理想の国
誰もが羨む巨万の富と、煮凝る澱を内に秘め、欲望に引き込まれし血肉を屠りて喰らい、自らを肥やす。人と魔物の本能せめぎ合う、曲牙隠せし大蛇の口腔。
最も古き迷宮『神代の迷宮』。
その上層、ガバナ側最深部。切田くん達とはまた別の、隔絶された空間の一室。――張り詰めた空気、呼吸や身動ぎ響く静けさ。誰もが皆黙りこくり、声を発するものはいない。
部屋の中央、厳しき面相にて仁王立ちする緑の巨鬼。ゴブリン王グッガが剣を突き立て、『勇者』の到来を今か今かと待ち構えている。
側に控えるは老いたゴブリン。汗に塗れてぬんぬんと、神輿の女に両手の印を向けている。
突き当たりの壁には豪華な黒門。邪魔な位置に粗末な神輿が鎮座しており、――その祭神の位。純白のローブを纏った女が、しなだれかかって座っている。
夜の冬空を映し込む細月。美と知双方を司る女神が如き、怜悧なる美少女。年若くも凛とした風貌が、今は無表情にそっぽを向いている。
重苦しい空気が立ち込めている。
――突如のバタバタした騒音。「伝令!伝令ーっ!!」通路より小鬼が一体、慌てた様子で駆け込んで来た。樽の背負子を背負ったゴブリンだ。東堂さんが漂う匂いを嗅ぎつけて、眉を顰めて睨みつける。
緑の小鬼はすぐさま王の元へと向かい、姿勢を正して声を張り上げる。「報告!『耳削ぎの勇者』、止まりませぇん!!」
「こちらの『勇者』の必殺攻撃をものともせず、パレードを直進!この場所に向かって快進撃を続けております!」
王は顔色も変えず、鷹揚とした態度で応じる。「こちらの数は?」
「残存『勇者』は私を含め、10を切りました!……と、逃亡者も出ております!補助の兵たちからも……くぅっ、申し訳ございませぇん!」
口惜しくも口籠るゴブリン。続々と報告される悪い知らせにも、王の表情が変わることはない。
「…よい。敵の『勇者』が強いほど、我らが『勇者』たちの気概が試されるというもの。臆したものは篩いにかけられただけのこと。…そうであろう?」重厚に進み出たるゴブリン王グッガは、緊張に震える伝令の肩に、その大きな手のひらを載せた。
「…良い目をしている。貴様はそのような者たちとは違うようだ。その身に宿る真の勇気、私に見せてくれたまえ」
「諸君ら選ばれし『勇者』たちの、最大限の輝きもだ。…期待している。頼むぞ」
しゃちほこばった伝令ゴブリンは、喜びに目を輝かせた。
「かっ、必ずや吉報をぉ!」
そして誇らしげに踵を返し、威風堂々(感染)、足早にその場を去っていった。
◇
「……どうしてそんなことをするの?」東堂さんが冷たい声で問う。
……虚を突かれ、思わず片眉を上げて、王は黒門へと振り返った。「…ん?どれのことだ。…『ゴブリン・グレネード』か?」
軽くうなずく女を見やり、考え深げに顎に手を当てる。「…ふむ。なるほど…」意外な質問であったようだ。考え込み、反芻する。
やがてニヤリと牙を剥き出し、ゴブリン王は心底愉快げに答えた。
「自爆はかっこよくて面白いだろう?兵たちとて楽しんでやっている」
「……は?」東堂さんの表情と声が、絶対零度まで下がった。
実に楽しげに哄笑する。「クハハハ!『ゴブリン・グレネード』は強力だ!火力を伴う派手な攻撃によって敵をなぎ倒す。…味方は沸き立ち、士気も上がる」凶相を歪ませ、高揚を込めて言い放つ。
「そして!『ゴブリン・グレネード』が敵に打撃を与えることで!」
「私のフィールド上では【ゴブリン】が減っていくのだよ!クハハハ!」
「…わかるか?デメリットのある攻撃だ。攻撃すればするほどに、王たる私には死が近づくのだ!」
老ゴブリンが、したり顔で追従する。「二律背反。実に文化的ですな」
「左様!」もっともらしき首肯。……蔑みを剥き出しに、すっかり興味を失った白け鳥を眺め下ろし、更に王は笑った。
「クハハハ!たわむれよ!そんな顔をするな、女」
そして鷹揚な態度に戻り、つらつらと語り始めた。
「『ゴブリン・グレネード』は、火薬とゴブリンの実戦的な運用方法だ」
「ゴブリンは素早いが、種族としては非力。火薬が持つ爆発の力は、その弱点を補って余りある」
「そしてゴブリンという種族は繁殖力が高く、成長も早い」
「火薬の火力を最大限に引き出すための『ユニット』として最適なのだよ。サクリファイス前提の『ユニット』としてな」
「火薬と狂気は敵の士気をくじく。…その恐るべき音と光、炎と死を振りまく火薬が、狂気を伴って敵を自動で追うのだぞ?」
「使うに決まっている」
「非常に強力な運用法だ。…未来の世とて形は変われど、そういった運用はなされ続けることだろうよ」
「さすれば敵に勝ち、植え付けた破壊と狂気は、譲歩をも引き出す力となる」
ニヤァ…と口元を歪め、王は自慢気に宣った。
「『ゴブリン・グレネード』は国の根幹なのだ。国の主軸たる力なのだよ」
「…つまり王さま?あなたの国は」神輿にへたり込んだままの東堂さんが、挑発的な質問を投げかける。
「お調子者の愚かな民を、その場の気分で踊らせて、あなたの都合で自爆死させる国。そういうことね?」
「…ふむ」怒り出す様子も見せず、真顔で老ゴブリンを一瞥する。
「そうなるな?爺」
「そうなりましょうな。的確な指摘にございましょう。…神の使徒とは常に、盲信による支配のために教養を独占しようといたしますゆえ。この女も同様に、教養を深めているに違いありませぬ」
老ゴブリンの言を聞き、王は頷く。「お前の言うことは正しいな、女」
「…だがこれは、数多の世界に存在する、ありとあらゆるすべての国が、同様にそういったものなのではないかね?」高みより、言い含めるように続ける。
「権力を持つ者とは、そのお調子者の民から抜きん出ただけの者であろう」
「…敵に殺されぬよう、あるいは周囲の『味方』に追い込まれぬよう。敵も『味方』も蹴落として、のし上がってきた者たちだ」
「ふむ。もとより王と生まれた私とて、変異で生まれた先人が同様に抜きん出て、立場と血を残し続けた結果であろうな」
「…さすれば、私には先人に残された国を守り、そして民のために務める義務がある」
もっともらしく誇らしげに、姿勢を正して胸を張った。
「私は今、義務を果たしているのだよ。我が民、すなわち守るべき国土を失った兵士たちの為に。そしてこれは、彼らの心に秘めし、真なる望みでもある」
「…転移の災に巻き込まれた兵たちには、もはや後も先もないのだ。『迷宮』の奥に進む力もない。外に出れば排斥され、殺される。…なれば」
「戦士の本懐。そして男の矜持」
「…遂げさせてやらねば、浮かばれんというものよ」感慨深げな余韻。
――生温い空気を切り裂いて、冷たい蔑みが飛んだ。
「足手まといは処理する、と、あなたは言っているのでしょう?王さま」
「地上に出るのならば、逆撫でするだけの半端な兵は邪魔になる」
「邪魔を間引いて少数で潜み、人間の勢力圏から脱出すれば、まだ、あなた達に目はある」
「調子に乗る人と逃げ出す人を切り捨てて、あなたのスキル、『人の石垣』が機能する、最低限の『ユニット』だけを残すつもりなのでしょう?」
……王は鼻で笑い、ニヤァと凶悪な笑みを浮かべた。
「…ふん。聡明な女など、同様に排斥されるものだろうに。国体を守り、維持するために最善を尽くすのが王というものだ。私人の情など入り込む余地は無いのだよ」
「国から切り離されたと言っていたのに?」
「王のいる場所が国である。規模など問題ではない」
悠然さを崩さぬ王に向かい、……天より振りそそぐ宣告が、今、高らかに響き渡った。
「…だからあなたは卑賤な蛮族の頭領に過ぎないの」
相手を心底馬鹿にした、それでいて、水晶のように澄みわたる声。
「……何?」眉根を寄せて睨みつける。「…非情の判断に情を持ち込み、国を破滅に導くなど。まさに愚民の所業ではないか。…あまり笑わせてくれるな、女」
「間引くことなど問題ではない」東堂さんは答える。……その瞳は今、虚無を覗き込んだかの様に光をなくしていた。
「あなたの国の判断が含有する、あなたの都合の割合など、私にはまったく興味がない」
「あなたは未来を語っていない。先の未来を語っていないの」
「あなたが語った未来の話は、『火薬が勝手に飛んでいく未来』の話、ただひとつだけ」
「つまりあなたが持つ王のビジョンは、民に火薬を持たせ続けることだけ。どれだけ非情を振るっても、未来において民の形が変わることはない」
「あなたが王を名乗っても、民を『行き着くべき理想の世界』へと導けない」
「そんな王は動物に過ぎない。卑賤な蛮族の頭領よ」
ムッとして、牙を剥き出す。「何度でも言ってやろう。盲信に脳を焼かれた愚かな女よ。どこの国とて仕組みは同じだ。この上の国とて同じであろう」
天井の向こう側を見上げ、凶暴な蔑みを込めて、王は笑った。
「クハハハ!それともお前の元いた世界、お前のいた国は、そうではなかったとでもほざくのか!?」
空虚で透明な響きが、答える。
「さあ、どうかしら」
「私はもう、元いた国に興味がない」
「なぜならば、私はすでに、理想郷の中にいる」
「すべての人が行き着くべき場所。行き着くべき未来」
――不快な表情で吐き捨てる。「…今居るこの国がそうだというのか?『我々の殲滅を見込まれた者』の言うことか!」
「この上の国になど、私には興味がない」
空虚な声が、熱を帯びている。
「私は今、理想郷に住んでいるの」
虚空を映す瞳が、とろりと、甘やかに蕩ける。
「言葉が気持ちを伝える国」
「気持ちが言葉を紡ぐ国」
陶然と、甘く甘く、彼女は高らかに宣言した。
「そう、あいのくに」
「ふたりだけのくに」
◇
沈黙が、場を支配している。
「……だから……」
王は苦々し気に吐き捨て、押さえきれずに激昂した。「…だから女は馬鹿なのだ!!!」
「正しく時間の無駄であった!退屈を紛らわそうと興が乗ったのが間違いであったわ!…まさに、寝言は寝て言え、と言うものだ!!…ええい!!」
心底腹立たしげにマントを翻すその背中に、東堂さんは嫣然と笑い掛ける。「……ふふ。一つだけ教えてあげましょう。あなたの国の未来のために」
「これ以上ほざくな。女の妄言など聞きたくもない」
「私の魔力は、すでに尽きている」
「…なに?」眉をピクリとさせた王は、腰から格闘用の短剣を抜いて躊躇なく投げつけた。――空を切り裂き、見えない防護に阻まれて、刃は高い音を立てて弾かれ落ちる。「くだらぬ嘘を」
「…ふふ…」うっとりと虚空を見上げ、微笑む。「だから今、私を守るこの魔力は、切田くんの力」
「私たちのくにの守り。あなた達では決して侵せない、強固なる魂の国境線」
「それでも侵そうと言うのでしょう?だから私たちは逃げも隠れもする。逃げ回り、追手と戦い、あなた達の人数を削り続ける」
「私たちふたりが最後まで残っていれば、私たちのくにが勝つ」
「…まだ世迷い言を続けるかっ!!」思わず吹き出た憤怒を、自らの強き精神によって抑えようと、ゴブリン王は荒ぶる感情を制御しようとする。
「そのような言葉は、どこにも届かず虚空に消えるだけの言葉だ。追い込まれた自分を高ぶらせるためだけの言葉なのだろう?…だから妄言だというのだ!」
東堂さんは虚ろなまま、ニッコリと笑った。「…おじいさんの力、相手の行動を開始できなくする『スキル』でしょう?」
その落ち着いた声は、未だ奇妙に高ぶったままだ。――不穏な雰囲気。……何かがおかしい。
「でも私と切田くんが保ち続ける『ディバイン』【プロテクション】は途切れていない」
「つまり、すでに場にある効果には、おじいさんの『スキル』は影響を及ぼさない」
愚か者には付き合っていられぬと、王は強く吐き捨てる。「…どういうからくりかは知らんが、つまりはキルタ君の魔力を譲渡されているということか。だからといって、命が少し延びただけの事であろう?」
「その場しのぎを。それが何だというのだ!」
……空虚にうわずる女の声が、奇妙に弾んだ。「…だって、切田くんが守ってくれているんだよ?」
「切田くんに包まれているの」
「私が信じる切田くん」
「……『信じられるのは自分だけ』、なんて吠え猛って見せたところで、すぐに自分さえ信じられなくなって」
「力が抜けて、捕まって」
「それでね?助けてくれたの。切田くんが」
「信じられないって暴れても」
「そんな馬鹿な私を優しく落ち着けて、手を繋いでくれたんだよ?」
「……私のスキル、『ディバイン・オーバーパワー』は」
「『信じる力がパワーになる』スキル」
――メキメキ、ブチブチと音がする。
東堂さんの躰からだ。筋肉が悲鳴を上げて筋繊維が断絶する、そんな怖気の走る音。「……ふふ……」ぎこちない怪物めいた動きで、彼女はぎくしゃくと立ち上がった。ブチブチと嫌な音を響かせながら、歓喜に哄笑した。「『アハハハッ!…アハハハハハハハッ!!!』」
「……なぜ動ける……爺!?」理解を超え呆然とする王に、必死の老人は印を結んだまま弁明する。
「ワシの力は効いております!動けるはずがありません!!……こんなはずは……こんな馬鹿な!?」
老人の放つ力によって『行動終了状態』に戻ろうと、彼女の躰は自らの筋力を使って自身を床に引きずり戻そうとする。――相反し、音を立てて断絶する筋肉が、『生命力回復』の力で即座に修復していく。
糸繰り人形めいた、奇妙な立ち姿。張り付き笑いの人形女は鉄薔薇の棘に塗れ、歓喜を込めて、こう言った。「アハハ!……こう見えて、とっても痛いのよ?これ」
「…『ディバイン』【プロテクション・マリオネット】。私の体の表面を包む、強固な【プロテクション】の防護フィールドも、今の私ならば自在に動かせる」
「アハッ。ほらぁっ!」
空気が爆ぜた。棒の影がくるりと安価な玩具の様に振られ、――鈍器が即座に、老ゴブリンの骨肉へとめり込んだ。
「……ね?……ほら届いた。私の想い」
嫣然たる呟き。
老人は、投げつけられたぬいぐるみみたいに飛んだ。――そして壁と床とをバウンドして、脱力して転がった。
「爺っ!!!」王は咄嗟に手を伸ばす。
それが叶わぬと見るや激昂し、『聖女』に向かって絶叫した。
「おのぉれえええぇっっっ!!!」