春の始まりも更紗から 後編
「庄之川さんと一緒にまたこの店に来ることができて、よかったなって思ってる。予約までしてもらって、本当にありがとう」
「そう言ってもらえると、嬉しいけど……。でも本当に無理してない? いつもの君と違うような気がする」
この人の感性には、いつも驚かされる。電話で話している時も、声のやり取りだけでこちらの感情をピタリと言い当てられることも多い。できるだけ悟られないように、努めて明るく話していても、落ち込んでいることがバレてしまう。
でも今回は絶対に知られたくない。あくまでも普段と変わりない自分を演じきらなければならないのだ。
「無理なんてしてないって。私はいつもの私、だよ」
「じゃあ、俺の思い過ごしということか……。まあ、俺も今日は、いつもとはその、調子が違ってるし……。あ、いや、別に何でもないんだ、気にしないでくれ」
なぜか一人で慌てふためいている彼が、未優奈の目にとても新鮮に映る。未優奈は彼の言葉を受けて、にっこりと微笑んだ、つもりだった。
けれどやっぱりどこか顔の一部が引き攣っているようで、自然な笑顔からは程遠いであろう自覚はある。こうなったら、ぎこちなさを隠すために話し続けるしかない。
「庄之川さん。先月のバレンタインデーには、将来本命に思いを伝えるための練習で、チョコレートを受け取ってもらったでしょ? その事も、とっても感謝してる。あの、えっと、それで……」
あれはあくまでも練習だったのだから、わざわざホワイトデーに誘ってもらわなくてもよかったのに。あなただって他に一緒に過ごしたい人がいるんじゃないのかな。こちらこそ迷惑かけちゃってごめんね……。とでも言えれば完璧なのに、彼の本心を知ってしまった今となっては、そんな取り繕った嘘だらけの言葉は、とてもじゃないが言えるわけがない。結局しどろもどろになり、会話が続かない。
このままでは、ますます彼に不信感を抱かせてしまう。このリズム感のない取ってつけたようなやり取りは、彼との五年間の付き合いの中で、史上最低の会話としてランクインされること間違いなしだ。
「ああ、あのことね。君からもらったチョコレート、本当にうまかった。実は今夜はそのことで……」
あ……。ついにその時が来たのだろうか。彼の目が真剣さを増し、あきらかに空気が変わったのがわかる。来る。とうとうその時が来るぞ、と思った瞬間だった。
「庄之川様、本日は当店をご予約いただきまして、まことにありがとうございます。メニューの方は、伺っておりますコースでよろしかったでしょうか。メインはこちらの魚料理、肉料理の中からお選びいただけます。後、お飲み物の方……」と、スタッフの滑らかな接客トークが二人の空間に割って入って来る。
急に営業モードに変わった彼が、スタッフと手短にやり取りをし、未優奈にアイコンタクトを取りながらメニューを決めていく。そして、また二人だけになったとたん、大きなため息をついた。
「ふうーーっ。ごめんな。話が途中になってしまって」
またもや真面目な顔つきに戻った彼が、テーブルに載せた手を組み、未優奈を真っ直ぐに見据えて言った。
「実は、今夜ここに来てもらったのには理由があって。それを今から君に聞いてもらいたいと思っている」
ついにその時が来てしまった。未優奈はこくりと頷き、彼の次の言葉を待つつもりだった。ところが自分の気持ちとは裏腹に、ひとりでに話し始めていた。
「庄之川さん、ご、ごめんなさい!」
いったい、何を言っているのだろう。未優奈は彼に向かって謝っている自分自身が止められなかった。庄之川はいったい何事だと言わんばかりに目を見開き、未優奈を凝視する。
「私、そんなことをするつもりはなかったの。でも、まるで金縛りにでもあったみたいに身体が動かなくて、それで、それで……」
「ん? 金縛り? 何があったか知らないが、とにかく落ち着いて。ゆっくりと話してくれ」
「私があそこに居ちゃいけなかったの。でも、どうすることもできなくて。庄之川さんと課長が……」
「鷹取さん。もしかして、廊下でのあの話、聞いていた? 違う?」
「あ……」
彼はすでに気付いていたのだろうか。未優奈が立ち聞きしていたことを。
「課長の背後で、何か影が動いたような気がしていたんだ。角を曲がった先に誰かがいるかもしれないと、ふとそう思った。でもね、たとえ誰がそこにいようと、課長には俺の本心を言うべきだと思ったんだ。そうか、君がそこにいたのか……」
「ごめんなさい。なんてひどいことをしてしまったんだろうって、それからは苦しくて苦しくて。私って、ひどく自惚れやで、庄之川さんからホワイトデーに何かお返しがあるかな、なんてあつかましいことをずっと考えていたの。そして今日、階段のところであなたに誘ってもらえて、それはもう、有頂天だった。その後、廊下であなたと課長の話を聞いてしまって。聞いた直後は庄之川さんに好意を持ってもらえてるなんて夢のようだって、舞い上がったのも束の間、すぐに自己嫌悪に襲われて。どうしてすぐにそこから立ち去らなかったのだろうと後悔しながらも、何も知らないふりをして、更紗に来てしまった自分が許せなくて。本当に、本当に、ごめんなさい」
未優奈はもう何が何だかわからなくなるほど取り乱していた。とにかく彼に真実を伝えて詫びたかった。このまま知らないフリを通すことは耐えられなかったのだ。
「鷹取さん……。なあ、もう一度、訊いてもいいか?」
「うん。何でも訊いて。それが私にできる庄之川さんへの償いだと思ってる」
恥知らずな自分の行いを許してもらおうとは思わない。彼と二人きりで会える最後の日に、心から謝罪して、彼への気持ちも封印しようと決めた。
「なら遠慮なく訊ねさせてもらう。君は俺からのホワイトデーの誘いを期待して待ってくれていたんだよな?」
「う、うん。そう。一人相撲みたいで恥ずかしいけど、ずっとそう思って待ってた。ごめんなさい」
「で、課長に話したあの内容を聞いて、君は夢のようだと舞い上がってくれた」
「うん……。こんな非常識な私なのに、庄之川さんの気持ちが嬉しくて、本当に天にも昇る気持ちだった」
「そうか。なら何も悩むことはないさ」
彼の表情が和らぎ、口元には笑みすら浮かべている。彼に軽蔑されても仕方ないと腹をくくった未優奈には、柔和な視線がこちらに向けられているのが信じられなかった。
「へ? どういうこと?」
てっきり怒りをぶつけられると思っていた。卑怯な女だとののしられることも覚悟していた。そんな中、彼の笑顔に首を傾げずにはいられない。
「俺の君への気持ちは変わらない。そして君も俺のことを、憎からず思ってくれている」
「え? それは……」
「違った?」
「うん。憎からず思ってる、じゃなくて。あの、あのね。庄之川さんのこと、す、好きだよ……」
言ってしまってから恥ずかしくなる。でもとても小さな声だった。彼には聞こえなかったかもしれないくらい小さな声だった。
庄之川ははっとしたように動きを止め、そしてゆっくりと話し始める。
「来年も再来年も、そのまた次の年も。バレンタインデーの練習の成果は、俺にだけ確かめてくれる? もう、他の人に渡す必要はないから。君は俺たち二人の未来に優しさと幸せをもたらしてくれる人。未優奈、これからもよろしくな」
「庄之川さん……」
二人の前にワインと前菜が並べられる。手に持ったグラスとグラスが合わさってコチっと音を立てた時、こぼれんばかりの笑顔が、未優奈と彼の心から溢れ出た。
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