はわわわわわわ…
「ねえ、どうして?『猫目』さん?」問いかけど、価値も興味もまるで無いものを見つめる深淵の瞳が、少女の奥底を覗き込んでいる。
――目を瞠るほどに美しくも、空虚。今は、張り付いた謝肉祭の笑いに歪んでいる。
口調は愉快そうでさえある。しかし彼女の纏う、腸にえぐり込む様な圧力が、はっきりと少女の骨肉を捻じ切りたがっている。
覗き込まれた『猫目』はビクリと後ずさって、「…それはっ!!」そして自分が怯んだことを打ち消そうと躍起になった。
「それは、…ゴブリンの群れと戦ったときに、…キルタにおぶさって空を飛んだからだよ。その時の匂いじゃないかな…」
「へぇ?」ちらと覗き見る。制止する様に腕を上げた覆面の少年が、どうする事も出来ずに立ち尽くしている。
「羨ましい」そう呟き、目を逸らした。
「妬ましいわ?」
凛と顔を上げ、カツカツと、結界を張るみたいに少女の周りを回りだす。「…ねぇ『猫目』さん。嘘やごまかしというものはね?されるほうだってみんな、わかってる」
「騙される側だってわかってる。うまく言葉に出来ないか、言うのが怖くて言えないだけ」
「…そんなの悲しいよね?悲しいってわかってる。なのにどうしてみんな、平気な顔して嘘やごまかしを言うのかな?」
「……フフ……」ガバリと顔を突き合わせた。薄っすら笑う黒洞が、『猫目』の臓物を覗き込んでいる。
「それは相手を辱めるため」
「辱められるから。悲しませられるから」
「それが気持ちいいのよね?だって相手より強いってことだもの」
「…その場しのぎでも同じこと。そのつまらない場を死守しようと、優位を守ろうと、躍起になっているから嘘を言う」
「…っ……違…違うよ聖女さま……そんなんじゃ……」うろたえ視線を彷徨わせる『猫目』に、ズイと近づく。……ビクリと竦んだ。
「ふふ…私?…ああ、私こそどうなんだって?……ふふ……ふふふ……」笑い声が、陶然と高ぶる。虚ろな瞳が蕩けて、うっとり天を仰ぎ見る。
ゆらりと彼女は『猫目』を見据え、ねっとりした口調で言った。
「すっごく気持ちいい」
「嘘偽りで塗り固めた人を踏みつけ、辱めることが、すごくすっごく気持ちいい」
「……フフ。わかるわ?『猫目』さん」覗き込む笑いが、刳る様に深まる。
「…気持ちよくされちゃったんでしょう」
「ね?切田くんに気持ちよくされちゃったんでしょう。切田くんの『スキル』でいいようにされちゃって、切田くんのことが好きになっちゃったのよね?『猫目』さん」
「ち、違……」必死に救いを懇願する姿を見据え、さらに追い立て追い詰める。
「切田くんは私をたぶらかし、いいように弄んで気持ちよくしてくれる。…そうね、それも大事なこと。たしかにそれも大事よね?そんな事をされたら切田くんのことが、欲しくて欲しくてたまらなくなってしまう」
「…でもね、わかるよね?『猫目』さん」
「それはいけないことだって」
彼女の顔から、すべての表情が消えた。
「あなた、はっきり言ったよね?…そう。私の大事な人」
「約束したよね?切田くんにはもう手を出さないって」
「それを踏みにじって、嘘と誤魔化しで私を辱め、影でこっそりせせら笑って?それを今また嘘や誤魔化しで押し通そうとしているのかな?」
「どうしてそんなことするの?」
「ねぇ、どうしてそんなことするの?」
◇
(……後にしてくれないかなぁ……)切田くんの脳内は最悪だ。
(……摩擦があるのは仕方がない。だけど今は状況を鑑みて、一旦戸棚の上にしまってもらわないと……)「……東堂さん」スッと手を伸ばし、彼女の肩を軽く掴む。
「……」『聖女』は背を向けたまま、置かれた手の甲に、ゆったりと自身の手のひらを重ねた。
「あら切田くん。その心地良い手で私を触ってくれてありがとう。でも、これは一体どんな意図なのかな?」とりすました声。
「駄目よ、切田くん。『スキル』で私を止めようとしても無駄」
「だって私は、こんなにも落ち着いているんだもの」
「私は冷静よ」
「そんな私を落ち着かせて、切田くんは私をどうしようというの?」
「また、抱きしめてみる?…ありがとう。甘い言葉をささやく?…フフ。とっても嬉しい」上気した甘い声が、――急転直下、昏く転ずる。
「…それとこれとは話が別。ケジメをつけなければ筋が通らない。わかっているでしょ?切田くん」
「待ってください東堂さん、話を…」「いいえ、待たない」
「話も聞かない」ピシャリと押し潰し、歌いかけるように滔々と語る。
「大丈夫。切田くんのことは信頼している。…切田くんはそんな事しない。したことが無い。これからもしない。しないもの」
「……してないよね?」流し目で、じとっと覗き見。
「ほらみなさい」スイと前を向いてしまった。「切田くんは悪くない。だったら悪いのは、ぜぇんぶこの子」
「口約束を破って、黙り込んで誤魔化して。悪意の所在なんて見ないふり?」張り付き笑いが、ギリ、と、「…巫山戯てるよね…」奇妙に歪んだ。
「……だから、悪い子はおしおきしなきゃ……」
「悪しき行いを通してしまえば、人は必ず同じあやまちを繰り返す。気持ち良くてやっているんだものね?」
「これ以上罪を重ねないように、ちゃあんと躾をしてあげなきゃ」
「わからせてあげなきゃ」
「そして、そのことを万人に示すの。これは必要なことなんだって」……次第に高ぶる声に、不穏な力が溜まっていく。退廃に寄りかかるみたいに悩ましき口調。「正しいことをしたいんだもの。いいよね?……ねぇ…したいの…切田くぅん」
「…もう駄目ェ…したくてしたくてたまらないの…」重なる手のひらに、ギュギュと異常な力が籠もる。
そして『聖女』は、静かに言った。「……だからもう、いいよね?」
「可哀想なんて言わないよね?」
「……ね?」手の甲をいたわるように、柔らかく、愛おしそうに撫でる。「この膨れ上がった衝動は、もう切田くんにだって止められないんだよ?」
「アハ。止めてみる?何ならもっとすごいことをしてみる?私は良いよ?でも今は駄目!」
溢れ出す力に曝されて、『猫目』はなすすべもなく竦んでいる。――少女を氾濫に飲み込まんとする、その抑圧された内部圧力は、すでに破裂しそうなほどに膨れ上がっている。
癒やしの力がささくれて茨の棘となり、灼けつく程に眩き粒子が渦を巻く。清浄さが白き稲妻と化し、バチバチと音を立ててスパークする。超越の波濤が頭髪を逆立て、周囲一帯を捻じ伏せようとしている。
「だって、今はもう、私はもう!…フフフッ!!」溢れ出す程の高笑いに、純白の『聖女』は神敵を処さんと、世界に向かって張り裂けんほどに宣言した。
『私はもう、私は。アハハハ!…私はっ!!!』
肩にギュッと力が籠もる。覆面を額まで剥ぎ上げた少年は、彼女に向かってこう言った。
「たぶらかしますよ、鋼さん」
『聖女』の背中が、ビクリと動いた。
「……えっ?」
◇
「……たぶっ……」「……はがっ……」
「は、はぁ〜?」彼女はしどろもどろになった。
絶界の尾根にて今は艶やかに咲く、二つ年上の麗しき先輩。背を向けた『聖女』はツンとして、クールに、挑発的に答える。「ど、どうぞぉ?やってみればいいじゃない切田く……」「るいく……」「切田類くん?」少し声が震えている。
「やれるものならどうぞ?本当にやれるものならね?」
(…やれるものなら、か)その言葉は、切田くんの胸にチクリと刺さる。(…見透かされているな。確かにそれは、僕に出来ることじゃない)
(今までは、場当たり的にそうなってしまったという事。――僕はこの人を、狙ってたぶらかしたことなど一度もない。『やったことがない』んだ)
(……さて、どうする?切田類)
「たしかに私は言ったよね?切田くんは私をたぶらかして良いって。でも今じゃなくても」
「…いいえ?だって、いくら私に何かしたところで『それとこれとは別』の事だし…」冷ややかにあたふたする彼女は、突如豹変した。――背を向けたまま凛と立ち、虚空に向かって毅然と強く宣言した。「私は冷静よ」
「そんなに私をびっくりさせて、落ち着かない気持ちにさせた所で?おあいにくさま。私はちょっと慌てて見せているだけですから。わざとですからね。ええ、駆け引きです。わざと隙を見せて、切田くんが私に手を出しやすいように?しているだけのことで。……いいえ!私はそんな軽い女などではありません。たまたま御友誼を結べて親しくなったお相手にだけ、私からも親しみの意が伝わるようほんの少しガードを下げている。そういった間柄ならば当然のことでしょう?そりゃあ私だって今までそのようなお相手など居たことが有りませんから?多少は匙加減のわからないところもありますけれども。あくまで演技。そう、演出です。ほら、だから前に言ったでしょう?『あれは嘘だから』って……」
変にかしこまって詠唱する東堂さんを、一言で止める。「鋼さん。こっちを向いて」
「……」手のひらを重ねたまま、もっさりと振り向く。……うつむいて顔をそらし、目を合わせようとはしない。「……変わらないし……」ふてる態度に、もう片方の手も伸ばす。ビクリとした彼女の顎へと指を添える。
そして優しく、力強く、クイとその顔を自分に向け、瞳を覗き込んだ。
「……!!……!…!……」
東堂さんは、何か言いたげに口をパクパクとさせた。とにかく目を逸らしたくてたまらなそうに目線を彷徨わせている。
――切田くんの胸中を、昏い想いが支配している。
(……気道確保。ではない、これが『顎クイ』の力。使い古されたテンプレの中には、使い込まれた実用装置が組み込まれている……)
(……いや、ホントに?)疑問でいっぱい。(……と、とにかく今は手札がないんだから、手当たり次第に共用カードを使わせてもらう。……通るかどうかは、やってみるしかない……)
真剣さで覆面(素顔)を塗り固め、破れかぶれに押し通す。(…『塹壕の中じゃ、ニヒルに笑うもんだぜ。ボーイ』ありがとう。…えーと、誰だっけ…)
それでも『聖女』はその意に従った。……口をあわあわさせたまま、逸らした目を合わせて、その瞳をうるませる。……涙目の一歩手前だ。
(…これは…『はわわ顔』!)頭のおかしい切田くんは、わけのわからないことを思った。
(東堂さんのレア顔!…いや、合わせてくれてありがとうございます、なのかな?)「鋼さん」
「…は、はい。…るいく…」ビクつきながらも、揺れる瞳が見つめている。――静かの泉に投げ込むように、そっと言葉を紡いた。「不安にさせてごめん、鋼さん。でも、何度でも言いますよ。僕は鋼さんの信頼には必ず答えます」
「だからこのまま一緒に来てください。来てくれますね?」
「……ひゃ、……ぅ……」熱っぽく固くなる彼女に、出来うる限りの真剣さを投げる。「『猫目』さんは必要です」
「…『猫目』さんだって不安なんです。あなたと同じに。…その力にはなりたい。力を貸したい」
「それを経てなお、鋼さんの信頼には答えます。『僕なりに答える』とか、そんなごまかしなんて持ち出しません。ちゃんとあなたの望む形に答えます」
「…それじゃいけませんか。鋼さん」
と言いながらも、……チラと、彼女の背後、『猫目』の様子を覗き見る。
憎悪。
――そこにあるのは、激しい憎しみの視線だ。
(……えっ……)少女は憎しみを込めた目で、『聖女』の後頭部を睨みつけていた。
「は、離して。切田く……類くん…」限界を超えて耳まで真っ赤になった東堂さんが、プイと目線を切って声を震わせた。……切田くんは慌てて両手を引っ込める。「…は、はい!すみません!」
「……わかった。わかったから……」「……もう、堪忍して……」
消え入る声で言葉少なに、湯気が出るほど紅潮した顔をうつむかせる。「……背伸びして必死に頑張ってるの、凄く良いかも……」何やらボソボソ言っている。発する熱が、空気を越えて伝わってくる。
ぐるぐる瞳でテンパったまま、モジモジと続けた。「べ、別に良いんだけど…!」
「…そういうのって、してほしさと、してほしくなさが一緒に有るっていうか…」「だったらもっと、もう少し踏み込んで考えてほしくて」「…たとえばこう、ギュッてしながらとか…」
「誤解が解けて嬉しいよ、『聖女さま』」
――割り込んで空気引き裂く、愉悦の声。眼帯の少女がにこやかに笑っている。……先程の激しい感情の残滓など、そこには微塵も感じられない。
(…なんだ?さっきのは僕の見間違いか…?)戦慄が、疑念を打ち消す。(…そんなわけあるか…)
(…現実から目をそらすな、切田類。…このあからさまな感じ。開き直ったのか?『猫目』さんは…)――出口なき閉所、息苦しい圧迫感。
(…いくら道理に沿っていても、反撃は、常に不当な侵害としか受け取られない。双方が不当を主張するのなら、残った手段は戦争しか無い…)
(……なにか不味、…いや、あからさまにマズい。僕たちは、もっと奥に進まなきゃいけないのに……)切田くんはなすすべなく、ふたりの様子を交互に眺めた。
(……このパーティーは、間違いなく決壊寸前だ……!)