第14章 切れることのない連鎖、外せない枷鎖 (3)
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動かず立ち止っているだけでぶつかる肩と肩。はめ込み式の造りの家とまではいかないが、少々の振動ではビクともしない作られ方をした人畳の中を走り抜けるのは無理だと、小ママン一行は脇道へとズレていた。
低く人畳の上を飛ぶ見慣れぬ獣に、詰め込まれた蜂の子が何かしらの異変を感じて一斉に動くように、人々は獣の腹を見上げた。その一方で、地面スレスレを駆け抜ける影。器用に、デコボコの石があっても前に流れることができる川でもないのに、人々の足の間を真っ直ぐ避け突き進む雷祇と終演。意識が上に向いていた人たちは、足を掠めていった、当然見たことはあるだろうが突然予告なしに触れ進む影に驚き悲鳴を上げる者も少なくなかった。
どちらの方が早く町の外に出て静華の場所に向かえるか競争をしているわけではなかったが、小ママン一行には馬鹿にされた思いもあり負けられないと、脇道を突っ切り町の外に飛び出した。
「よし、あたし等の方が早かったね」
鈴奈は、どうだいというように腰に手を当てる小ママンと同じ格好をしている。喋り方も似ている二人。もしかすれば将来、鈴奈がビックママンズのような体系になるかも知れない。ありえない話ではあるが、フリシアが驚き二人を見る顔は、そんな未来を見たと言っているよう。
「ママン。あれ」
日々の鍛錬で使い込まれた指の先は、一本道の遥か遠くを指していた。二人が目を細めて漸く見える距離にあったのは、三つの移動する点。服の上からでも鳴る太股太鼓を叩き、合図だったように走り出す。
「追いかけるよ、雷祇君を」
終演ではなく、雷祇を追うらしい。
「来たか、カイヤック」
屈めていた体。これを見てさらに、常識では考えられない体付きとはいえ、一応人のカイヤックが身を捻り出すようにしないと抜けられない階段や、石で全面を覆い尽くした部屋を人が作ったのか疑問に思える。
目的も背景も見えない部屋の中で、素早く動ける、例えるとすれば鈴奈やフリシアなら簡単に抜け出せるほどゆるく首を絞められて、人質にされる静華。
多分ではなく確実に初めて経験する恐怖に、カイヤックを動けないように盾にされていることも忘れて、母親にしがみ付く子供がするように青年の腕を掴んでいた。
「嬢ちゃん、そんな怖がりなさんな。心配ねぇ、そいつは襲ったりしねぇよ」
目的は俺だろうと、口で言わなくても二人の間ではやり取りがされる。
「あぁ、お前さえ死んでくれれば、ここにいる奴らは全員解放してやる」
目が違う。狙われ続けてきた、どんな人生を歩み、なぜ賞金が掛かるまでに至った経緯を知ろうともしない賞金だけが目当ての奴らとは、見えるわけではない感情が宿される目が違うのだ。
嫌な予感とは明らかに違う、ざわめく心。死ぬ覚悟は遠く、雪の世界の中で固まり溶けない氷を作っている。青年の言葉はその氷を引き摺り出して、改めてお前はどういう人間なんだと、どういう人生を歩んできたのかと突き付ける。
「やっと会えた、やっとだ。お前を探して世界中を回った。回り続けたさ、お前を殺すためだけにな。だがなんで、なんでお前は平然と生きてやがるんだ!」
やっと来た、来てしまった、来なければならなかった。どの言葉を選んだところで、結局は決まっている。受け入れる、拒否する権利はない。死ぬために、ただ殺されるためだけに自分では命を絶たず、殺されずに生きてきたのだ。
そう言い聞かせるしかない。あの時の約束は嘘でも、綺麗事でもない。心からそう思っていた。唯一、自分の犯した罪に対して以外は。命を捧げるしかない、それしか知らない。償えるのは、この命だけ。
それなのになぜか少しだけ惜しいと思ってしまう。今は凹んでいるが、これを乗り越えた時、どれだけ強くなるか、それを見てみたいと思っていたから。だが、それも終わりだ。そんなこと思っちゃいけねぇと、思いも全てイクリプスに括りつけ、影の落ちる地面に突き刺した。
「生き残りだな。あの雪の町の……」
青年の顔が見る見ると強張っていく。
雪の町。
名前一つ、地名を一つも含めない、来たかことがない人間でも聞いていれば言えるだろう、ただの雪の町。
「俺のいた町は永久の白裾の霜花だ! お前、知らないわけじゃないだろうな」
当然知っているだろう。知らずに何千人もの人の命を奪えるわけがない。町の名前一つ知らない人間が、襲う理由なんてないはずだ。常識の外の出来事とはいえ、あまりにも不自然じゃないか。
普段なら面と向かって、目と目を見やって話をするカイヤックが、相手の目を見るどころか、姿さえ見ることが出来ずに下を向く。
「綺麗な町の名前じゃねぇか……。そんな町の名前だったのか」
初めて聞いたという口振りが、軽く捕まえていただけの静華を無意識のうちに締め上げて行く。靴の裏からぱらぱらと落ちる砂が、青年の靴の上に掛かる。
目の前にいる男は、一生を賭けて探しだそうとしていた男。それがまさか、自分の町の名前さえ知らなかった。
頭では理解している。この女の子は関係ない。苦しむ声を上げるこの子を殺せば、自分も同じになるじゃないか。名前さえ知らないこの子を殺してしまえば、本当に同じになってしまう。青年に冷静さを取り戻させたのは、後ろから迫ってきた足音だった。
「死ねぇ!」
利き腕だったら避けられなかったかもしれない。鈍い剣筋が腕を掠める。静華を突き放し、持ったままでいた剣で、今度は腕を切り落としたように優しくはなく、一撃で首を切り裂いた。何年も掛かって身に付いた動きは、確かな実力の証。
もう邪魔をされないためにも、次の相手に構えが向く。白旗を上げ、何もしないですと、動こうともしていなかった無傷の男。無条件で降参を表明している男は、言葉で伝えない恐怖を震えで訴える。青年は何も躊躇わずに剣を振り被った。
「戦う気のねぇ奴を殺しちゃいけねぇ!」
殺される恐怖に怯え固まった男の目の前で、血に汚れてしまった自分を悔やむように輝く剣が動きを止めた。助かった、殺されずに済んだはずの男が、膝から抜けた力で体を支えられずに座り込む。
落ち着き、冷静さを取り戻して動きを止めた訳ではない。どの口が言っているのか、確かめようとしただけ。自分はどれだけの人間を、今殺そうとした、世間的に見て決してまっとうな人生を歩いてきていない、何時殺されてもおかしくない人間と比べると、誰よりも最初に見る朝日より綺麗で穢れがない無抵抗な人を殺してきたのか。一体どういう顔をして言ったのか、それを見たくて動きを止めただけ。
どうせこちらを見てもいないだろう。向き合うことすらできなかったのだから。
薄明かりが照らし出す先には真っ直ぐ、馬鹿みたいに実直な瞳があった。逃げることも避けることもせずに、止める為だけに向けられた真っ直ぐな瞳が。
「お前ぇは、殺しちゃいけねぇ。そんなことしたら――」
「お前のようになるはずがないだろ! 一緒にするな、お前のようなただの人殺しと一緒に!」
無性に腹が立った。違う、こんな奴じゃない。何年掛かったと思っている、ここまで来るのに何年掛かったと。
全て捨ててきた。生きている理由、全て注ぎこんだ。自分の親を、同い年だった友を、暮らしていた村を、人生を、何もかもを壊したこの男を殺すためだけに、全て。何度も何度も頭の中でどんな男か描いては、想像の中で殺される自分に恐怖して寝ることさえできずに暮らした日々。生き残れたのは、恨みの力。これだけで生き続けた。
なのに会ったらどうだ。この男がカイヤックなのか? 初めて見た時も、今話している時でさえ疑ってしまう。否定をすれば納得もするのに、自分がそうだと剣を突き刺している。どこをどう繋げば答えを導き出せるのか、青年の思考回路は噛み合う道筋を知らない。
「カイヤックさんは、人殺しなんてしません」
距離感が分からず壁に打ち付けた腕を押さえ、今まで共に旅をしてきたカイヤックという男にはまったく似合うはずのない、人殺しという遠い言葉を否定しながら立ち上がる。ほんの短い、対等ではない今の状況ですら感じる不似合いな、人殺し。
「黙れ! お前が何を知っている! この男はな――」
「知っています。一緒に旅をしてきたんです。私はカイヤックさんを、あなたよりも知っている自信があります。だって、カイヤックさんと一緒にいれば、絶対に違うって分かるはずですから。カイヤックさんがそんなことするはずないって」
「黙れと言ってるんだ!」
端々に尖る言葉を受け止める、大きくはないが広く優しい、契約神と同じ癒しの神にでもなってしまったような静華。生きてきた意味を否定されかねない現実から目を逸らす青年は、ただ子供のように大きな声を張り上げることしかできない。
「嬢ちゃん、もういい」
二人のやり取りを止めたのは、話し合いの本題になっているカイヤックだった。
「本当のことなんだわ、俺が殺したってのは。なんも罪も、罰も受けねぇでいい人間を殺して、殺して、村まで壊して地図から消したのは、俺なんだわ」
嘘だと振る首は、信じないと言い切る。そんなことがあるはずがない、だって、カイヤックは今まで優し過ぎるほど優しかったのだから。二人がいなくなってから、一人皆を気遣っていたのも知っている。分かっていたけどどうしようもできない、できなかった。それでも一人で、三人をここまで連れてきたのだから。
「分かったか、そういう事だ」
恨むべきは自分だと立てられた指標に、冷静とまではいかなかったが、落ち着きはした。静華に素早く近寄ると最初と同じように、首を絞めるのではなく回しただけで、背中に回り込んだ。そうだ、話し合う時間なんて、もう一つも必要がないんだ。馬鹿らしい、そんな事をして失敗した男を知っている。
「ウェルスもこの子みたいに、騙しこんだのか」
この場面、この状況で出てくると思っていなかった名前に、驚くよりも自分の耳に疑いを向けた。聞き間違えた、そうに違いない。
抵抗も、言い訳すらしない男が、初めてうろたえた。図星を突かれたからなんて驚き方じゃない。突然言葉が分からなくなったように首を傾げている。だからもう一度同じことを言った。「ウェルスもこの子みたいにやったのか」
聞き間違いでも、もしかしたら言い間違っていたのかもしれないと思ったカイヤックの考えは、記憶の扉にノックしてきた言葉に形も残さず崩れ落ちた。
「ウェルスは、あの村の、生き残りだったのか?」
死ぬ覚悟すらできずに震え、生き残るためには平気で涙を流すことも厭わないだろう男とは違い、死ぬことを当たり前だと、目の前に突き付けられても決意が揺れ動かなかった男が、今は軽く震えている。
まさか、そんな事をする必要がない。なぜ態々、近づき入り込んでカイヤックという男の性格を知ったなら尚更、なぜ正体を隠す必要があったのか。二人は互いの、別の姿を見てきた一人の男の人物を見合う。
「知らなかったのか? あいつは自分が永久の白裾の生まれだって、言わなかったのか?」
聞くまでもなかった。この反応を見れば誰でも、二人が思い描く一人の男が正体を隠していたと、今居合わせただけでも分かる。それでも確認したかった、せずにはいられなかった。
返ってこない答え。もうそれすら、答えの一つだった。「馬鹿らしい」
吐き捨てる言葉。自分は迷わない、決意したようにも聞こえた。
「おい、その箱開けろ」
腰が抜けて動けない男に、青年は振り返り剣で箱を指す。自分に対して言っていると分かりながらも動けない男に、死にたいのかと急かすには強い力を持つ言葉が、体の不調を振り払わせる。
三人がそれぞれ入っていた箱が三つ。乱暴に男たちが運んで持ってきた三つとは違い、動物の卵が素で置かれていても割れないくらい丁寧に運ばれてきた箱を男が開けた。これなら乱暴に扱っても平気だろうと、開けた男は思ったが、急かす言葉が来る前に先に取りだす、一本の剣。
「カイヤックに渡せ」
青年も確かに怖い。が、目の前にいるのは有名な、世界中で知らない人間はいないほど知られている大量虐殺を繰り広げた男。恐怖の度合いで行けば、圧倒的にカイヤックが上。手の届く場所に、巨大な剣が突き刺さっているのも一つにある。
急かす青年の言葉で吹き動かした方がまだ速く着きそうなほどゆっくりと、眠っているだけであろう獣を起こさないよう慎重に、落とし穴があっても先に気づいてしまうほど確かめながら、カイヤックが手を伸ばしてギリギリ届く場所に剣を置いた。
あまりにも場違いな雰囲気。青年に近寄るのは怖い、カイヤックに近寄るのはまっぴら、一人で部屋の中の隅に行くには躊躇いがある。男が拠り所に出来たのは、すぐ側で人が殺され気を失うヘミナを、小声で起こそうとしている伝ヶ井寺の側しかなかった。
拾うだけだと、片手を上げたままもう片手が地面に置かれた剣を拾い上げる。
古い剣だ。随分と使い込まれているが、丁寧に、ここまで長く武器として使われて、殺すために作り出されたのは不本意かもしれないが、鉄も満足しているんじゃないか。それほど古い剣だった。
「お前が殺した、永久の白裾で誰かが使ってた剣だ」
見たことがあると感じたのは、それでだったか。人の記憶を入れておける箱は意外と数が少なく、何気ない日常はすぐに人を形作る土壌に、肥料として撒かれる。日々過ごすだけで膨れ上がる記憶を、どのようにして選別して保存するのか。初めて体験したことや、忘れてはいけない大事な思い出、消そうとしても消せない出来事など、特別な記録が保存される。ただそれすらも薄れてしまうのは、人の性。
誰の物かは知らない。けれど、あの寒く体の芯を流れる凍った記憶の断片の中に、確かに見た憶えがある。何十の家、何百の剣、数千の顔。どれも黒く塗り潰されて、振り払っても手に取るように見ることはできない。
それが人の性。
けれど消せない。何重に括りつけた鎖で脳の片隅にしっかりと、時の持つ風化の力を遅くしようと大事に大事に、自分の命よりも大事に保管されている雪の世界の一月の記憶。
瞼を閉じて、開いた時には全部忘れて、自分も忘れて、これまで流れてきた時間が自分を忘れてくれて、一からやり直せたら。昔は、考えたこともあった。今では無駄なことだと、笑ってしまう。同じ道を選んだろう。結果はどうあれ、辿る道は同じはずだ。軽く閉じていた瞼を開いて、しっかりと青年を見据えた。
「どうするんだ、これで」
出来ないことがあるとすれば、この剣で殺すこと。謝る心はある。何度も破って、その度後悔して、改めて誓い直す約束。命を奪わない決意。だがこれだけはしなければいけない、これだけは範囲外にある。この場にいる人間で殺せる存在がいる、死ななければならない人間。自分自身。それ以外は殺せない。聞こえるはずのないカイヤックの願いが青年に届いたように、出てくる自害を告げる言葉。
「腹を刺せ。自分の腹を、刺せ」
一番容易い答えをくれた。喜んで。受け入れた腕は古びた記憶諸共、あの時こうしてくれていれば苦しむことはなかったと、あの時に目的を果たせなかった剣を深々と突き刺した。