大岡裁き
かつて喧騒の坩堝と化した大広間。――未だ激しく燃え盛る、祭事の焔に紅く染まりし祭りの痕跡。今はその代わりに静寂が横たわり、火薬と死の匂いが充満している。
蠢くものの姿はない。パチパチ爆ぜる篝火に揺れる、横たわるゴブリン達にも変化は無い。まさに平穏そのものだ。
――唸る大気を引き裂いて、東堂さんが大広間へと突入してきた。急制動をガリガリと摩擦に換え終えて、『聖女』は広場内に急停止する。そして素早く壁に張り付き、小脇に抱えた『猫目』をチョンと立たせる。
逃走する間じゅう(ぐでんとして)抱えられていた『猫目』は、床に降ろされた後も目を回し、何だかフラフラしている。
やがて少女は意識を取り戻した。ものの、自身を両手でかき抱き、ぼうっと立ち尽くしてしている。どこか遠くを見る表情。(……なんだ?)すぐに追いついた切田くんは『ガラス玉』を降下させながらも、不審な顔で『猫目』を見る。
ぼんやりと焦点の合わない瞳を合わせ、眼帯の少女は弱々しく彼の名を呼んだ。「…キルタ…」「どうしました?」「あのね?『聖女さま』って…」陶然と、声を抑えて誇らしげに言う。
「めっっちゃ良い匂いがした」
(……そっすか)切田くんはガクリとする。「……まあ、同意ですけど」
「でしょう!でしょう!?この変態!!」(言わなきゃよかった)
当の『猫目』はグニャングニャンになる。「だよね。だよねぇ…しかもピタッと一生くっついてたし…ふへぇ…」(ファンガかな?)「しっかりしてください」ぐにゃぐにゃと揺する。蒟蒻よりも酷い。
「うへへ」「もしもーし」などとやっているすぐ側、……虚ろな瞳の女性が一切の表情を消して、そんなふたりの様子を眺めている。
黒き拒絶の波動。彼女は今、深淵の底みたいに静謐で、震え上がるほどに剣呑な空気を纏っていた。
――だが、ふと我に返る。東堂さんは真剣な顔で言った。
「『迷宮』から撤退しましょう。類くん」
◇
「そんな、駄目だよ!」跳ね上がる様に『猫目』が猛反発する。……その選択は良くない。まったくもって少女の意に沿わない。絶対に、意地でも通すわけにはいかない。
そんな少女を一瞥し、撤退の理由を滔々と語る。「あいつは『迷宮』の奥から来た。…つまり、正規の『出入り口』から、この『迷宮』を踏破して来た相手よ。当然相応の実力があり、『迷宮』の魔法やアイテムで武装しているはず」淡々と断言する。
「…戦うべきじゃない。ここが限界よ」
「ダメだって!そんな事をしたら!!」必死な『猫目』が強く反論する。「あいつを野放しにしたら、ガバナの『出入り口』が、また敵に乗っ取られちゃうんだよ!?」
「…たぶんあいつ、国側の人間だよ。国なんかに『出入り口』を取られたら、もうガバナの力でも取り戻せない」
「ここで倒すしか無いんだ。あいつを」うつむき、昏い決意を絞り出す。そして、切田くんの様子を出汁にする。「ほら、見てよ聖女さま!キルタだって奥に進みたい、後には引けないって感じでいるじゃん!」
「…ふたりとも、あんなに強いのにさあ…」
そして『良いことを思いついた』という体で、「……ははぁ〜ん?」上目遣いで東堂さんを、からかい顔で覗き込む。
「それともなに?『聖女さま』。アイツが怖いの?」
「そうよ」東堂さんは、こともなげに答えた。
「…っ…」絶句した『猫目』は、それでも踏みとどまって食い下がる。……ここで引いては、彼女にとって、何もかもが駄目になってしまう。「…だ、だったら!!…だったらさ!」
「…いくら相手が強力でも、一人だけなら…」思いつめた瞳が、昏い炎に揺らめく。
「だったらアタシに協力してよ。アタシが前に出て、アタシがあいつを殺す。後で『聖女さま』が治してくれるんなら、アタシが」
「……何を言ってるの?」
『聖女』の凍てついた声が、響いた。
◇
「…っ…」鼻白んだ少女が、声を震わせる。
「…あっ……あたしなんか治したくないって」
「…そう言いたいのはわかるよ?でも、今はそれどころじゃ」
「そんな話はしていない」弱々しい弁明を、虚ろな声が遮る。――責める口調では無い。東堂さんは冷たい眼差しのまま、上から『猫目』を睥睨してる。「治癒の力をあてにしないで、って言ってるの」
少女は言葉に詰まった。「…だ、だって、そんなの…」
「使えるモノも力も人も、何でも使って勝たないと!どんな相手が敵だって、向こうだってそうして来ているんだよ!?」
「だからアタシがっ!!」意地でも食い下がる様子に、
答える『聖女』の声は、絞り出す感情に揺れた。
「……この力が本当に必要なときに、私がどんな気持ちでいるかわかる!?」
「私の目の前で、血塗れで、冷たくなって…」声が、徐々に細くなり、震える。
「…こんな根も葉もない、どんな仕組みなのかもわからない、肝心なときに使えなくなるかもしれない、……いつ裏切ったっておかしくない力に向かって」少女の向こうを睨みつけて、彼女は激しく声を荒げた。
「『お願い』って、必死に」
「祈ることしか出来ないのに!!」
「…っ…」
……絶句した『猫目』に、平坦な声で言い聞かせる。「……第一、死んだ人のことは治せない」
「それに、あのプラズマ攻撃の『スキル』は危険よ。死体だって残らないかもしれない。…治したくても、治せない」そして大きくため息を付き、仕方なさそうに言い含めた。
「…そもそも、怪我しないで。あたりまえでしょう?」
……『猫目』は石みたいに固まってしまった。つんつんしたい。ついと視線を逸らし、もう一名にも言い聞かせる。「類くんもだよ」
「はい」即答する少年の横、「…っ…」強張る少女は身を震わせ、そして叫んだ。
「あきらめるの!?」
「バヨネットやガバナだけじゃない、キルタ達だってもう『迷宮』に入れなくなるんだ!!」
「何のために来たのさ!いけすかない婆ちゃんの言いなりになって、ゴブリン退治だけして帰って?」
「『言われた仕事はやりました』『出入り口は失いました』って?」
「そんなのガキの使いじゃない!!ガバナまで敵に回す気なの!?」荒々しく言い立てて目を逸らし、かすれた声で呟く。
「……そうなったら、アタシだって無事で済むかどうか……」
「私たちのせいにすればいいでしょう?それが事実なのだから」
「そんな話をしてるんじゃないよ!」『猫目』はキィと喚き散らした。
「逃げてばっかで何になるのさ!土壇場なんだよ!?」
「…大声出さないで」
尚もつれない態度に、少女は憎々しげに応じる。「だって、それじゃあ」
「あたしだって、ここに来た意味ないじゃん!!なんなの!?」
「……これからのことだって!」
「……」少女のあまりの剣幕に、東堂さんはしばらく黙り込んでいた。
やがて致し方なしと振り向き、ついと澄まして切田くんを見つめる。――そして手を伸ばして、彼の片手を掴んで握った。
わたわたする様子を知らんぷりしながらも、当然の態度で指を絡ませる。「…ねぇ、類くん」
「類くんは、どうしたいの?」
その光景に鼻白んだ眼帯少女は、燃え上がるほどに眉を釣り上げ肩を怒らせて、彼の手を強引に、両手でギュウと痛いほどに握った(痛い)。怒り心頭で問いかけてくる。
「どうするのさ、キルタっ!」
……切田くんは困ってしまった。……それはもう、困ってしまった。
(…さて、どうする?切田類)
(……いや、マジで……)どうしよ。
◇
「……交渉、出来ませんかね。あの人と」
「……」
「……」
ふたりの手のひらを感じながらぼんやりと発したその提案は、沈黙をもって迎えられた。……両手の花は、交互に怪訝な様子を返す。
「…何を言ってるの?キルタ」
「駄目よ。危険すぎる」
「話の通じる相手じゃないよ、あんなの…」
(反発が凄い)しわしわにもなるが、判断そのものは間違いではないと思っていた。(『猫目』さんの言うとおり、僕はまだ『迷宮』の奥に進みたい)
(…ここで退けば、僕らを攫った奴らどころか、待ち構えているガバナの連中にだって勝てないかもしれない。――『土壇場』なんだよ。手持ちの力が足りないんだから、今はとにかく行くしかないんだ)
(かといって、東堂さんの言うことだって正しい。『あの敵』は、まともに相手をするには危険すぎる)ムムムとなる。
(ビーム砲を構えた相手に、……なんだビーム砲って。拳銃一丁でどうしようって言うんだ?相応の防御手段だって持っているはず。勝てると思わないほうが良い)
(……両方を何とかするには、これしかない)不安げな二人を見回し、切田くんは静かに提案する。「あの黒衣の人、召喚勇者の人ですよね」
「…まだ、そうと決まったわけじゃない」東堂さんのふてた声。
(あのスキル発動の声、『異世界言語』が働いている感覚が無かった。…たぶんあれは、純粋な日本語だ)
(…とは言え、現地のこと。『猫目』さんも何か知っているはず)ふたりの視線を受けた『猫目』は、おずおずと口を尖らせる。「…そりゃあ、アタシだって聞いたことはあるよ。国が抱える勇者でしょ。特殊部隊の」
「国の動かす勇者のひとり。『迷宮』をさまよう『黒衣の勇者』には、絶対に近寄っちゃいけない」
「『迷宮』の怪物も探索者も、そいつは区別などしない」
「事故でも、故意でも。下手に近寄ってどうなろうと、国もギルドも関知しない。正規の迷宮ギルドには、そういう規約がある」
切田くんは頷く。「だったら、この国によってかけられている【洗脳】を解除すれば、味方になってくれるかもしれません。先に呼ばれてしまった人たちなんでしょう?」
「…陰謀に陥れられ、恨みを抱えているはず。…仲間にならずとも共通の敵がいるんだ。悪いようにはならないはずです」
『猫目』が何か言いたげに、切田くんと東堂さんを眺めた。
東堂さんは、押し黙ってうつむいてしまう。絡めた手がギュッと握り締められる。……顔を上げ、毅然とした態度で言った。「危険よ。類くんが触れる距離まで近づかなきゃいけないんだよ?あれを相手に。…駄目。ありえない」
「…鋼さんの言う事ももっともです。ですが『精神力回復』の力は、ある程度ならば物を通して伝播できます。安全な距離から仕掛けますよ。たとえば…」そのアイディアを、手指から変性させた『マジックボルト』を放とうとする。(……えっと……)
今は、左右両手共々塞がれている。どちらの手も暖かく、やわらかくてすべすべしている。……意識した途端、なんだか緊張してきた。
でも今は、関係ないので切り替えていく。顔の横あたりを雑に指定して『スキル』を発動した。
「たとえばこれです。『マジックストリング』」
白く光る細いラインが射出されて、瞬時に床へと着弾した。それは何の破壊も引き起こさず、ただ斜めに突き立っている。――『マジックボルト』を限界まで細く伸ばしたものだ。……攻撃に使うには脆すぎる。風が吹けば飛んでしまいそうだ。
「指向性を持った魔力の糸なら、『スキル』の力も通りが良いはずです。これを使って、遠隔で『精神力回復』を流し込めば…」
「……」
「……」
黙り込むふたりに対し、穏やかに語りかける。「大丈夫。心配せずとも正面には立ちません。待ち構えて罠を張りますよ」
「まずは、会話を試みます。戦いにならないように立ち回ります」
「相手の【洗脳】を解除するだけです。うまく立ち回れば罠さえ必要ない。…交渉の流れで触れることが出来れば…」
「……それに、あの人は、僕らと同じ立場の人です。誰も彼もとは言いませんが、救えるものならば……」
切田くんは言葉を切った。――昏い衝動が吹き出し、思考を掻き乱したのだ。
(…救えるものならば救いたい?傲慢だな。あの黒衣の人を取り込む利益が目的のくせに)
(味方に取り込めば、芋づる式に、今まで召喚された勇者たちにも接触できるって事だもんなぁ?)
(…かたっぱしから【洗脳】を解除して…)
(…ハハ。『スキル』の力は強力だ。国の要所に食い込んでいる人だっているはずだ。…能力の中身や人数次第では、この国ごとひっくり返す事だって可能なんだ…)
(だったら、逃す手はない。…そういうことだろ?)
「……」返す言葉のない彼に、脳内の切田くんはせせら笑う。
(『救えるものは救いたい』なんていう、安くて甘っちょろい欺瞞はやめろ。…『可哀想だから助けてあげましたぁ〜』ってドヤ顔して、恩着せがましくのしかかっ てさ、良い気分になりたいって?)
(虫唾が走るんだよ。そういうの)
「……」切田くんは静かに、自身の意思を確認する。
(…そうだね。僕の言うとおりだ。切田類)
(僕はきっと、純粋に誰かを助けたい、救いたいと心の底から思ったことなんて、生まれてこのかた一度だって無いんだろう)
(……だったら、上っ面の綺麗な言葉よりも……)
(甘えを捨てた、汚くて冷たい言葉を選んだほうが、筋が通るし背筋も伸びる…)昏く冷たい穿った考えが、諦めと覚悟の気持ちを呼び込む。……結局は、キラキラ輝くなにかなど、自分にとってはいつも嘘になる。
心の底から人を救う。本当にそれが出来る人が、世界のどこかには存在する。……そのこと自体は疑わなかったが、直面してしまった自分の嘘を見過ごすことなど出来るものではなかった。(…それでいいさ。彼女たちの気には触るかもしれないけれど…)
(…そうしよう)しょんぼり気分を振り払い、慎重に言葉を選ぶ。「……いえ、すみません。これは僕のわがままです」
「結局は僕の都合です。この交渉がうまくいけば、僕らを追い込んだ人たちに、一矢報いることが出来る。洗脳勇者の繋がりを利用できるはずです」
「そうすれば、おのずと道は開けるはず。…試させてくれませんか?」
真剣な物言いに、ふたりの女性は沈黙する。
やがて『猫目』が、苦々しげに吐き捨てた。
「…ずるい言い方」
切田くんは意表を突かれた。(…何か、ズルい言い草だった?…どこがそう思われたのか…)ズルをしたと思われるのも、するのも本意ではない。ムムムとなる切田くんに、東堂さんが心細げに語りかける。
「……やっぱり駄目よ。だって、そんなことをしたら、きっと」うつむき、絞り出すように続ける。
「あの人まで類くんの事が好きになっちゃう」
……一瞬の空白が、辺りを包んだ。
「あ、アタシは好きになってないよ!」
「黙って」慌てた『猫目』をあしらう。
切田くんはなんと言って良いのか、なんと答えるべきなのかわからなくなったが、何とかそれらしい返答を絞り出せた。「…『スキル』はすぐに止めますよ。【洗脳】を解除するだけです」
東堂さんはもの言いたげな目で、彼の顔をじっと見つめる。
そして小さく、自分だけに聞こえるように呟いた。
「…そうじゃなくて」
切田くんは分かっていないのだ。
そして声を大にして、毅然とした態度で続けた。
「だったらその代わり、ちゃんと計画を立てましょう。あいつがここにたどり着くまで、時間の許す限り」
「駄目そうならば、即撤退。交戦は避けて」
「…それでいいよね?類くん」
(……仮に交戦することになっても、相手のビーム攻撃を防げることは検証済みだ。『ガラス玉』で飛べば逃げることも可能だった。……大丈夫だ。問題ない)「わかりました。逃げるときはさっきの手口で」当然、彼だって死にたくなど無いし、瞬時の迷いに殺されることもある。固執せず、諦める覚悟は用意しておいたほうが良いだろう。
深くうなずき、その上で力強く、気休めの言葉を(ほとんどは自分のために)かけておく。
「大丈夫です、鋼さん。きっとうまくいきますよ」
じっと見つめ合う。……少年の視線は揺れない。上ずってもいないし、意地を張っている様子もない。
東堂さんは、渋々うなずいた。
「…わかった」
「……一筆書きましょうか?逃げ証とか」
「馬鹿な事言ってないで真面目にやって」
「はい」
「…そういうの、余計に心配になるからね?」据わった目で、刺々しく詰られる。「心配」
「はい。すみません」
「…むー!」両手握りの側を蹴られた。(…なんなの…)