第14章 切れることのない連鎖、外せない枷鎖 (5)
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真夜中に目を閉じても月の光は薄い皮膚の幕を照らし、部屋の中にいても囁く虫の瞬き、人の営む音、木々と手を取り遊ぶ風の声が、一人きりではなく世界の中にいるんだと教えてくれる。全ての人々から存在しない、いなかったことにされたい人間でも、死を受け入れなければ平等に与えられる平々凡々な夜。
この権利が突然奪われたらどうなるのか。深い深い、太陽の光さえ届かない深い水の底に落ちれば、体は重たく、声も音も聞こえず、目を閉じているのか開いているのかさえ分からなくなる。石の部屋の中に訪れた突然の権利剥奪は、振り払っても吸いこんでも変化なく、無の中に押し込められたように体の動きさえ見えない。
どうなったのか、一体どうなった。白い生気なき相手と戦っていたカイヤックには、気掛かりなことが二つあった。静華は無事に上まで戻れたのか、あの青年も一緒に上まで戻れたのか。身を案じるべきは、見えていた部屋の中で最も重症だった自分のはず。腕を掠めた程度の傷の青年を心配して、怯えていた、一番の理由を知っているはずなのに敢えて見ようとせずに、誘拐されて怯えていたのだと、震えている理由をこじつけて、身を案じた静華。この二人の心配だけをしている。
大きな声を張り上げる。体のどこか一部を動かすだけでも危険を感じ、命を守るために作ろうとする瘡蓋を流れ飛ばし、血を撒き散らす。じっとしていれば永らえることが出来るかもしれないといった発想は過ることもなく、壁を探し、本当に二人が無事でいてくれるか確かめようと歩きまわる。少々ではなく何人がかりでも持ち上がらない物を軽々と手に取るカイヤックが、一つの足跡を残すのでさえ難しくなっていた。
徐々に濃く黒さを増す階段を駆け降りる三人は、この先に何が待つのか想像も出来ていなかった。打つ手なく飛び込んでしまえば、自分たちもどうなるか分からない。最低限出来ることを今のうちに話し合いながら下る。
「バナン、お前さんの鬣をワシと雷祇の手に巻き付けるんじゃ」
どうにかそれぞれを認識できる闇の中で、天井を走る獣はなぜなのか聞き返す。闇の濃さは、光が届かなくなったそれとは、明らかに違う。明かりを食いつぶす黒さの中でも、獣の王者の目は、鋭く輝きを放つ。どうせならお前たちは闇の中に消えてくれた方が助かると、遠まわしに言っているように。
本物の、本当の王者なら心深く、二人の存在を最大限、有意義に使うだろうが、見た目の立派さとは対照的に浅はか。だが単純で、同時に『お前たちは』と読み取れる。口には出さなかったが、ありがたいと思わず言ってしまいそうだった終演は、出来るだけ言葉を引き出し、簡単に崩せるように敢えて喋らせる。
《にゃぜ俺様がお前たちの命綱の役割をしにゃければにゃらにゃい。静華さえ無事に救い出せれば、俺様は、それでいい……》
「そうじゃのう、静華嬢を救い出せれば、のう。この先はもっと濃くなっとるじゃろう、この黒い物が。そうした時に、お前さん一人で見つけ出せるんか、静華嬢を。質量もあり、感じているじゃろう、‘におい‘も遮っとる。果たしてそうなった時、無事に見つけ出して、階段を上り、外に出れるんか? 自信があるなら無視すればいい、ワシの言ったことをの」
言葉に出して、自分で確認する意味もあった。そう、自信があった。確実にあったからこそ、言い切った。無事に静華を上まで連れて行くのに選択するべきは、どれなのか。終演にとっては浅はかではあるが、馬鹿ではないことは知っている。この獣が選択するのは、無事に救い出すことだと。突き付けられた選択を選び、選んだ答えが二人の腕に巻き付いていく。少ない対策ではあるが、しないよりも遥かにマシ。
そして三人は、さらに速さを増して駆け下りる。
澱んだ水の底に沈む時に広がる景色。光の動きを波間に見上げる海面もなく、自分の形さえ見失う。階段を駆け降りていることを忘れて、無意識のうちに腕で水を掻く動きをしていたことに驚き首を振る。避けることが出来るなら、望んで次の一歩は踏み出さない。他の二人が止めてくれるのなら、いや、止めてくれてもやはり止まることはないだろう。この先にいるはずの二人を助けるまでは、恐れる意味を溢れ出る勇気と書き換え、足が本来の意味を思い出さないように、一瞬でも速く階段から足を離して下に向かう。
三人が近くにいる証明はもう何もなかった。聞こえない息遣い、伺えない気配、感じない動き。それでも止まれない、止まってはいけない。別の何かを見る三つの意識が、狭く押し込められる管の中を抜けた時、一段と広がる闇に押しつぶされそうになった。何もない、何も分からない、それが何より怖い。
止まったことで思い出してしまった、恐れの意味。まだ大丈夫、完全には震えていない。長くは持たないかもしれないが、正常は保てる。果てしなく続く黒い闇に、仲間の手を取ろうと決意した雷祇に、今まで当たり前だったのが嘘のように見えることの意味を教えてくれる光が上がった。
「ワシがここに残る。閃光弾は残り三つ。いざとなれば、ヤダ!カラス君6号Ωターボnew10に火を点けるが、如何せん試運転不足じゃ。どうなるや分からん」
他の二人が何をどうするか切り出す前に、分かりきった時間のない状況を効率よく進めるべく口火を切って、割りこませない。その間にも、お休みの時間が訪れたのだから眠りなさいと闇が光に手を伸ばして切り取っていく。
「バナン、鬣は緩めるんじゃないぞい。お前さんが見つけ出せるかも分かっとらんからの。雷祇、どれほど使えるようになったか知らんが、テスタメントの力を存分に使え。飲み込まれるんじゃないぞい」
闇にも、力の源泉にも。
「頼んだぞい」
最後の言葉は届かず、完全な静寂がまた部屋を包み込んだ。
全ての生物が眠る夜、一匹だけで過ごしていた時には、全てがひれ伏し身を潜め、恐れを込めた眼差しを返してきていた。なのに今はどうだ。得体が知れないとはいえ、大切な人が出来たとしても、これだけ震えなければならない理由は、一体何なんだ。変わってしまった人間臭さに鈍感になった獣が必死で、自分のことでもないのに必死で、漆黒の波を掻き分けていた。
‘におい‘さえ分かれば、匂いでも臭いでも構わない。解けた糸が欲しい。引き抜いて、‘におい‘の世界でバラバラにさえすれば、どこにいるのか目を閉じていても感じることが出来るのに。目の前に静華がいたとしても嗅ぎ分けられそうにない馬鹿になった鼻に、働けと深呼吸をして回復を促すが、機能の回復は一向に望めなかった。
暗い。意識が見せている死んだ世界なのか、痛みも何も感じない。忘れてくれないか、どうか忘れて、縛りつける鎖を断ち切ってはくれないか。過去の出来事はなかったことには出来ないが、立ち止り続けるのはあまりにも悲し過ぎるじゃないか。
そんな人間、手にした力で事を起こした奴らだけで十分じゃないか。もう、辛いだけの人生は、止めてくれないか。十分味わっただろ、いやってほど体験しただろ。だから、なぁ――
《チィ、貴様か。どうしてこう外ればかりを引き当てる》
お前も死んだのか。話獣は死なないはずだったろ。噂が本当だとするのなら、導き出されるのは一つしかない。生きている。体を這う感じがする、あぁ、生きてしまっている。死んだのだと思い込んでいた体は、浮き上がった途端に感覚が戻ってきた。痛い、死んでしまいそうなほど痛い。これだけの痛さで、なぜ死ねないんだ。自分こそが本当は不死なのか疑うカイヤックの考えを包み込むように、鬣で背中に縛りつけた。横には三人いた。
馬鹿みたいだ。あんな男のために、あんな男に、全てがなくなったんだ。やり直したくてもリセットは出来ない。出来たとしてもどこに戻る?
しがない国の、大して力がなかったからこそ内情が崩壊し、王が狙われた国の治安を守るために雇われた、一傭兵として戦う事を選んだ時にか? それとも、行く先なく彷徨っていたところを、孤児院の修道士に助けられたところまでか? どれも無駄だ。根底にある、記憶の始まりにして、人間としての生き方が死んだ時間がある限り、どこまで戻っても無駄だ。例えその時間まで戻れたとして、一体何が出来る。何もできずに、また繰り返すだけだ。その先が少し変わるだけで、何も変わらない。
そうだ、変わらない。だったら、だったらこの子は助けないと。道は違えど、この子には両親がいるはずだ。同じ道を辿らせるわけにはいかない。こんな生き方、自分一人でいいから。どこが前だ、あっちが後ろか、足が向く方が前だ。後ろ向きに歩いてきた自分に言い聞かせていた言葉、つま先が向く方こそ前だ。慣れているんだ、陽の当たらない場所を歩くのは。進んでいる方向が、初めて光の射す場所に向いていることを信じて、歩く。
そんな青年に届く、暗い闇からの光り。出口なのか。全ての闇から抜け出せる、出口なのだろうか。縋るように、助けを求めるように伸ばした腕。瞬く間に、光は横に張り付いていた。
「あなたは一体――」
違ったのだろう、出口ではなかった。でも、未来を見たような気がした。自分とは違う、昔も今も、こんな先がある顔をしたことがないだろう。預けられる少年だ。ならば自分は、この似合いの、留まるべき場所に留まろう。
「この子を」
しっかりと抱きしめていた静華から腕を解く。
怖くはなかった、二人でいたから。
雷祇は慌てて手を取る、二人の手をしっかりと。状況判断が正しく出来ていないのかもしれないが、それでも取るべきではない。十中八九、この男が静華を浚ったことに関係しているのは間違いがない。言わなくても分かるだろ。時間の猶予がないのに、何を馬鹿なことを。
振りほどこうとする手は、しっかりと握られていて離れない。
「あなたがどういう人かは知りません。が、少なくとも今は、静華を守ってくれていた。僕は見ましたから、あなたも一緒に、外まで連れて行きます」
「ふざけるな、俺は――」
関係ない。そう断言する瞳に、青年は怯んだ。怖さからじゃない。先程見た、あの真っ直ぐな眼差しに似ていたから。こんな目をしたことがない自分に、鏡にはなり得ない少年の顔に、押された。もしかすれば自分も、微かな、本当に細い道だったかもしれないけれど、同じ目が出来たのだろうか。
「人が死ぬのを、見送れるほど僕は強くありません。だから、死なせません」
強く引かれた方を巻き取り合流した。盛り上がる背中、手を掴んでいる二人。大丈夫、みんな助けたはずだ。後は終演の場所に戻って、階段を上るだけ。鬣が向いている方に体を直して、進もうとしたバナンが、動きを止めた。雷祇が何故なのかと見ると、口を開いた。
「切れておる、のう。何重にも巻かせるべきじゃったか。もう行けたんか? ええい、迷ってられんか。一気に行くしかない。もつんじゃぞ、ヤダ!カラス君6号Ωターボnew10!」
手に持っていた三つの閃光弾とヤダ!カラス君の火を同時に起こした。暗がりの、陽の死んだ昼間に差し込む、眩過ぎる手掛かりが見えた。微かに、迷った時に見つけ出せる答えよりも小さな光が。同時に走りだすと、競うように上げるスピード。
「どうじゃ――」
「行きましょう終演!」
姿が見える距離まで近づけた。階段から少し身をズラして背中に大きな荷物を背負うバナンに、唯一平常心の上手な見せ方を披露する。
「お前さんからじゃ、バナン。カイヤックを助けるとは、随分と優しいのう」
舌打ちを残して、一番最初に階段を上りだした。
「終演も早く――」
「二人は抱えて行けんじゃろう。上手く飛べんじゃろうし、その男貸せ」
促される先行よりも、まずはと、青年の手を取った。
「階段があったことぐらい憶えておるじゃろうな。ぶつかりそうになったら、ちゃんと蹴るんじゃぞ。先に行くぞい」
階段の傾斜に合わせて、飛び出す角度を調整したにもかかわらず、二人の体は階段の天井にぶつかっていた。周りが確認できずにこんな危険な物で上に向かわないといけないのかと思いつつも、終演が蹴れと促すので、出鱈目に壁を蹴りつけた。もう少し考えて蹴るべきだったと思う程、出鱈目な軌道を描いてヤダ!カラス君が二人を上へと導く。
「行きますよ、静華」
一刻も早く外に出る為に、同意を求める必要はない。踏み込むのではなく、駆け上がる足が階段に乗った。次にするのは体重を掛けることだが、靴を抜けて届いた感触が、足の裏から乗せるなと警告してくる。形を留めておくのも不可能なほど柔らかな石の階段から引き上げた体重は、一本の足に掛かり大地の中に沈み込んでいく。
どうしてまた、水の底のヘドロに落ちた。ここは何処だ、なんで僕は沈んでるんだ。嫌だ沈みたくない、頭が、割れる。思い出すな、怖くない、怖くない。僕は――
「大丈夫だよ、雷祇。行こう、上に」
恐れを上書きする暗闇の中で、淡い白い物に包まれた。心を癒す力は持ち合わせていないのに、気が狂いそうだった雷祇の意識を、引き摺り上げて囁く。大丈夫だよ。そしてもう一度、同じように囁く。
助けるんだろう。助ける為に来たのに、何をしているんだ。沈む足に走る稲妻。引き摺りこむ形なき腕が脆く崩れる。恐れを変換せずとももう行ける。上に、地上に戻るんだ。沈む前に足を動かそう。溺れる前に上がるんだ。
肩を、腕を、足を。光の世界に渡す物かと闇の腕が引き止めようとするが、雷祇を止めるだけの力強さはない。ならばと、階段下からさらに深さを増した、闇を濃く染める何かが迫る。
振り向くな、近づく足音だけでいい。距離を詰められるな、だったら足を動かせ。小さく、少しでも足を止めるように絡まる闇を振り蹴り、前だけを向く。前を行く二人の姿はもうない。大丈夫、出られる。静華の囁く声を復唱して、もう一歩踏み出した。大丈夫だよ。
「で、この中に入るの、ママン」
鬼が出るか蛇が出るか。全ての色彩に目隠しをする岩の隙間から洩れでる闇に、可能性が零に等しい仏の出現を待つ姿勢はなく、鞘に納めてはいるが何時でも抜ける用意をフリシアはしている。小ママンを挟んで反対側にいる覗きこむ鈴奈は、好奇心が見え隠れする声を上げているが、本当の気持ちは少し震える体を見ればわかる。腕を組んで階段の正面に陣取っていた小ママンは、解いた手を二人の頭に乗せ、ゆっくりと背中にまわした。
「少し離れとこうじゃないか。何があるか分からないんだからね」
ヘレナの寝る湖畔に向かって歩き出す三人。雷祇たち一行の姿がなく、伝えに来た少女が寝ているということは、確実と言っていいほどの確率でこの中にいる。
ウェイポイント・ファイブでの出来事があってすぐにこれだ。とてもじゃないが手を出せる状況にないと小ママンは感じていた。鈴奈もフリシアも薄々は感じているだろうが、仲良くなったカイヤックや静華の身を心配して、離れる足取りは重たい。フリシアはそれだけではないのか、何気なく振り返った。ただ振り返っただけだったが、異変にいち早く気付くことが出来た。
「ママン、何か来る!」
階段から洩れでていた闇が、アルコールを水に垂らした時に見られる揺らめき方をしている。触れてはいけないとの直感の警告。先程鈴奈は息を吹きかけてみたが、変化がなかった。外からでは変化しないということは、今揺れているのは中から何か来ているから。鈴奈を段差の下に突き飛ばしフリシアは剣を構えたが、小ママンにつまみ上げて落とされてしまう。
殴れる物かは分からないが、飛び出してきた瞬間に反応できるよう、一番短い攻撃を出せる構えを取る。足を肩幅に開き、少し体は斜めに、顎の高さに保つ拳。出てくるタイミングを計ることなく、出てくること自体に意識を向ける。なぜならそれは――
「! またあんたかい」
一段と大きく乱れた次の瞬間、飛び出してきたウェイポイント・ファイブの夜の始まりと同じ、鬼でも蛇でも仏でもなく獣の姿。これを頭の片隅に置いていたから、拳は動き出すこともなく、サイドステップで間違った勢いのバナンを避けることができた。
目というのは距離を測るのに大変便利だが、暗い場所では役に立たない。そういう場所で距離感覚を測るには超音波などが使えれば便利だが、獅子の獣はそんな物持ち合わせていない。勢いを緩められず、鬣も緩められない状況に加え、前足を出すタイミングも悪く、顔面から木にぶつかった。
全ての物が、一度動き出すと止まらないのと同じで闇も止まっていない。それどころか収まる気配すらない。まだ続くのだろうと、小ママンが何時でも崖の下に行けるように踵を掛けていると、今度は轟音を引き連れた終演と、見たことがない青年が飛び出してきた。
不規則という言葉がこれほど似合う回転は二度とお目にかかれないだろうと、小ママンは警戒を解いて物珍しそうに眺める。飛び出して木に上手く着地は出来た。が、その後が大失敗だった。苦しくて堪らず、地面の上をのた打ち回っている機械のカラス。燃料は補充してしまっているために、体力が切れるのは待っていられない。応急処置で直したので、叩けば壊れるだろうと、青年にも手伝えと言いながら肘打ちをするが、これがなかなかしぶとい。子供は親に似ると言うが、発明品も発明家に似るらしい。十分に暴れ回った機械のカラスは満足したのか、二人の服を穴だらけにしてようやく収まった。
バナンはその間に、鈴奈に腹を捕まえられているフリシアの側に降りていた。解く鬣。背中からは見知らぬ三人、うち一人は寝ている女の子に似ているから分かるが、それ以外にも一つ大きな物が落ちる。一人ではなく、一つになりそうな息使いのカイヤックが、地面に転がる。
「なんじゃ?」
「いや、あんたみたいなロクでなしでも、まともに踊れるんだねぇ」
口でのいがみ合いは完勝だったが、今は分が悪い。言い返す素振りすらなく、立ち上がり埃を払った。
「生きてたんだ、僕」
死んだと思っていた。だから怖さも遅れてやってきた。震える体、これでさらに実感が出来た。死んだら、震えることが出来るのだろうか。涙が出て、ヘミナは確かめるように泣き声を上げた。
無条件で頭を撫でる鈴奈。ヘレナも目を覚ましたが、早くも訪れた筋肉の弱音に動けない。
「大丈夫だ、君のお姉さん無事だったよ」
よかったと顔一面に安堵を浮かべて、また眠ってしまった。
小ママンと同じように踵を崖から出して、離れて待つ。まだいる、帰ってくる。聞こえない足音も、感じない気配も関係ない。必ず静華を連れて戻ってくる。永遠に収まらない波紋を広げる闇。止まるな、収まるな。動かなくなれば帰ってこれない、そんな気がしていた。さあ、帰ってこい。
そんな思いを踏みにじるように、蝋燭の灯が突然消えた。ぼやけた明かりに照らされ揺れていた闇が、動きを止めた。綺麗に塗り固められた黒壁。構える義手。大丈夫だよ、聞こえたような気がして撃てなかった、撃たなかった。小ママンが駆け寄ろうとするが、終演が引きとめる。
「何してるんだい。静華ちゃんや雷祇君は――」
「帰ってきおる。ほれ見ぃ」
低く立ち込める黒い雲からは、雷が放たれる。固く塗り固められていた窓ガラスの向こう側の夜を、一筋の閃光がぶち破った。訪れるのは、長い長い寂しさから解放された朝の光。眩しくて手を翳したいが、段差の数を誤って上り切ったところでバランスが崩れてしまった。ダメだ、飲み込まれる。
「静華を!」
倒れる前に何とか静華だけでも。腕を動かすよりも足を動かせば倒れずに済むかもしれないが、それからどうする。走って離れることが出来るならそうしてもいいが、息は上がっている。テスタメントの力を使う動力源は、壊れてしまいそうなほど赤く蒸気を吹き上げている。無理だ、踏ん張ればもう動けない。だからこそ、静華だけでも。食いしばる歯が反発しあうようにパッと開き、中からは投げる静華を運んでくれと願い張り上がる雄叫び。
ダメ、伸びる手に捕まえられないよう、さっと体を引く。より早くなった地面との距離は、雷祇に手を突くことさえも許さず、耳から地面にぶつかり転がった。浮き上がった体は二人よりも随分と手前の地面に引き寄せられる。受け止めるべく走り向かう、クッションとしては十分過ぎるほどの脂肪、肉の塊。それにしても柔らか過ぎたのか、胸の中に体全てが埋め込まれた。
まだ無事じゃないと、小ママンは静華を抱えたまま崖の下に飛び降りる。ダメ、そこにいちゃダメ。脂肪の塊の中から伸びる細腕は、回転しながら木にぶつかり動きを止めた雷祇に。その腕も大きな、静華の胴体よりも太い腕に包まれ、届くことはなかった。
階段の下から追いかけてくる。光の世界に戻してなるものかと聞こえてきそうな怨念が、階段から細く長い一本の腕を形作る。逃げられない雷祇を引き摺りこもうとしている。形作ったはいいが不安定な腕は一刻も早くと、息を整えるのですら間に合わない雷祇に。目の前に迫り、後は指で掴むだけ。この命ある肉体を引き摺りこむために。
「悪いのう、ワシの腕は死んどるじゃ」
掴み取るよりも早く振り払う。命なき二本の腕は、傷だらけの鉄の塊が勝利した。悔しさで滲んでしまう闇が、光の前に跡形もなく消えてなくなった。恐怖という物も、痛みや楽しさなどと一緒で、後からの方がより強くやってくる。雷祇も、伝ヶ井寺やヘミナ、静華を浚った男のように震えている。だが、終演に笑いかけていた。
その視線を避けたから合わなかったのではなく、終演は崖下を見ていた。息をするだけでも収まらない体の暑さ。それでも見ないといけないと、なぜだか思い、立ち上がっていた。
仰向けのカイヤックの腹の辺りで眠る静華。血だらけの腹からの出血は止まっているようだ。二人の手を取り止める小ママンと、離れているバナンに隠れる双子に伝ヶ井寺、男。
「無理させちまったな、嬢ちゃん。けど悪ぃな」
イクリプスを離して、気を失う静華の頭を撫でる腕とは対照的に、高く掲げる腕にはしっかりとあの剣の、刃が握られている。
「コイツじゃ、思いっきり突き刺さねぇと、死ねねぇんだわ。けど、力が入らねぇ。お前ぇには人殺しなんてして欲しくねぇが、最後に頼めるか、俺を殺すこと」
受け取る青年。狙いを首に定める。後は突き刺すだけ、それで終わるんだ。全てが、そう、全てが終わるんだ。何もかもを終わらして、再スタートを切るための一撃が、今放たれる。