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テスタメント  作者: 竜丸
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第14章 切れることのない連鎖、外せない枷鎖 (2)

     2


 鬱蒼としていて、散歩道にしては日差しがあまり差し込まない。土の道はきちんと整備されており、湖に冷やされた風が歩く程度なら気持ちよく、少々走ってもさわやかな気持ちにさせてくれるので、友達と二人で話しながら歩くよりも、一人でのんびりと歩くのに向いている。

 道幅も十分にあり、馬車がすれ違う事も簡単にできる。けたたましく蹴られたことがあまりないのか、派手に土を巻き上げ、一頭の馬に引かれた馬車が駈けていた。一定のテンポで鳴る蹄の音、前に前に行こうとする首。まだ全力ではないらしく、走りだそうとする気持ちを抑えられているようにも聞こえた。

「なあ、もう捕まえればいいんじゃないか?」

 歩きやすいように石は綺麗に取り除かれていた。おそらく町の住人だけで行ったであろう道の整備は、一体どれだけ時間を要したのか想像がつかない。割れ物などはあまり馬車などでは運びこまれないが、平らに見える道でも荷台は、最小限ではあるが、まったく揺れていないわけではなかった。

 間の取り方が下手な人であれば、転んでしまいそうな揺れ。荷台に座る男二人は、日除けに付けられたアーチ形の布に掴まっていたが、青年は平気な顔をして箱の上に座っていた。

「いや、このままの速さを保て。もう少しで着くんだ」

「でもいいのかよ。見られたかもしれないんだろ? 人呼ばれたら鬱陶しいぞ? それにお前は――」

「呼ぶなら呼べばいい。奴さえ殺せれば、それで満足だ。それに、一本道とはいえ、中々の距離を歩くわけだ。もし森にでも入られれば、来ないかもしれない。念のための保険だ」

 男たちの会話の中心にいたのは、三つある箱のどれかに入れられている女の子の半身。

 不格好に走る、移動は常に列車か馬車、なんらかの交通機関を使ってきたであろうお嬢様。走る馬車を追い掛けるなど生涯初で、今後もないだろう経験。息を切らし、本人は気付かれないように追跡をしているつもりなのだろう。だが、如何せん経験がほとんどなく、常識も余りないらしい。

 通常、尾行などは物陰に隠れる。あるいは、何もないところであれば、気付かれない程度、距離を開けてするもの。一方のヘレナは、隠れる場所が山ほどあるのに、森の中に入らず、馬車の車輪跡の間に入って十メートルほど後ろを走っていた。それに何より、馬車に離されないように走るのは、相当な脚力を必要とするが、彼女にはそれがない。少し考えれば分かる。あぁ、バレていると。

「お願い、動いて……。助けてもらわないと、いけないのですから」

 今にも止まりそうな足に、必死で言い聞かせる。だが彼女の足は、今まで運動らしいことをしなかっただろうと笑いだしている。折れてしまいそうになる気持ち。もう止めてもいいんじゃないか。弱い心を、どうにか支え、繋ぎとめていたのは、自分の半身を案じる心。

 ゆっくりとした、人が運んでも大して変りがなかったくらいの時間を要して、馬車がある場所の前で止まった。

 腹の住人がいい加減に仕事をさせろと文句を言っているが、順番待ちの子供の文句に比べればまだ可愛く、もう少ししたら仕事をさせてやると聞き流していた。

「あ、お前ズルイぞ!」

 本日三度目の順番が回ってきた男の子を、高々四階付近まで放り上げた時、後ろで口々にズルイのコールが上がった。落ちてきた男の子から危うく目を離しそうになったが、まず受け止めるのが先。落ちてくる男の子の背中をしっかりと見て、卵が同じ高さから落とされても割れないように、ふわりと受け止めた。

 確かに浮かぶのも面白いが、受け止められる時の、全身が反発して、浮き上がる感覚も面白い。何より、この巨人の筋肉が素敵。魚ばかり食べているからか、体が肉を欲しているように腕を見つめる男の子を地面に下ろして、カイヤックは振り返った。

 順番待ちをしていただろう子供たちから、一斉に口撃を浴びていたのは、昨日と今日、合わせても一度も顔を見ていない女の子。

 あまりの集団口撃に、泣きだしていた女の子。それでも止まない言葉の雨から守るように、頭に手が置かれた。泣かせちゃいけねぇと、口撃を封じながら。

 いつものように、少し小さい女の子だから加減はしているのだろうが、それでも首が折れてしまいそうなほどグシャグシャと髪と頭を掻き混ぜた。さてと呟き、出来るだけ小さく、それでも随分と高い位置にはあるが、腰を落とした。

「他の皆も並んでんだ。心配しねぇでも、ちゃんと並んだら遊んでやるから――」

 女の子は頭を振った。それは、乗っているだけの手を振り落としたかったからではなかった。

 魚の脂でベトベトな手をポケットに突っ込む。少し探り、これと言いながら出てきた手には、グシャグシャな紙切れが一枚。俺にかと聞くカイヤックに、一つ頷きを返した。見当がつかなかったが、受け取れといっているのを断る理由もなく、手を差し出した。女の子はその紙切れを乗せると、バイバイと手を振り、涙の痕もなくなっていた女の子は人ごみの中に消えていた。

 意味も分からず受け取った紙切れ。首を傾げつつ破れないよう、丁寧に開いて目を通す。次の文字の後を追い言葉を作り上げて行く黒目が、思わず歩みを止めた。驚くよりもこの紙切れが持つ意味を知る方が先だと、慌てて駆け足で手紙を読み切った。

「ちょっとすまねぇ、坊と嬢ちゃん。少し用事が出来ちまった」

 地面に突き刺していたイクリプスを引き抜き肩に担ぐ。長い間待たされていた、一通り遊んでもらった子供たちから一斉にブーイングが起こり、素早く周りを囲まれた。カイヤックの足の長さなら、一跨ぎで軽々と越えられる小人垣だが、あまりのせがまれように苦笑いが浮かぶ。

 また帰ってきたらなと何度も釈明するが、子供たちの気持ちは今してほしいの一点張りで、足に絡まってきた。参ったなと空を見上げたカイヤックに、助け船が、突然発生する雲のように現れた。

「あんた達、いい加減におし! 困ってんだろ、デカイ兄ちゃんが。人困らすんなら手伝わすよ!」

 肝っ玉もこれぐらい大きいのだろう恰幅の良い、この町の住人でまず間違いがないおばさんの言葉。生まれたての蜘蛛は、生きる為に散るのだが、人の子は怖い物を見ると一斉に散るらしい。

 これでいけると、軽く会釈をした。急いでいるのが傍からでも見えるが、足は向かうべき場所よりも先におばさんに向いた。紙に書かれていた一つは、場所。聞かないと分からないと、誰かに聞こうと思っていたが、いい機会なのでと思ったから。

「助けてくれたついでに、もう一つ助けてくれねぇかな」

 長い間子供たちの相手をしてくれていた人の言葉だと、気安く頷く。

「タナトスの館って知ってるかい?」

 勿論だと答えたは答えたが、一体何の用があるんだいと尋ねられ、少し言い淀んだ。チョッとした用だと、隠しきれない言葉で繕っては見たが、不信がられても仕方ない。それでもおばさんは、昨日からの行動の方を信じようと行き方を教えてくれた。

 湖を囲むように整備された一本道を暫く歩くと、大きな岩がある。その岩と地面の間には、とても自然で出来たとは思えない石階段があり、地下に続いているという。

 礼を言うと、大きい体で人を掻き分けるのは大変だと、大通りを避け脇道に逸れる。人通りが全くない道を走りだそうとしていたカイヤックを、そのおばさんが呼び止めた。振り返ると同時に飛んできた、頑張ってきなと魚の一本串焼き。受け取り齧り付く。駆け足で脇道の奥に進みながら、イクリプスで手を振った。


 呑気に食事を取る小ママン。

「すまない雷祇君。私も一緒に行こう」

 部屋に入るなり感じた違和感。カイヤックはまだしも、静華がいないこと。なぜいないのか尋ねたところ、返ってきた返答は、口の中の魚と混ざってよく聞き取れなかった。変わりにリンリが、逸れたみたいと教えてくれた。

 まともな感覚を持っていると、あの人ごみの中目が見えない、中々の美少女が逸れたとあれば必死に探しそうな物。まともな感覚は持っているのだろうが、食べることに意識が向き過ぎている小ママンは、心配しているとすれば、料理をもう少し多く持ってこればよかったという腹の具合。

「私も行くよ」

 食事の大半を終えていたフリシアと鈴奈は、リンリに対してだけありがとうと残して出て行く雷祇の後を追って部屋を出た。

 責任を少なからず感じているようで、声には出さなかったが、あまり進んでいなかった魚のステーキをテーブルに置いて扉に向かう。出て行って間もないので、追いかければ追いつくだろうと考えていたようだが、一番冷静に、付いていっても足手纏いになると感じたファーリーが手を取った。

「リンリ、大丈夫。それよりもあなたはお魚を食べないと。大きくなって、立派な魔女になるんでしょ?」

 でもと口は動いたが、ファーリーが本音に言おうとしていることを微かに感じ取ってか、音に出すことはなかった。ゆっくりとファーリーがリンリの手を引き、椅子に座らせた。自分も横に腰かけると、リンリの皿の上に魚の唐揚げを盛り付けた。

 これだけ人が多いと、一人では無理だ。幸い、二人は手を貸すといってくれている。静華を一人にさせた張本人ではないが、それでもあまり手伝ってもらいたくはない本心を隠して、手分けして探し始めた。

 杖を突く少女なら少しは目立つかもしれない。もしかすれば、誰かが心配して、安全な場所に連れて行ってくれているのかもしれない。きっとそうだ。

 なるべくいい方向に考えようとするが、小ママンまでとは言わないが、この町に来ている人は魚料理が目当て。足元を見て歩いている人が、果たしてどれくらいいるだろうか。意識しても、一目で何十とある足の中から、細い木の杖を見てくれている人は、いるだろうか。きっといない。

 頑張っては見たが、最近の心の状態ではいいことを考えるのですら、難しい。静華の身を案じる気持ちを指差して笑う人混みは、手掛かりさえ渡してくれない。落ち着かそうにも、周りの人すべてが、静華を隠しているようで気がおかしくなりそうだった。こんな時に、人の多さに影響されずに、町を、そう一望できれば、見下ろせたなら。

 いるじゃないか、出来るのが。雷祇の足は一時ではあるだろうが迷いを消して、目的地を見出す。向く先は一匹の飛べる獣。

「バナン」

 だが結局、バナンを探すのですら三十分近くかかった。久しぶりの会話。二人が話をしたのは、もう何年も昔のように遠い。

《にゃんのようだ》

 振り返りもせず、目の前で泳ぐ魚に手を伸ばすわけでもなく、ただぼっと砂浜で湖を眺める。元々近くなかった距離は、今や湖の対岸よりも遥か遠い場所にある。別に仲良くなりたくて来たわけじゃない。やることがあるから、力を貸してもらう必要があるから。一つも、毛一本動かない、感情がなくなった尻尾に言葉を落とす。

「静華が迷子になりました。上からなら見つけられるかもしれないので、手伝ってくれませんか?」

 疑問形にしたものの、返事は聞かなくても分かっていた。それ以前に返事は寄越さなかった。

 影も残さず、一舞の風を残して、空高く飛びあがっていた。打つ手は打った。自分も行動しなきゃいけない。無事でいるはずの静華を無傷で救い出そうと、見当たらない手掛かりを人混みに求めて。

 探し始めて一時間近くが過ぎようとしていた。手掛かりは未だ零。空から見つけたなら、報告はないだろうが動きはある。見上げると影があるので、見つけられてないらしい。結局、何も手掛かりを見つけられないまま、雷祇は二人と合流した。

 何か手掛かりはあったか、どこを探したのか、誰から話を聞いたのか。一斉に出し合ってみたが、手持ちも種類も少ないカードからは、足取りは掴めなかった。

《見つかったのか?》

 脇道には入らず、店の人に事情を言って貸してもらったスペースで話をする三人の上に、影が下りてきた。人の流れが薄いところとはいえ、三人が止まって話が出来るくらいの空間しかない場所に、突然降ってきた二つの異物は、地面が見えるほどの大きな穴を開けた。

 まずは、大きな猫に翼が生え、しかも飛んでいるということ。もう一つは、猫なのに喋っているということ。殆どの人がこの二つを理由に驚いていたが、中には意外にも冷静に、話獣だと口に出す人もいた。どうやら話獣を知っていた殆どは町の住人らしく、出てきていたのは大半がダ・ペンギンだった。

「いえ、どこにも。そっちは?」

 首を振る。フリシアは頭を下げた。小ママンがすまない事をしたと。雷祇は聞いていたが、バナンは何故迷子になったのか知らない。不味いと思い止めようとしたが一足遅く、口を塞いだ時には理由を聞かせろと、久しぶりに感情が表に出ていた。

 大人しく聞いてはいたが、尻尾は忙しなく動く。最後まで聞き終った時には、表にだけではなく体を怒りの感情が支配していた。二人の知らない、本来の姿に近い空気が体を覆っていく。恐ろしさもあるが、どう接すればいいのか分からない二人は慌てるだけ。

 宿に向く足先をこれ以上近づけさせてはいけないと、前に立ち塞がり、それどころじゃないでしょと説得しているが、聞く耳を持っていない。牙よりも鋭い視線を全身に浴び、思わず怯みそうになるが、このまま行かせれば小ママンの命の保証はない。落ち着いて、今はそれどころじゃない。意味は分かっているが、それだけではどうにもならないことがある。前までなら容赦なくぶつかっていただろうが、切れ味の戻った視線は雲を切り裂いた。飛ぶ。

 そう感じた時には、一番柔らかそうな腹の毛が見えていた。

「まったく気の短い奴じゃ。それに加えて、もう一方は隙だらけ」

 久しぶりに感じた殺気。切り裂かれた雲は、鉄の足の裏に踏みつけられていた。振り返ると聞こえたはずの声の主の姿はない。辿ったはずの上に視線をやるが、そこにもいない。じゃあ前に回り込まれたか。だかそこにもいなかった。想像以上に素早い殺気は、地面から声を届ける。

「遅い的なら必要ないぞい」

 火薬を撒き散らす合図。鳴り響く発砲音。

 背中を後ろに倒す競争があるなら、誰よりも早く反応して一位になれるんじゃないか。ただその時には、今顎を掠めて、空高く駆け上った本物の鉛玉は使用禁止にしないと、確実に死人が出てしまう。競技としては、あまりにも危険だろう。

 なんてことを考えている余裕などなかった雷祇の耳に、生の、飲み物が欲しくなる枯れた声が聞こえてきた。「チィ、外したのう」

「あ、あ゛あ、何するんですか終演!」

 立ち上がり、こちらも同じ期間聞いていなかった、怒る時に少しだけ甲高くなる声。鬱陶しと言わんばかりに鉄の指で耳の穴を弄り、「動く的を撃つ練習じゃ」とさっぱりあっさり、後ろのリュックに銃を片付ける。

 ヒステリックに叫んでいるうちはまだ安全地帯。下手にスイッチを踏んでは、後が大変だが。唐突にやってきた終演合流。フリシアは、唖然としている。

 文句を言わずに降りてきた四本の足が、怒り狂う雷祇の口を尻尾で叩いた。踏みつけられた屈辱はあるが、それよりも大事なのは静華を探し出すこと。飛び出した怒りを押し込められたのか、気持ちは切り替わっていた。

《静華がいにゃいんだ。探すのを手伝え》

 合流して早々に出された難題。嫌と言えるはずもなく、何故そんなことになったのかと、呆れとため息と、もう一つ、疑問を口にした。

「ところで、カイヤックの奴は何処に行ったんじゃ?」


 終演が疑問を口にした主は女の子を助けていた。

「大丈夫か、嬢ちゃん」

 どれだけ息を吸えば苦しくなくなるのか体が試しているように、乱れる呼吸。幸い、側には湖がある。カイヤックの肩ぐらいの高さの崖を降りると、水に触れられる岸に降りられる。

 自分の体を探ることはせずに、辺りを見回す。生えているのは普通の草や木。せっかく目の前にあるのに、どうにも見当たらない。水を掬う器。量は少なくなる、それでも十分に多いが、手で椀を作るしかない。何も考えずに、手を水の中に突っ込んだ。

 底からタイミングを見計らっていた腕が、水面に触れた手を引っ張りこもうと掴んだ。全身、体ごと持って行かれそうになったが、踏ん張り持ち堪えた。だが何時までもこの格好に、この力に抵抗していられない。拮抗といえない押され気味の力比べ。大地を持ち上げるにはこれぐらい力強くなければダメなんだろう。自然と漏れる声が、全力の証。

 なぜいきなりこんなことになったのか。引っ掛かっていた疑問が体の中に流れた時、腕と呼ばれる流れに逆らった大きな水を汲んだ椀が湖から抜け出た。

「あー、危なかった……。けど確か、なんたらの腕って奴は、海だけじゃなかったか?」

 魚周の祭りがこれほど活気があるのは、これが要因だった。

 元々砂浜沿いに作られたのは、船を砂浜に上げる為だった。昔、半世紀大戦が終了する前まではこれほど、町も祭りも有名じゃなかった。毎年上がる魚は最低限取れていたし、大して目くじらも立てることはなかった。そう、その場で焼いて食べること自体には。嘗てこの湖は、密漁が盛んだった。

 だがそれが一変したのは、奈落の腕が湖の淵を舐めるように取り囲んだため。現在知られている湖では、唯一ここだけに存在する。幅が三メートル近くあるために、飛び込むことは可能でも、漁をすることはできなかった。ただ未だに、釣りをする人はいる。そう言う人は、大概が町に調理をしてもらい、その場で食べる人たちだった。

 そんなことを知るはずもなく、零れないよう丁寧に元の道に肘を突くと、肘だけで体を引き上げ、這い上った。

 少しだけ、本当に微妙だが通常の呼吸に戻ろうと体が落ち着き始めていた。そんな女の子の前に、ごつい手が差し出された。幼少の頃には柔らかくて、触れるだけで形を忘れてしまいそうな小さな手だった。本当にそんな時があるとは思えない、太く硬そうで、平たく厚い、十分に使い込まれて馴染んだ手。町中ですれ違うだけでも汚いと思うだろう手に汲まれた、湖の水。夕食でこんなことをされれば、確実に叩き落している器に、女の子は飛び付き、一気に飲み干した。

 背中をゆっくりと摩る。首の近くから腰の辺りまで下げるのと同じように、カイヤックは息を吐く。女の子も同じように息を吐き、腰の辺りから首の近くまで上げる時に、二人は息を吸った。

「落ち着いたかい?」

 頷いた女の子だったが、それも早々に、掴みかかるように話しだした。驚くわけでもなく、詳しく聞くためには言う言葉は一つしかない。落ち着いて話して。カイヤックも似たような言葉を口に出し、女の子が我に返って、詳しく話を聞かせてくれた。姉が誘拐されたということ、静華も浚われていたとういうこと。男は四人いて、馬車を使ったということ。誘拐犯の中でも、一人だけは三十前半か二十後半と若く、後は四十は超えているということを。

 黙って最後まで聞き終ると、ありがとなと頭を撫でた。「悪ぃが嬢ちゃん、一人で町まで帰れるか?」

「はい、行けます。その代わりに――」

「心配いらねぇよ、助け出すからよ。そうだ嬢ちゃん、町に着いたら雷祇か婆さん、って分かんねぇか。俺の仲間がいてよ――」

 思わず口を滑らして、一緒にいた人ですかと聞いてしまった。咄嗟に口を塞いだが、これがますます怪しさを引き立てる。

「なんで知ってんだ?」

「その、あの、い、一緒のホテルに泊まっていたんですの」

 慌てぶりと動きで、雷祇なら信じないだろう。うろたえても見える女の子の頭から手を離すと、記憶力が凄ぇんだなとカイヤックは納得した。

「頑張ってくれな」

 立ち上がらせると、二人は別れた。一方はタナトスの館に、一方は町に向かって走り出した。

 リンリはファーリーに預け、小ママンも合流して、住人にも何人か声を掛けて手伝ってもらっていた。上空に、町の住人しか知らないような細かな場所に至るまで探しつくしたが、影も形も見当たらず、手掛かりもなかった。

 現状、打つ手なし。最底辺にあった現状は、上るしかないが、まるで下がったように悪化していた。無駄だと知りつつも、皆が集まり話し合う度に、酷くなっていく。

「しっかし、情けないババアじゃのう。飯のことに頭が向こうて、静華嬢を迷子にさせるとは」

「あんたに言われたかないね。今まで姿も見せないと思ったら、急に現れて――」

「色々と用があったんじゃよ」

 何度話し合っても事が進まない。仲間内で意見が纏まらなかったり、仲の悪い者がいたりする時には、平行線どころか脱線に次ぐ脱線が起こるが、まさに後者が雷祇たちに当て嵌まっていた。顔を合わせるたびに激しさを増す罵り合い。

「はっ! あんたの用ってのは、またロクでもないことなんだろう」

「何言うとるか。お前さんが世界中を回って手頃な調教しやすい女子供を集めるのには比べれば、負けると思うのう」

 聞き捨てならなかった。偽善でもなく、ただの奉仕でもない。信念を持って動いている。自信を持って言い切れる。それを知りも、いや知っているはずなのに、自分たちの行動を、全て否定する終演の言葉が。どうしても聞き流せなかった。

「調教だって? ふざけるんじゃないよ! あたし等ビックママンズはね、あんたのような破壊することしかできず、弱者を虫けら以下にしか見てない奴らが作り出した、死ぬしか道のない子たちをどうにか、どうにか自分たちの力で生きていけるように育ててるんだよ。それのどこが調教だっていうんだい!」

 怒りのほどは、逆立つ全身の毛を見れば、来たばかりの人間でも迂闊なことを言うのは避けるだろう。原因を作った人間なら殊更気を付けるだろう。一般常識ならそうだが、ここにいるのは終演で、起因も終演。高笑いさえすれど、気を使うことはなく、平然と怒りの頂点を引き上げようと話を続ける。

「全部じゃろうが。そんな下らん考えでも、弱く死にそうな状態で助けられれば、信じてしまうもんじゃ。そうなればこっちの物と、戦えるようにして馬車馬のように扱き使うんじゃろう? 可愛そうにのう。もう少しまともな人間に拾われていれば、普通の生活が出来たじゃろうに――」

 他人を貶めたりすることに関しては、海よりも深い水量を誇る終演の言葉は尽きそうになく、まだまだ攻め続けようとしていた。どうにか抑えようとしていたが、越えていた限界は爆発して吹き飛んだ。

 終演の姿を見てから嵌めていた鉄手袋が、ギリギリと音を鳴らす。力が込められていく。先ほど話していた可愛そうという言葉の印象とは正反対の、見下すような視線。

 冷たくて、今まで見たことがないほど冷気を放つ、水など干上がったはずの瞳。気丈に、前に踏み出るフリシアですら、隠れるようにお腹の後ろにいた鈴奈と並んでいた。この腐りきった瞳と目が合うのですら許せないと、断ち切るように、鉄の拳が繰り出された。

 あまりにも大振りで、動きも大きい。避けることはいとも容易く、吹き飛ぶ地面の石畳すら軽々とかわして距離を取った。次の攻撃のことを考えていない、くだらない一撃に、終演の態度は蔑みを増す。どんな表情か見るまでもなく、引き起こした小ママンは、今度こそ仕留めようと飛びかかろうとしたが、隠れていたはずの二人と、手伝ってくれていた数人の男に腕を取られ、動きが止まってしまった。

「あんた等はあんなに言われて悔しくないのかい!」

 返答を貰わなくても、二人の顔は悔しさで一杯。抑え込みながらも、本当は目の前のジジイをぶっ飛ばしてほしい、そう言っている。怒りの収まる気配がない小ママンの姿を、優雅に腕組みして、どうなるのか見物だと終演は言っているようだった。

 確かに元々口が悪い、まあ、悪いというだけでは軽過ぎるほど、酷いことは知っている。雷祇だってこれまで幾度となく、嵌められたし、嫌な気分にもなった。ただこれは酷過ぎるし、何より今は、そんな事をしている暇なんてない。雷祇は終演の前に立って、組んでいた腕を振り解いた。

「終演、言い過ぎですよ。それに今は静華を探す方が先なんですから」

 つまらんと言いたげだったが、口はそれ以上の物を周りの人間に伝えていた。

「そうじゃの。もしやすると、このババアが静華をどこかに連れて行かせ、自分たちのとこに連れて帰ろうとしているのやもしれんしの」

 捨て台詞にしては、怒りの炎を燃え上がらせる燃料になる。小ママンがさらに暴れ出そうとするが、終演は見向きもしないで、行くぞいと促す。さっさと動きたかったバナンも横に並んだ。気持ちは暗いが、一番常識がある雷祇は、小ママンを気にしながらも、終演に付いていく道を選ぶ。

 見つけた。人混みを掻き分け近づいてきた女の子。気持ちは暗く、静華の身を案じているが、二人のやり取りで出来た人垣から中に倒れてきていた女の子に気付いて、素早く反応していた。地面に体を打ち付ける前に、低く構え、太ももで受け止めた。

 長く走ってきたのだろう。息をするのでさえ体が疲れたと拒みそうに、胸が上下している。こういう時に掛けるのは、見ただけで分かるはずなのに、なぜか皆大丈夫ですかと聞く。大丈夫なわけがないのに。

 聞いて失敗したと思っていたが、こんな風に考えたのが手掛かりを引き出す切っ掛けになった。女の子が口を動かしている。激しい息よりも一生懸命、何か伝えようとしている。一メートルもない距離すら上ってこれない、ひ弱な言葉を聞き取ろうと顔を近づけた。

 聞き終る前に、大きな声を上げて二人を呼び寄せていた。

「本当ですか! 終演、バナン! 静華のいる場所を知っている女の子がいます」

 離れようとしていた二人は、足を止めずに引き返してくる。女の子は、死にそうな魚のように口をパクパクとしている。それだけに見えるが、三人が唇にくっ付きそうな距離に耳を近づけ、言葉を最後まで聞き終えた。

「バナン、この子を背中に乗せて。連れて行きましょう、ここまで来てくれたんですから」

 嫌がる様子はない。手掛かりをくれた人間に、鬣を丁寧に巻き、背中に乗せた。小ママン達も、どうにか怒りの鉾を収め、付いてこようとしていた。

《さっさと付いて来い。お前たちは乗せにゃいぞ!》

「言われんでも付いて行くわい」

「行きましょう」

 一斉に駆け出す雷祇たち一行を追いかけようとしていた三人に向かって、終演は嫌味を残す。「付いて来れるとは思わんがのう」

 また怒りが込み上げてきたが、バナンが飛びだしたのを見て、鼻を明かしてやろうと切り替え、足が動き出す。皆が一斉にタナトスの館に、小ママン達は取り敢えず町の外に向かって、目的地を見つけて走り出した。


 両手足を縛られ、箱から出された三人は一か所に固められていた。

 館と呼ばれてはいるが、石階段を降りた先は広い、石の壁が広がるだけの空間。天井は自然の、巨大な岩が乗っているだけに見え、床は土が剥き出し。地上から随分と深い場所にあるこの空間は、あまりにも暗すぎる為にランプなしでは、暗闇に一分も耐えられずに押し潰されてしまうだろう。下調べか元々知っていたのか、四隅と中心に五つのランプが設置してある。これでやっと、ランプの点いた夜の普通の家と同じ明るさだった。

「なぁ、なぁ。必要なのはこの目の見えない女だけだろ」

 長い髪を掌にグルグルと巻きつけられると、意思と関係なくお尻が地面から浮きあがる。痛みに歪む顔とは反対に、口はしっかりと結ばれていた。目的も、なぜこうなっているかも分からないし知らないが、今まで会った人間の中で一番卑劣な人間に屈しないと、光のない目が訴える。

 持ち上げている男ではない一人が、この目を見て立ち上がった。こう見えたのだろう、随分と生意気な目。焦点も定まっていないのに、しっかりと見据えてきて気に入らなかった。側に近づいてき音が止まる。見えない静華はじっと見上げて、構えない。見えていたなら咄嗟に取るだろう、防御の構え。

「止めろ」

 殴りつける準備が整っていた腕。握り拳を作って振り下ろしていた。一瞬、時間が止まった。殴った、もう殴ったはずなのに、静華の顔は綺麗なまま。おかしいと見やると、あるはずの腕が、そこにはなかった。

 痛みは脳が作って全身に伝える。切れた腕、無くなった体の一部に、今頃になって痛みの警告が全身を駆け回る。痛い、痛い。上がる悲鳴と血が意味することに、静華の髪を掴み上げていた男が気付き見た。

 真っ赤な何かが、青年を覆い隠す。初めから見ていたはずなのに、これが何なのか分かる前に、男の手から静華の髪は滑り落ちていた。呆気に取られていた最後の一人は、短い間に一人を殺し、腕を切り落とした青年の、剣にも劣らない鋭き眼差し一歩後ろに下がる。大丈夫、自分は何もしないと両手をそっと、顔の横に上げて。

 生温かい物が全身に振りかかった。どこにピントが合っているのか分からない黒眼と、真っ赤な命の元の血が混ざる。これが何なのか、大体は知っている。カイヤックがよく出しているから。どういえばいいのか、助けてくれた。けど、ここまでする必要があったのか。分からない、分からないが、礼を言わないといけない。そう思った。

「助けて、くださって、ありがとう――」

「勘違いするな。お前は人質だ。価値があるから傷付けないだけだ」

 無くなった腕を取り戻そうとしているのか、響き渡る悲鳴。強制的に止めたのは、青年の一蹴り。

 鋼色の剣は、どれだけの命を吸ってきたのか。初めてではないだろう血の痕を残さないよう、振り払った赤い汁が床に染み込む。さっきまでの五月蠅くも激しい悲鳴が、音楽ホールで歌われた悲劇のように反響する中、第二幕を告げたのは笑いがメインの喜劇のような笑い声。

「なんだ、急いで下りて来たってのに、嬢ちゃんには手を出さねぇ相手だったか」

 見えてくる姿。静華を捕まえる青年。役者が揃って開幕するのは、果たしてどの演目なのだろうか。

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