第13章 不器用な悪魔のラブソング (7)
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刃を向けられる本人よりも、周りの者が反応して戦闘の構えを作る。それを手で制して武器を収めさせた。
「もういいじゃねぇか、なぁ」
立ち上がり背中を向ける。向き合いたくない。そうなった時には、取るべき行動を取らなければならなくなるから。ルットが悪魔になってまでしたかったことがあるとすれば、やはり一つしか思いつかなかった。本音をちゃんと聞かなくても分かる。手は探せば見つかるはずだ。終演が帰ってくれば、どうにかなる可能性があるんだ。だから剣を下ろしてくれ。
大きな背中だった。本当に大きな、見た目だけではなく、全て一人で背負いこんで歩く覚悟をしている、そんな背中だった。別れてから一段と成長した。そんな風に見える後姿から目を逸らさないでいる。相手がどれだけ強い意志を背負っていても、自分の固まりきった意志は下せない。見ろ、戦いたくないと伸びる影に、見せつけるように刃先を動かした。
「お前と、お前と決着を付ける。それだけだ」
何を言ったところでもう折ることはできないのだろう。この綺麗とはいえない、曲がりくねった道で見つけ出した答えを。強く握りしめるイクリプス。お前と一緒に歩いてきた道は、こんなことにけりを付けるためじゃない。言わずにはいられない、どうしてそこまでひた隠しにするのか、聞きださずにはいられない。
「嘘つくんじゃねぇ! ファーリーを助けるためだろ! だったら、だったらファーリーのために死んでくれ、これでいいじゃねぇか。じゃねぇと、じゃねぇと――」
主人の思いには頷くしかない。けれど、主人を守らないわけにはいかない。イクリプスは何も言わずに、握り締められる柄に血が籠っていくのを感じていた。
「お前ぇと戦わなきゃならねぇだろうが!」
迷わなくても、間違いなく答えに触れている。ルットの導き出した、答えに。だったらその口で、言葉でそうだと伝えてほしい。なのに出てこない、嘘の答えしか返ってこない。
迷いはないはずだ。カイヤックという男がどういう男なのか、何年離れていても、短い間だけだったかもしれないが、十分に知っている。ここで本音を前に差し出すわけにはいかない。
「お前と俺、どちらが強いか知りたいだけだ」
どうしても嘘偽りで話を進めようとする。そこまでして戦いたい理由が分からない。本気でやり合えば、結果は行動を起こさずとも理解しているはずだ。
助けたい気持ちがないわけじゃない。ルットと比べると劣るかもしれないが、十分に持っている。一人で抱え込まずに、一緒に探そう。
「どうやったらファーリーを助けれんだ? どんな方法だって手伝ってやる。だから――」
「もう遅い」
聞こえる地面を蹴り上げた音。影に落ちるのでも、飛ぶのでもなく、近づいているという音を立てながら、走り出した。
「行くぞ、カイヤック」
まだ広い背中は、どうにかなると語りかける。
「こんな無駄なことしなくても分かってんだろうが!」
「お前でも死ぬところはあるはずだ」
近づいてくる。もう聞き入れられない言葉は、悔しさで一杯だった。
「俺が勝っちまうだろうが!」
「俺が、俺の方が……」
限界だった。これ以上遅れれば避けきれず、反撃もできない。限界の場所だ。ルットはもう踏み込んできている。動き出す背中は、悔しさで泣いていた。「馬鹿野郎!」
言葉が乗るイクリプス。首を掠める剣筋。突き刺したのが逸れていたが、横に動かすだけ。それだけで勝てる。この人から遠いところに行ってしまった、しかしまだ人であり続ける男を殺せる。本当にそれだけだった。
「馬鹿、野郎……」
敵を倒すために斬り進むのとは反対側に刃が動く。刃だけじゃない、動きを作るべくして存在する関節という物を備えた肩ごと、宙を舞う。反対に動いたのは、斬り飛ばされたからか、本当にそれだけだったのだろうか。
本来なら即死でもおかしくない傷。切り落とされてしまった腕の最後を見送り、ルットはカイヤックに向けて最後の、色々なことを語り合った口で残した最後の言葉。「ありがとう」
流れるのは血であるはずだが、ポタポタと地面に落ちない。傷口から溢れだすのは、ヒラヒラと、風が吹けば舞い上がってしまう黒い翼。漏れだす、全てが流れ出してしまう。それだけは避けないといけない。まだだ、まだ消えるわけにはいかない。肩があった場所を握り抑える。元には戻らない手遅れな肩を押さえ、歩き出した。
敵が弱って歩いている。仲間を殺された者も、家族を殺された者もいる。仇を討つことができるのに、誰もこの一匹の悪魔を止めない。止めることなど出来るはずなく、行く先を見つめた。
「大丈夫かいファーリー。鈴奈、毛布はまだかい!」
静華の頭をリンリの膝の上に預け、鈴奈は町を走りまわっている。近場の家から手当たり次第に毛布を何枚も掻き集めていた。体中を蝕む植物の根が、触れなくても動いているのが分かってしまう。活発化し、肉体を犯されているのに、ファーリーは痛みの声を上げていない。
「静華ちゃんの力で収まっていたのかい。クッ、いつもより激しいね……。鈴奈! 早くおし!」
大きな体で包み込んでいる。ファーリーの体は温かいを通り越しているはずだが、小ママンの体で感じる植物の激しい動き。少しでも冷やしちゃいけないと、周りにいた男たちの服をしたに敷き、地面に体が触れないようにしているが、効果は薄い。
「分かってるよ、ママン!」
前が見えないほど積み上げられた毛布。一度に運ぶには多過ぎたが、周りにいた一般人が鈴奈を助けている。これだけあれば少しはマシになるだろう。ホッとは出来ない、この現象が収まってくれるか分からないのだから。だが、少しだけ、本当に少しだけ小ママンの顔が優しくなった。そんな中、目に舞い落ちる一枚の翼。
「ルットかい」
返事はない。砂漠の上には、水ではありえない綺麗な、綺麗と思えてしまう黒色の水溜りが道を作っていた。
「あんたは……あんたは本当の化け物になっちまってたんだね」
見せないようにしているが、寂しさが眼を満たしている。この男には隠さなければいけないが、どうして言ってくれなかったんだい、そう言いたげな目だった。けれど決して口には出してはいけないと、別の言葉を作り出して返す。
「何の用だい」
「ママン、離れてくれないかな。大丈夫だから」
ずいぶんと長い間、汚い、暗い裏稼業をしていた。決して表になれない、なってはいけない世界で小ママンも生きてきた。いつ裏切るか、裏切られるか。
小ママンのいるビックママンズですら、ないとは断言できない世界。どれだけ信用していても、どれだけ信頼していても、裏切られる時はあっさりと、今まで何もなかったように手を離されてしまう。
「どうやってあんたを信じろってんだい? 化け物にあたしの可愛い娘はやれないよ」
冷たくはない。これが当然だ。ルットも分かっている。どれだけ仲が良くても、どれだけ愛し合っていても、裏切りは全てをなかったことにする。
なのに、そのど真ん中で生きてきたはずなのに、大きな裏切りにも何度もあったはずなのに、泣いているのはなぜなんだ。なあ、カイヤック。
「あいつに、言っておいてくれない、かな。お前に斬られて、良かったって、お前を選んで、間違いは、なかった。そう、言ってくれない、かな」
「あの子は、ほんとに……。で、何の用何だい?」
唇からも、小さな翼が漏れだす。噛み切れてしまいそうなほど深い、どうにかして体を保つために出来た傷。
「さっきの少年、彼と俺は、取引していたんだ。雷祇という少年と、静華という少女がいる。その二人以外に、獣がいるだろう。そいつを、殺してくれ、と。ただ、かなりの強さだろうから、普通じゃ無理だ。だから、悪魔に誓い、力を手に入れろ、と」
「まさか、あんたそんなのを――」
あの時と、返事をした時と同じように躊躇いがなかった。「呑んださ」
「ファーリーを、助けてくれる。そう言ったんだよ。ただ、すぐには、信用しなかった。話も、嘘臭かったからね。何より、悪魔など、信じられるものじゃ、ない。隠れて、色々調べた。彼のことは一度も、信用しなかった。ただ、いけると思ったんだ。彼が治す気が、無くても、治せると、分かったから」
どうやって治すつもりだい。聞きそうになっていた。この何の罪もない女性を、ファーリーを助けたい思いでだが、そんな自分が堪らなく嫌だった。ここまで大きく育ってくれた、大事な息子じゃないか。
裏切りの代価があるなら、払うべきは自分かもしれない。それほど重い、嫌な思いに包まれる。本当に嫌な、人が人らしくある嫌な気持ちに。
「俺の命さ。悪魔って言うのは、変な存在、なんだ。会ってみて、分かったよ。特に俺自身にも、他の人間、にも、興味がない奴、でね。俺の会った奴は、苦痛を、見たいらしい。終わることのない、苦痛の中で、どれほど狂うのか、それを見て、みたいらしい」
三度息を吐く。もう命を長らえる必要はないと傷口から離れた手は、今度は別の動きをする。命を自分自身の手でもぎ取るように、傷口に潜り込ませる。
皮膚が無いとは言え、他人でも生きている肉体に腕を入れるのは躊躇いがある。しかも今やろうとしているのは自分自身。痛みに進まなくなるのを耐える精神力に加えて、必要なのは死にゆくことを恐れない勇気。
折れそうな音を立てる歯に耐えてくれと、口から漏れ逃げる力には後少し残ってくれと、声には出せない願いを込めて突き進む。全身逃げ場のなくなった痛みは、震えて肉体そのものを翼に変えようとする。ここで止めたなら、もしかすれば助かるかもしれない。頭を過ってもおかしくない言葉を抑え込んで、一秒たりとも同じ場所に留まる事を許さない指が、さらに肉を掻き分け突き進む。
全身に拒絶を込めて力が入る。ダメだ、鈍くなるから、筋肉からは力を抜け。指が進まなくなるから。命令を無視してでも、全身は強く、異物を拒もうと強張る。それがさらに痛みの勢いを増加させて、全身を震え上がらせる。
最悪の循環だった。ここまで来たてしまったなら、もう後戻りはできない。する気は微塵もない。全身の警告を無視して進んだ先には、目的の物があった。それは命そのもの。躊躇えない、躊躇えばもぎ取れなくなってしまう。一気に引き抜くしかない。漏れていた声を、目一杯の雄叫びに変え、天に向かって張り上げた。
「この、体じゃなかっ、たら、即死、だな」
もう何も言わなかった。言う必要もなかったから。小ママンはファーリーを砂漠に寝かせ、下がった。思い出したように、痛みに苦しんでいなかったはずのファーリーが声を上げて苦しみ出した。
時間はない。カイヤックに残した意味とは別の、ありがとう。小ママンに向けた、最後の言葉。まだ動いているのを掌で感じて、握りしめている心臓。掲げた先は、ファーリーの顔の上。
「血を飲ませろ。俺の、血を、飲ませ、ろ。最初は、簡単だと、思った。すぐに、試して、甘かっ、たと、知ったよ」
心臓からさよならと、今まで共に生きてきた肉体に告げる黒い翼。
「そして、教えて、もらった、やり方が、これだ!」
一気に心臓に向かって力を込め掴む。決めていたからこそ、知っていたからこそ何も迷いが無い。自分の心臓だというのに、自分の命だと言うのに。一刻も早く、この苦しむ彼女を解放するのに、躊躇いはなかった。
肉が握りつぶされる音と、音なく舞い上がる翼。黒い、ただ真っ黒だった翼の塊の中からほんの、どれだけ喉が渇いていて飲んだとしても潤ったと思えない、たった三滴の血が落ちる。苦しみに支配されていたファーリーの口の中に導かれるように。
声が止んだ。周りの音は聞こえているから、聴力を失ったわけじゃない。痛みから解き放たれたんだと、止まったはずの声が教えてくれていた。
「よかった、効いたのか」
膝から崩れた。立っているのも、限界だった。
「ファーリー、君に言えなかったことがあるんだ。初めて君を見た時から、言いたかった。でも、言えなかった。好きだよ、ファーリー。生まれてから、初めて、生まれて、唯一、そう言える。ファーリー、君のことが好きだ」
手が伸びる場所は決まっていた。目はもう見えていないが、どこにあるのかはすぐに知ることが出来た。何年も見続けてきたんだ。長い間見ることが出来なかったけれど、忘れるはずがない。ゆっくりと、触れれば形が崩れてしまいそうな綿毛の塊を掴むように、ゆっくりと頬を撫でる。
「君はこんなにも、綺麗なんだ。心も、体も、君ほど美しい人を、俺は知らない。だから、今までのことも、俺のことも、忘れて、見せつけてほしい、世界中の人が、羨む君のことを。それで、幸せになってくれ。俺の、最後の願いだ。十分苦しんだんだから。今、この言葉が届かなくても、いつか届いて、叶えてくれると、信じてるよ。ファーリー、君はこんなにも美しいのだから」
静かに眠るファーリーの顔に、重ねるように動いた顔。眠りを、長かった痛みが消えたんだよと、怖がる必要はなくなったと教えたくて。起きるんだ、君はこれから、誰よりも幸せになってくれ。混じり合うことなくすれ違うように合わされた唇は、眠り姫を包み込むように舞い上がった黒い翼だった。
天井が高い。真っ暗だ……。横のベッドには、静華が寝むっている小さな寝息が聞こえる。
負けたんだ、負けたんだよな……。でも僕は、生きてるんだ……。なんで、何で僕は生きてるんだよ、何で僕は!
あ、雷め、ウゥ。そうか、肩と、腹の辺りに、刺さったんだったな……。静華は疲れて眠っているんだよな。僕は痛みに気を失ったんだ……。何でこんなに情けないんだよ、僕は……。何で、こんなに……。
「どうだったフリシア? あの子起きてた」
泊まっていたホテルは、どうにか踏ん張り立っている。半分は形がなくなっているが、それでも人を泊めるには十分だ。
「……いや、食事はいらないだろう。私たちだけで食べよう」
外では、片付けも早々に切り上げられていた。生き残ったことに感謝して、突然開かれた死の晩餐を乗り切れたことを祝って宴会が開かれていた。子供も雷祇や静華、フリシア達を含めて二十一人生きていた。
昨日の今日、この夜の時間、世界が豹変した。生き残っていたのは大半が星の守護だが、町の住人も少なからずいる。外にいるのは大人だけだった。いや、大人でもこことは違う建物の中で、夜から隠れている人もいるだろう。
どれくらいの時間を費やすことになるのだろうか。暗い夜、一人で眠れるようになるまで。人それぞれだろうが、少なくとも、今日は無理な人間がほとんどを占めている。ぶり返す恐怖は、子供では耐えられないだろう。だからこそ、今日だけでもとこのホテルのロビーに、雷祇と静華を含めない子供たちが集まっていた。
それぞれ男の子と女の子のグループに別れて座るテーブルには、数々の食事が運ばれていた。
「じゃあ、静華ちゃんは?」
「彼女は寝ていた」
当たり前と言えば当たり前だろうが、あまり食は進んでいる様子がない。あまりとはいったが、実際は全く進んでいない。豪華で、普段なら見ることもできないような食事なのに、だ。
ロビーには明かりが点いている。暗いのは怖いだろうという配慮だが、空気が外よりも数段に暗くロビーを包む。食べるなと言われたように、食事を前にして固まっていた。誰もそんな事言ってはいないのに。むしろと食べろと運ばれていたのだ。
誰も動こうとしなかったが、体は正直だった。一人の少年のお腹が、素直に何か食わせろと文句を言った。
「これにしよう」
フリシアが楽しげに一本の鳥の足を掴み、大きな口を開けて齧り付いた。「おいひい。ふごいおいひい。これはらへんぶ、はべらへほううだ」
カイヤックならまだしも、とてもフリシアだけじゃ食べきれない量が、テーブルの上にはある。子供の小さなお腹の容量では、三十人前はありそうだ。「は、ね」
呟いた鈴奈に振り返る。
「太るよ、フリシア」
「うっぐっん。何を失礼な。私は動くから大丈夫だ」
両肩に乗った手だったが、こちらも同様に、豪快に手で掴む食事。鳥の足を掴んで食べたフリシアよりも、さらに豪快だった。串に刺さっていないから用意されていた掴む道具を無視して、焼かれた肉を手で口に運んだ。
「よひ。他の皆は食べないようだから、この鈴奈ちゃんが手伝ってあげよう」
「あぁ、そうしてもらえると助かる。勿体ないからな……。もう食べられない人だっているんだ」
別に皆して話し合ってしている演技ではなかったが、タイミング良く、自然な成り行きでリンリが食事に手をつけようとした。マイペースに、ゆっくりだったがそれほど遅くなかった伸びる手。食事をする道具を先にとって食べようとしていたからか、遅れて伸びたはずの手が、先に食器を掴んで、上に乗っていた食べ物を口の中に頬り込んだ。
これが合図だったのか、動く気配が無かった皆が、この一人が一枚の皿を食べ終わり、もう一枚掴もうとしたことで、一斉に食べ物を取り始めた。まだ暗いが、動き出した。夜は長くて、食事もまだたんまりとある。
「ありがとう、鈴奈」
「ふふん。さ、食べよう」
この町の大きさにしては少ない人数だが、一つの火を囲むには多過ぎる。折れて使い物にならなくなった柱や壁を焼べに、食事を作る火は三つあった。一つ一つの即席調理台は、味がバラバラで、好みの料理の周りに、同じような量の人だかりができている。皆が皆、知っているから。生き残ったことに感謝することを。
「ここにいたんだ」
太陽の鍔に頭を乗せ、一枚の黒い翼を丸く輝く月に翳して寝ころんでいた。
「みんな探してたよ、カイヤック」
「そうか」
上半身を起こして、手を差し出す。ファーリーは横に座って皿を置いた。
「……すまねぇな。けど、肉しかねぇのか」
乗っていたのは砂の味付け、にしては元がどういう料理だったか想像が出来ないほど砂塗れの肉料理。
「野菜の方がよかった?」
「いや、そうでもねぇよ」
翼を足の上に置いて、払う必要もないだろうと素手で口に運ぶ。
「私ね。ルットがそんなに思ってくれているって、知らなかった……」
町から出るのは無理なのか、カイヤックのように一人、明かりから離れて寝ころんでいる者は他にいない。月は確かに綺麗だ。怪しくて、何もせずに見つめていれば吸い込まれそうなほどに、美しい。
昼と違って、夜の空は顔をあまり沢山持っていないが、魅了する力は上に思える。今カイヤックの横にいる女性は、そんな夜空が美しいと思う事が馬鹿らしくなるほど、美しい。夜風と戯れる長い髪も、自ら光を発していると錯覚するほど光輝く。全てが、この世の物とは思えないほどに綺麗だった。
「本当に、知らなかった……。私が勝手に好きなだけなんだって、思ってた……」
砂の味しかしなかった肉料理を、一つも残さず平らげた。用がなくなった皿を砂の上に置いたら、もう一度翼を月に掲げた。二人きり。普通の男なら間違いをおかしそうだが、カイヤックはただ翼を見て笑った。
「知ってたぜ、俺も、ルットも」
そんな反応が返ってくるとは思っておらず、驚いているファーリーに、対照的な笑顔を見せる。
「お前ぇはさ、そんな綺麗な顔して結構寝言いうんだ。知らねぇだろ? 俺ら三人が寝てた時、お前ぇが大きな声で言ったんだ。お嫁さんにしてください、ルット、ってな。真ん中にお前ぇが居たからルットの顔は見てねぇが、慌てて部屋出て行ったから、起きてたんだろうよ。それによ、突然だったろ、部屋を男二人にしたの。寝言の次の日だったからな」
真っ赤になっていく顔。カイヤックは子供にするように頭に手を置いた。
「結局、二人とも面と向かっては言えなかったんだな」
震えているのが掌から伝わる。
「幸せになんなきゃな。あいつからの最後の願いだからよ」
顔が下を向いて行く。「無理だよ、だって――」
「いや、なってやれ、なんなきゃいけねぇ。今日は泣いていいからよ、存分に泣いていいからよ、全部涸らしていいからよ。明日からは泣くな、笑ってろ。幸せ、顔中一っ杯にして、笑顔でいろ」
喧騒から離れた砂漠の夜に、美しくも悲しい歌が響いた。
まだ疲れから目が覚めない静華と、動けない雷祇。二人を乗せたベッドの底にイクリプスを当て、両手でベッドを頭の上に支えたカイヤックは、軽い足取りでホテルを出た。バナンは何も言わずに後ろに続く。
「で、あんた等はどこに行くんだい?」
本格的に復興を始めた町。忙しなく動く人々の足は、昼まで止まらないだろう。
「魚周だ。そこで爺さんと合流する」
最初に会った時と同じ格好になっていた鈴奈と一緒に、フリシアは二人の、昨日助けた姉妹と話していた。
「よかったね、本当に」
肩に掴まっていないと立ち上がることもできないが、それでも生きている。命がある父親の杖の役を買って出ている母親。両親は二人とも無事だった。一つの家族は、感謝してもしきれないという表情でいる。
「本当に、ありがとうございました。この子たちがあのまま家にいたら、どうなっていたことか……」
この中で一番痛々しい、腕と足が包帯で固められ、顔半分も包帯に覆われている父親が頭を下げた。肩を貸していた母親も下げると、姉妹も続いた。
「いや、そんなことないですよ。ほら、楽しく行きましょ、生き残ったんだから」
感謝の言葉を言われ慣れていない。侮辱されたり、足蹴にされた人生。見ているこっちが赤くなりそうな服装でも平然としている鈴奈の顔が真っ赤に、見たこともないほど照れて、頭を掻く。フリシアは鈴奈の顔を横目で見て、対極に大人の対応を取った。
「これからが大変でしょうが、頑張ってください」
「何を一人で大人ぶってるんですか、フリシアさん」
恥ずかしさと自分が子供に思えてしまった二つを隠すように、鈴奈はフリシアの後ろに回り込んで、いつものようにスキンシップを取った。小さな悲鳴と、怒りに満ちていく顔。
「こ、こんな人前で!」
「いつものことではないですか」
言葉と同じように肘打ちは空を切る。もう離れて走りだしていた鈴奈を追い始めたフリシア。そして、二人同時に姉妹に向かってピースした。
「やっぱり合流するつもりなのかい?」
ため息深く腰に手を当てる。
「あぁ、まあな」
小さく、会いたくはないが、と小ママンは呟く。それでもこの沈む気持ちを晴らせるならと、横で下を向いていたファーリーに目を向けた。
「久々に魚でも食おうかね。ファーリー、あんた好きだったろ、魚」
寂しそうな瞳で、うんと頷いた。カイヤックは支えていた片手の部分に頭をズラし、不安定に顔の側面でベッドを支える。フリーになった手は、ファーリーに伸びていた。
気付いたファーリーが何かと尋ね、考える間もなく、町中に響き渡りそうな大きな、ビンタをされた時でもこれほど大きな音はならないだろうデコピン。頭がもげそうなほど後ろに髪が靡いた。
「あ、あんた何してんだい!」
走りまわっていた二人も、リンリも、助かった四人家族も、修繕をしていた人々の足までも止めさせた音の中心では、蹲った美女。小ママンは肩にそっと手を乗せるが、カイヤックはため息をつく。なぜこんなことをされたのか分からないファーリーが見上げている。そう、その顔を見た瞬間に出ていた。
「なんで――」
「泣くなっつったろ? なんで泣いてんだ」
ファーリーが反論する前に小ママンが、あんなの喰らえば誰でも泣くだろうさねともっともなことを言った。そんな答えは待っていない。
「もう喰らいたくねぇんなら、笑え」
頬を目一杯釣り上げて、傷だらけの顔に合わない笑顔を作った。普段は意識して笑わないせいもあってか、ぎこちない笑顔を。ファーリーは俯き何も言わない。
ベッドを頭で支えるのが辛くなったのか、手を戻して三点で支え、何も返さない彼女の横を素通りして歩き出した。
「婆さん。俺ぁ、こんな時化た面しかできねぇ奴を友だなんて――」
「カイヤック」
振り返るとそこには、ぎこちない笑いではなく、自然な笑顔が出ていた。
「なんだ、出来んじゃねぇかよ」
儚さが華やかさに打って変った頬笑み。
「笑っていればいいんだね」
「気持ちは後からでも付いてくるからよ」
会話の意味を理解できない小ママン達を残して、二人は笑っていた。
「お、どうした。魔女の嬢ちゃん」
足を掴まれ、屈みこんだ。見た目も喋り方も声も、どれをとっても怖いを体現する巨人に、なるべくなら近づかないでいようとしていたはずの小さなリンリが恥ずかしそうに、目を泳がせる。
「あの、砂漠は、その、歩くのが疲れるので、えっと、ベッドに、乗って、いいですか?」
「何言ってんだいリン――」
確かに小さな体では歩き辛いだろう。今までは、ルットと小ママンが交互にファーリーを負ぶっていたので、何も言わず、例えそんなことがなかったとしても小ママンに撥ね付けられただろう。だが、カイヤックという人物は、どうなのか分からないが甘えることができるかもしれない。
怖そうに見えていたが、少しの間とはいえ見ていて、実は怖くないかもしれない巨人に勇気を絞って尋ねていた。足音がズンズンと迫り近づいてくる。足の裏と砂が怒りながら近づいてくると、縮み上がっていく小さな体。答えはあっさりと返ってきた。
「そんなことか。寝てる二人を起こさねぇのと、自分で上がれるんならいいぜ」
素早く二回頷き、上ろうとするが上がれない。太股によじ登ることはできたが、そこから何処を掴まればいいのか分からなかった。
弱音を吐いたリンリにも怒ってはいたが、あっさりと承諾したカイヤックにも怒りが湧いていた。足音はいつしか速さを増して近づいてくる。
「リンリ、手」
まだ眠っている二人がいるだけのベッドの上から、スラリと長い手が伸びる。突然の助け船にも、縋るように掴まった。
「立って、カイヤックさん」
まだ上りきっていないリンリが宙ぶらりんなまま、巨大な体は立ち上がった。捕まえられるわけにはいかないと、ベッドの上に必死に小さな体が乗った。小ママンでも飛ばない限り捕まえられない高さ。
「ふぅ~、危なかったね、リンリ」
話にも出ていなかった鈴奈が、悪びれる様子なくリンリの頭を撫でた。
「カイヤック! 今すぐ二人を下ろし!」
もう復興を掲げる町人や、手伝う星の守護は動き出していた。
「まぁまぁ、いいじゃねぇか。重い方が、トレーニングにもなっていいんだ。どうだ、嬢ちゃんは?」
まさか自分には来ないと思っていた誘いに、フリシアは侮辱されたような怒り方で先頭切って歩き出した。
「私は結構だ! 自分で歩く」
「そうか。じゃぁファ、お前ぇは?」
「私も歩く。少しは歩いていたけど、暫くまともには歩いていなかったから、筋力取り戻さないと」
前向きになっているファーリーが歩き出す。進む幅を合わせるようにカイヤックは横を歩き、まだ納得できていない小ママンが文句を言いながら並んだ。バナンも一行の後をゆっくりと追い始めた。次の町、魚周に続く道を。