気にもとめられない
鋭利な針が背肉を割り、怖気を引いてズルリと内部に侵入する。「…ぐうっ…!?」――焦熱と、金属の冷たさ。針の先が肋骨を抜け、内臓を滑るのが分かった。
背中から刺されたのだ。
苦痛を伴った違和が、急速に体内を鷲掴み、蝕む。(…ま、不味い、毒だっ…即効性の…)倦怠感。呼吸が浅くなる。真冬の風に晒されたみたいに、身体の芯がサアッと冷えていく。
全身を支える力が、パンクしたタイヤみたいに漏れ出す。(…駄目だ、…動け、な、い…!?…い、息が…)くにゃりと膝をつく。既に意識が朦朧とし始めている。
切田くんは『精神力回復』を全力回転させて、(……ぐっ……)剥がれ落ちる思考を必死に繋ぎ止める。(……まだだ。即死じゃなければこの程度のダメージ、東堂さんに……)そして助けを求め、すぐ隣の東堂さんを見た。
気づいていない。
(……あれぇ……?)気にもとめない彼女が、徐々に遠ざかっていく。背後の敵に両脇を掴まれ、ズルズルと引きずられているのだ。(サヨナラ〜)
部屋の角に漂着。(……ザザーン……)東堂さんもアルコルにも、誰にも気にも止められていない。(……な、なんで?どうして誰も……)
(……いや、こんなものか。……元々こんなものだよ……)凍てつく氷河の下に浮かぶ奇妙な達観が、意志の力を削いでいく。――常に有り続ける、隔絶の感覚。盲目の期待に影差す、砂を噛むが如き虚しき痛み。
朦朧の海に溺れる切田くんの耳に、背後の女が、……そおっと囁く。「身を隠すスキル『ハイド・イン・シャドウ』とて、育てれば、こういった使い方もできる…」
「…お前はもう、他の誰にも気づかれない…」声の主が何処に居るのかが分からない。
耳元に囁かれているのだ。すぐ側にいるはずだ。……駄目だ。認識できない。(…透明になっているのか?…違う。…認識、…認知できない?)ぼんやりと靄がかった様に、その存在が意識出来なくなっていた。(…前意識に忍び込む攻撃なの?…だったら僕が、何とかしないと…)
友人の秘密を晒すみたいに、女の声が、ヒソヒソ宣う。
「…同じ場所にいるはずなのに…」
「…誰にも気にもとめられずに、死ぬ」
「苦しんでも」
「どんなに苦しみの声を上げても」
「誰もお前に気づかない」
「親しき人も」
「そうでない人も」
「…大切に思っている者がいたとしても…」
「……誰もお前に気づくことはない……」
「…ああ、哀れだな。…どうして気づいてくれないんだろうな…?」
……囁き反転。声に、はっきりと怒気が籠もった。「妹をそんな目に合わせるわけにはいかない!お前がスタブをそうしたんだろ!?」
「…バレなけば許されるとでも思ったか?…思ってさえいないか!?」
「言え。あの子はどこだ!!お前が殺したあの子の死体はどこにある!?」壁にもたれた身体の顎が、細い女の手に鷲掴みにされる。……ギリ、と締め上げられた。
「…フン。我が身に怒りが満ちてはいても、意外に冷静でいられるものだな?…死体さえあれば、我々にはパトリオッタ『七番』がある。命だけは取り戻せるはずだ…」
(……駄目だ……分からない……)他人事みたいに力が入らない。筋肉が弛緩しているか、神経が阻害されているのだ。(……手の届く所に……いるはずなのに……)
「力が入らないか?気が遠くなるだろう。それでもまだ口はきけるはずだ。さあどうした。言えっ!言うんだっ!!」ガクガクと乱暴に揺すられる。後頭部が叩きつけられ、狭まる視界に星が飛び、痛打に脳が萎縮する。「…薬が効き過ぎたか?いい薬だな」
「ほら、頑張れ少年。異世界の勇者なのだろう?…そのぐらいで…」――忌々しげな、舌打ち。
「……話すのならば、今は殺さないでおいてやる。話さないというのなら……」
裁縫針みたいに忍び込む、穏やかで、酷薄な囁き。「私は急ぐ。お前を軽量化する」
「まずはここから」上腕が、ギリと、握り潰す程に圧搾されている。「最低限、お前の『スキル』が残ればいいと言われている。…はたして『スキル』は人のどこに宿るのか?まあ、胸と頭がついていれば、心も考えも残るだろ?」
「……さすれば、私はきみを、楽に持ち帰ることが出来る。良い考えだろう?キルタ少年……」
うす明るいスクリーンの向こう側、悪意の像が凹凸に歪む。
(……やっぱり駄目だ。思い出せない……)混濁する意識の中で必死に考えるも、彼女の『妹』について思いつく事は、何も無かった。(……今までに殺した、誰かのことだろうか……)
(……そうか。結局、僕の番が来たのか。……うまく逃げ回っていると思ったんだけどな……)
(……)
(……!!!)衝動的なスパナ打撃とミスファイア。ひび割れたシリンダーより吹き出す黒い金属蒸気に、内燃機関が悲鳴と軋みを上げる。漏れ出る熱波に冷却水が沸騰し、過剰トルクに火花を上げて、……駄目だ、動かない。揺れる陽炎。……動かない。それでも少年は、歯を食いしばった。(…ハハ、かっこいいな。達観か…?)
(……ここで死ぬかよ。……言い訳を……命乞いを……)
(…無様に…醜く…哀れに乞うて…)
(…相手の気持ちを乱して…)
(……それを基点に……)締め上げられた口から、よだれがダラリと垂れる。「……しい…まへん……」
「…ぼぐじゃ…らい……ほん…どう……たず…けれ…くら…」
「ふざけているのか」女の細指が、グイと頬へと食い込む。「怒鳴りつけて小一時間説教してやりたいところだな。…では言え。お前でなければ誰だ?」
「スタブはお前に張り付いていた。消息を絶ったのは昨夜。心当たりぐらいあるだろう?」……猫なで声が、憎々しげに歪んだ。「…それとも…やはり…」
「…お前が気づかぬうちに、偶然殺してしまったか…?」
◇
姿の見えない敵に対し、『聖女』はヘビーメイスを正眼に構える。……気休めでしかない。そこに有るのはただ、焦燥と不安だけ。
巨漢を牽制しつつも、細心の注意に辺りを見回す。……やはり、見当たらない。怪しい気配も痕跡も、何らかの勘働きもない。(……くっ……)駄目だ、これでは打つ手がない。
「…ねぇ、切田くん。魔法で敵を…」切迫する中、親密に声を掛ける。「……?」そこで彼女は、異変に気づいた。
彼がいない。
「切田くん!?」……ゾォッとする。体の芯が一気に冷える。
慌て取り乱し、何度も周囲を見回す。いない。部屋の何処にもいない。「…そんな…っ」(…置いていかれてしまったの…?)頭の中が真っ白になる。彼女の顔に、はっきりと絶望がよぎる。
「そういや変だ!キルタは一体どこに行ったんだぁ!?」異変に気が付き、アルコルもキョロキョロ目配る。蹴られたことも、グラシスが毒で痙攣していることも忘れた脳天気な声だ。「キルタがキエタ!そういや韻を踏んでるじゃねえかぁ!!ゲゲゲ」
『うるさい…!!』
深き地の底より響く怒鳴り声に、巨人は思わず鼻白んだ。
「……いいえ、ええ。いいえ……」俯く彼女はコツコツと歩き出し、確かめる様に祝詞を呟く。
「そんなわけはない」
「ありえない」
「きみはそんなことしない」入り口扉に立ちはだかる彼女は、ゆらりと顔を上げた。
「誰かが持っていっちゃったのかな?」
「私の切田くん」
瞳に虚無を湛える女が、壊れた人形みたいに立っている。――カクンと、首を傾げた。記号めいた張り付き笑みが浮かぶ。「誰?」
「絶対に逃さないって言ったよね?」
◇
薄絹に顔を隠す褐色の女性が、ソファの陰でやれやれと毒づく。(……まったく。こんなやり方、私たち向きじゃあないんだよ……)二人組の侵入者のひとり、毒刃によってグラシスを害した側の人物。(うかつなスタブがヘマをするから。プロダ姉さまにも困ったものだよ)
(…もともと気の利かない娘だったんだ。いつかこうなるとは思っていたさ…)どうにもそりの合わなかった末の妹を、彼女は苦々しげに思い出す。
――パトリオッタ二番『追跡者』。元々は三人組のユニット。(今は二人だ)彼女はクスタ=エミュ。三姉妹の次女である。
姉妹によく似た端整な顔を薄絹で隠す、褐色のエキゾチックな女性。手には致死性の毒液に濡れる、針状の短剣が握られている。(…だからって、姉さまが泣いているんだよ。私だけ酷薄ぶってもいれないさ。まったく…)
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
『わあああ、どうしよう、どうしようエミュ』
『…姉さま、落ち着いて』
『……だって、連絡するっていったもん!今まで忘れたことなんてっ!……あんなに、あんなに真面目な子なのにっ……!』
『(あんたの前だけね)『ハイド・イン・シャドウ』を使っていたら、私らにだって分からないんだから…』
『あいつだ、あいつが殺ったんだ!きっとそうなんだよ、エミュ!ねぇっ!』
『分かった、わかったって』
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(…もうちょっと、私好みに尊敬できる姉さまでいてほしいんだけどな。…それこそ勝手か。…おっと)打撃の轟雷。蹴り飛ばされた巨体が壁を割り、部屋中が大きく振動する。(…ハハ、…すっご。このパワーと迫力。あんなに細いのに…)思わず苦笑い。
(身体強化系の『スキルホルダー』だとしても、大型魔獣並みの出力がヤバい。巻き込まれれば即死も見える…)
(…関わる必要は無い。…とはいえ、こんな綱渡り。大丈夫だよね、姉さま…)彼女たちの持つスキル『ハイド・イン・シャドウ』は、諜報や奇襲、暗殺などに特化し、乱戦向きであるとはとても言えない。
混乱のさなかで我が身の無事を保証出来るものでは無いし、それを推してでも仕掛けた今回は、セオリー無視。強引にもほどがあるものだ。
標的は召喚勇者、覆面の少年。パンデモーヌ伯の強い要望もあるが、――連絡の途絶えた妹の行方を、彼はきっと知っているはずだ。
当の覆面男が、引っ張られてよろめき、……次の瞬間、意識下から消えた。(…やったっ!)姉の『スキル』攻撃。残りの奴らが異変に気づこうと、もう遅い。(ヒュー、やるぅ。流石姉さま、クソ度胸)
(…あら、お上品ではなかったかしら。ごめんあそばせ?)認知以前。お仲間たちは気づいてさえいない。実に滑稽な光景だ。(…ハハ。姉さまも、まあ、よーやるよ)苦虫を噛み潰した顔。(あの暑苦しさも、家族としちゃあ有り難い、って事なんだろうけど…)
(……おっと、動いた)神官女が動きを見せた。
ブツブツ呟きながら入口に陣取り、袖から短杖を取り出し、握る。(『詠唱短縮の短杖』。姉さまも仲間も全部巻き込んで、部屋中に魔法攻撃を放つつもりか…)
(正答ではあるが、…姉さまの邪魔はさせない。私の『ハイド・イン・シャドウ』と毒殺コンボの相性勝ちだっ!)エミュは素早く反応し、飛びかかった。『スキル』を頼りに堂々と、ここぞとばかりに飛びかかる。――気づいていない。
(……今)ヒュウと空気切り裂き、毒針剣を叩き込む。(ハハッ!…取った!)
その針は正確に、女神官の肩口と首元の間に吸い込まれた。――手応え有り。ゴリゴリと骨や筋肉を分け入り、内腑まで届いた感触。エミュはニヤリと仕掛けスイッチを押し、体内に致死毒を注入する。(はい終わりっと)
(…フフ。一方的な企みが通って勝つっていうのはさぁ、…フフフ。得もしれぬ喜びがあるものさ。…ウフフフ。堪んなぁい…)
(…次はデカイのを…)舌なめずりに勝利を確信したエミュは、(……!?)そこで、心底ギョッとした。
戦神官の女は、気にもとめていない。
(……なんでっ!?)致死毒の効果は眼鏡の男で実証済み。だというのに、反応なし。うつろな笑みを浮かべたまま、……とにかく駄目だ。『追跡者』エミュは心底焦った。(死なないどころか、……いや、不味いっ!!攻撃魔法がっ…!?)
『心の光の前からは、誰も逃げられない』無貌を遮る仮面の笑み。――女神官は腕を大きく広げ、三千世界に高々と宣言した。
「『ディバイン』【ピュリフィケーション】。バースト!!」
超高圧の暴風が、爆炸した。
◇
金属ドア並みに横殴り爆風が叩きつけ、炸裂した光粒子群が躰を隅々まで刺し貫く。――脳が焼損する程の激痛。声なき悲鳴を上げながら、エミュは吹っ飛ばされた。
棚や机が張り倒され、突き飛ぶ。眼鏡男ごとソファーがひっくり返る
光粒子の嵐が部屋中を渦巻き、すべてのものを撹拌させる。書類、灰皿、キャビネット、燭台。斜光窓のガラスが割れ、音を立てて窓枠ごとすっ飛ぶ。
入口のドアが歪んでささくれ立ち、バンと外に開いた。蝶番の釘が飛んだ。
「……ほらいたぁ!!!」荒れ狂う嵐と光る粒子の中で、白影が躍動し飛びかかった。暴風引き裂きフード旗めかせ、空中で狂喜の叫びを上げた。
「アハハハハハ!!!ラプチャー!!!」
狂える神官の向かう先。部屋の一角に『姿を表した』もうひとりの侵入者プロダと、標的である覆面の少年の姿。「…な、なんで姿が?…『ハイド・イン・シャドウ』が消されてっ!?」激痛に倒れ伏すエミュは、戦慄に、思わず叫んだ。
「姉さまっ!!」