。なんとか穏便に追い払わねばならない。
助司祭はみすぼらしい子供に対し、優しい声で話しかけた。
「…いいかい?」
子供はぐったりと目を向けて、ボソボソと何かを言う。助司祭は手のひらでそれを制し、のしかかるように屈みこんで、真剣な眼差しで子供に目線を合わせた。
「よく聞きなさい。いくらこの場でそうしていても、神はきみを助けない」
「…どうして?」ほそぼそと弱々しく、そして純粋な質問に、助司祭はニッコリと微笑みを深めた。
「それはね、そうしていても神の目には止まらないからだよ。…神は全てを見通すけれど、人の子全てに意識を向けているわけではない」
「だから神は、目に止まったものだけを助ける。動かぬものは、助けない」
「…そうやってお願いをするだけではきみは死んでしまう。そうなる前に、自分がちゃんと動きなさい。そうすれば神さまもきみを助けてくれる。…わかるかい?」
子供はうつむき、そのまま力なく、小さくコクンとうなずいた。
助司祭は再びため息をつく。
きりが無い。貧しくして鈍ずるままに、何もせぬものが多すぎる。自分とて多少生まれがましと言うだけで、摩擦と軋轢の中でさんざん積み重ねを行って、今の立場にしがみついているのだ。
それに、何もせず神へと縋るものほど、死ぬ間際には必ず、自分への救いをもたらさなかった神への呪詛を振りまくものなのだ。神を扱う側としては正直やってられない。
たしかにこの子供の現時点での環境は悪そうではあるが、たとえば定期的な炊き出し、――寄付のノルマと苦役を課し、信者同士慰め合わせつつも下々への優越感を煽る、信者の囲い込みを図るアレの列に並ぶなり、――浮浪児たちのコミュニティに所属して少ないパイを奪い合い、己のパイの大きさに従って分相応に立ち回るなり、……この状態からでも、出来ることは沢山あるはずだ。
もちろん、その先のことなど知ったことではない。ここは生き馬の目を抜いて皮も馬肉も売りさばく『迷宮都市』教区。怠慢を神は愛さない。
……さて、咄嗟にこれだけの説教が出来る自分ならば、司祭への昇格も近かろう。助司祭はほくそ笑み、そして言葉に険を込めた。
「さあ、もう行きなさい。…早く!」
追い立てられた子供は躰を引きずって、よろよろと去っていった。助司祭の言葉は、ちゃんと子供の心に届いたようだ。
助司祭の言葉に得心のいった少女は、早速その晩、当の教会へと忍び込み、当面の食料と幾ばくかの貨幣をせしめた。
◇
利き目ほどではないものの、残った左目にも『スキル』の力は宿っていた。強く願えば錠前の構造も警備の動きも、腹をくくった少女にはなんでもお見通しだった。――とはいえ負担も大きく、力の反動が引き起こす目の疼きは、いつも少女を不安にさせた。
たとえ自衛のためにでも、もう『スキル』の真の力を使うわけにはいかない。もう一度フルパワーの『デスレイ』を使ってしまえば、正にお先真っ暗となってしまう。
少女は力の反動への恐怖によって他への憎しみを押し殺し、――そうすることで発生する躰の奥の熱に押されて、生存のための戦いを繰り返した。
すぐに次の問題へと直面する。少額の盗み目的での潜入は頻度を要求し、それは危機を加速度的に増大させた。――幾度かの危険な目にまみえた少女は、このやり方では先がないと気づく。
しかし少女の見た目では、高額の金品や金貨を、少女にとって最も必要な低額貨幣に替えることは出来ない。持っているところを他人に見られれば、すぐに強奪や強殺の手が伸びてくる。
そこで少女は(換金不能な)幾ばくかの賄賂と錠前外しの腕を見せ、街を牛耳る最大手のマフィア『ガバナ・ファミリー』の末端に籍を置くことで、ろくに役にも立たない自由と引き換えに、ある程度の防衛体勢を築き上げた。
組傘下の娼婦たちと仲良くなって(何故かえらく猫可愛がりされた)、教えを乞うて手管を磨き、栄養状態の改善した小柄で可憐な見た目を駆使して、少なくとも『笑って手を貸してくれる味方』の後ろ盾を徐々に増やす。少女は彼らにも同様に乞うて様々な技術を学び、さらには磨いた。
そうして眼帯の少女『猫目』は、これだけやっても一向に、猫の手さえ貸してくれない神さまへの悪態をつき、……今にも潰れそうな幼い自分の心を守ってくれたことだけに関しては、心の中で皮肉げに礼を言った。
すると『猫目』に、神の恩寵が舞い降りた。
◇
「キヒッ、キヒヒッ!!…さあっ、どうさキルタっ!?」歯を剥き出しに嗤う『猫目』が、甲高くも誇らしげに己が武威を喚き散らす。「アタシに封印された真の力を開放すれば、あたしの『スキル』で倒せない奴はいないんだっ!」
「……ああ、あああっ!!畜生っ!右目が疼くっ!!」そして辛そうに顔を歪め、ピシャリと右目を押さえつけて苦悶を吐き出す。
――切田くんは死の間際だったことさえも忘れて、この場で起こったことを冷静に分析する。(…『X線視力』か。『猫目』さんのスキルは)
(…なるほど、暗闇どころか壁でも何でも見通すわけだ。『スキル』の出力を上げて波長を短くし、高密度の放射線によって脳と神経を焼き切ったんだな…)目を見ないように言われたことも納得がいく。明らかに取り扱い注意な『スキル』ゆえ、その反動も大きいようだ。少女の右目は、自身の攻撃もしくは過負荷で焼き切れてしまっている。自爆覚悟の最終手段なのだろう。
(…それにしたって、超つよい魔眼スキルだって?…僕だって昨夜の晩は、左手の穴が疼いていたさ…)切田くんはなんだか悔しい。包帯でも巻いておけばよかった。(…本人にとっては洒落にならなそうだけど…)
(とにかく、東堂さんに頼んで治してもらわないと)「東ど…」
「…ねぇ、類くん…」
動き出そうとした意識の外から、彼の注意を引く者がいる。邪魔をするものがいる。
「…聞いて。お願い、類くんってば…」抱き寄せたままの東堂さんが、切実な声で呼んでいる。スラリと細い白磁の握力が、首と脇腹にギリリと掛かっている。(……痛いな。なんだろ?)「どうしました?」と顔を向けると、
腕の中の『聖女』は、泣き出しそうな顔で懇願した。
「私だけじゃ駄目?」
「…えっ」切田くんは戸惑い、(……ぐっ……)そしてグサリと刺される感覚に、震える。……心がキツい。全身から血の気が引く。(……な、何の……)
そのまま彼女に縋りつかれる。「ねぇ、通じてるよね?…私の気持ち。ずっと…」
「…だったらそんな目で、あの娘を見ないで…」
「類くんは親切だから、助けようって。……それは分かるの。……でもね」声を震わせ、訴える。「…あなたに興味を持ってる他の女に、あなたは平気で、その目を向けてる…」
「……そんな光景を見させられる、私の気持ちがわかる?」
「…それは」切田くんは口籠り、その口籠った自分の姿がどう見えるのかを考えて、慌てて答えた。「それはもちろんです。でも」(…で、でも、待ってくださいよ。今はそんな場合じゃ…)
(…戦闘も終わったばかりだし、怪我人もいる。…あと『スキル』の力で捏造された依存心の話だとか…『迷宮』探索を続けるために必要な事とか…)言葉を飲み込む。どれも言えない。突き刺された胸がぐるぐると、ミキサー刃の様にえぐられる。
ちらりと、他の様子を垣間見る。
痛めた片目を押さえて呆然と立ち竦む、そしてこの出来事に愕然とする小さな『猫目』の姿が、篝火に色濃く照らされている。
(……とにかく不味い。このままでは……)焦燥に固まる彼の腕の中、悲嘆に暮れる『聖女』は、ボソボソと訴え掛ける。「…ええ。切田くんなら上手くやれる…」
「私の信頼を裏切ったりもしない。そうでしょうね?……でも」
「無理やり奪われたら?」
「ねえ、無理やり奪われたらどうするの?さっきの人や、見えない人たち、…それに、あの子みたいに」……感情に揺れる声。それとは裏腹に、表情は、深淵の虚無へと染まっていく。
「はぐらかしたよね。あの時」
「でも、切田くんは私を選んでくれたよね?…必要だって言ってくれたよね?」
「…おねがい。私をこんな気持ちにさせないで…」消え入るように、彼女はうつむく。
……深淵の地の底より、遠く響き渡る遠雷が聞こえた。
「それとも、やっぱり」
「…あの子も抱いてあげたいの?類くん…」
虚ろな顔の『聖女』が、切田くんの覆面を覗き込んでいる。
(……ここまでか)切田くんは黙考する。――ここが崩壊点だ。当然、肯定を返すわけにはいかない。(……終了……)空間すべてを覆い尽くす、黒黒とした不可視の重力。
人懐っこく可憐な少女である『猫目』に懐いてもらうのは嬉しかったし、彼女のアプローチに(エチチッチな)欲望を持ったのも事実だ。(…思わいでか…)やましいことをしている自覚もあった。
それでも『迷宮』探索に必要だからと、都合よく立ち回ったりもした。(やはりそれは、間違いだった)
(どうして『刺された』と感じたんだ?……僕の中に『あわよくば』、なんて邪念があった証拠だろ)胸が雑巾みたいに締め付けられる。胸モヤがイタイタだ。(…だけど、こうなってしまっては、…この先『猫目』さんの協力は得られなくなるんだ。『迷宮』の探索はここまでって事になるな)
心の中、静かに頭を振る。(……それしかないさ。結局は全部、僕の勝手さが招いたことだ)
(必要だから、つけ込んでたぶらかす?うまく取り持つ?…そうまでして『迷宮』探索を続けたいってことはさ)
(相手の気持ちを大義名分や言いくるめで操って、自分の都合のいいように『支配』してやろう。…そういう事だろ?)芋づる式に【洗脳】を解除することによる、戦争への教唆。……彼が望んだその行いは、切田くん個人の復讐を成し遂げるためのものでさえなかった。
その欲望は、強大な力の流れを個人の力で動かすことへの、陶酔と愉悦に他ならなかったのだ。
(…僕には本質的に、そういう部分がある。そりゃあ、誰だってそうなんだろうけど。…今は僕の問題なんだから…)違和感。(……って、なんかモヤモヤするなぁ?)奇妙な状況。
ズズ……等と言う効果音が似合いそうな、夜闇を粒子と化したが如き、空間すべてを重苦しく締め付ける漆黒のオーラ。(……ちょっとお?)煙出しすぎ。パタパタしたい。「…鋼さん、ちょっと。その黒いの止めてくださいよ」
「……黒いの?」空虚に笑う、美しさの重力の井戸。深淵を感じながらも光り輝く、こちらの瞳をじっと見つめる、熱をもった人体の重み。……別に暗黒のエネルギーなど吹き出してはいない。「いえ、」気のせいだった様だ。(…?)
(……)形を成した違和感に、頭を切り替え背筋を伸ばした。(…うん。違うな)
(御託なんてどうでもいい。……僕が欲しいのは鋼さんだ)
(…欲しいものなら全力だ…)切田くんは腹をくくった。顔を上げて、立ち竦む少女へと声をかける。「『猫目』さん」
「…あっ…」ほんの僅かな発声の違いが、『猫目』の芯を凍えさせる。……その喋り方は良くない。
「痛いですよね、『猫目』さん。もう少しだけ待ってください。……鋼さん、いいですか。僕は、命の恩は返したい」抱きかかえる人へと、言い含めるように続ける。
「『猫目』さんは秘密の『スキル』を使ってまで、片目まで犠牲にして僕らを助けてくれたんです。僕は、その恩も返さなきゃいけない」真剣、かつ昏い瞳。
「ですが、鋼さんがそう言うのなら。僕は恩知らずで薄情な男になってもいい」
「…切田くん…」……甘い、陶酔の声が漏れる。白薔薇の園。
「…あっ……あっ…」相反し、少女は救いを乞うように、弱々しく呻いた。
「この場は鋼さんに任せます。いいですね?」コクリと、『聖女』はうなずく。躰を離し、立ちあがる。
しずしずと歩み寄る彼女は、――竦んだ少女の目の前で、ニッコリと優雅に微笑んだ。
「はっきりと言っておくわ。類くんを助けてくれてありがとう」少女のうなじをグイと捕らえて、もう一方を、血涙に濡れた少女の右目へと当てる。ガッシと少女の頭が押さえ込まれた。
なすすべもない少女の耳に、――水底みたいに落ち着いた、静やかな囁き声が吹き込まれる。「……本当にありがとう。……フフ。あの状況、とても助かるなんて思えなかった。覆したのは、あなた個人の力」
「あなたが運命を変えてくれたの。日々研ぎ澄ました刃が、我が身を顧みない献身の心が。邪悪なものを打ち払ってくれたの」
「全部、あなたのおかげよ?ありがとう。本当に感謝してる」
「…え……う、うん……えへへ…」脳を鷲掴まれた少女は引き攣った笑みを浮かべ、思わずぼうっと聞き入ってしまう。……今、少女に甘言を吹き込む美しき女は、少女の望みを奪い去る簒奪者であるはずだ。
――分かっては、いる。でも、めっちゃ褒めてくれている。
同性の胸をも掻き乱すほどに麗しき、宵闇に輝く星空を写す濡羽の如き黒髪の、尊き『聖女』の、静やかな囁き。儚くも、不思議な響きを持ったそれが、
はっきりと、『猫目』の鼓膜を揺らした。「……でも……したよね?」
「私の邪魔、…したよね?」
(……?)ぼうっとする『猫目』の思考が、カチリとハマった。(……こっ、この女っ!?)ざわりと、全身の毛が逆立つ。
黒衣の勇者に脇腹を殴打され、床で咳き込んでいた時。窮地の中で異常を察し、『デスレイ』の使用を急がせた、その出来事。
相対する覆面の少年が、何かをしようとする寸前。――それを押しとどめた、二本の腕。(…なんで、そんな事すんの、って…)
(……気づいたばかりで状況が見えてないんだな、って、そう思って……)自らの箱に引きずり込んで閉じ込めようとする、白く細くてしなやかな二本の腕。少年を拘束する、『聖女』の両腕。(全部、わかってやってた!?)
激しく込み上げる怒りによって、少女は疑念の確信を得た。(あの時、この女はキルタを殺そうとしたんだ!…自分もろともっ!!)
(…しかも今、あたしの最もしてほしくないことをした!…あたしに見せつけるように…)
(…どうしてそんな事するの…!?)両目に涙がこみ上げてくる。悔しい。……だがここで涙を流してしまえば、右目を塞ぐ白い手のひらに、その事を知られてしまう。『猫目』は必死に涙を押し止めた。
(……せっかく助けてあげたのにっ!!)
行き場を失って渦巻くドロついた衝動を、使い慣れた笑いの仮面で覆い隠す。「何かの邪魔をしたのならごめんね?キルタを助ける事に必死だったし、邪魔なんて考えられる状態じゃなかったよ。…そういうの分かるでしょ?『聖女さま』。それに約束したじゃん」
「…そう?…最良の結果には、なったものね?」
静やかな囁きが、錆び釘みたいに刳る。「……でも」
「……類くんは、絶対に渡さない……」
――透明な声が、遠ざかる。「他の誰にも、何をしてでも渡さない」
「……手に入らないのなら……わかるよね…?」
ビクリと少女が震えると、同時に、首と右目とが開放された。
解き放たれた両目に映る、なおも意識を強く引き込む、目を瞠るほどに美しき引力を持つ、『聖女』の御姿。――長く艷やかなまつげの陰、障りの奥底覗き込む、深淵の眼差し。
(…平気さ!このぐらい…)逃れるように『猫目』は眼帯を戻し、火薬庫に向かって、あたかも嬉しいことがあったかのように報告する。「治してもらった!」
「…そうですか」何か言いたげな様子を割って入り、眼帯少女は空元気を振り絞った。「待って!アイテムを回収しようよ!…黒衣の勇者が使った強い武器、アタシらが使ったって役に立つでしょ?」
再び『猫目』の望む未来が、目の前で閉ざされようとしている。地道に関係を強めていく道も、なし崩しに着いていく道も。すべて拒絶されて潰されてしまった。
このままでは、――遥か遠けき憧れの景色、暖かな光景に切り離されて、……元の木阿弥。黴と鼠と害虫蠢く、元の暗い汚物溜めにひとり、少女は膝を抱えて戻らねばならない。
(……嫌、……それだけは嫌っ!!)少女は必死に知恵を絞って、悪あがきのルートを探す。(…最悪の結果。たぶんキルタは退く気でいる。もう帰る気でいるんだ。…何とか考え直させないと…)
(……あいつ、ホント頭が固いんだよ!鈍感ぶって誤魔化してくれたほうが、アタシだって聖女さまだって、いつまでも楽しい気分でいられたのに……)
(あたしらなんて、そのまま都合よく騙し続けてりゃいいじゃん!……終わりじゃん。こんなの……)
(……せっかく治してくれたのに、……なんでアタシ、こんな気持ちにならなきゃいけないの!?)眼帯の裏が熱くなる。少女はグシと鼻を鳴らして、憎々しげにひとりごちた。「…そうだよ。あいつが悪いんだ」
「キルタはたぶらかされてるんだ。あの女に」邪な神力によって男を地の底へと引きずり込み、黄泉の底へと誘おうとする毒婦。『猫目』にははっきりと、その確信があった。
「…このままだとまた、いつか、本当にキルタが殺されちゃう…」
「アタシが救ってあげないと…!」行く先の床に、何か落ちている。
頑丈な金属防具に包まれる、血溜まりに沈む誰かの左腕。拾って中身を引っこ抜き、「…邪魔っ!」通路に向かって投げつけた。黒い布に包まれた左腕は通路の壁にボスンと当たり、落ちる。
ブンブンと血を切り、残された篭手を小脇に抱える。――この『ガントレット・オブ・パワー』さえあれば非力な少女の『猫目』でも、力のある相手とまともに打ち合うことが可能になる。
そしてもう一つ、この場で最も重要なアイテム。――神力による『聖女』の守りを突破した、一見脆弱な細身の曲刀、『ムラマサ・ブレード』。
「……これさえあれば、あたしだって……」昏い炎を宿す『猫目』は、無造作に歩み寄り、唇を歪めてガッシと掴んだ。
「『あらしのぉ っ』!!!」
「えっ」突然の奇声。
――迷宮の奥、通路の中。歪んだ鉄仮面がこちらを見ている。
うつ伏せの海老反りに、隻腕の勇者が残された僅かな力を振り絞って、少女を自分の側に引きずり込もうと手を伸ばしていた。
――『猫目』のスキル『デスレイ』は、その名に恥じぬ働きで、頭部内部への継続ダメージによって黒衣の勇者を確かに死へと追いやった。……その瞬間。黒衣の勇者が装備した『アミュレット・オブ・ライフセービング』が、死に至るほんの僅かなダメージだけを無効化し、状態を巻き戻したのだ。
「『いえお』っ!!」
「あ…」少女に再び、罰があたろうとしている。神さまの罰はいつも、幾多数多に取り囲む悪い奴らを避けて、いつも自分にばかり降りかかる。
『猫目』は呆然と、何もかもを諦めた瞳で、その光景を眺めた。
隻腕の勇者は、――やあ天地、御照覧あれかし。残りカスの全身全霊振り絞り、滑舌回らぬ正義の絶叫を吐き散らした。
「『くあう・そあう』っ!!」
嘆き叫ぶ灼熱の光束が、目の前いっぱいに、溢れた。
――すぐ背後より、薄氷舞い散る涼やかなる声。「『ディバイン』【ディフレクション】、…ディバイド!!」
目を焼く眩きプラズマ噴流が『猫目』の眼前で真っ二つに裂けて、広間の側壁を灼熱の溶岩に換えていく。(…拒絶したくせにっ!!)閃光に眩む瞳から、涙がポロリとこぼれ、頬と眼帯を濡らした。(…いないほうが良いと思ってるくせにっ!!)
(……嫌な女のくせにっ!!!)悔しさばかりが占めるグチャグチャした衝動に、思うがままに『猫目』は叫んだ。「……なんでさっ!!」
「退きなさいっ!!」斜め後ろで短杖を構える東堂さんが、厳しい声で叱り飛ばした。『猫目』は咄嗟に察し、頭を抱えてうずくまる。――駆け寄る少年の足音。
「鎧を貫く『シェルブリッド』」
両腕、少しの溜め。圧縮した『球の盾』が左手より、一瞬追って右手のシャープペンシルから金切り声を上げる光の杭が発射された。左右時間差、二段同時攻撃。
伏せる少女をギリギリ掠めた球の盾が、灼熱のプラズマ噴流を除雪車みたいに掻き分けて、――すぐさま追走した光の杭が、勇者の翳した隻腕と黒兜を連続で貫通した。
光の杭が手のひらにて二度、黒兜にて一度、火花を散らす。
額の真ん中を貫かれ、残されたすべての力を失って、黒衣の勇者はくたりと床につっ伏した。
そして、全てのアイテムが溢れた。