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新本格部シリーズ

早すぎたMy soul

作者: DF946


 人をウケさせる魅力がありながら、その物語の当人としてはあまりに居たたまれない事というのは、よくあるものだ。その本人を嫌がらせる目的でないのなら、ただのロマンチストにはそういう話題を持ち出すのを避けてもらいたいものだ。



 ある2人組のハンターが居て、一人が木から落ちてしまった。もう一人は慌てて救急隊に電話をかけた。

「助けて下さい。相棒が木から落ちて、息がないみたいなんです」

『落ち着いて下さい。まず、生きているか死んでいるかはっきりさせてください』

 オペレーターの耳に一発の銃声が届き、応答が返ってきた。

「はっきりさせました。これからどうすればいいんですか?」——



 ははっ。面白い。make sureの意味を履き違えたんだろうな。

 こういう早とちりとか早合点みたいなものは、誰でもある事だろう(今の例は極端すぎたが)。俺だってよく間違える。それはriceとliceとか、paleとpailとか、dessert とdesertみたいな単純なミスじゃない。油断してると肩甲骨を健康骨って覚えてたり、燕尾服を塩ビ服だと思ってたり、ニコラスケイジを刑事だと思ってたりする。しまいにはシャボン玉ごと屋根までフライアウェイしたり、赤い靴吐いてた女の子が曾爺さんに連れて行かれたりするのだ。

 言い訳じゃないが俺は英語が苦手だ。

 少しぐらい恥をかく間違いなどよくあるし、俺もそういうのは気にしない。まずscaredの読み方が分からなくてスカーレッドだかスクリードだか言っているような一年坊主の男子高校生に、過度な英語力は期待しないでもらいたいものだ。

 前回の英語の授業で、「休みの日には何をしていますか?」という質問に対して英文で答えるという問題が出た。俺は「一人で遊んでいます」みたいな意味を込めて「I'm always playing with myself 」と答えてしまった。……なぜあのときby myselfにしなかったのか悔やんでも悔やみきれない。自分が何を主張したのか知った後には、もうあの若い女性教師の顔は見れなくなってしまった。今思えばとんでもないセクハラである。


 んなこたどうでもいい。

 今俺は、英語の宿題をやっているところだ。二つ繋げた机の対面には友人の多嶋良樹が、ふんぞりかえって本を読んでいる。

 ここは校舎四階の隅にある化学準備室だ。ここはいわば物置き部屋となっていて、放課後になると教師すら寄り付かない恰好の空き教室になる。俺達二人は最近暇な時間を、この誰も来ない教室に入り浸っているのだ。この部屋を俺達がいいように使っている事を知っているのは、あと一人、同じクラスの猿原さんだけだ。

 部屋の隅に雑然と置かれた実験器具にオレンジ色の西日が照りつけ、放課後の学校という雰囲気が目一杯に主張していた。

 で、俺は今、宿題をやるためにこの部屋を使っている。課題はワークブックみたいな問題集を十ページほど。大した量ではないが、毎ページ最後に英作文の問題が出るのが厄介だ。

 ここでやっと冒頭の〝早とちりは危険〟という話と〝俺は英語が苦手〟という話に繋がるのだが、

 実はこの宿題、提出期限が今日までだ。

 今日は掃除が終わったらすぐに帰ろうと思っていた矢先にこれである。完璧に提出期限は明日までだと勘違いしていた。時間もないし明日提出して謝ればいいやとも思ったが、あいにく俺の班の掃除が今日は無かった。掃除をするはずだった四階の化学実験室で、今日に限って特別講習みたいなのがあったらしい。そのせいで、宿題を終わらせるだけの充分な時間が確保されてしまったのだ。めんどくさい。不幸中の災いである。

 俺はさっき思い出したブラックなオチのアメリカンジョークで最後の英作文を埋め、やっと宿題を終わらせた。こんなもので果たして本当に採点されるのかとも思うが、あの先生曰く「英文を書こうという意思が見られれば◯」らしい。やったね。

 俺はワークブックをぱたんと閉じると、背を伸ばした。日暮れがもう薄オレンジ色になっている。もうこんな時間だったのか。

「……そういえば今日、やけに静かだな」

 俺は珍しく黙々と読書をしていた良樹に話しかけた。

「んー、今日?」

 良樹が目を上げる。多嶋たじま良樹よしきは俺の友人であり、自分の事を名探偵だと思ってる変な奴だ。読んでいる本も間違いなく推理小説だろう。

「それは吹奏楽部がいないからね。今日は四階で解剖実習があったから、三階から上の部活動は全部禁止なんだもん」

 ああ、それで宿題が捗ったのか。いつもならこの四階に部室がある吹奏楽部とダンス部と合唱部がめちゃくちゃ騒々しいが、それが今日は誰もいないのだから。

「じゃあこの部活も四階に居ちゃ駄目なんじゃないか?」

「いいんだよ。誰にも僕らの活動を止める事なんて出来ないのさ」

「……それは、これが部活で無い事を認めてるんじゃないのか?」

 俺は良樹を冷やかしながら宿題を仕舞う。

 良樹はこの教室を勝手に使う自分たちの事を、新本格部と名付けている。何が新しいのか、ネーミングの意図はよく分からない。空き教室を無断で使用している事を正当化する為に、ここを部室と名付ければいいとでも思ったのか。そもそも何をする部活なのか、今のこれが活動であるのかも謎だ。俺はただ便利だから居座っているだけだが、俺もその部員らしい。あとこの新本格部の事を知っているのは、同じクラスの猿原さるはら栞莉しおりさんだけだ。彼女は綺麗な外見に似合わないゴツい苗字を持ってる気がするので、もし彼女に愛の告白をする機会が来るとしたら「俺の苗字、使ってみないか」って言えば笑い取れるだろうな、と今一瞬思った。

 良樹はセーブポイントでゲームを中断する感じで、読んでいたページに栞を挟み直す。

「ねえ。やっぱりミステリー小説には、死体が必要なのかも知れないね」

 本を伏せ顔を上げた良樹が、急にそんな事を言い始めた。

「はあ?」

「ヴァンダインだって二十則の中に入れるくらいだもん。人が死ぬ必然性みたいのも、あったほうが良いんじゃないかって、考えてみたんだ」

 何か良樹は今読んでいた小説で、思うことがあったらしい。

「おいおい、この前無駄に人が死ぬ話はどうこう言ってたのはどこのどいつだっけ? 俺の記憶が確かなら、取り敢えず人殺しとけばいいとか考えてる作家は屑だ、みたいな。あの言葉はお前の口から聞いた気がするけど」

「うん、まあそうだけどさ。別に二律背反はしてないでしょ? 確かに不謹慎に記号みたく死体を出す話は嫌いだよ。でも殺人そのものに意味がある話ならいいかなって思ってさ」

 良樹が意味の分からない持論を展開している。

「殺す事が別の目的に繋がってたり、死体そのものをトリックとして使うのだったら面白くない? それに孤島で起こる見立て殺人とか、洋館で起きる連続殺人とか、なんかそういうのワクワクするじゃん!」

 そうですかい。

「犯人にだけはならないように気を付けてくれよな」

 俺はふわぁ、と欠伸をする。筆記用具を仕舞う前に、シャープペンを一回だけくるりと回した。


 そのとき、突然絹を裂くような女性の悲鳴が響き渡り、静寂していた大気を劈いた。

「えっ」

「なに?」

 教室の外からだ。パタパタと上履きが廊下を駆ける音が、校舎の奥から近付いてきている。

「なんだ?」

 悲鳴の正体を知ろうと立ち上がり、俺は廊下へ顔を出した。

 足音とともに細かい悲鳴のような声が、息づかいに混ざって聞こえてきたかと思うと、突然廊下の曲がり角から少女が飛び出してきた。

「猿原さん?」

 倒けつ転びつ駆け出してきたのは、なんと噂の猿原さんだった。顔は恐怖で色を失くし、いつもの冷静な彼女とは思えない焦燥ぶりだった。

 俺が慌てて廊下へ出ると、俺を見つけた猿原さんが、助けにすがりつくように俺にしがみついてきた。

「……、きゃっ!」

 ぽふん、と俺が彼女を受け止める。猿原さんは俺の肩に手を載せ、額を押し付けながら震えていた。怯えているのか。こんなに取り乱すなんて、どうしたんだろう。

「さ、猿原さん、大丈夫?」

 何があったの? と良樹が後から廊下に出てくる。猿原さんは俺達を見て、少しだけ落ち着きを取り戻したようだ。 

「助けて……今、そこで……」

 周章狼狽した彼女が、ふるふると背後を振り返る。それにつられポニーテールと、前髪の両端から下がる触覚みたいな毛先が揺れた。

「人が死んでたの!」

 えっ……

 予想外の言葉が飛び出し、俺と良樹は顔を見合わせた。

「廊下が血まみれで、人が倒れててっ」

「ちょっ、ちょっと待って。それどこ? 僕達も連れてって!」

 良樹が慌てて言うと、猿原さんは「うん」と頷き、俺の手を引いて駆け出した。


 この校舎は中庭が二つあり、鳥瞰すると〝日〟の字で表せるだろう。本当はそれをもっと縦に引き延ばして、他の棟や体育館が横に繋がっていたりするが。新本格部の部室(化学準備室)は〝日〟の字で言うところの、一番下の横棒の真ん中辺りに位置する。

 猿原さんが駆けてきたのは右の縦棒からで、今俺達は彼女に連れられ左の縦棒を上に向って走っている。動揺する猿原さんの話によると、死体を見つけたのは真ん中の横棒ーー校舎の中央通路らしい。

「忘れ物取りに教室に行ったら、男の人が倒れてて、」

 現場に向って走りながら、彼女が必死に状況説明をする。曲がり角に差し掛かると、俺達は勢いよく中央廊下に飛び出した。

「ここっ!」

 一番最初に飛び出した猿原さんが、ばっと指を指す。俺の目に、その惨状が飛び込んできた。

 そこには、大きな血溜まりが広がっていた。

 正視に堪える赤黒い液体が通りの真ん中を汚し、その色にまみれた、大小様々な肉片が一面に散乱していた。息の詰まる鉄のような匂いが、辺り一帯に充満している。

 俺は途端に強烈な吐き気を催し、片手で口許を覆った。なんだよこれ、グロすぎる……

「そんな……なんで」

 良樹も顔を顰め、口許を強張らせている。

 しかし俺達以上に狼狽えていたのは、猿原さんだった。瞼を見開き、信じられないというように目を小刻みに泳がせている。

「死体が……」

 あまりの動揺で声が震えている。そう、俺達が見た廊下には、

 血溜まりの中に、死体など倒れていなかった。

「消えてる」

 俺と良樹は、同時に猿原さんの顔を窺った。

「死体が無くなってる。さっきまでそこにあったのに!」

 猿原さんは理解不能な状況にパニックを起こしかけていた。

「落ち着いて猿原さん、きっとなにか」

 俺は声をかけようとして、続く言葉が見つからなかった。きっと何か? 何だって言うんだ。

 良樹が気持ち悪そうに顔を強張らせつつも、疑いを向けるように彼女に聞く。

「本当に見たの? 死体なんて、何かの見間違いじゃなく?」

「見間違いなんかじゃない! ちゃんと見たの、ここに人が倒れてるのを! これ見て分からないの?」

 猿原さんが声を大きくする。いつもの理知的な彼女とは全然違う。死体になっていた男の事を、本気で心配しているのだ。

「うん……、この血溜まりが証拠だよな……。ここで何かあったのは明らかだろ」

 良樹がまだうーん、と難しい顔をしている。

「じゃあ……、起き上がって、保健室にでも行ったのかな……」

「おいおい、こんなに内臓ぶちまけてんだぞ? 生きて歩けるわけないだろ」

 俺は足元に散らばる臓物を見渡した。これで生きていたら、もはや人間ではない。

 俺の脳裏に、割腹という単語が浮かんだ。無念腹というやつは小刀で十字に腹を開いたあと、自ら内臓を抉り出し、相手に見せつけ投げ捨てたあとに、やっと介錯されるらしい。そんなものを高校の廊下でやられたら、たまったもんじゃない。

「そっか……。じゃあ、ドッキリかな」

 良樹の仮説に猿原さんが反論する。

「ありえない。そんな悪趣味な悪戯。しかもここ学校の中だよ? カメラだって出て来ないじゃない」

俺は血溜まりの傍にしゃがみ込み、顔を顰めながら肉片を見つめた。どれも内臓の切片のようだ。ひときわ目立つ巨大な芋虫のような肉管は、腸の一部だろうか。切断面はどれも鋭利な刃物でズタズタにされている。

「うん。しかもこれ、本物の人肉みたいだぜ。というかこんな血の匂い嗅いだら分かるだろ。ドッキリで本物の血液使ったりするかよ」

 俺の反駁に、良樹も同感のようだった。

「だよね。これだけの出血なら移動できるとは思えないし。やっぱり、失血性ショックで死んでると考えた方がよさそうだね」

 血溜まりの周りを歩く良樹の声は、心無しかワクワクしているように聞こえた。

「死体を直接見たわけじゃないから、事件って断定できないのが残念だけど。これは俗に言う、死体消失事件ってやつだね。もしかしてこれってさ、名探偵の僕の出番じゃない?」

 この非現実的な状況に興奮している事を隠そうともしないではしゃいでいる。不謹慎な奴だ。

「でも、待てよ。その死体が消えてるってことは……」

 俺の言葉を聞き、良樹がフッと笑って断言した。

「死体を持ち去った奴が居る。つまり、男を殺した犯人がいたって事だね」

 はっと息をのむ音が聞こえる。猿原さんが慌てていた。

「け、警察に、職員室に行かなきゃ」

 駆け出そうとする彼女を、「待って」と良樹が止める。

「栞莉はここから動かない方がいい。……誰か、ケータイ持ってない?」

 俺は少し考えてから、かぶりを振った。俺も良樹も携帯電話を化学準備室に置き忘れている。猿原さんも、鞄に入れたままにして生徒玄関前に置きっぱなしにしているらしい。

「そうか……」

「なんだよ、職員室くらいすぐ行けるだろ。早く報告しに行こうぜ」

 俺が良樹を急かす。

「いや、危険だよ。……考えても見てよ。栞莉が僕達を呼んで戻ってくるまでに死体は消えてたんだよ。こんな短時間で死体を隠したって事は」

 俺は、背筋に怖気が走るのを感じた。

「……近くに居たって事か」 

 猿原さんがゾッと青ざめる。良樹が俺の言葉に頷いた。

「まだ校舎の中に居る事は確実だね。……僕の考えだと、犯行現場を栞莉に見つかると思った犯人はその場に隠れて、栞莉がどこかに行くのを待ったんだ。そのあと栞莉をやり過ごした犯人は死体を担いでどこかに行った。これなら論理的でしょ」

 確かに、この廊下は横にトイレがある。トイレは入るとすぐ直角に通路が折れるので、そこに身を潜めて様子を窺えば、死体に気を取られている目撃者には見つからないだろう。良樹がさらに続ける。

「犯人が栞莉の傍に居たって事は、たぶん顔も見られてると思うね。そんな目撃者が、人の少ない校舎で犯人と出くわしちゃったりしたら、どうなると思う? ……僕だったらまだ動かないで、三人かたまってたほうがいいと思うな」

 猿原さんが愕然と言葉を失くす。犯人に顔を覚えられているかも知れない、その恐怖からか、足がすくんで震えていた。

 俺は立ち上がり、猿原さんの傍に行った。

「大丈夫だよ。俺達がついてるから。犯人も三対一じゃ何もしてこないって」

「う、うん……」

 そうだね。みたいな、あまり頼りにされてない感じの返事だったので若干傷つく。良樹は小さいから頼りにならないかもしれないけど、俺なら……

 そこで、犯人が刃物を持っている可能性を思い出し、俺はどんよりした。

「でも、待てよ……」良樹が血まみれの床に視線を落としながら、考える。

「だったら犯人は、どこに行ったんだろう」

 良樹の言葉に俺と猿原さんは、不思議そうな顔を向ける。

「どこにって、そりゃあ下の階だろ。死体を外に持って行かなきゃいけないんだから」

 屋上の解放されていない上の階に持って行く必然性など思いつかない。それに、この廊下の片側——トイレのすぐ向かい側は階段になっている。

「そうだけどさ、でも見てよこれ」

 良樹が廊下の床を指差す。その先には、血を擦ったような跡があった。これは……

「足跡……?」

 猿原さんの言葉に、良樹が「そうだよ」と答えた。よく見ると靴底の跡の様な模様が確認出来る。犯人が、血溜まりを踏んだのだろうか。

 血で出来た足跡は擦れたような線を残し、廊下の奥へと向った後、消えていた。思いのほか探偵らしい所に目がいく。

「あ、階段に向かってない」

 俺は気付いてしまった。階段は血溜まりのすぐ横にある。なのに足跡が向った先は〝日〟の字の右側の縦の棒だ。しかもそれを下に曲がっている。化学準備室へと通じる、猿原さんが逃げた方向だ。

「猿原さんを追いかけて行ったのか? ……目撃者が完全に立ち去ったのを確認してから……。いや、違う。俺達が駆けつけるまでに死体の所に戻って下の階に移動させるなんて、そんな時間はなかったはず……」

 思考を巡らす俺の横で、良樹が言った。

「——まだ、この階に居るのかもね」

「いやだ、やめて」

 聞きたくない、とでも言うように猿原さんが自分の肩を抱き、ぎゅっと目を瞑った。

「死体を担いで、どこかに持っていたのか」

「どこに? ほとんどの教室はもう鍵が閉められてるはずだよ。しかも教室に死体を入れてたりしたら、翌日になったら見つかっちゃうし」

「誰もいなくなるまで隠れてて、夜中に持ち出す気かもしれないだろ」

「だめだね。夜になったら校舎そのものに鍵が掛かっちゃって、内側からも出られなくなるよ。それに死体を隠すのに、どこの教室を使うつもり? 足跡の向ったあっち側にある空き教室なんて、一つ下の階の用具保管室か、僕達の化学準備室くらいしかないよ」

 その通りだった。用具保管室の中はモップとかバケツとかが置いてあって、死体と一緒に隠れる広さなんてない。化学準備室にはまだ俺らのバッグが置きっぱなしにしてあるので、人の気配を察してそこに死体を隠すのはやめるだろう。

 ……でももし死体の隠し場所にされてたら嫌だな。勝手に部屋を使っちゃってる身だから報告するのに敷居が高い。あと俺達の化学準備室ではない。

「じゃあ、向こうの階段を使って下の階に下りたんじゃないの? こっちの階段を使ったら、職員室の前に出ちゃうし」

「あぁ、そうか」

 猿原さんの言う通り、この二つ下の階の中央廊下付近には職員室がある。内臓ずるずるの死体を担いであの前を通る気にはならないだろう。それにこの校舎は〝日〟の字の横棒になっている廊下全てに階段がある。犯人は化学準備室の近くの階段を使ったと考えれば合点がいく。

「だからって、わざわざ目撃者が逃げて行った方の階段を使う? しかも職員室の前を避ける目的なら、ここの階段で三階に下りてからあっちの階段を使えばいいんじゃない?」

 ……それもそうだ。職員室は二階だから、三階へ下りる時点ならまだ人の目を気にする必要は無いはず……。いや、もしかして目撃者を消す為に後をつけていたんじゃないだろうか。たまたま俺が廊下に出て猿原さんと合流したから、犯人は追撃をやめた、とか……。やばい、寒気が。

「それより」と良樹が遮る。

「僕が見て欲しいのはこっちだよ。ほら見て」

 良樹が廊下の角へ消えて行く足跡を指差した。

「血溜まりに足が浸かったにしては、ついてる量が少なくない?」

「ん?」

 言われてみれば、そうだ。こんな量の血液に浸かったにしては、足跡が途切れるのが早過ぎる。

「まさかこれ、犯人が行き先を誤認させる為に仕掛けた罠だって言うんじゃないだろうな」

「そういう考えも面白くない? 足跡系でよくあるトリックだよ。——わざと血を付けた靴で足跡を残し、そこから靴を脱いで別方向に逃げる、みたいな」

 向って反対側の廊下へ行ったって事か!

「だったとしたら、犯人はどこに……」

「さあね。反対側の階段を使ったのかもしれないし。もしくは……、案外すぐ近くに潜んでたりするかもよ……」

 この時ばかりは俺も、猿原さんと同じくらい足がすくみ上がっていた。「まさか……」全員が同時にすぐ真横のトイレへと顔を向ける。続けようとしていた言葉が息を潜めた。もし推測が当たっていて、直角に曲がった通路の奥で聞き耳を立てている犯人に聞かれたら、見つかったと悟った犯人が飛び出してくるかもしれないと思ったからだ。

「……いや、ここのトイレなら大丈夫みたいだよ。血溜まりを飛び越えないと入れないし。そんな細工をして死体を担いで入るには時間が足りないからね」

 良樹の言葉でも、もう緊張は解れない。もうだめだ、こんな緊迫感に長時間耐えられない。この校舎のどこかに、まだ凶器を持った犯人が潜んでるかもしれない。しかもそいつは、何を考えているかも分からない、人一人を殺した殺人者なのだ。

 猿原さんが怯えている。もしかして、俺も同じくらい怖がっているのかもしれない。だめだ、彼女の前だけでも気丈に振る舞わないと。

「ねえ栞莉。ここで死んでた男の人って、どんな人だったの? 被害者の様子とか教えてよ」

「え、うん」良樹に聞かれ、猿原さんが記憶を探るように語り出す。

「おじさんで……作業着を着てた……。私が見た時はこの上にうつ伏せになって倒れてて、あと、他にも傍に段ボール箱と新聞紙が落ちてた気がする。それで、近付いてみたら、目を開けたまま動かなくて、見たら血が広がってて……それで怖くなって逃げたの」

 猿原さんが吶吶と話し終える。あまりにも生々しい。俺だって一人で忘れ物取りに来て死体なんか見つけたら、たぶんもう恥も外聞もかなぐり捨てて絶叫していただろう。

 猿原さんの話を聞き終えた良樹は、フレミングの法則の右手で不謹慎な顔を隠して笑っていた。

「ふふっ、なるほど。なるほどね、そういうことか」

 まさか、これは良樹が何か思いついた時の態度か。この状態で数々の事件を鮮やかに解決した事など一度も無い。

「まずは状況を整理しよう」良樹が続ける。

「見落としていた謎は、なぜ内臓をバラバラに切断したか、って事だよ」

 なぜ、バラバラにしたのか……?

「犯人の行動には……理由があるって事?」

「そう。いろいろ考えてみたけど、どれも論理的じゃないね。でも一つだけ整合性に沿う解釈があるよ」

「なんだよ、それは……」

 俺は唾を飲み込み、続きを待つ。

「まぁ、例えばなんだけど、こんな真相はどうかな。犯人は————猿原栞莉、お前だ。とかね」

「えっ」

 俺はさっ、と彼女の顔を窺う。猿原さんの顔は、凍り付いていた。

「この血溜まりは、犯行現場をここだと見せかける為のトリックだよ。悲鳴を上げて僕達を呼び、死体が無くなったという狂言を演じたのさ。犯行を、僕達が推理の中で作り上げた架空の犯人になすり付ける為にね」

 な……何を言っているんだ、こいつは……。

「つまり、最初からここに死体なんか存在していなかった。あらかじめ殺害していた人物の血液と一緒に肉片をばら撒いたんだ。この時間、この階に僕達しか居ない事を知っていたのは栞莉だけだしね」

 猿原さんは俯いていた。目元に影をつくって、わなわなと歯を食いしばり震えている。

「第一発見者を装うなんてのはよくあるトリックだよ。と言う事でこの足跡は、靴に血が付いた君のだ!」

「こんな……ひどい……」

 怒りと悲しみが混じったような感情が滲んでいる。彼女の声は、震えていた。

「嘘なんかついてないのに……本当に、私見たのに!」

 猿原さんが突然両足の上履きを脱ぎ、良樹に見せつけた。

「血なんかついてないじゃない! 嘘じゃない、信じてよ!」

 猿原さんが俺と良樹を交互に見る。必死に訴えかけてくる彼女と、目が合った。もう見ていられない。どう考えたって間違いじゃないか。猿原さんを疑うなんてあんまりだ。

「おいやめろよ。猿原さんがそんな事するはずないだろ。嘘をつくとか以前に、人を殺したなんて」

 とたんに今のシリアスムードから一転して、良樹が揶揄うような態度に変わった。

「ははっ、あたりまえじゃん。栞莉にそんな事できる何て考えてないよ」

「えっ……」猿原さんがポカンとする。

「僕はそんなロマンチストじゃないよ。今のはジョークだよ」

 ブラック過ぎたかな、と良樹が笑う。全く冗談じゃない。フザケていいTPOを考えろ。

「例えばって前置きしたでしょ。今のだと靴に血が付いてないから整合性にそぐわないんだよ」

 ……だったら言わなくてもよかっただろうに。不謹慎にも程がある。顔だけにしろ。

 こほん、とわざとらしい咳払いをして良樹が続けた。

「冗談はさておいて、そろそろ核心に入ろうと思うんだけど、いいかな。ここからが多分、この事件の真相だよ」

 猿原さんがムッとした顔のまま、耳を傾ける。

 まさか、もう解答に辿り着いたとでも言うのか。俺達は無言で先を促した。

「まず、犯行現場は間違いなくここで合ってるよ。でも僕達は、犯行時刻を間違って解釈してたと思うんだ。栞莉が悲鳴を上げた時、死体はもう運び出された後か、もしくは完全に解体し終わってたんだよ」

 何を言い出すつもりなんだ。

 俺はいっぺんにシリアスな雰囲気に戻った話に集中した。

「犯人は殺害後、近付いてくる栞莉の足音に気付いてトイレに隠れた……、ってところが間違いだったんだ。その時犯人は、既に解体した遺体を段ボールに詰めて移動する所か、もしくは遺体を処分し終わって、血溜まりを片付ける所だったんだよ」

 解体し終わった? ……どういう事だ。想像がついても考えたくない。聞いているうちに、悪寒に似た気持ち悪さが背中を這い上がってくる。良樹が話す。

「そんな時に、栞莉が犯人と遭遇する。そこで犯人は、死んだフリをしたんだ。……血溜まりの上に倒れてね」

 それを聞いて、俺の鳥肌は最高潮に達した。猿原さんは間近で見ていたという事か。目を見開いた、作業服の男——殺人者であるその男の顔を。もし猿原さんが男の生死を確認したりしてたら、今頃は……。

「もしかしたら転がってた段ボール箱の中に、死体が入ってたのかもしれないね。被害者が身体の小さい女子生徒とかだったら、血をこんなに抜かれてる事だし、箱に詰めて持ち運べるくらいの重さにはなってたはずだよ。関節ごとにバラバラにして余白に内臓を詰めれば人体なんて箱一つに収まるし、ワイヤーソーみたいな工具を使えば切断は簡単だしね」

 話が終わった途端、猛烈な吐き気が込み上げて来た。猿原さんが吐いたら多分俺も吐く。血まみれのこの廊下と同じ床に、これ以上足をつけていたくない。

 明かりのついていない廊下はもう既に暗くなっている。廊下を折れた奥の闇の中から、今にも血まみれになった作業服の男が現れてきそうな雰囲気だった。

「じ、じゃあ、その犯人は、どこにいるの……?」

 猿原さんが恐る恐る推理の続きを聞こうとする。良樹は顎に手をつけながら、後を続けた。

「んー……、足跡があっちに行ってるって事は、やっぱり栞莉の行動を伺ってたのかな。そして途中で靴を脱いでる。……これは、足取りを追われないようにする為じゃなくて、廊下を汚さない為だろうね。犯人は栞莉が下の階に行かなかった事を曲がり角から確認した後、化学準備室の前の階段を下りて、下の階に箱を置きに行ったんだ」

「なんで……」

 猿原さんの疑問には、俺が答えられる。もう分かってしまった。あっち側にあるのは、用具保管室だけだ。

「……モップを取りに行く為だな」

 俺が言った。

「犯人は血溜まりを拭くつもりだ。だから廊下を汚さない為に靴を脱いだんだ」

 そして用具保管室の場所を知っていて、なおかつ今日がこの時間、三階から上の階に誰もいなくなるという情報を知っていた人物……。

「……犯人は、この学校の用務員の誰かだ」

「うん」

 俺の推測に、良樹は頷いた。

「犯人は、またここに戻ってくると思うよ。栞莉はまだ騙されてると思われてるし、僕達を連れてまたここに来た事は知られてるからね。しかもこの階は静かだから、僕達の足音や話し声で、まだここに居る事はバレてる。……目撃者を消しにくるかも」

 俺の心臓の鼓動が聞こえてきた。だんだん早くなっている。

「はやく、逃げなきゃ……」

 猿原さんが呟く。

 その時、廊下の奥で物音が響き渡り、俺達は身を強張らせた。今のは、足音? 化学準備室側の階段へ続く廊下からだった。

 俺達は一斉に身動きを止め、硬直した。

「足音、たてないで」

 良樹が小声になって囁いた。

 誰かが、近付いてきている。向こうの階段を上がってきたようだ。

「落ち着いて……三人なら、誰か二人は逃げられる」

 おい、待てよ、ここで……

 また足音が聞こえてきた。少しづつ、大きくなってきている。こっちに近付いてくるのがわかる。……まさか、犯人が……

 猿原さんが俺の方を向く。彼女の顔面が蒼白になっている。

 まずい、あの曲がり角から現れたら、一番近くに居るのは猿原さんじゃないか。

「すぐに動かないで……犯人の顔を見てから……」

 良樹が囁きながら、ゆっくりと後ろに下がって行く。猿原さんの目が、助けを求めるものになっていた。

 足音がはっきりと聞こえてきた。今にも曲がり角の暗がりから何かが現れる……

 嘘だ……こんなこと……

 俺の足は、恐怖で竦んで、動かなくなっていた。

 タン……タン……タン……

 もうすぐ来る。なのに動けない。猿原さんも同じだった。彼女の押し殺した悲鳴が、微かに聞こえてきた。

 タン……タン……

「ひっ……」

 タン……


 唐突に廊下の暗闇から、大きな男が、のっそりと足を踏み出してきた。

 その足には靴がない。片方には柄の長いモップを引きずり、ベットリと血で染まった作業服を着ている。もう片方の腕には同じく、どす黒い血の色で汚れた空の段ボール箱を抱えている。

 その姿を認めた瞬間、文字通り猿原さんが飛び上がり俺にしがみついた。涙目になりガクガクと身を震わせ俺の制服をぎゅっと握っていたかと思うと、ふいにその力がフッと抜け、俺に全体重を預けてきた。

 俺に抱きとめられたまま、あまりの恐怖に猿原さんは、ショックで気絶してしまったらしい……。



            *



 猿原さんが目を覚まし、あたりをぼんやりと見渡した。

「あ、気が付いた?」

 俺に気付いて、猿原さんがベッドから身を起こす。ここは保健室だった。

「そういえば猿原さん、取りに行った忘れ物って……もしかしてこれ?」

 俺は持っていた自分の英語のワークブックを持ち上げる。

「え……、うん」

「ああ、残念。先生、もう帰っちゃったらしいよ。俺も、間に合わなかったから明日提出する」

 猿原さんが、状況が分からずに目を白黒させる。やっぱり、先に教えてあげた方がよかったか。

 ……でもどうやって説明すればいいんだろう。

 俺が話し倦ねていると、背後で仕切りのカーテンが開き、良樹と作業服のおじさんが入ってきた。

「ひぅっ」

 猿原さんがビクッとする。全身血みどろのおじさんを見て警戒心がMAXになっていた。

「ああ、大丈夫? ごめんね脅かしちゃって」

 おじさんが謝る。猿原さんはわけが分からず、疑問符を貼付けたような困惑顔になった。

「まさかあんなに驚かれるとは思わなくて、おじさんもビックリしちゃったよ」

 申し訳無さそうに言われ、猿原さんはいよいよ混乱し出したようだった。無理も無い。

「良樹、お前が変な推理するからだろ。あんな的外れな」

「あ、あれは解釈の一例を言っただけで……」

 俺に詰られ良樹が申し開きするように誤魔化す。血まみれの怪しいおじさんは俺達を無視して、猿原さんにネタバラシを始める。

「いやぁ、実はあの時おじさんも気絶しちゃっててね。落とした新聞紙で滑って頭打ったんだろうなぁ。そこを君に見られて、死んでると勘違いされちゃったらしいね。……まぁ、お恥ずかしい話だ」

 見かねた俺が説明を付け加える。

「その時、この用務員のおじさん、ちょうど掃除が終わった後だったんだよ。四階の解剖実習で出たゴミを、ゴミ捨て場に運んでる途中だったんだって」

「あ……」

 解剖実習という単語で、猿原さんも繋がったらしかった。俺の班の掃除をなくした場所で行われた特別講習。あれは医学部志望の三年生とかが、豚を丸ごと解剖する内容だった。血液の方はなんの授業で使ったのかしらないが、同じ教室から出た廃棄物だったんだろう。

人間のものと大きさが似ているという理由で使われる豚の臓器だ。人間のだと見間違えても仕方ない(だから俺は悪くない)。第一そんなものの上で血まみれになって倒れてる人を見つけたら、誰だって内臓ぶちまけた死体に見えるのは仕方ないだろう。

 おじさんは実習で出た臓器と血液を同じビニール袋の中にまとめ、段ボール箱に入れて運んでいたらしい。それを運んでいる途中、机の上に敷く為に使っていた新聞紙を落とし、足で踏んずけて転んでしまう。そしておじさんは血まみれの臓器が入った箱をひっくり返し、その上で気絶してしまったのだ。そこを偶々通りがかった猿原さんに目撃され、彼女の悲鳴で目が覚める。おじさんは急いで内臓を拾い集め、一旦それを捨てに行った後モップを持って戻ってくると、いろいろ推理を迷走させてた俺達に遭遇して、猿原さんを気絶させてしまった、と。……これが真相だったらしい。

「なんだ……そんなこと」

 猿原さんが、一気に肩の力が抜けてしまったように溜め息をついた。

「ごめんなさい、私、勝手に早とちりしてしまって」

「いやいや、こっちこそ。悪いね、変なとこ見せちゃって」

 勝手に殺人犯扱いされてたおじさんが笑って許す。始めから猿原さんがおじさんの生死をmake sureしていれば、こんな馬鹿みたいな事にはならなかったのかもしれない。

「それにしてもあの反応は凄かったね。十センチくらい飛び上がってたんじゃない?」

 良樹がケラケラ笑いながら猿原さんを揶揄う。おじさんも思い出したのか、噴き出して笑い出した。

 俺は笑わないぞ。誰にだって恥ずかしい間違いはあるじゃないか。今日の一番の事故は、内臓持って転んだおじさんと、勘違いして焦った猿原さんと、自称名探偵の勘違い男が同時に居合わせてしまった事だ。それにその直前に、なんかの小説の影響で変なテンションの話をしてた事が、奇跡の連鎖反応を起こしてしまったのだ。

 ばつの悪そうにもじもじしながら、顔を伏せて赤くなる猿原さんを見て、なぜか俺も思わず噴き出してしまった。

 ごめん、やっぱり前言は撤回させてもらう。当人の恥ずかしさを紛らわせる為なら、そういう話もネタにしていい事にしよう。

 俺達に爆笑され、猿原さんも恥ずかしそうに笑い出した。





                                          終   



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