値切り交渉
疎らな灯火と細月照らす、暗灰色の建物の群れ。――夜も更け、闇に蠢く輩さえ捌けた、伽藍堂の無言の街並み。
静謐の帳をつんざいて、哀れな悲鳴がこだまする。悲痛な喚きで慈悲を乞うも、それが言葉を形作ることはない。
「アハハハハハ!どうしたの?言いなさいよネッド!言えるわけ無くても言いなさいよ!切田くんだってそう言っていたじゃない!?」芋虫の無様を見下す、闇夜に躍動する白影。蔑みを纏い愉悦に踊る、清廉なる『聖女』が哄笑する。
商会風の立派な建物並ぶ、夜の港湾区。仕事場だけでなく住居にしている者も多いはずだ(油や蝋燭の明かりが灯っているのだ)が、公演する狂騒芝居を伺う気配は微塵もない。……障ることさえ憚られる。そんな緊張が、静寂を表している。
「……うああ…ひっ…あひっ……」
ヘラヘラ笑う蟲を生理的に嫌そうに眺め、手に持つ鈍器をヒュッと払う。こびりついた穢れを振り払う様に。
そして、
――「悪かったわ?ごめんなさい」
鉄槌を握る彼女は、はっきりとそう言った。
「…へぇぁ?…へぇっ…」突然の救い。痛みとショックと過呼吸の窒息に、おどおどした視線の迷走。
美しき白影は、良い姿勢のままゆっくりと歩き出す。――邪悪なる呻きを外部に漏らさぬよう、原子炉か結界みたいに囲った円をなぞる。「…そうね。そう。いくら聞いたって、こんなに乱暴だと言葉も出ないよね?」
「人がちゃぁんと言葉を使えれば、どんな心の奥底だって、きっと全部、相手に伝え合う事が出来ると思うの。そうは思わない?」
歩みを止めずに覗き込む黒面。逸したくとも引き込まれる、――万物魅了と、そして恐怖。
「ところで、少し疑問なのだけれど」コツコツ周回しながらも、物欲しげに呻くぐにゃぐにゃ汚物に、心底不思議そうに問いかける。「……ほら、因果の繋がりとか、あるわけじゃない。理解度かな」
「どうしてあなた、そうして黙ってるのかな。あなたは今、罪の許しを乞うのではないの?」
「……許されたければ相応の、言うべきことがあるはずだよね?」
「……んひっ?」ドロドロの顔面と狭窄する頭を必死に動かし、ネッドは言葉を絞りだそうとした。「……んひっ?……ぎょ、ぎょめ」
『なんで足りないってわからないのっ!!!』
怒りの地団駄に石畳が震え、ネッドの両脚部がポインと跳ねた。「っ!!イギャアアアアッッッ!!!…イヒッ…ひっ…いひ…」
「相応の、って言ったよね?どうしてその程度の事もわからないのかな」
「……こんなに簡単なことなのに……」天より高けき、遥かより見下ろす、闇夜に沈む遠星の煌き。
審判に立ちはだかる『聖女』の、聖句の様に透明な宣告は、奇妙な程に影の街に反響する。「良いでしょう。分からないのなら刻みなさい」
「目を逸らせども苛まれ、忘れようと思っても忘れられないほどの穢れを、あなたの隅々から魂の奥底まで」
「それでやっと、あなたは罪の禊を済ますことが出来るの。……ああ、その程度では禊にならないかな?」
虚無を写し出す無貌の美貌が、口角を上げた。
「だって、あなたが禊を済ませるだなんて、私の気分が悪いもの!ふふ!」
壊れた玩具の様にギクシャクと、『聖女』はヘビーメイスを真っ直ぐに振り上げた。そして、「やべでっ!…やべっ…!」くしゃくしゃな小蟲に小首をかしげ、「…ふふふっ」コロコロと笑う。「わかってたよね、ネッド。やめないってわかっているのにどうしてそんなことを言うの?」
「だって、私の躰に手を出そうとしたんだよ。それは許されざる罪。とても許される事じゃないよ。そうでしょう?」
「だってだって、これは…」
「…切田くんのものなのに…」
「……切田くんの」ドンと強く、折れた足を踏みにじる。脳をつんざく痛みと、これから降りかかる事への前知に、ネッドは枯れた声で弱々しく絶叫した。
「切田くんのぉ!!」振り上げた腕に全身が漲り、獣の眼光が憤怒に染まる。――ギュギュ、と、ヘビーメイスの柄が音を立てた。
『切田くんのものなのにいいいいいいいいいいいいいいいいいいぃっっっ!!!』
躰をバネのようにしならせて、堅き大地を岩断するが如く、――東堂鋼という女は音速の絶叫に大気引き裂き、脳漿撒き散らすべく邪智暴虐の鉄塊質量を振り下ろした。
「カシラぁっ!あそこです!!」夜の向こう側より、叫び声が響いた。
「……」ヘビーメイスのシャフトがメキメキと音を立て、骨肉を潰す寸前で急停止する。風圧に男の顔が歪み、周囲一斉に塵芥が舞った。
彼女は錆びた機械の様に、ギギギ…と首を動かす。
『……邪魔僧が……』
地の底より響く声を漏らし、声の側へと向き直った。
ズカズカとなだれ込んでくる一団。両脇にならず者たちを従える、眼鏡を掛けた長身痩せぎすの男。グラシスだ。「おいおいおい!やめろやめろやめろっ!何をしている!!」
「やめろ?…ふふ。どうして?」強面ヤクザの眼鏡に向かい、彼女はクスクスと艶やかに笑った。「彼の雇い主だから責任を取ると言いたいの?…それともあなたが、この件の責任者なのかな?」アイスピックみたいに突き込まれる、氷点直下の声と視線。
其れを放つは、極地の暗精。――鬱蒼と繁る都市の森、闇の帳に淡く白妙浮かび上がりし、奈落の姫巫女たる神授造形。
――思わず、目を奪われる。ならず者たちでさえ恍惚とさせる、真冬の細月思し召す、鋭利で冷たい、星空の燭光。
視覚からの精神汚染を意にも介さず、グラシスは高慢で尊大な態度をぶつけてくる。「とにかくやめろと言っている。新参風情のお前が早々に問題を起こすなど。…いったい何を考えている?」
「……ああ」「…アハハ…」乾いた笑い張り付かせし彼女は、くるりとヘビーメイスを逆手に持ち替えた。「……」深淵より、煮えたぎる溶岩が噴出した。『…ワガママを』
『言う人はああああああああああああぁぁぁーーーっ!!』
渾身の力で突き下ろされたヘビーメイスが、ネッドの下腹局部に突き刺さった。
「ギャアアアアアアア!!…うきゃっ…あひゃあぁ…ぁ…ァ…ぁひ……」死んだカエルみたいなネッドは仰向けのまま、引き裂かれた絶望に絶叫を裏返し、ビクン!と跳ねるほど痙攣した挙げ句に、……何だか幸せそうな顔で、泡を吹いて白目をむいた。
「……汚らわしい……」生理的嫌悪を込めて、ヒュッとヘビーメイスを振り払う。そして『聖女』は正しく向き直り、深い笑顔でニッコリと笑った。
「引っ込んでいて?」
◇
凄惨かつ異様な光景に、取り巻きたちはすっかり及び腰だ。股も押さえている。グラシスは嘆かわしそうに顔をしかめる。「…そいつが死ぬと、組にとっての損害が大きい。今後の運営に支障が出る」
「あなたの組の損害と、私に何の関係が?」足元で泡を吹くおぞましい蟲に、ちらりと無機質な目線を向ける。「彼は私を卑劣な罠にはめ、陥れて辱めようとした。その報いは受けてもらう」
「…何の根拠があってそう言っている?」「うっわ」グラシスのあくまで強い態度に、心底失望した声を漏らした。
「マフィアやヤクザというものは、男を売る商売だと記憶していたのだけれど。…これじゃあ、そこらのペテン師と変わらないわね」「……何?」不愉快げに凄む眼鏡男に向かい、冷たく平坦な声を投げ掛ける。
「あなたに出来るのはふたつだけ。黙っているか、責任を取るか。私を黙らせるための言い立てしか出来ないのなら、うっとおしいから黙ってて」
「…俺の顔に泥を塗るつもりか?迷宮入りがおじゃんになるだけじゃない。…お前この先、顔を上げてまともに歩けると思うなよ?」鋭い目のまま譲らず、グラシスは落ち着いて淡々と凄む。
「一生後悔したってし足りねえ。お互いの顔もまともに見れなくなるぐらいに、徹底的に、必ず追い込む。堕ちる限界を踏み超えてな。そうすりゃ綱紀を引き締める良い見せしめになる。…それがガバナを敵に回すということだ。よく考えて口をきけよお前」
東堂さんは、空虚な顔でコテンと頸を傾げ、口元だけでニッコリと笑った。
そして、蛇の軌道でヘビーメイスを高く振り上げ、刳り込むように振り下ろした。……ネッドの心臓、胸骨に向かって。
「待て!!」
鈍器がギシリと止まる。汚物の胸部をばっちいと嫌がって、彼女はやれやれとヘビーメイスを地面に載せる。
グラシスは鼻でため息を漏らし、何の気無しに続けた。「そいつに指示を出したのは、俺だ」「そう」東堂さんも調子を合わせ、興味なさげに答える。
そしてユラリと、グラシスの方に向き直った。
「じゃあ、あなたの命をもらうわ」
「な、何を言っている!!」ならず者が凄んだが、「黙ってろ」グラシスが叱責する。
「だって、あのままだったら私は、死ぬより酷いことになっていたのでしょう?堕ちる限界を踏み越えて」
「ふん。野良犬に噛まれる程度のことだろうよ」
「へぇ?自分でなければ気楽なものね。一度体験してみたら、わかるようになるんじゃないかな」
煽る女を意識の上から睥睨し、ニイッと口元を釣り上げて、――グラシスは尊大な態度で言い放った。
「やってみろ。殺れるものならな」
「アハッ」東堂さんは虚ろに笑い、両手と肩にヘビーメイスを担ぐ。……虚無を映し出す深淵の瞳が、極光を放った。
『ぁああああああああ』ギラギラ光る猛獣の瞳が、――望威肉塊。破壊と狂気の炎を宿す。強弓の如く撓んでいく躰が、静かに大気の渦を割る。空気の反発さえも弾性に込めて、限界まで躰を引き絞った『聖女』は、
『あああああああああああああああああああああああああああああっっっ!!!』地脈震わす弾丸突撃。豪と大気を引き裂いて、眼鏡ヤクザめがけ憤怒の鉄槌を振り下ろした。
何かを呟くグラシスが、指輪だらけの左手を差し上げる。……衝撃寸前。ヘビーメイスが何かに阻まれ激突した。螺子切れる打撃音と擦過音。――飛び散る魔力の火花が、不可視の盾を浮かび上がらせた。
石畳が空間ごと弾ける。ギシリと、不敵を崩さぬグラシスの体が軋んだ。ギャリギャリと火花散らして遮断面を滑り、ヘビーメイスは威力を保ったまま床面へと激突した。……浸透する衝撃波。
地盤が爆発。残った石畳ごと弾け飛ぶ。その破片さえもグラシスには至らず、見えない何かに弾き返される。
忌々しげに瞳を光らせ、彼女は再びヘビーメイスを振り上げようと、――「おい」グラシスは、涼しい顔で言った。
「ここまでだ。俺は筋を通したぞ、トードー」
◇
「戯言を…」東堂さんは眉をひそめ、ヘビーメイスを担ぎ直す。
未だ一撃の間合い。グラシスは素知らぬ顔で続けた。「ネッドは俺の命令で、お前に致命的な攻撃を仕掛け、失敗した。そして今お前は、俺に対して殺すつもりの攻撃を仕掛け、失敗した。これでトントンだ。違うか?」
「……」
彼女はしばらく沈黙し、ボソリと答えた。
「詭弁が過ぎるわね」
眼鏡男は小馬鹿にして鼻で笑う。「筋を通した相手に向かって、笠にかかって尚も噛み付く気か?そこらのチンピラだってお前よりゃ少しはマシだ。下衆の根性丸出しだな。なあ、トードー」
「いいえ、あなたは筋を通していない」
毅然として答える。
「今あなたは、私の攻撃を防げると思って待ち構えた。見えない場所からのたくらみに絡め取られる寸前で、幸運にも脱した私とは違う」
「…ふん」グラシスは鼻で笑うも否定は返さない。
すっかり冷静さを取り戻した東堂さんが、静やかな声で続けた。「だから、もう一回だけはたかせて。それでチャラ。どう?」
「私の気持ちもそれで収まる。彼も見逃す。あとは黙って切田くんを待つだけ」
「…あなたへの挑戦の意味合いもある。どう?」
「……」グラシスは用心深げに、眼鏡の奥を光らせる。
(よっぽど次の一撃に自信があるらしいな。許容量を超える打撃で【フォース・シールド】を破る算段か。…巨岩の直撃さえも防ぐ遮断力場。打撃で破れる盾ではないが、相手は召喚勇者だ。念を入れておいたほうがいい…)
(そして、こっちの手札は【フォース・シールド】だけじゃあない。迷宮の魔法とアイテムで、幾重にも武装していることはわかっていないようだな…)愉悦の凶相をニヤリと浮かべ、(少々コストは高くつくが、ここらで力の差を示しておくのも悪くはない。…第一、血が沸き立つじゃないか!クハハ!)グラシスは応じた。「いいだろう。来い」
「…ふふ」東堂さんはゆっくりと、ヘビーメイスを蜻蛉に構えた。
――受けて立つ眼鏡男は、着々と仕込みを整える。
(『スクロール・オブ・エコースペル』、発動)
懐に忍ばせた巻物が発動し、熱のない炎に焼かれて消えた。
(【フォース・シールド】)
詠唱短縮の指輪が光る。先のスクロール効果で【フォース・シールド】の魔法が重なり合い、二重に起動した。
(『リング・オブ・プロテクション』、起動)
指輪のひとつが魔力を放ち、物理防御の強固な被膜が展開された。
(『障壁集中』)
展開する『障壁』が前面に集まり、密度を増したことで、物理攻撃に対する反発力が発生した。
万全の体制。血の滾りにせせら笑い、小声でひとりごちる。(…実力の差、というのは細かい手札の集まりだ。インチキ持ちの『スキルホルダー』が、まさか卑怯とは言うまいな?)「どうした。来ないのか?」
「ふふふっ」優雅に笑う東堂さんが、ヘビーメイスを片手に担ぎ直し、左腕を突きつける。――袖の中に仕込まれた、バトン状の何かを握っている。
詠唱短縮の短杖だ。
「『ディバイン』【ピュリフィケーション】。不浄は消えなさい」
よろめくほどの暴風が吹き荒れた。
「何っ!?」強風に煽られたグラシスに、飛蝗の如く光の奔流が襲いかかる。細かい粒子が通り抜けた全身に、焼け付く様な痛みが走る。「ぐっ、…なんだ!!?」
乱気流に暴れ狂う光の粒子が、不可視の二重盾を消していくのがわかった。集中展開した『障壁』さえもグズグズに穴が空き、まだら模様に消えていく。
指にはめた『リング・オブ・プロテクション』がキイイと高音を発し、中指ごと巻き込んで爆発した。
「おおおっ!!」
爆炎と、光る嵐の中。よろめき叫ぶグラシスに、張り付き笑いの『聖女』が高圧旋風をブチ抜き踏み込む。――猛る暴風をつんざき反響する、高みより降り注ぐ無慈悲な宣告。
『控えよ、下郎!!!』
刃物の如く振り下ろしたヘビーメイスが、グラシスの肩に食い込んだ。……メキメキと音を立てて、打撃の威力に身体が歪む。
「アハハハハハハ!!」
哄笑に追従して石畳を跳ね、転がり滑る。「カシラぁ!!」ならず者たちが慄き、叫んだ。
「アハァッ…!…殺ったぁ…!」満ち足りし『聖女』が、狂喜と法悦の歌を叫ぶ。「ふふ。引っかかった、引っかかった!ねえ、どんな気持ち?」
「隠された罠にまんまとかかって、あざ笑われる気持ち!ねえ!?」
「……ひょっとして、聞こえていないのかな?聞かれたことぐらい答えなさいよっ!アハハハハッ!!」艶かしくはしゃぐ東堂さん。
……土埃にまみれながら、ゆらりとグラシスの身体が立ち上がった。
「…へぇ…」彼女は据わった目で睥睨する。「……なんで生きてるの?…ふふ。…自信のほどはあるじゃない」
「…ちっ」心底不愉快げに舌打ちをする。(致命ダメージを一度だけ防ぐ『アミュレット・オブ・ライフセービング』が吹っ飛んだ。…国宝級だぞ!!)
必殺攻撃によるダメージを、『迷宮』のアイテムによって無かったことにしたのだ。――しかし、吹っ飛ばされて転がった痛みはそこかしこにある。
ズレた眼鏡をかけ直し、差配する。「おい、早く闇治癒師のところにつれていけ」「へ、へい!」「馬鹿野郎っ!!そこに寝てる奴だ!!」「へ、へぇっ?」
腕を取ろうとしたならず者を叱責し「…そのぐらい察しろ、ったく…」、慌てて側を離れる様子を嘆げかわしそうに眺めて、……そして不遜な態度の者同士、暗闇に立つ『聖女』を鋭い眼光で睨みつけた。
「話は終わりだ。部屋に戻ってろ、トードー」
「ふふ。早く話を切り上げたいのが丸わかりなのだけれど」張り付き笑いに弄えを載せて、彼女は軽く小首を傾げる。「でもあなた、確かにちゃぁんと、筋は通したものね?」
「……」グラシスはもはや、何も言わない。
「…ふふ。不愉快だけれど、ここは引いておきましょう。切田くんにはこんなところ見られたくないもの」
「切田くんが早く無事に帰ってくることを、あなたも祈ってほしいわね。オカシラさん?」
「でないと」言葉を飲み込み、口をつぐむ。無貌の聖女は一瞥たりともせず、そのままアジトの方へと向かっていった。
◇
「…カシラぁ…あの女、ヤバイですよ…」「…分かっている!!」
弱音を吐く部下を叱責さえせず、グラシスはブツブツとひとりごちる。「…くそ、奴を確実に潰すネタも用意せねばならん。これではただ厄ネタを抱え込んだだけだ。採算などとてもとれんぞ…」
「…狂気で自壊寸前の、手に余る脳筋勇者など」ちぎれ飛んで焼け焦げた中指があった場所を、グラシスは忌々しげに見つめた。
「もはや手駒の価値などあるものかっ!!」
「…ああ、くそっ…」