春の始まりも更紗から 前編
片思いの彼からホワイトデーに誘いを受け、舞い上がる鷹取未優奈。
けれど、彼と課長の話を立ち聞きしてしまったことから、心苦しくなる。
さて、二人に春は来るのでしょうか。
恋の始まりは更紗からの続きの物語になります。
「いらっしゃいませ。御一名様で……」
更紗の店内に入ると、淡い緑色の作務衣のような着衣を身にまとったスタッフが、未優奈に遠慮がちに訊ねた。女性が一人でこの店に入って来るのはきっと珍しいのだろう。今はご覧の通り一人だが、本当はもう一人来る予定だ。同期の庄之川が……。
多分、彼はまだ社内で仕事をしているのだと思う。彼が退社したかどうかを知るためだけに隣の課を覗く度胸はなかった。
未優奈はどこまでも生真面目で、この五年間、模範社員の領域を崩すことはない。
が、もしかしたら……。彼が先にここに来ている可能性も無きにしも非ずだ。未優奈は首を伸ばし、店内を伺い見た。
「あの、お客様。もしかして御予約いただいております庄之川様のお連れ様でいらっしゃいますか?」
「へ? あ、ああ。そうです」
「では、奥へどうぞ」
未優奈はこくこくと頷き、スタッフの後に続いた。
「こちらでございます」
「あ、ありがとうございます」
窓際の四人掛けの席に案内されると、目だけきょろきょろしながら腰を下ろした。隣も、そのまた隣も、皆仲良さそうなカップルたちで店内が埋め尽くされているからだ。やっぱり今日はホワイトデーだ。
以前彼とここに来た時はカウンター席だった。テーブル席はすでに満席で、あきらめかけて店を出ようとした時、カウンターでよければと勧められたのだ。
それにしても予約までしていただなんて驚きだ。階段で出会った時、思いつきで誘ったのではないとわかっただけでも嬉しい。さっき彼が課長と話していたことも真実味を帯びてくる。
でもこの後、どんな態度で彼に接したらいいのだろう。もし彼が自分の気持ちを伝えようと身構えたならば、未優奈はその先起こるであろうことをすでに知ってしまっている、というわけだ。
もちろん直接彼の口から、課長に告げていた通りの内容を告白されたならば、嬉しくて天にも昇る気持ちになるだろう。
ただし、立ち聞きしてしまったことに対する罪悪感も同時に押し寄せるので、瞬く間に歓びの潮は引いていくに違いない。
未優奈は告白の瞬間を想定して顔を赤らめたり青くなったり、と百面相を繰り返しながら彼が来るのを待っていた。
「やあ、お待たせ!」
突然頭上に響いたその声に、未優奈ははっとして顔を上げた。
「あ、庄之川さん」
未優奈はいつも彼のことをそう呼んでいた。同期なのによそよそしいよ、と他の同期メンバーに言われ続けて五年。皆が親しみをこめて、ショーノ、とか、庄之川クン、と呼んでいるのをいつもうらやましく聞いていた。
「鷹取さん、今夜は突然誘ってごめん」
「ううん、そんなこと……」
おっといけない。この先どんな流れになるのか予想がつくだけに、いつものように軽く会話を受け流すことが出来ない。
おまけに彼と目を合わすこともままならない。変に思われなかっただろうか?
未優奈が庄之川さんと呼ぶものだから、彼も未優奈に対して名字にさんづけのままで五年経ってしまった。と言っても、彼は同期はもちろん、後輩であってもニックネームで呼ぶことは皆無で、誰にでも平等に礼儀正しく名字で呼んでいるのだが……。
「ここ、結構人気の店みたいで。万が一のことを想定して、一応予約しておいたんだ」
庄之川は脱いだコートをざっくりとたたみ隣の椅子の上に置き、紺のスーツ姿になって未優奈の前に腰を下ろしながらそう言った。ネクタイは、淡い桜色が入ったストライプ柄だ。
「そ、そうなんだ。今夜も、お客さんでいっぱいだよね。人気だね、すごいね、ホント、すごいよ……」
いつものように平静を装って、普段どおりにするのよ……と自分に言い聞かせれば言い聞かせるほど、パニックに見舞われる。知らぬ間に同じことを何度も口走ってしまい、収拾がつかなくなってしまった。
「鷹取さん? なんかいつもと違うようだけど。どうかしたのか?」
「えっ? あ、いや、別に……」
「なんか顔も赤いし……。もしかして、熱でもある?」
今にも額に手を当ててきそうな勢いで、彼が未優奈を覗き込んだ。
「ううん、大丈夫だよ。全然、大丈夫!」
顔の前でパタパタと手を振り、慌てて否定する。そりゃあ、恋の熱ならとっくにヒートアップしているけど、彼が案じるような体調不良の熱はないと断言できる。
「そうか? それならいいけど。今、社内でも結構インフルエンザが流行ってたりするだろ? 鷹取さんも気をつけた方がいい」
「ありがとう、庄之川さん」
危ない、危ない。これではまるで「私、あなたと課長の話を立ち聞きしてしまったから、ドキドキして混乱しています!」 と公言しているようなものだ。
未優奈は背筋を伸ばし「私は何も知らない、今から彼が話すであろうことは、すべて初めて聞くことばかり」と、自己暗示をかけることに集中した。
「鷹取さん、今夜は本当に俺なんかと一緒でよかったのかな?」
切れ長の目が未優奈をじっと見つめてそんなことを訊ねる。
いやいや、こちらこそ、私なんかと一緒でいいの? と逆に訊きたいところだが、彼が未優奈のことを思ってくれているからこそ、こうやって更紗に二人でいるのだ。
そしてもちろん、未優奈も彼が大好きだ。一緒にいるのが嫌な理由はどこにも見当らない。
後編に続きます。