真なる『賢者』、切田くん
刹那の情を育む小部屋を照らす、ふたつの魔法。――しなだれかかってのしかかる、細らかな重みの圧力。
吸い付く柔肌、下着のレース。うっすら感じる汗の気配に、……浅い、彼女の息遣い。心地良い感覚が渋滞して、錯乱さえ覚える。
光球に翳す、しなやかに絡みつく細身の陰影。
吸い込まれる様な魅惑の美貌。意思を持って迫る瞳が、長い睫毛越しに、じっとりと少年の顔を覗き込んでいる。……固い、作り笑顔。本当は目を逸らしたそうな表情が、これから起きることへの予感に艶を持つ。
重みを預け、カチャカチャと腰のベルトを外す。――身動ぎが影絵となって、蜘蛛の様に妖しく蠢いている。切田くんは『精神力回復』の元でも、何がなんだかわからなくなっていた。
制服ズボンのホックをはずし終えた彼女が、ふたたび不器用に、艶やかに微笑む。
「…切田くん…」
「…東堂さん…」少年も、うわ言の様に答えた。
覆い被さって眺め下ろす、淡い造形。微かに震える、強張った囁き。「…緊張してる?」
「し、してますよ、そりゃ…」声が裏返る。喉が渇いて声が出ない。――「…私も…」生温かい感触。細指が白く蠢き、頬に触れる。「…切田くんって、肌、きれいだね。…女の子みたい」
「…東堂さんの肌のほうが綺麗ですよ…」
「…フフ」少女ははにかみ、困った様に下腹に楕円を描く。……ふたたび固く、艶やかに、わずかに声を尖らせて笑った。「…ありがと。どこ見てるの?切田くんのえっち。…いやらしい…」
「……挑発して。知らないからね、どうなったって……」
上ずるままに、彼のファスナーを下げる。――そして、白魚のような手を蠢かせた。
すると、彼女は何かに気づき、固まってしまった。
……両手を竦ませ、悲しげにつぶやく。「…私」
切なげに目をそらす。
「…魅力ないかな。…女として」
「いやいやいや!それは違いますよ!」切田くんは慌てて(慌てて)答えた。今は慌てる演技も必要だ、と判断したのだ。(待って!…待って違うんであばばb)演技じゃなかった。もっと落ち着くべきだ。
しょんぼり萎縮する彼女は、物憂げに問う。「…さっきのも、リップだった?…私に合わせてくれていただけで…」
「そんなわけないでしょう!」(そんなわけ無いでしょう!?)逆ギレする。(そんなレベチのサラサラしっとり透明肌しといて何言ってんすか!?鏡を見てくださいよ!鏡を!)ビクリとした彼女に向け(…ヤベ)、この奇天烈な状況を何とかしようと、必死に落ち着いて語りかける。
「東堂さんは綺麗で、スマートで、初めて見た時アイドルかモデルさんかと思いましたよ。思わず見惚れてしまいましたし」
(あと、いい匂いがするし、普段からどことなくエロいし、もう最高だと思います)言うべきではない言葉を飲み込み、次の言葉を探す。「…機転も利くし、落ち着いているし、気配りもしてくれる人です。そんな人ってなかなかいませんよ」
「…でも」下に目線を向けて言葉を濁す様子に、切田くんはそれについて、強く弁明する。「僕だって健全な男子高校生です。そんな人に迫られたら嬉しいに決まってるじゃないですか。抱きつかれたら興奮するに決まってますよ!」
「実際、僕の内心はめちゃめちゃキテるんですよ」
「だけど」
苦虫を噛み潰した顔で吐き捨てた。
「落ち着いちゃうんですよ!」
「『精神力回復』で!」
東堂さんは真顔で目をパチクリさせた。
「…そういえば、私もなんだか、変に落ち着いてしまってるわ」
「盛り上がりが無くなったというか、…こう、言いにくいのだけれど」
「性的な興奮が」
「きみとくっついていると、なんだか居もしない弟とくっついているみたいで」
(罠『スキル』…!?)
切田くんは戦慄した。頼り切っていた有能スキルの、思わぬ落とし穴。
(性的な興奮も『精神力回復』で平静に寄せてしまう)
(つまり、強制『賢者』モード!?)
(…こ、これが)
(奴らの言う、『賢者』の正体なのか!?)
「…ちょっと切田くん」額を寄せ眉根も寄せて、悩ましげに抗議する。「ねえ、…ちょっと止めて。『精神力回復』」
「…どうやって止めればいいのかわかりません。…東堂さんはどうやって『生命力回復』を止めているんです?」
「…わかんない。止まっていないのかもしれない」
切田くんはあまりに情けなさそうな顔をした。この世の全ての罪を背負わされし絶望顔だ。
それを見た東堂さんは、こらえきれずにクスクスと笑いだした。
「…笑わないでくださいよ」
「ふふ…ごめん」懸命に抑え込む。まだプルプルしている。
……気になったので、聞いてみる。「……ホッとしました?」
「意地悪ね、切田くん」
「す、すみません」
顔と上体を起こし、ベッドの縁に腰掛けて、なんの気無しに彼女は言った。「もう寝よっか。ちょっと詰めて」
「…一緒のベッドで眠るんですか?」
「もちろん」
足だけで革靴を脱ぎ捨てると、そのまま身を捩ってゴロゴロと壁側へと転がり込む。……東堂さんは下着姿のまま、そっと、隣に白い躰を横たえた。
横顔を眺め、彼女はゆったりとした微笑みを浮かべる。「…おたがい、『スキル』のコントロールを身に着けましょう」
「あるいは『スキル』を抑える何かを手に入れる」
「……」しばし天井を見上げたまま、少年は尋ねかけた。
「こんなことになっても、まだ気は変わりませんか?」
「……」東堂さんも身を横たえ、天井を見上げた。
しばしの沈黙の後、ポツリ、ポツリと呟き始める。
「さっき言ったこと、本当よ。切田くん」
「私、あなたとなら嫌じゃない」
「……こんな気持ちになれる人が、私の前に現れるだなんて。今まで思いもしなかった……」
「だから、ね。切田くん」
猛獣の瞳がギラリと光る。覆い被さる形に顎牙が上がり、空間ごと音を立てて領域をも巻き込む。――引き裂く轟雷に絡め取られるみたいに、腕がすべてを、内側へと捕らえ込む。
柔らかなふくらみが、少女の素肌が、形を変えて密着している。レースの生地も感じる。スラリと長い脚が上がり、金属の掛け金となって、地響きを立てて足に絡まった。
……たおやかな手のひらが、少年の頬を捕らえて、愛おしげに撫で回した。
地の底から響く様な声で、彼女は言った。
『…絶対に逃さない』
……背筋に悪寒が走った。
切田くんは身を固くして、ただ天井を見上げていた。
今の東堂さんは、目を合わせることがどこかためらわれる。そう思った。
涼やかな声が、耳元に囁きかけてくる。「…ねえ、切田くん?」
「なんです?」
「やっぱり欲しいな、私」
「…何をです」
「ふふ」艶然と微笑む。
「下着。エッチな下着」
「……」
「一緒に買いに行ってくれる?」
「…いいですよ」
「ありがと」
「……」
横顔を、微笑みのまま覗き込む。
……全身の重みを掛けて、抱きつくままに、彼女はスゥ、と目を閉じた。
「……やっぱり落ち着く……」
やがて、静かな寝息が聞こえ始めた。
――硬化したままの切田くんは、やっとの事で密着する気配へと意識を向ける。
(…やっぱり疲れていたんだな。『生命力回復』、『精神力回復』とて万能じゃない)
(…安心して休める場所。何とか辿り着かないとな…)
(……『精神力回復』か)燭台と机の上に意識をやり、ふたつの光球を消滅させる。――暗転。部屋を暗闇が支配した。
(東堂さんは『精神力回復』の力に依存している。…僕が思っていたよりも、ずっと)
(……突然振りかかった悪意の連鎖に疲れ、そして、傷ついている)闇のすぐ向こう。絡みつく寝顔を眺めようとして、後ろめたさに目を逸らす。
(そして、近くにあったかりそめの安心に、弱った彼女は縋りたくなってしまっている。……つまり)切田くんは暗闇の中、静かに目をつぶった。
(勘違いだ)
(神経の作用を僕への好意だと思い込んで、自分を粗末に扱ってでも繋ぎ止めようとしている)
(……そんな気持ちにつけ込むなんて卑怯だ……)このままでは、膨れ上がる悪い感情に押し潰されてしまう。プレス式煎餅だ。……仕方なさそうにため息を付き、ベッタリ抱きつく東堂さんの身体を、ゆっくりと押しのけようとした。
静かな寝息が、ぞわぞわと肌を撫でている。
鼓動がトクトクと、肌から直接伝わってくる。
そこには柔らかさがある。しなやかな細い躰が、小ぶりな胸が、脱力した太ももが、押し付けられている。
良い匂いが取り巻いている。嗅いでいると変な気持ちになってくる。
そして、汗ばむほどの熱い体温。
……意識がぐるぐる、ぐるぐる回る。
(…そうだ。ここで押しのけたら東堂さんを起こしてしまうかもしれない。そうでなくとも、目が覚めたときに悲しい思いをするかも…)
(僕の『筋を通したい』というワガママで、彼女を傷つけてしまうことになるんだ…)
(…そうだよ。仕方ないよな?)押しのけるのを諦め、ギュッと強く目をつぶった。……伝わる感覚が全身を刺激し続け、意識いっぱいに埋め尽くす。
…ぐるぐる回る。…ぐるぐる回る。
(……無いな!?安心…!?)バター煎餅だ。
(…これ、意識しすぎて眠れない例のやつだ。…本当にこっちで正解なの?ホントにぃ?…)
「…ん…」切ない吐息。ゴソゴソと身じろぎ。……絡まった足や腕が、より絡み合った。
収まりが良くなったようで、彼女はまた、静かな寝息を立て始める。
切田くんは石灰岩のように固まり、ずっと頭の中がぐるぐるしている。……それでも無理にでもと、脳と身体を休ませようと、両まぶたをギクシャクとつむる。(落ち着けるものか!こんな生殺しの状況で眠れるものなど存在しない。…眠れるわけがない…)
(…ん?…でも、なんだか眠れそうだな…)
(……こうやって、全身や顔の、奥の力を抜けば……)
隣の部屋からはいまだ、男女の絡み合う声と軋む音が聞こえてくる。
(……『精神力回復』。気休めでも、今晩はこうして眠る事ができる……)
(……こういう時は、役に立つんだけどな……)
やがて、切田くんも寝息を立て始めた。