ベッド上の戦い
「不覚を取ったらしいな、グラシス」
「…すいやせん」
「まあ食え。食って飲め。こういった話をするのは、食事をしながらが一番だ」
遍く異能と数多の暴力犇めく、混沌と財物の坩堝『迷宮都市』の中心部。王城を仰ぐ中央区の内側、豪奢な屋敷立ち並ぶ、選ばれし者の為の御屋敷街。――ここは、『ガバナファミリー』本部の巨大な邸宅。
王侯貴族もかくやと、絢爛に飾り立てられた食堂の内。グラシスは、大きな食卓に座し、組長のガバナと向かい合っていた。給仕にサーブされたのは、芳醇な香りのワイン。そして分厚い、塊の様なステーキ。
ガバナ組長は白髪の老人だ。年に似合わぬ健啖さで、分厚い肉をナイフで切り分け、噛み締めている。
「…んん、…うん。良い肉だ。人の手によってしっかりと飼育管理され、熟成された牛の赤身肉。断面の瑞々しいピンク色は、…んん。焦がすことなくしっかりと、中まで火が通っている証拠だな」
鋭い顔立ちだが柔和で、老人らしからぬ体格を持つ。その顔には幾多のシワが刻まれ、肌にはシミがあるのが見える。――姿勢の良い、きりりとした佇まいではあるが、かなりの歳を重ねているようだ。
詫びを入れる立場のグラシスも、不敵な態度を崩しはしない。……しかし、その額には、薄っすらと汗が滲んでいた。
ツイと、軽くフォークが向けられる。「なあグラシス、安心しろ。この件では無闇にケジメなど取らせんよ」肉が刺さっている。
「ほら、楽にしろ」むしゃむしゃと、切り分けた肉を頬張る。「うん、うまい。肉を喰うのは命を噛みしめる喜びがある」食事に手を付けようとしない眼鏡男に、『食え』と促す。グラシスは言われるままに分厚い肉を切って噛み締め、ワインを口に含んだ。
彼の咀嚼する様子をじっと見届け、ガバナ組長は話を戻した。「グラシス。お前は何が失敗だったと思う?」
「…はい、ガキと女の耐性、状態異常解除手段の確認を怠りました。カタに嵌めきれなかった。油断があったと思います」
老人はステーキを頬張りながら、食事のついでみたいに答える。「聡い子供達だったんだろう。召喚勇者として選ばれた上に、自力で脱出してきたそうじゃあないか」
「いびつなガキどもなのは確かです」
「グラシス」
ぐい、とワインを口に含む。クチュクチュと口の中で転がし、飲み込む。
「そういったものを手元に置くのならばな、」
「『丁重に扱え』。いいな?」
「……」
ナイフとフォークが止まるのを見やり、片眉を上げる。「不服だな?」
「…あの二人はまだガキです。多少の小賢しさがあったところで子供の範疇。世の中を何も知らない、気分で動くだけのガキですよ。あいつらは…」
「大人が子供に向かって『自分は真剣だ』と嘘を付くから、子供は反発するものだ」残った肉を申し訳程度に切り分け、咀嚼する。
「大人の対応と呼ばれるものはな、全てが嘘でできている。十割、すべてがだ」
「正直な気持ちで嘘をつく凡愚共を押さえつけるには、それを塗り込めるための嘘が必要だからだ。気分や雰囲気を悪くする正論などでは人は動かんよ」
「だがな、逆に言えば」
「『大人』には嘘が通る」
穏やかで、さりげない口調。
「騙し、カタに嵌めて追い込んで、仕方がないと思わせればどんな嘘も通る。数で囲み、こちらが正しいと言いくるめて、お前が悪いと責めたてる。…商売とはそういうものだ。我々の仕事に限らずな。それらは決して愉快なものではない」
チラ、と目線が向く。「愉快かね?」
「……いえ」「結構。その手の扇動をひけらかすなど、下っ端相手のみで十分だとも」
「聡い子供など、そういった嘘から遠ざけておいて、適度に餌をやっておけ。そいつらは現状に不満があるから反発するんだ。外より内がマシだと思わせておけば、聡い者ほど慎ましいものさ。…即戦力なのだろう?しっかりと取り込んで使え」
「こちら側は、嘘と愚かにまみれる覚悟のある者だけでいい。『聡い者』は邪魔になる」
「食わんのか?」
「ああ、いえ」手が止まっていたグラシスは、慌てて肉を食い始めた。
「ネッドのことは気にするな。本人にはいい薬だろう。…あれは持って生まれた仕組みが弱かった。血はどうあれ、生物としての強弱はどうしたって出てくるものだ」
「せっかくのユニークスキル持ちだ。気にせずに使い潰せ。代わりはいる」
「…そういうわけにも…」言いよどむグラシス。
最後の肉を口に運び、軽く言い流す。「グラシス、お前に任せる。…俺は気にするなと言った」
「この肉に掛けられた手間を想え。よく考え、上手くやることだ」
グラシスは笑っているのか、恐れているのか、そんな歪な顔になる。
すっかり食事を平らげたガバナ組長は、満足気にナプキンで口元を拭いた。
「勇者の二人は『出入り口』に入れてやれ。限界も近い。色々と都合が良かろう」
「…わかりました」
◇
(……うっひょーい。朝だよ。切田だよ?今日も楽しい一日が、はっじまっるよ〜)切田くんの情緒は混乱した。
(…そういうキャラじゃ無いんだよなぁ。いや、誰だよ…)寝ぼけて頭がぼうっとしている。まどろみを割る強い光が、小窓から差し込んできている。……もう、すっかり日が高い。
グラシス組アジトの部屋、東堂さんとの口論の際に入った部屋だ。――帰還した早朝。東堂さんと手指を絡ませたまま、隣り合ってベッドに座った事は記憶している。
「じゃあ切田くん。ばんざいして」「…え」「はい、ばんざーい」「…バンザーイ」
……何やら甲斐甲斐しくされた様な気もするが、どうやらいつの間にか横になって、途端に眠りに飲み込まれてしまったようだ。(『バンザイ突撃』してって話だったのかな、特攻の…)全然頭が回らない。(違いますよね。知ってた)プヒー。
(……寝落ちしたのか。いつ寝たのか全然憶えていない。よっぽど疲れていたんだな……)
(『精神力回復』と『生命力回復』のおかげか、体調は万全だ。…っと、…そ、そういえば、お腹が減ったかな?晩御飯も食べそこねたし。…ええと、それと…)
(…それよりも、…その…)汗ばむ熱と圧力が、全身に掛かっている。あられもない下着姿の美少女が、無防備に、閉じることなく、自ら望んで密着しているのだ。(…駄目ェー!)
黒髪の『聖女』。ふたつ年上の、麗しき他校の先輩。東堂さんが彼のことを、すっかり抱き枕にして眠っていた。
「…ん…」耳をくすぐる、微かな呻き。すうすうとした息づかい。しっとりと美しくうねる、濡羽色のきめ細やかな髪。芸術的な白磁の如き、薄っすら汗ばむうなじの曲線。
密着に手足を絡める、すべすべした、細くしなやかな半裸の躰。少しの汗の感触。――とても良い香りが辺りに満ちている。
(これはいけないっ!?)本能を刺激する光景が、嫌でも――嫌ではないが、目に入ってくる。これはいけない。(えっちすぎ……ゲフンゲフン)
慎ましやかに胸部をつつむ、細かく刺繍された薄絹のブラジャー。(…ふわふわしていて、生地がさらさらしている…)柔肌とレースの感触が、肌に押し付けられて形を変えているのが分かる。(レースのところがちょっと固いな)
ガーターベルトに釣られた、細やかなレース彩るストッキング。太ももの弾力に、食い込みとの境目が浮き出ている。――ガーターの陰には、繊細な作りのショーツが垣間見える。(サッ)切田くんは流石に目をそらした。
「…んにゅ…」小さな寝言と共に、突然クイと引き寄せられた。
(…あわわわわ…)押し付けられる頬。影を落とす、長いまつげ。――吸い込まれる程に繊細な美貌が、今は日なたの猫みたいに、すっかり無防備をさらしている。
密着越しに、ふたりの肌がもぞもぞと擦れ合う。……ゾクゾクと、心地よい怖気。(アカン)伝わってくる熱を過剰に意識してしまう。脈が煩い。苦しくなる呼吸を必死に押し殺す。鼻息荒くして彼女を起こしてしまうなど、冗談ではない。(……これって……)
(ひょっとして、アレコレしても良いやつではなかろうか)←『?』
切田くんは思って当然の思いつきを、思わず考えついてしまう。(……)
(ま、待て、切田類。…同意を、同意を得てないし。…そもそも寝てる相手をアレコレするのは卑怯で…)物凄い勢いで思考が空転する。するとふと、胸中に薄暗い影が浮かんた。(……『卑怯だから』、手を出さない。本当にそれで正しいのか…?)
(それは、自己防衛の為の正しさだ。否定と停滞にしか繋がっていない。進歩がないんだ……)上辺に縋って即断する事の愚かしさ。この世すべてが黒き泥濘に沈む、絶対悪の一因。切田くんの胸に危機感が募る。
(現状をよく見るんだ。東堂さんだって、自分の考えがあってこうしているんだろ。それを思い込みだけで払いのけて、説教ぶって。そんなの、身勝手ないけすかない態度を押し付けているだけなのでは?)相手の心を無視するロジハラマンだ。
しかしながら、ムムムとなる。(……いやいや、待ってくれ。そもそもそんな勇気、僕の何処にあるのさ。欲望に沿って好き放題なんて、僕に出来るの…?)
(ええ!出来ませんとも!怖いもん!嫌われるかもしれないでしょ?ムッキャー!!グギギギ…!!)徐々に人語を失う原始の様相に、――密着する彼女が、うっすらと目を開けた。……起こしてしまった。(しまった!?)
薄目のまま、ぼんやりと、彼女はむにゅむにゅと(人語未満の)何かを言って、目をしばたかせる。
そして、とても気だるげに微笑みかけて来た。「…ん…切田くん。…おはよ…」
「はひ!おはようございます!」
「……切田くん?」寝ぼけながらも胡乱げな顔に対し、ぎくしゃくと首を曲げる。社会の歯車となるのだ。「おはよう、東堂さん。…その、素敵な格好にドギマギしちゃって」
「…落ち着く『スキル』があるのに?」困った顔で嬉しそうに、甘えるみたいに額を押し付けてくる。――気だるく脚を動かして、より深くなるよう、ガッチリと足を絡み合わせる。「……ねぇ……切田くん」
「なんです?」
「…起きたら言うって言ったでしょう?…昨日の、言わなければいけないこと…」
そういえば、そんな事を言っていた。「ああ。どうぞ」「……ふふ……」上体を起こし、覆い被さる彼女。……すぐ側にいるのに、なにかが挟まる感覚。どこか遠くを見つめる瞳。「あのね?昨日ね…」
――奇妙に張り詰めた声。虚ろな『聖女』が、妖しく囁く。
「私、エッチされそうになっちゃった」
◇
「えっ…?」
(……ぐっ……)「……何ですって?」襲い来る圧搾と警鐘。窒息する程に息が狭まり、脳が捻れて赤白に感光する。『精神力回復』が音を立てて軋んでいる。
……覗き込む東堂さんが、どこか、うっとりとした表情になった。「…ふふ…」(…何でぇ?)「…その…無事だったんですよね?…誰にです…?」
「ネッド。あのスカウトマン」親密な、内緒話に顔を寄せる。――耳の穴より脳に直接吹き込む、奇妙に浸透する囁きが続く。「…あのね?精神に作用する『スキル』か魔法で攻撃されて…」
「……私、ネッドのことが好きにさせられちゃったの……」
言葉が途切れ、ねっとりした目線が向けられる。――視線が交錯した。「……それでね?ネッドは、……私の部屋に入りたいって、声を掛けてきて……」覗き込まれている。
「……ねぇ……切田くん。どう思った?」
躰がぐいと寄せられる。……しなだれかかった熱と圧力が、今は、触れてはいけない異物のように感じられる。(…どう思ったか、って…)
(え、駄目だろ。…いや、駄目だろ…)脳が焼け、同時に急激に背筋が冷え込む。体中が酷く混乱している。沸騰に内臓が煮え溢れ、『精神力回復』がガリガリと音を立てている。……肺に流れ込む泥水に溺れ、『ガボッ…』、更に呼吸を乱し、あえいだ。
「……ねぇ。偽物でも、一時期にでも。……私、そうなっちゃった……」金属棒を耳から脳に直接突き刺すみたいに、歪む口元が、ひっそりと言葉を吹き込む。「……大事な、私の心。ネッドに好きにされちゃったんだ……」
「……切田くん…ねぇ…どんな気持ち?」割れる音声、纏わりつく泥の口調。……彼女の瞳は深淵を写し込んだように深く、表情がなかった。
◇
駆り立てられる息苦しさに、切田くんは逆に覆いかぶさった。躰ごとひっくり返して腕を強引に差し込み、ガバリと強く彼女を抱き寄せる。「ひゃああっ!!?」すぐ側より、押し殺した悲鳴が聞こえた。
ふたりの身長にほとんど違いはない。上体を引くと、ちょうど硬直する彼女の顔があった。――ぐちゃぐちゃな感情のまま見つめ、限界まで押し殺した声で、切田くんは一言だけ絞り出した。
「……ここにいてください」
東堂さんはうろたえ、耳まで真っ赤になって取り乱した。……あわあわと表情を変え、泣きそうな顔で視線を外して、
「……はい……」小さく返事。彼女は首を竦め、切田くんの顎に額をつけて表情を隠してしまった。
「……います……」弱々しく、陶然とした呟き。
「…よかった」勢いに任せすぎた切田くんは、心底ホッっとする。(許された。やってしまったかと思った。……自分にだけ都合の良い執着の仕方。良くないよな……)
(彼女の依存が作る距離感に、甘えてしまったな)不正の棘は感じるものの、やらないよりは良かった気もする。(…難しいな…)脱力しきって体を離し、横になって天井を見上げる。「…あっ…」不満げな声が、聞こえた。
軽く首を傾け、問いかける。「それで東堂さん、ネッドとはどうなったんです?」
「あそこを潰してやったの」
「ヒッ」切田くんはタマヒュンした。