ランジェリーショップでの攻防
サイズ別に陳列された、色とりどりの下着たち。
丁寧な仕事で飾りあげられた、女性の裸体を彩るドレス。スリップやキャミソール、ベビードールなどの、薄手のランジェリーたち。(…水袋やランタン、火口箱を使っているような世界なのに)
(このアンバランスさ、情報を持ち込む召喚勇者のせいだろうか。…グッジョブと言わざるを得ない。…だけど…)反面、切田くんは窮地の只中にいた。
己の無力さに竦み上がり、――戦慄が、胸の奥底を焦がす。(…いたたまれない…)唇を噛む。彼は今、見目麗しき軍勢に囲まれて、今にも圧殺されようとしているのだ。
(ここは決して楽園ではない。…むしろこのプレッシャー、ここは死地ではなかろうか)
指揮のバトンを振り上げ進む、金モールの華麗なる戦列歩兵打撃群。戦士の館に誘う槍をフリントロックに持ち替えて、腰抜け男をヒール越しに嗤う、マーチング儀仗兵たちの鮮烈なる分列行進。
胃の辺りを押さえる(…エロ苦しい!)切田くんを差し置いて、上品なお仕着せの女性店員と東堂さんが何やら話し込んでいる。
「かしこまりました。では、採寸なさいますか?」
「ええ。お願いします」
「では奥の個室へ。ご案内いたしますよ」
(…僕は外にいたほうが良さそうだ。そう言おう。正直つらい…)孤立無援、敵軍圧倒。陣地も防壁も何も無し。こんな所に居られるか、僕は自分の部屋に帰らせてもらう状態である。
(コメディみたいに『うっひょ〜』ってはしゃげる気概が羨ましいよ。…僕みたいなのがそれをやったら、今まで積み上げた薄い塔が賽の河原マッハなのよ…)鬼!『鬼です』な危機的状況。ドンガラすぎて命がマッハだ。(……出来るかボケぇ……)
切田くんは萎む勇気を奮い立たせて、包囲網からの撤退突撃を敢行しようとした。マジで帰りたい。(三十六計逃げるに如かずだ。他の計なんてひとつも知らないけど、まさに機を見るに敏。この局面からは全力で逃げないと!)「……あ、あのぉ……」
しかし東堂さんは切田くんの機先を制し、奇襲によって彼の側面を突いた。
「切田くんも来るでしょう?」
「えっ」
「あの、お客様?」
当然といった顔の東堂さんに、切田くんと店員は困惑する。……採寸に付き添え、と言っているのだろうか。心は踊るが非常に困る。
「……すぐに戻るわ。待ってて、切田くん」
「はい」
◇
切田くんはめくるめくランジェリーの世界に一人、取り残されてしまった。
これは、決して良い状況ではない。大人の下着売り場の中で、子供とは言えない歳の男子高校生が一人、売り物に囲まれて立っている。(間違いない。変態だ)切田くんに危機感が募る。戦局は絶望的。孤軍奮闘すれば変態だ。
(…僕は今、下着たちに包囲され、殲滅されようとしている。…だっ、駄目だ!決して敵意を見せてはいけない!)
(無関係を装うんだ。目を合わせるんじゃない。…だって、目を合わせたらまるで本当に変態みたいじゃないか!…恥ずかしい…)撤退のタイミングも完全に潰されてしまった。――敵中孤軍の無力など、虜囚か死体の価値に等しい。救助の宛ても遥か遠けきすぎて泣ける。
(…ここで待っていてくれ、と言われてしまった。だったらそれを無視して逃げ出して、素知らぬ面で言い訳すればいいっての?…ないわぁ…)
(…いや、そもそも逃げる選択肢自体があり得なかったんだよ。つまりこういう事だろ?『俺、外にいるからさ。好きなもん好きに買ってこいよ。お前んだろ?ウェーイ』…アカンやつ!そいつ絶対DV野郎だよ!…ぐむむ。僕はそんなチャラ男になる訳には…)全力で偏見を振りかざす。
(…まあ、他に客の気配はない。誰かに咎められるわけでもないか。…だったらこれは自己との戦い…)
窮地死中に活を求め、研ぎ澄まされて高尚となった意識が、今。パーパヤー。――昇華と共に新たな段階を迎える。ニューエイジだ。
(ここは無心で待っていよう。虚となり、空となるのだ。…つらくない。胃など痛くない…)
※下着売り場での話です。
◇
『…うふふ…うふふふ…』
涅槃の悟りを開こうとする切田くんの耳に、不思議な笑い声が響いた。(なにっ!?)ずっと恐れていた事態が、今、この場に起きようとしている。……己が側より聞こえ来る、見知らぬ他人の、年上の女性の声。
『いーっけないんだー。坊やが一人、こんなところで。いやらしい…』
『…もしかして、きみは下着を狙う変態さんなのかな?』
(……ぐうぅっ!?)心底ヤバァイ。引き攣った全身から嫌な汗が吹き出る。切田くんの社会性が危ない。必死に弁明しようと周囲を見回す。(…いない!?)声の主は見当たらない。下着が静かに並んでいるだけだ。(…なぜ誰も……いや、そうかっ!)
「『魔力よ、示せ』、【ディテクトマジック】」
直感的な詠唱。【ディテクトマジック】の魔法によって、周囲の魔力を感じ取れるようになった。……視界の片隅。空中に薄っすらと、小さな魔力の塊が浮いているのがわかる。
(…なんだ?…耳元?)切田くんは、その小さな魔力の塊に向かって振り返った。
「……へぇ……」
その声は、切田くんの背後より響いてきた。
「魔術師なの?その歳で」
(……釣られたっ!?)釣り出しからの後背を突く伏せ打ち。(…魔法は囮か!?)
背筋も凍る奇襲攻撃に、ゾッとして立ち竦んでしまう。……コツコツ、コツコツと、硬い足音が響く。
「へぇー。すっごいんだー」皮肉げな声と足音は、すぐ後ろで止まった。……おそるおそると、振り返る。
交差する視線。疑念と、強い興味の眼差し。
「……きみ、どこから来たの?」
そこには『魔女』がいた。
背の高い妙齢の女性だ。二十代そこそこだろうか。
折れ曲がった三角帽子の鍔の陰。――長い茶髪、気の強そうな美人が、からかい顔で眺めている。
くびれた体型とむちむち箇所を強調した、ボンテージ風のファッション。豊満な北半球を大胆に露出している。ヒールの高い、膝上までのロングブーツに手を当てて、胸を強調するかのように屈み込んでくる。
切田くんの視線は、そのとても豊満な胸部に吸い寄せられてしまった。……大きい。
三角帽を目深に被る『魔女』は、上目遣いに、疑り深い眼差しでじぃっと覗き込んでくる。……圧を感じる、力のある双眸。
信じられぬを手探るように、ボソリと問い掛ける。「…取り乱さないね、きみ」
(…まずい、まずい、まずい…)切田くんは内心、冷や汗でドロドロだ。徘徊弾薬のウェブカメラに睨まれる絶望感。
(…失敗した。僕の対応は最悪だ。…もっと事前によく考えておくべきだった…)
(何もわからない哀れな子供を、おたおたと演じるべきだったんだ。『精神力回復』があれば、そんな無様さだって簡単に乗り越えられたはず。…なのに僕は、逆に、『精神力回復』で賢しげに振る舞って…)
(…クールな自分を自慢でもしたかったのか?何をやっているんだ僕は!?)
状況を甘く見た故の窮地。焦燥に焼かれる胸に、――ふと、昏く冷たい影が差す。
(……変態扱いだけじゃない。僕は他人に踏み込まれて良い立場じゃないんだ。――しかも相手は詮索する気満々の、手管に長けた魔法使い。……状況は思ったよりもずっと不味い。どうする?)
「すごいね。ねえ、どうして動揺しないの?」
「……変ですか?」
「…変よ。すごぉく変」身を起こした『魔女』は、怪訝な顔でジロジロ見下ろす。「…こんなに若いのに」
こうなれば、苦し紛れにでも飄々と煙に巻くしかあるまい。切田くんは『精神力回復』で平静さを保ち、気のない返事を返した。
「変じゃありませんよ。日々苦労しているんです。…そりゃ、こうもなります」
「……」
……『魔女』は黙り込み、口をつぐんでしまった。
そしてまじまじと、冷や汗を隠す少年の覆面(素顔)を、強い瞳でじぃっと睨めつける。
不意に彼女は口を開いた。
「…かわいいね、きみ」
「え」
――突如身を屈め、顔を寄せて切田くんの瞳を覗き込んだ。美人のお姉さんの顔が間近に迫った。(…あわわわわわ…)
整った鼻筋。意志の強そうな眉。鋭くも魅惑的な、誘う瞳。ほどよい紅を差した、ふっくらとやわらかそうな唇。ふわりと鼻孔を刺激する、大人の女性の香り。――同時に彼女の豊満な胸が揺れる。……大きい。切田くんは激しく動揺した。
彼女ははっきりと呟く。
「かわいい」
とろけるように破顔する。勢いよくがばりと、『魔女』は切田くんに抱きついた。
「あぁ~ん、かーわーいーいー!」
「うわっぷ」ガッチリと抱きとめられてしまった。(…ふわぁぁ…)ふかふかした感触に埋もれる。豊満な胸部が押し潰され、吸い付く様に形を変える。やわらかさ。動揺、混乱。心地よさ。やわらかさ。締め付け。男を刺激する香り。やわらか。(……やわらかい……すごい……)意識が真っ白に染まる。…ぐるぐる回る。…ぐるぐる回る。(…なんか包まれる…ふわってなった。…しっとりと張り付く…良い匂いがして…暖かくて…)
(あと、衣装が意外と固い。……いやいや、そうじゃなくてっ!)「ちょ、ちょっとっ!」
「んー…」鋭い抗議に耳をも貸さず、『魔女』は飼い猫にでもするかのように頬ずりしてくる。(…はわわわわわ…)暖かくすべすべな頬。斜めにずれる三角帽子。さらに挟まれ押しつぶされる、ふわふわもちもちした丘陵。
ぐりぐりと頬や全身を押し付けながら、『魔女』は自らの行為に当惑する。
「……なにこれ、なぁにこれぇ……」
「…あー…」
……心の底から安心しきった、幸せそうな声が響く。
「…なんだかすごく安らぐ~」
彼女の締め付けが、ギュウと強まった。
嵐逆巻く大海原に浮かぶ小舟のごとく、めちゃくちゃに翻弄されている。切田くんは吹き荒ぶ暴風雨の中、自らの失策を悟った。(しまった!『精神力回復』の効果が流れ込んでいる!?…ごまかせるのか?)
(…それとも、…いや、駄目だ!敵でもなんでもない人をどうにかしようだなんて、何を考えている!!?)
その時突然、ガバリと、『魔女』は両手で切田くんの事を引き剥がした。
(…えっ…)
挑発的に、覗き込まれている。
……サアっ…と、血の気が引いた。
(……しまった……気取られ……?)
(……や、やば……)
「…きみ…さっき…」
いたずらっぽく『魔女』は断言した。
「おっぱい見てたでしょ」
(…はぁっ!?)
「みみみみてま」
「エッチでヘンターイ!アハハハッ!!」
ガバリと思い切り抱きつかれた。満面に笑う『魔女』にこねくり回されて、再び暴力的な柔らかさに埋もれてしまう。(わああああっ!?なんなのっ!?)
「はぁぁ…楽し…」
一息ついた『魔女』は、ふっくらした唇を少年の耳元へと寄せる。……熱い吐息が、撫でるようにぞわぞわ吹き込まれる。
「……きみ、すごく良い……」
雫の様な、羨望の眼差し。
押さえきれぬほど上気した声で、彼女は甘く、優しく、ねっとりと囁いた。
「……ねえ、ねえきみ……」
「お姉さんのものになって?」
『…何、してるの…?』
背後より、地の底から響く様な声がした。
◇
『…切田くんから離れなさい…』「あら」
ツイと顔を上げた『魔女』は、からかう視線を怨嗟に向けた。「もしかして、彼はあなたのものだったのかしらぁ?」
『……そんなのっ!』『……』東堂さんは反射的に吐き捨て、……そして『魔女』の胸で溺れる少年を睨みつけて、奥歯をギリリと噛み締める。
膨れ上がる衝動に、手が腰の鎚鉾の辺りをさまよう。――周囲の陳列物を、鋭く横目で確認する。
取ったのは無手の構えだ。――猛獣の如き瞬時の踏み込み。爆圧及く豪と大気を引き裂いて、整然と立ち並ぶ商品を打ち震わせながら、
『このぉっ!!』空間ごと割れんばかりに振り抜かれた平手が、唸りを上げて空を割った。
(ちょっとぉ!?)首をへし折られ吹っ飛ぶ『魔術師』の姿が浮かぶ。慌てて首をすくめた。
平手が、空を切った。
だいぶ手前で空を切る。……完全に目測がズレている。巻き起こした強風が、周囲のランジェリーたちを酷く揺らした。(……何だ?)切田くんは驚き、状況把握に混乱する。(たしかに当たったと思ったけど…)
東堂さんも驚愕の表情で飛び退った。――理解不能の何かが起きている。「…今、なにをしたの…?」
「あらあら」斜に構えた『魔女』は、嘆かわしくもせせら笑った。
「私が何かをした、とおっしゃるのかしら?何かしようとしたのはあなたではなくて?」
◇
「お客様!!」上品なお仕着せの女性店員が、血相を変えて駆けつけてきた。それはそうである。
「…やっば」『魔女』はつぶやくと、抱えっぱなしの切田くんをポイと離した。
「お客様がた!!店内での乱暴は困ります!!」
「…だって、こいつが!!」牙をむき出す東堂さんにふらふら駆け寄り、肩にポスンと手のひらを置く。――彼女はハッとして振り返った。
そしてしおらしく、困り顔の店員に頭を下げる。
「…ごめんなさい」
「…あら、残念。…ああいう娘が好みなんだ…」自身とはまるで違うタイプの少女へと駆け寄る姿に、『魔女』は呟く。……からかいの中に、はっきりと落胆の色がある。
余裕の態度で、女性店員に声を掛ける。「ああ、違うのよ。…私が彼女のものに手を出そうとしたの。怒って当然」チラリと目線を向ける。そして東堂さんと女性店員に向かって、『魔女』は艶然と微笑んだ。
「ごめんなさいね」
「困りますよブリギッテさん、若いお客様をからかって」
「だからごめんって。日を改めて来るわ」
ブリギッテは背を向ける。肩越しにウインクし、ひらひら手を振った。
「じゃあねー、ボウヤ?」――店外へと出ていった。
◇
ずいぶんバタバタしたものの、――どうやら窮地は凌いだようだ。切田くんはホッとする。そして、釈然としない顔の東堂さんに、軽く問いかける。
「手、つなぎます?」
「…うん」むくれた顔の東堂さんは、差し出された手をひったくってギュウと握り締めた。痛い。うつむき半歩進んで、くっつく限界まで寄り添う。……あと近い。
上目遣いに、そっと囁く。「……ねえ、切田くん」
「なんです?」
「選んで」
「えっ」
「下着。選んで」
そこには、真剣な響きがあった。
「…えぇ…?」救いを求めて女性店員を見る。営業スマイル。
「もちろん、どのようなご要望にもお答えできるよう、わたくしがお手伝いいたしますよ。どうぞごゆるりとお選びください」
「ちょっとぉ?」切田くんは、必死に懸念を表明した。「…店員さんは嫌じゃないんですか?男がこういった店を吟味して回るのは」
「カップルやご夫婦でご来店なさるお客様は数多くいらっしゃいますし」
女性店員は、ニッコリと微笑んだ。
「大人の下着売り場で年若い少年が、所在なさげにおたおたしている光景は、わたくし大好物でございます」
「あなたは何を言ってるんだ」
「いいえ、それが好物でない人間などいるものですか。有り難すぎて寿命が伸びる」「ちょっと東堂さん。なんとか言ってやってくださいよ」
顔を赤らめ、握った手をグイと引き寄せて、恨みがましくじっとり睨みつけてきた。「…切田くんのための下着なんだからね」
「ちょっ、ええ…?」
女性店員が先導し、前に出る。――手のひらで店内を、広く指し示した。
「可愛らしいものから攻めたものまで、当店は取り揃えてございます」
「きっと、お好みのものが見つかりますよ」
東堂さんは顔をそむけ、切田くんを引きずるようにして歩き出した。強化された腕にガッチリと捕らわれ、逃げることは出来ない。
「…さあ、切田くん。…選んで?」