さよなら、切田くん
星空の洞に墜ちゆく照明弾の閃光が、切れかけた蛍光灯みたいに明滅し、急速に光量を失って燃え尽きていく。――そして街は、有るべき姿を取り戻す。
宵闇、月明かりの下。
腹腔よりこぼれ落ちそうな何かを止めるため、切田くんはぼんやりと、かつ必死に血塗れ腹袋を押さえ続ける。……シャープペンシルが取り落とされて、地面に転がった。(…これ、中身を地面にこぼしたら…死ぬ?)
(腹膜炎?)
(敗血症?)
(嫌だ)
(出血性ショック)
(死にたくない)
(嫌だ)
(嫌だ)
歯の根がカタカタ言っているのが分かる。二の腕や膝上もだ。ちょっと面白い。――錯乱し狭窄する思考を、『精神力回復』がカリカリと鎮める。(よし)
(落ち着け、切田類。上を向いて仰向けになるんだ。手術台に寝転がるみたいに…)崩れる様に膝を突き(ガクー)、寝転がる(バターン)。出ていこうとしていた腹腔の中身は、重力によってまたうまく収まったようだ。
「セーフ…」(アウトだよ…)やはり、決戦前にヤクザサラシを巻いておくべきだったのだろう。(先人の知恵だね。ヤクザサラシはヤッパやドスで腹を裂かれても、モツ撒き散らさずに戦い続けることができるんだ。チャカ相手には意味がないので廃れてしまったんだよ?)嗚呼、素晴らしきはヤクザサラシだ。(腹マイトとかも良いよね…)
切田くんは、ふと、思う。(これは、死んだな)
(……いやいやいや、何勝手に諦めてるんだよ。俺はまだ死にたくない)
「いくらなんでも、これは詰みだよ。僕の攻撃は何一つ通じなかった。それどころか僕は今、腹を裂かれて動けない。…出血もある。もはや時間の問題だ」
(さっさと逃げ出して、東堂さんの所までたどり着けば良いんだろ。あの人の回復の力なら、きっと元に戻してくれるはずだ)
「あまりに遠すぎる」自身をたしなめ、切田くんは思う。「ここに来るまでにだいぶ歩いた。港のアジトまでかなりの距離がある。第一僕は、今、歩けない」
(だからこのまま、脚だけででも這いずって進めばいいだろ)
「それじゃあ半分も行かないうちに夜が明ける。やるだけ無駄だ」(嘘つけ。恥を晒すみたいで恥ずかしいんだろ)
切田くんは黙り込む。
(それみろ。それにもし、東堂さんが追いかけて来てくれていたらどうする。せめてこの場を離脱するだけでも…)
「…あの人は『待ってる』と言ったんだ。真剣だった。それを翻して、黙って着いてくる人じゃない」(……)
「わかるだろ?自分を騙して騙されたフリをして、そんなことになんの意味があるんだ。もう嘘もペテンもハッタリもうんざりなんだよ。インチキさえも出る幕じゃないんだ」この状況を覆す理は、もはや存在しない。その感覚は、歯車の様に噛み合っている。「終わりだよ」
(……あのなあ……)――昏い衝動が、膨れ上がった。
(…駄目駄目駄目、何でも駄目かよ!!)
(だったら代われよ!切田類。こんなところで死んでたまるか!!)
(勝手な了見で僕らを巻き込んでおいて、素知らぬ面してる奴らに目にもの見せてさぁ…)
(…それどころか今頃のうのうと、豪華な飯でも食いながら談笑でもしているんだろ!僕たちのことなんて片隅にさえないんだ。意識さえしていない!)
(…そういう奴らを歯噛みさせてやらなけりゃさ、救われないだろ!)
(救われないだろうが!僕が!!)
「復讐?」(復讐じゃあないっ!!)自分の中の激しい衝動と、『精神力回復』に制動された自分。……その乖離が進んでいるのを感じる。
ふと、昨晩のことを思い出す。――押し付けられる躰の熱、きめ細やかな白い肌。密着を通した呼吸と拍動。魔法の光に照らされる、心を隠す固き美貌。――それらを彩る影。
なのに、すっかり安心し、柔らかにクスクスと笑いながら、力を抜いて寄りかかる彼女が話した事。「……『スキル』の、コントロールか……」
「…あのね、これだけはっきりと認識できるようになった今なら、たぶん代わることは出来ると思う。…でもね」言葉を一旦切る。
「今、めっちゃ痛いよ」
(あっ)(……)脳内の切田くんは、しばらく口をつぐんだ。
(…あー、…うん。やっぱいいです)「だと思った」(うるさいよ自分。…とにかくさぁ、ここで諦めるなんて何の意味もないだろ。体はまだ動くんだから)
(気分を楽にするためのスキルじゃない。そのための『精神力回復』だろ。…今は、正しさなんて知ったことか。理屈なんて出る幕じゃないんだよ)
(ほら動け。僕だってまだ、死にたくなんかないんだろ?)「しょうがないなあ切田くんは」
◇
今度こそ【ウーンズ】は直撃した。腹を押さえて崩れ落ちる覆面。――戦闘終了。ブリギッテは肩から力を抜いて、ぷふう〜、と、長い安堵のため息を漏らした。……本当やれやれである。
使い魔のフクロウ、ブランシェの視覚を通した魔法戦。長距離の魔力回線を通すことによる減衰、相対的な高コスト化があり、さらには集中力(有限なリソース)もかなり使うため、本体である『魔女』の負担は大きい。「…はぁ〜、疲れた。ようやく終わりよ。よくやったわねブランシェ」
「…ん?…うるさいねホント君は。余計な事言わない」
目をしぱしぱさせながら「あーあ、今日は本当、散々な一日だったなぁー…」腰のポーチをあさり、小さなガラスの試験管を取り出す。……半透明の青い液体。かすかに泡立ち、コルクで栓をされている。
ぽんと抜くと、中の液体を一気に飲み干した。コルぽんだ。「…ふぐ……うぇ…」顔をしかめ、三角帽子の乗った頭を軽く振る。「いちご味」
「このえぐみもなんとか出来ないかな。…薬効成分が絡むから…」コルクを慎重にはめ直し、ポーチへと戻す。あらためてブランシェの視覚に同調し直すと、「……?」
……仰向けに倒れたままの覆面魔術師が、ズルズルと這い擦っていた。
「…えぇ…?」何この、……何?である。どう言ったらいいのか。
とにかく覆面魔術師は、仰向けのまま、足を使ってズルズルと体を押し上げている。……これで逃げているつもりなのだろうか。「…フフッ…?」笑えないし、悪あがきにしてもこれは酷い。
「…んー…」ブリギッテは三角帽子ごと頭に手を当て、なんとも言えない微妙な顔になる。「何かしらこれ。なんて言えば良いんだろ。困ったな…」パタパタと足裏を鳴らし、……本当に深く、腹の底からため息をつく。「…うーん…」
ブランシェを敵の近くの屋根、角度で遮蔽になる位置に止まらせる。……地面を這い擦る逆さなめくじめがけ、魔法の詠唱を開始した。
「…『魔力を伝い、ささやきを伝えよ』。【ベントリロキズム】」
◇
切田くんは、その身を何度も何度も押し上げて、なんとかその場を離れようとしている。――腹部の裂け目から糞尿の臭いは感じない。ちくわの穴部分、腸や臓器にダメージは入っていないはずだ。(……そうだ、僕の言うとおりだ……死ぬかよ。……死ぬものか……)
(……動け……まだ終わってなんかいない。……動け……動け……)意味さえも擦り切れた、単調な動きの繰り返し。……腹部の激痛もだが、地面の凹凸で背中や後頭部が痛い。土も入ってくる。(…ひぇぇ…)
それでも歯を食いしばって進む彼の耳に、……どこからともなく、はっきりした声が聞こえてきた。若い女性の声だ。
『悪あがきを止めなさい、ガバナの魔術師さん?これ以上の抵抗をしないのならば、命までは取らないわぁ』
(…どこかで聞いた声だ…)切田くんは遠くを想う。それでも足は、止めない。…ズルズル。…ズルズル。
女性の声は、呆れた口調を尖らせる。『…あのねぇ。いい加減にしてくれないかな。あなたはとっくに負けてるし、そんなざまで私から逃げ切れるわけがないでしょう。…いくら貴方が気の毒な頭をしていたって、魔術師ならその位、普通は考えられるよね?』
『それとも貴方って、迷惑無視で変わった事をして、チラチラする類の低能なのかな。やることやってるボクすご〜い!みたいな意味のないアピール、他人にとっては不愉快なだけなんだけど。分かんないかな』苛立たしげな皮肉が、這い擦る切田くんを煽る。……それでも、動きを止めるわけにはいかなかった。
確かに、正しいことをしている感覚は失われていた。――だが、ここで足を止めては『死』や『恐怖』などとはまた違う、まとわりつく不吉な何かに呑み込まれ、塗り込められてしまう。そんな感覚があった。(…別に、誰が見ているわけでもない。敵一人しか見ていない…)
(結局のところ、笑われるのが怖いんだ。攻撃の的にされることが怖いんだ)
(……夜の静寂。暗闇。別の世界。知らない街。水袋の覆面っ……)
『ほんっと、これだもの…』諦めのため息。『それに、私にだって都合という物があるの。ほら、止まりなさい。…ねえ、あなたが私の雇い主たちを皆殺しにしちゃった話、あなたから組合に説明してほしいのよ。派遣の元締めである『盗賊ギルド』にね?』
『…そうしないと、あなたのせいで、何故か私の責任が問われることになる。ひどい話だと思わない?ちょっとは責任を感じて欲しいの』
(……そう、でしょうね。まあ)助っ人傭兵を雇っていた特殊部隊が、雇われひとりを残して全滅したのだ。問題にならないわけがない。
女性の声は、ぐったりと続けた。『…でもまあ、あのわりと手練を倒した敵を、生き証人として持ち帰れば。今回の不可抗力性をある程度は証明できるかもしれない。…頭の固い凡人どもにそれを納得させるのは、面倒だし不愉快なことだけれど。やらないよりはきっとマシよねぇ』
『お仕事ってほんっと大変なのよ。食べていかなきゃいけないし、買いたい物もたくさんある。そのためにはまだ干されるわけにはいかないのよ。…ま、それも分かるわよねぇ。あなただってガバナに雇われているのだから』
一方的な通告が、――急速に不穏な空気を纏う。『ああ、もちろん。あなたにはこれ以上戦えない、逃げられない状態にはなってもらう。ある程度の痛々しいことは勘弁してちょうだいね?』
『…うふふ…ねえ。あなたって思ったよりかは強かったわ。だから私は、最後まで油断などしない。…そうねぇ。まずはあなたが詠唱をしても分かるよう、その覆面を取りなさい』
……ふと切田くんは、声の主に思い至った。(聞いたことのある声、声を届ける魔法。下着売り場で会った魔法使いのお姉さんか。…つまり…)
(後ろに居たのか)ランジェリーショップでの邂逅。ささやく魔法に気を取られ、背後より現れた『魔女』の姿。(戦う前から負けていたんだ)
(鳥を魔法の遠隔射撃プラットフォームにしていたんだな。軍事ドローンみたいに。…つまり、僕は囮に釣られていただけだった…)落ち着きさえ呼ぶ納得に、別のことにも思い至る。(…そうか。戦いの中でも僕は間違えたんだ。正解は…)
(『照明弾を囮にして、物陰と闇に紛れて逃げる』だったんだな…)
(逃げたってよかったんだ。いくら空から探されようが、服と覆面しか見られていないんだから)
(失敗したな)
(……)
いつしか、這いずる足は止まっていた。
(…そうだ。覆面を剥ぐんだったな。待たせちゃいけない)
(覆面を被ったり剥いだり、被ったり剥いだり。忙しいな。…ハハ)
(…ああ、そうだ)
(命乞いをしよう)
(ちょっとは知った顔だし)
(命までは取らないと言ったじゃないか)
(そうだ、それがいい)
(少しは気に入られていたみたいだし…哀れな声で取り入って…)
(命乞いを…)
(…顔を見せないと…)腹を押さえる血塗れの片手を、もったりと差し上げる。
(……手が……重いな……)
震える右手を顎に当て、水袋を剥ごうとする。……力が入らず、うまく剥ぐことが出来ない。
仕方がなしに、やっとの思いで左手も腹から引き剥がす。精一杯に力を込めて、なんとか覆面を剥ぎ取ることが出来た。
ひと仕事を終え、地面へと投げ出す。そして、弱々しく、苦しげに息を吐く。(……もう、動けない。動かないな、体……)身体の感覚が、まだらに失われている。――必死で掴んでいた何かが、ブツリと、どこかで千切れたのが分かった。
遠くで誰かが呼んでいる。思考も同様にまだらな歯抜けになって、それぞれの繋がりが失われていく。
――混濁する意識の中、切田くんは思った。
(……死にたくないな……)
(……ごめん、東堂さん。……そうだ。やっぱり、僕は……いつもいつも……僕は……)
(……僕は、自分のことばっかりだ……)
(……ごめん……力になれなくて……)
意識が闇に飲まれていく。
切田くんは最後の力で、半開きになった両目を、静かにつむった。