朝帰り
水平線を埋める薄暮が徐々に光を放ち、海と街並みを蒼く染めていく。こんな暁差す時間から、港はすでに動き始めている。
港方面へと赴く人通りも増えてきた。荷物を背負う市場の商人。屈強な港湾労働者たち。客船に乗る大荷物の旅人。酔いを残した朝帰りの船員。
……早朝の爽やかな喧騒に、場違いに差し込まれる凶兆。
ヨロヨロと身体を引きずって歩く、汚れたローブの不気味な覆面男がいる。すわ浮浪者かと顔をしかめ、血染めの服や腹の裂け目にギョッとして、穢れを疎み障りを恐れ、人々は足早に離れていく。
(傷つくなぁ)ぼんやりと眺める。世界はもっと、慈愛といたわりに満ちるべきだ。たとえ武器を握ったポン中に、(『ヒャッハー!お前の命だよぉ!』)いいように飛びかかられるのだとしても。(…ヤメトケ…)自己犠牲の心はいつだって他人にばかり要求する。
アジトの近くまで戻ってきた切田くんは、……道すがら、東堂さんの人影がある事を発見した。彼女の佇まいには、遠くからでもよく分かる雰囲気がある。
遠き白影は走り寄ろうと何歩か進んだが、立ち止まってこちらを見ているようだ。(……着いたぁ〜……)切田くんは、なんだか心底ホッとした。(…帰ってこれた。…良かった…)
(……疲れた……)息を大きく吐きだし、肩の力を抜く。もはや残された力も空気も何もかも空っぽだ。逆さに振ってもケツの毛まで抜かれて鼻血も出ない。
ひしひしと無言の圧を感じながらも、(…ひえぇ…)早足に彼女へと歩み寄る。
――早朝の街路にて荘厳に咲く、艶やかなる白蘭。精緻な装飾に彩られし、純白のローブ姿。
ダボダボだった鹵獲白ローブが、スタイリッシュな、スラリとした躰のラインが良く浮き出るドレスローブに変化している。正に聖女と言った感じだ。(聖女キャラで行く事にしたのかな?)――留守番の暇を見て、裁縫セットで手を加えたのだろう。(…器用だな…)出来るものなのだろうか。
宵闇に佇む朧細月の如く清楚で、満天の星程に絢爛。気品さえ感じる凛とした素顔に、……通りがかる人々がじろじろと、声を掛けようにも気圧されて、結局物欲しげに歩み去ってゆく。
切田くんは右手の痛みを我慢しつつ、覆面を剥ぎ取って声をかけた。「待っていてくれたんですね。ありがとうございます」
「切田くん」
「はい」
――こちらをじっと見つめる東堂さんは、固い声で言った。
「『待っていてくれたんだ。ありがとう』」
「……はい?」
「言って」
おずおずと、言われたとおりに口に出す。
「…待っててくれたんだ。ありがとう」
「…うん」
そっと伸ばした彼女の手が、裂け目を押さえる焦げた左手を握った。――外気に冷え込む肌の感触と、奥底の温かさ。そのまま握り込んだ両拳を、祈るみたいに胸の前に組む。「……待ってた」固い笑顔を浮かべ、彼女は、覗き込むように言った。
「おかえり、切田くん」
切田くんは素直に答えた。「…ただいま」
「…ふふ…」相好を崩し、安堵の笑みを浮かべた。
誰もが目を引く氷の美貌が、今は、柔らかな朝日に染まっている。
思わず惹き込まれ、見惚れてしまう。……そして、ふと思う。(…そうか。僕がコンプレックスだの何だの、彼女を過剰に意識してしまっているのは)
(そういうことか)初めて見た時のこと。知らず知らずに『精神力回復』が押し殺した、彼の体を支配する感覚。
電流が走り、体が浮わつき、頭に血が昇った。
視線が吸い付き、目が離せなくなった。
気持ちが上ずり、なにか声をかけたいと思った。
胸の奥がざわつき、動悸がおかしくなった。
(…あの時僕は、彼女に一目惚れをしていたのかもしれない…)
宝物みたいに手を握り込んでいる東堂さんは、漂う不吉なそれに、ふと気がつく。(……っ!?)苦痛を伴った電流に、心臓がギュッと締め付けられる。戦慄と悪寒が同時に走る。
水圧に溺れてもがくみたいに『ゴボッ…』、なにか声をかけようと口を開きかけて、……咄嗟に彼の目を覗き込んでしまい、視線をそらす。――ぎこちなくなった笑みを気取られぬよう、顔を伏せる。
彼女は思った。
(……他の女の匂いがする……)
「今日のこと」
「…えっ!?」
「話すことがたくさんあるんです」
東堂さんは、少し慌てた。「う、うん。そうね。…お腹も出して」
「……」
「怪我、しているんでしょう?治してあげる」
「…いえ、お腹は大丈夫なんです」
「……」口をつぐみ、彼の事をじっと見つめる。……覗き込みながらも、遥か遠くを見る表情にも見える。
「その話もします。でも、もう休みましょう。…疲れて頭が沸いてしまって、うまく話せる気がしない」
「……そうね……」握り込んだ手のひらから、両手を離した。
切田くんはチラリと、解放された自らの左手のひらを見る。穴や火傷の痕跡など何も無い、……つるりとした、苦労を知らない少年の手だ。「助かります。東堂さん」
――彼女の遠い声が、雑音を縫って響く。「……切田くん」
「はい」
目線を外し、ボソリとつぶやく。「……『ただいま』って言ったよね?」
「えっ?」
「……帰ってきたよね?」
肯定しようとするも、うつむく彼女が、さらに続ける。――声が遠く、……遠く、響く。
「……私、信じてるから……」
切田くんは、ふと、思った。(…好かれたいな。この人に…)
空っぽから絞り出したありったけの力と、『スキル』を駆使した落ち着きを込めて、切田くんは精一杯に自分を飾り、クールに、キザったらしく答えた。
「ええ。必ず答えます」
思わぬ力強さに彼女はうろたえ、ちらりと目を見る。……力なく、柔らかく笑いかけてくる。「…私も同じ。…実は私も、結構眠いの」
「ふたりとも徹夜ですね。ガバナの人たちに、軽く報告だけはしておきましょうか」
「あの人たちはまだ眠っているわ。オカシラさんも夜のうちに、どこかに行ったみたい」なにかを促すように、東堂さんは続ける。「…切田くんが報告するべき人は、今はもう、誰もいないわ」
「よし。じゃあもう寝ましょうか」
「…ふふ…」力強い手のひら返しに、東堂さんははにかんで笑った。
「…うん。眠りましょう」
◇
熱っぽい瞳が向けられている。
内心の嬉しさもあったが、そこに少しの重荷も感じていた。……右手の覆面を、ギュッと握りしめる。(虚仮威しの仮面は、上手く機能している)――そこには胸が締め付けられる感覚がある。
自分には、彼女にそんな瞳を向けられるに値する、本当のものなどなにもないのだ。
(僕は、東堂さんを騙し続けている)
(…騙さないことが便宜上不可能ならば、東堂さんを傷つけずに騙し続けることが、僕に出来るだろうか)
「…今日も一緒に眠るよね?切田くん…」熱の籠もった、それでいて淡々とした響き。深刻顔の切田くんは、思わず狼狽してしまった。「えっ!?…は、はい!」
「…フフ…」彼女は、その様子に頬を染め、笑った。「…嫌?」
「嫌なわけ無いですよ。もちろん」
「……よろしい」どちらからともなく、手を取りあう。……ふたりの指が、絡み合った。
「……よかった。じゃあ、行こ?」
――自然と見つめ合っている。切田くんは急激に意識してしまった。「……その、服。変えました?似合ってますね?」
「……遅い」
「す、すみませ…」慌て具合からぷいと目を逸らし、彼女は絡み合った手をぐいと引いた。
「…早く」