迷わない森
気が遠くなる程に駆り立てる拍動。煩く揺れる脈と、息苦しさに荒くなる息。――ぞわぞわした感覚の奔流。熱くて華奢で、柔らかく芳しい拘束に、身体の自由がまったく効かない。(……うあ、ぁ……)
ショートボブのふわふわの髪、狭間に見える、異物の眼帯。――蜘蛛の様に手足絡めて密着する、体液啜りにのしかかる少女。今も甘やかな躰の節々が、肌や服に擦れ合い、蠢いている。
熱に浮かされ、目眩に溺れる。衝動に踊る動悸が、少女の脈と入り交じる。
部屋に甘い匂いが立ち込めている。
「……ね〜ぇ〜、キルタぁ……」泥濘に揺蕩う蠱惑の瞳が、茹だる脳髄をくすぐり急かす。「……フフッ。聞いてる?」
「……お返事できるかな?……ねえってばぁ……」途切れかけた意識の向こう側。誰かの指先が、腰下のファスナーを弄っているのが分かる。
「……な、なん……」
「…あれぇ?ちゃんと準備できてるね?…ふふ。あたしで興奮してくれたんだ。…分かりやすくて良いよね、男って…」返事に割り込む、毒の籠もった口調。
「……だってキルタ、ドーテーくんだもんねぇ?……フフフッ。アンタってほーんとチョロいんだぁ……」汗ばむ額を押し付けて、からかい顔でうっすら笑う。
「…ねぇ、こっち見て…?」――男の底を覗き込む、眼帯と、金色の瞳。
少女が埋める意識の向こう、フードを被りうつむく誰かの姿が、ぼんやりと見て取れる。――鈴の音鳴らし、仔猫が弄う。「あはは。すっごく固くなってる。どうしちゃったの?…初めてだとわかんなくなっちゃうでしょ…」お互いの顔を撫でる、熱い呼気。
「…受け入れるの。抵抗しないで、…相手の気持ちに合わせて。ね?…ん、キルタのズボン、難しいな…」つばを飲み込み、苦しげに笑う。「…ま、いっか」頬を撫でる親指。「…じゃあ、キルタがしてみて?」ファスナーより指が離れる。
「…ねぇ、構ってぇ…?」
猫なで声。手首がガッチリと捉えられた。
「……ほら、こっちぃ……」引きずられ、導かれていく。その先にある『猫目』の無防備へと。
「フフフ。…恥ずかしいね?キルタが馴れるためにするんだからねぇ…?」クスクスと、からかう声。「…大丈夫。笑ったりしないってぇ…」
「…いいよ、キルタ。ちょっとの無茶なら。駄目なら『駄目』って言うからさ…」
「……フフッ、分かるよ?最初は怖いよねぇ〜…?ウフフフッ……」嘲笑われ、覗き込まれている。昂ぶれど湯水に揺蕩う、トロリとした艶めかしい熱。――慰撫する声が、奇妙に歪んで響く。
「……こわくないよ。さあ、力を抜いて、キルタ。……大丈夫。はやく一緒になろうよ……」
◇
意識も視界も真っ赤に染まり、撓んでグラグラ揺れている。――喉が渇き、声も出ない。どうすればいいのか分からず強張った片腕が、戦慄きながらも『猫目』を抱きとめようとしている。
誘い導かれしもう一方は、自身と彼女の間で、どうすることも出来ずに竦んでいる。
――頭がぼうっとしている。
(……あぁ……猫ちゃんとしたい。してみたい……)脳皮を滑る、空虚なる言語思考。
(…いや、駄目だ。ここで受け入れてしまっては…)
(…でも正直言うと、素直に嬉しい。ぜひお願いしたい…)
(……いや、『お願いする』必要さえないのか。……このまま、何も考えず、彼女と流れに身を任せてしまえば……)思考停止の甘い誘惑。血流に乗ってズクズクと蝕む、薄昏く、乱暴な情動。
熱泥に紛う乙女の柔肌が、貪欲にすべてを飲み込んでいく。意味も分からず必死に泥を掻く。このままでは溺れてしまう。「駄目だ。とにかく今は駄目なんだ」
(…別に、駄目じゃないだろ切田類。今の僕は、『社会』から途絶。すべての権利を奪われ、失っている。逆に言えば、何のしがらみも無いってことだ。自由なんだよ)
(周囲の雑音に邪魔されることもない。戦って勝ち取れるものなら何でも勝ち取れる。そのために宿った『スキル』だろう?)
「……」
(…いいじゃないか。自分に向き合って正直になれよ。この子に相手をしてもらって、東堂さんにも手を出せばいい…)――何もかもが熱泥に呑み込まれていく。……沈む。……沈む。(……誰だってそう望んでる。それが正解なんだ。……ハハ。夢みたいだろ?そうして良いんだよ。……きっとみんな、仲良くやれるさ……)
よく分からない危機感に駆られ、とにかくもがく。「ガボッ、駄目だよ。そんなの、勝手を強さと勘違いしている人の言うことじゃないか!」
(はぁん?)弱々しい反抗に、切田くんが笑った。(何でも駄目の切田くんは、いつもそうだ。『なんだか後ろめたい』って言うんだろ?後味が悪いって)
(そんなフワッとした正義マンごっこに意地を張って、この子に恥をかかせるおつもりなんですかぁ?…うっわぁ。女の子の気持ちを上っツラの気分で踏みにじって、傷つけて。それこそがお正しいって?…馬鹿なのかな)
「……」
(おりこうぶったチラチラ言葉なんて、自分にさえも届くかよ。本心で語れよ本心で。やりたいに決まってるだろうが)
切田くんは心の中、全身全霊を振り絞って叫んだ。
「やりたいよ!!!」
「やりたいに決まってるだろ!何を分かりきったことをっ!!」
(……)
(…お、おう。すみません)
「後ろめたさとかそういう話じゃないんだ。駄目な理由があるんだよ!」視界の片隅、今は遙か遠けき、フードに隠れる黒髪の女性。
(傷つけたくないって?なるほど?ご立派な理由だ。ふたりを天秤に掛けてさ、東堂さんのほうがより傷つけたくないって事?)
「そうじゃない。東堂さんは僕を信頼するって言ったじゃないか」
(ハハハ。その信頼には答えたいって?…わざわざ口に出して言ってたもんなぁ、あの人。…はたして信頼って、そういうものだったかなぁ)
「それだよ」(……はい?)
「何故、東堂さんは、わざわざ僕を『信頼する』なんて言った?」切田くんは自身に対し、高らかに宣言した。
「あれは『この子に手を出したら、お前をホニャララします』という意味だろう、どう考えても!」
(……)
頭の中が、逡巡する。
(そうかも)
「ジゴロだの女たらしだの言われている僕は、その方面では信頼されていない。…それは言いすぎかもしれないけど、不安には思われているんだ」(ホニャララされる!怖い!)「たぶん死ぬ」(冗談じゃない!!僕は何も悪い事してないのに…!)
そこに有るのは人理統制。数多の時空を超え常に人類社会を統率せしめん、国家の抑止力たる純粋絶対暴力。「…今思い返せば、ブリギッテさんのことだって気づいたふしがあっただろ」(そうか。だから帰ってきた時、『信じてるから』なんて言っていた)
「そんな疑惑の前科を持つ者を、誰が信じる?」(理不尽だろっ!!ホントに何もしてないのに!?)「このままでは死体がふたつ…いや、三つになるまである!」
「これ以上はいけない!『精神力回復』、緊急起動!!」
危機を察した『精神力回復』が火花を散らし、激しく機構の唸りを上げる。熱くて心地よい、倒錯した高揚の沼は、一瞬で跡形もなく消し飛んでしまった。(……ボン)
切田くんはハッとする。(…道化芝居で自分を誤魔化して。…うう、未練がましいぞ。振り切れっ!)そして、小さく頭を振る。
(…浅はかに誰かを傷つけるのだとしても…)
(理屈が心に沿ったなら、僕はそうする。見えない糸に従うんだ。……行け、切田類)
◇
覆い被さって抱きつく『猫目』は、いつしか自分を包み込むおかしな感覚に、不思議そうな声を上げた。
「…はれ?」
目覚まし時計に叩き起こされたみたいに、蕩けた片目をパチクリさせる。
彼の上体に、だらーんと楽に寄りかかる。「んー?」
そのままグリグリと身をよじり、収まりの良い位置を探す。……ピッタリしたので、すっかり安心し、力を抜いて体重をかける。
ぐでーんともたれかかった『猫目』は、フスーと満足げに、鼻から深く息を吐いた。
「これ好き」
「『猫目』さん」
「んー」気づいてほしさに背中をポンポン叩くが、ダラーンとしたままだ。
仕方がないので脇を両手で持ち、グイと持ち上げる。
「やーん」
ぐずる『猫目』をヒョイと立たせ、また座り直す。彼女もぼうっと隣の椅子へと座り、そして呟く。「…子供あつかいしないで」
そして、目をぱちくりさせる。「…あれ?でも、なんで、…今どうなったの?」
「『猫目』さん。僕の本音のところ、ぜひお願いしたい」
「…ん?うん。じゃあしようよ。なんか変だな」
「でも、東堂さんに怒られてはたかれるのが怖いから、やっぱり止めておくよ」
「……」覆面を被り直す少年の横顔を、じっと見つめる。
――そして、ポツリと言った。
「あたしが汚らわしいから?」
咄嗟のことに言葉に詰まり、目線を外す少女に慌てる。……カリカリと、素早く落ち着いて答えた。「それはない。『エロカワイイ』とは思ってるけど」「……『エロカワイイ』…?」怪訝そうに振り返り、困った顔で眉を潜める。
無言で親指を立てる様子に「…は?」と険を込め、(…やべ)引っ込める様子をジトッと睨む。(…エロカワイイは良いぞ…)
ひとしきり黙った後、『猫目』は続けた。「…でも変だよ。そんな理由。はたかれるからなんて、そんなの弱い。言ってるだけじゃん」
「…あたしが聖女さまに見せつけよう、って言ったから?」自嘲気味に笑う。
「…やり始めてから、後に引けなくなってから言えばよかったな」
「それはいい。性癖は仕方がない」
「はい?」
素っ頓狂な声の少女に、穏やかかつ真剣に答える。「性癖はしょうがない。別にそれはいい。…ただ、東堂さんは察しが良い。そして、僕よりもずっと強い」
「尻に敷かれてるんだ」
「だから僕は、東堂さんにはたかれたくない。死にかけた事すらあるからね」
「…なにさ、ふざけて」『猫目』はムッとする。
「その気になってたくせに」
「なってたね」切田くんは、至極真面目にうなずいた。
眼帯の少女はブスッと、座った目で問い詰める。「……したいんだよね?アタシと。セックス」
「したいね」
「……」
「とても残念だと思ってる」
「……もういい!!」完全に『猫目』はふてくされてしまった。
立ち上がって床のショーツを乱暴に拾い、元々座っていた(2メートル離れた)椅子へと戻ってしまう。……そっぽを向いたまま乱雑に足を上げて、不機嫌丸出しで黒いショーツを履いている。
少女の姿を眺め、自分のしている(いやらしい)事(覗き見)に気づいて顔をそらし、切田くんは言う。「ドライフルーツ食べる?」
「もういらない」刺々しい返事。
切田くんは立ち上がって、隣にくっついた椅子を、元の位置へと戻した。
「むー!」ショーツ履きかけの『猫目』は、大げさに、怒りと抗議の意を示した。
◇
「…ふぅ」東堂さんの読み終えたスクロールが、粉となって崩れていく。目をつぶって額を押さえ(しんどそうだ)、軽く頭を振る。「うまく読み終えられたわ。……どうしたの?」
難しい顔で黙り込むふたりに、気遣わし気に声をかける。すると、「……むぅ〜……」我慢しきれない唸り声。不貞腐れ顔を風船みたいに膨らませて、『猫目』はブスーと抗議の声を上げた。「聖女さまぁー。キルタが相手してくーれーなーいー!酷くない?」
「キルタは女の子に冷たい。甲斐性なしの駄目キルタだよ!もうっ!絶対ろくでなしの宿六になるよ!」蹴り飛ばす仕草を喰らい、切田くんはスイ…、と目線を逸らす。
「そう」ムキーと主張する少女を眺めて、東堂さんはニッコリ笑い、淡々と咎めた。
「酷い切田くんね」
(酷い理不尽だなあ)
◇
「じゃあ、奥に連絡するね。待ってて」伝声管を軽快なリズムで叩き、蓋を開けて声を吹き込む。「『猫目』ですけど?」
「『猫目』でーす。『猫目』ですよー」
『……お前か。どうした』真鍮管の向こう、陰気な男の声。『俺の味が忘れられなかったのか?』
『猫目』はビクッとし、バツが悪そうにチラリと見てくる。「違う。連れてきたよ、『掃除屋』」
『やっとかよ。手配が遅いな。何人だ?腕は立つんだろうな』
「ふたりだよ。腕は知らない。婆ちゃんが通したんだから問題ないんじゃないの」
『ふたりとか知らねえとか随分と頼りねえな。……それより、こっちは穴蔵に詰めっぱなしで、心底気が滅入ってるんだ。俺の相手ぐらいしていけよ』陰気な声が、グフフと笑った。『掃除屋はそこで待たせとけ。たっぷりといい夢見させてやるぜ?』
語気を強める。「あのねえ。調子に乗らないでもらえる?骨抜きにされたのはアンタでしょ。おあいにくさま、そこらのマグロで十分だって言うなら、他をあたって相手してもらいなよ」
「アンタのサイズにぴったりな、鼠とでもやってれば?」
『…言いやがる。こっちに着いたら覚えとけ』
パタリと伝声管の蓋を閉じる。目を合わせずに、『猫目』は言った。「こいつ、適当なことばっかり言う奴だからホント嫌い!」
「『メイズフォレスト』の…なんだっけ?お前なんか名前も覚えてないってーの!覚えたくもないし」
東堂さんがそっけない声で尋ねる。「そういえば、あなたの名前は何というの?」
「えっ」「…『猫目』さんの名前。『猫目』は通り名でしょう?」
なんの気無しに、『猫目』は答えた。「知らない」
「…そう」
「別に『猫目』で困ったこと無いからね。名前なんてそんなものじゃない?…ほら、行こ?」鍵を取り出し、奥のドアへと急かす。
◇
(相変わらずの下水道か…)だいぶ空気が悪い。パーティ内の空気もだ。(…いや、迷路になっている?複雑化しているの?)
(…いやぁ、曇らせとか一旦頭痛くなっちゃうんで。ノーサンキューですぅ〜。シンプルに上げる方向でお願いしますねぇー)切田くんの脳内は相変わらずだ。
ドアの向こうも、相変わらずの管理用通路(迷路化)。上流下流それぞれに、枝分かれや水路の渡りなどが見える。
(…迷路とかも正直勘弁して欲しいんだよなぁ。アトラクション目的じゃないのなら、そんなん人を迷わして悦ってるだけの意地悪でしょ…)そもそも切田くんはマッピングに興味のない質なので、出来れば迷路は短絡一本道が良いと常々思っている。それは迷路ではない。
先導する『猫目』は、ためらいもなく上流へと進んだ。「ほら見て。一本道に見えるでしょ?」「そのようね」(…なんだって?)ふたりの会話に首を傾げる。『飛ばないマジックボルト』の照らす先、枝分かれした通路がはっきりと浮き出ている。
何もない空間をパントマイムみたいに叩く。「実際には幾つもの通路が分かれていて、『メイズフォレスト』の奴がスキル効果で隠蔽しているんだって。…侵入者を間違った方向に進ませて、そのまま殺しちゃうんだってさ」東堂さんにだけ、『猫目』は不穏なことを言っている。切田くんなどガン無視だ。(…ギスギスつらぁい…)つらい。
「…任せるしか無い、ということ?」
「そうなるね。アイツが気まぐれを起こしたら死んじゃうね。いつかホントにやりそうで、すっごい嫌なんだよねー」
「切田くん、どう思う?」東堂さんが警戒心を顕わにする。
(とりあえず、何か軽口を言いたいニャン…)切田くんとて内心は不安だ。…ギスギスもだが、視覚情報の差異のこともある。(『メイズフォレスト』…視覚的な幻影ではなく、精神に働きかけるスキルだったのか。だから『精神力回復』には効かなかった)
(…しかし、ここで二人の効果解除は選べない。正確な道がわからなくなるし、…指定した道を外れる様子は、そのまま相手に伝わると思っていいだろう。スキルが効いていないことがバレてしまう…)人を惑わし、悦に入る為の迷路。――悪意に散々惑わされた挙げ句に、相手を攻撃射程に収めることすら出来ないだろう。
(…道案内を任せるしかないのか。…今は奴に、僕らを害する理由は無いはずだけど…)話の通ずる理知的な相手ならば良いのだが、……切田くんには伝声管の声が、理屈の通じない理不尽な輩、という印象が拭えなかった。(…そんな風に決めつけるのは良くないって?…うるさいな)
(…どちらにせよ、今出来る事はなにも無い。不穏な展開になった時に、僕が何とかするしか、……いや、すればいいんだろ?)あえて力強く断言する。「東堂さん。もし危なくなったら、僕にはそれを知る事ができると思います」
「大丈夫です。行けます」「わかった」東堂さんは表情を和らげて、『猫目』をうながした。「進みましょう」
◇
水路を曲がり、渡し板を跨いで、道案内通りに進んでいく。相変わらず(遮断済みの)悪臭や湿気が充満している。(…毒沼の気分…)辟易しながらしばらく進むと、壁面の窪みにドアが見えてきた。「あそこだね。…アイツが嘘をついてなければ、ね?」
内部はやはり、殺風景な部屋だ。伝声管部屋より幾分大きく、テーブルや複数の椅子などもしっかり設置してある。(ミーティング用かな?突入前とかの…)先程と違ってきちんと清掃されており、ゴミやガラクタの類はない。――東堂さんが、注意深く辺りを見回す。「なにもないわね。行き止まりだわ」
「あいつが出てくるのを待とうよ。どうせ声だけだと思うけどねー。臆病なやつさ」
(…あるな。廊下が左右に…)切田くんの視界には、両脇の通路がしっかりと映っている。しかも左側より感じる、何者かの気配。(…なんかおる…)
こちらを覗き見している何かがいる。(…パパラッチ。ストーカーかな…?)壁際に隠れ、チラチラとこちらを伺っているのだ。(…気づいている事を、悟られないようにしないと…)
(……ただ、なんだろう。何か嫌な予感がする……)素知らぬふりを決め込むも、視界の角。ぬるりと、それは姿を表した。
見るからに陰気そうな男だ。痩せぎすで、猫背。
額は広く、分けられた長髪は油っぽく縮れている。頬はやつれてたるみ、目の隈もひどい。
手には短剣を持っている。ゆらりと、その腕を持ち上げる。
そして男は、短剣を、力いっぱいに振りかぶった。
「東堂さんっ!!?」咄嗟に叫び、触ろうとする。……ボフ、と奇妙な感触。背負い袋だ。(荷物越し!?…とどけっ!!)「なに?切田く」
「…んっ…」悩ましげな呻き。荷物を通した強力な『精神力回復』が、躰の内側を撫でたのだ。……瞬間、視界の隅。男の振りかぶった短剣が、鋭く投げ放たれた。
――ぶわと、殺気が膨れ上がった。獣の眼光描く軌跡に、豪と大気を引き裂いて、『聖女』の手刀が宙を割った。
短剣がピタリと静止していた。彼女の眼前、その刃は細い親指と人差指に挟まれ、ガッチリと捕らえられていたのだ。
「…ほう…」陰鬱が、ユラリと進み出る。「…気づきが早いな。…なるほど、腕は確かなようだ…」
ニヤァ…と、気だるく嘲笑う男。「…ふん。臆病者とは言ってくれるな。悪いが、おまえ達の実力を試させてもらったぞ、『掃除屋』ども…」
「俺の名は」
スナップを効かせ、東堂さんの右手が豪と振られた。
高音を上げて着弾し、短剣は瞬時に顔に埋まる。鼻筋を陥没させて後頭部まで突き抜けて、衝撃で男の体はバンと大きく床を跳ねた。
……ビクンビクンと不気味にのたくっている。奇抜な創作ダンスに見えなくもないが、そこに人の意思は感じられない。
呆然と眺めた『猫目』が、大声を上げた。「何してんの!?」
「これは良いよね?切田くん」
「良いと思います。僕もイラッと来ました」「よかった」「よくないよ!?」呑気さに泡を食い、ビクンビクンを指で差す。
「『メイズフォレスト』!ガバナの迷宮出入り口防衛の要!こいつ!!…どうしてこんなことをしたの!?バヨネットの重要人物なんだよ?こんなことをしたらグラシス組の立場だって!」
「あなたの味方だった?」
「それはっ…!」言葉を失って逡巡する。
「……違うけど……」
「ならいいよね」
「えぇ…?」
「『迷宮』入り口はどっちですかね。この人が来た側でしょうか」
「そうね。ひとまずそちらから探しましょう」気にした様子もなく、気兼ねない声をかけてくる。「『猫目』さん、行きましょう」
「う、うん…」
「そういえば東堂さん、向こうでもパパラ……ストーカーとかにあったこと有ります?」
「…あるよ、多分」「多分?」
「すぐに家の人に相談したから、どれも多分解決したと思う」
「(スゥ…)あっ、はーい」
「…なに?その変な返事」「いえすみません何でもありません」「そう?」
「でも、単発の盗撮相手はなかなか難しいみたいで…」「やるせない慣れ方ですね」スタスタ部屋を出るふたりの背中を眺めて、「……でも……」悲しい声で『猫目』はつぶやく。「……こんなことをしたら、アタシたち……」
「聖女さまとキルタの、敵になっちゃうよ……」