「『支配』すればいい」
霞みがかった星空の下、細やかな光と淡き月明かりに照らされる、静謐で冷たい、夜の街の空気。――轟々とそれを激しく掻き乱す、油脂の臭い振り撒く、燃え盛る炎の熱気。
一人キャンプファイヤー。ソロキャンだ。(…うぇーい…)とはいえ焚き火はあれどもキャンプギアや料理もなしに、一人寂しく盛り上がるわけにもいくまい。呪術師のズンドコ儀式みたいになってしまう。
安価な居住区、貧民窟の外れ。――屋根に佇む、金色に輝く猛禽の瞳。紅焔と光球を映し込み煌めくその視線が、切田くんの姿をじっと見つめている。
『ルイくん』――耳元より囁き声。遠話の魔法だ。
フクロウを見上げ、かるく頭を下げた。「助けてくれてありがとうございます、ブリギッテさん。突然振ってしまって」
『帰ってきなさい、ルイくん。その手の傷も直してあげる』答えるブリギッテの声は、冷たく、固い。
……切田くんはただ真っ直ぐに、静かに答える。
「…ブリギッテさん。僕はそちらには行けません」
『……』沈黙したブリギッテの声が、やがて、冷淡に語り始めた。『結局の所、きみは私の元に戻るしかない』
「…爆弾の話ですか」
『それもある』
少しの沈黙。
『…きみが私と同じというのはね。きみも、私も同じ』
『冷たい人間であるということよ』
『人は、自らの衝動を、無知で支えて生きている』
『美しき腐泥を肯定する言葉を信仰し、その場の都合を正しさと言い立てて、それを他者に擦りつけながら生きている』
『そうやって彼らは傷つけ、辱め続ける。…元からそういう作りなの。辱めによって彼らは関係し、それを脅しに手を組んで、さらに数によって他者を辱める』
『彼らはその強固な辱めの檻で『社会』を作り、自らの『社会』に嫌悪を向ける者を敵と見なして、薄汚い戦争を仕掛けて来ている』
『…彼らの敵は、降りかかる戦火から身を隠すために、嘘と欺瞞の中で生きることになる。…耐えきれなければ、ただ彼らの攻撃に晒され、死んでいくだけ』
凍りついた彼女の声が、感情に揺れる。
『死にたくもない、耐えたくもない。…だったら、誰も彼も傷つけてでも戦うしか、手段は残されてないじゃない』
『戦うことを選んだもの。己が無知を知ることを望み、選んだもの。そんな信仰や逃避にすがることの出来ない一部の人間たちは』
『分かり合えない、という事がどんなことなのか、身にしみてわかっているはず』
――月明かりと炎照らす情景。『魔女』の澄みきった詠唱が、謳う。
『人と人同士が分かり合うというのはね。そこから邪魔な、分かり合えない人間を排除するということなの。そうでしょう?』
『差別し、区別する。…殺し返し、辱め返す。そして追い出す。排除される側には絶対に受け入れられない、ラインの向こう側のルール』
『……とっくにきみは、そのラインを踏み越えている。きみはこちら側の人間よ』
『きみはもう、彼らの中では生きてはいけない』
『あなたは周囲がいくら熱狂しても、どこか冷めている』
『他人の欺瞞もおためごかしも、冷たい瞳で眺めている。…そうよね?』躰の芯の凍えを振り払おうと、言葉が震えた。
『私に力を貸して、ルイくん。私は仲間よ。一緒に来なさい』
『私となら、きみは分かり合える』
『冷え切った心と体を、共感といたわりで温め合える。立ちふさがる問題にも相談し、力を合わせて敵と戦える。排除できる』
『……謀って、苦しめて、辱めて、……それでいて『自分じゃない、こっちが悪いんだ』と言い張ってくるような人達を!!』
『…あの娘と一緒では、それが出来ない』
『私たちの世界には、冷たい世界に飲み込まれた、冷え切ったものしか入場できない』
『きみとあの娘の間には、越えられない世界の壁がある。あなたの中にある本当の言葉は、決してあの娘には届かない』
『……きみがあの娘を選ぶなら、きみとあの娘両方が、その壁の存在にずっと苦しむことになるわ』
『……』
『ねぇ、ルイくん。きみはどう思う?きみと私は一緒?』
『それともやはり、相容れないかな?』
『私は間違ったことを言ったかな?』
◇
(……この人の言うことは、正しいのだろう)少年の胸に、昏く色濃い影が差す。(『まともじゃない人』に関わって生きるなら、たぶん人は、どうしたって冷えていく。…いくら正論や美辞麗句で支えても、…がっかりして、うんざりして、心も体も冷え切っていく)
(世界が熱を奪うから、自分だって冷たくふるまうしかない。そんな世界では、熱くふるまう人なんてみんな嘘つきだ。それは他人を騙すための、焚きつけるための熱なんだ)
(…だけど)
(心の底に熱はある。…奪われたくないから、隠して黙っているだけなんだ)
(……みんな同じはずなんだ。この人だって、同じはずだ)切田くんは、ゆっくりと口を開いた。「…ブリギッテさん。僕も、あなたの言うことは正しいと思います」
『…そう』
「あなたの感じている痛みにも、共感できると思います」
『…うん』
「だけど、僕はあなたに『支配』されるわけには行きませんよ」
『……』ブリギッテの沈黙に、不穏な気配が漂う。
警戒するも、すぐに諦めて力を抜く。「僕だって、まともじゃない人と関わるのは、嫌で嫌でたまりませんよ。何度やったって慣れることじゃない。キツイし、つらいことです」
「だから、ブリギッテさんが抱える痛みは、きっと分かります。ひとりで戦っていらしたんでしょう?」
『……』
「協力は出来ます。僕らは仲間になれると思います」
「だからって、寂しいからって僕を束縛しようとするあなたに従うことは出来ません。そんなのは仲間じゃない、奴隷か従僕です。…僕はそんなの、耐えられませんよ」
「僕は、僕の進む方向に行かなきゃならない。でなければ、あなたの言う彼らと戦えません」
「…そうしなければ、僕の心は死んだまま、朦朧と曖昧の中で生きることになる…」
「ブリギッテさん。僕は行きますよ。僕はそうなるわけにはいかない。僕には僕の戦いがある」ふう、と息をつく。
そして、フクロウをまっすぐに見上げた。
「…行かせてください。ブリギッテさん」
――毅然としながらも、内心には、昏い思いが渦巻いている。(…この人は『精神力回復』に執着している。見返りなしで二度も助けたんだぞ。失いたくなどないはず…)
(…筋道を立てて押し通れば、行けるはずだ…)
◇
『……待ちなさい』闇夜のように冷え切った声。
(あっ…)たちまち察し、諦めと達観がよぎる。(駄目かぁ)バッドコミュニケーション。不正解SEだ。(…逆鱗に触れたかな。正直な気持ちでも、感情に流された分、相手も感情に流される…)
(……ここで爆死か。あの威力ならば、苦しむことは……)激しい羽ばたき。フクロウが切田くんに飛びかかった。「うわっ!?」
なにか軽いものが当たった。頭上スレスレを飛び去る時に投げ落とされたのだ。
『…落としたでしょ。あなたのタクト』
シャープペンシルだ。
「あっ!」切田くんは思わず地面に飛びついて、シャープペンシルをひっつかむ。腕の痛みも構わずに、カチカチと芯が出るか試す。――少し、目頭が熱くなる。
「ありがとうブリギッテさん。ほんとうに困ってたんです!」左手に押し当て芯を引っ込めながらも、彼は早口で言った。
『…っ…』遠話より、何故か、息を呑む気配が聞こえた。
ふてくされた声が続く。『…忘れてないわよね、約束』
切田くんはうなずき、答える。「盗賊ギルドの話ですね」
『無かったことになんて、ならないんだからね』
「どう連絡すれば?」
『…私から行くから』魔力の気配がブツリと消える。――フクロウは円を描き、暗闇の夜空へと飛び去ってしまった。
その姿を見送り、……切田くんは肩の力を抜いて、腹の底から大きく息を吐いた。
「…凌いだか…」
そしてふと、地面に転がるものへと意識を向ける。ガゼルの死体。――今は、本物の死体だ。
◇
燃え盛る炎に陰影を作る、倒れ伏す死体。……今はもう、条理に逆らい動き出すことはない。小馬鹿にもされない。
握ったままの巻物を、そっと引き剥がす。「…『スクロール・オブ・ミサイルプロテクション』。防御に不安のある僕には、すごく助かるものです。貰っていきますよ」後ろめたさに殊勝な声をかけ、巻物を広げる。
「…使い捨てか。ずっと使えれば心強いんだけどな…」
黒い魔法書を思わせる文字が敷き詰められている。これならば『異世界言語』で、必要な時に発動する事が出来るだろう。切田くんはホッとして、巻物を丸めようとした。
「……ん?」
ふと、その文字列たちに目を奪われた。
――いつしか切田くんは、その巻物に引き込まれていた。『異世界言語』でも意味はわからない、文字の羅列。
それは読むたびにしっくりした感覚とともに、体の中に入ってくる。
体の中で断片がつながって、何かを形作っているようだった。
はっと気がつく。
……巻物は、白紙になっていた。
切田くんの背に、電撃が走る。
巻物は朽ち、皺が寄ってボロボロと崩れる。破片は粉になり、見えない粒子となって跡形もなく消滅していく。
固い顔のまま、シャープペンシルを取り出す。そしてブツブツ念仏を唱え出した。
「…『渦巻く魔力よ、我が身を守る球の場となりて、降り掛かる礫を逸らせ』。【ミサイルプロテクション】」
逆巻く風が、裂けた服を一瞬はためかせる。旋風はすぐさま広がって、周囲を渦巻く、球状の魔力場になった。
呆然と、シャープペンシルをおろす。
記憶の中の声が響く。……ガゼルの声だ。『迷宮階下から発掘された強力なアイテム、『スクロール・オブ・コントロールマジック』を自分に対して使ったのだ』
『発動できるスクロールかアーティファクト、あるいは【ブレインコントロール】の魔法を使えるほどの、高度な魔術師をこの国は抱えているはずだ』
そして、白い老人の声。
『重大な取引に使われる、【ギアス】のマジックスクロールがある。国から見てもたいへん高価なもので、効力は絶大だ。魂に制約を刻み込む強力な魔法で、あらゆる解除を受け付けない』
「…ハハ…」乾いた声で笑った。……それは笑いというよりも、笑いを表しただけのようだった。
頭上には未だ『飛ばないマジックボルト』が、周囲の闇を照らし続けている。背後に背負うは、燃え盛る炎の灯り。……油脂が燃え、肉が焦げる臭い。焔はすでに延焼し、火事となって近隣に燃え広がろうとしている。
灯りと炎と黒煙が、覆面に、昏い影を落としている。
切田くんは、ボツリと言った。
「……見えたぞ。勝ち筋が」