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テスタメント  作者: 竜丸
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第13章 不器用な悪魔のラブソング (6)

     7


 こっちだよと、走るよりも遅いはずの後ろ歩きの格好が、懸命に追いかける雷祇よりも速く進む。地面に触れていない足が風に乗っていると教えている。物差しでこれ以上近づいてはいけないと線を引かれて、二人の距離は一向に縮まらない。

「どうしたんだい? ここだよ、ここ」

 態々踏み込んできやすいように、足を組んで、手招きをする。だが何度踏み込んだところで、一向に届かない。

 楽しげに微笑む顔は二人と同じ。見ることがないと思っていた幼い笑顔を切り裂こうと動く雷命だが、風の意思そのものの顔に傷を付けることは許されず軌道がズレる。全力で、この一撃で、取り返せない命を取り返そうと乗せる思いが、体のバランスを崩させる。ほらここががら空きだよ、教える立場と教えられる立場に立つ二人の関係が、その度に決して致命傷にならない蹴りや拳を浴びせる。

 無駄だと見ている誰もが言うだろう。本人が一番よく理解している。今のままやったところで、致命傷は愚か掠り傷さえ遠く及ばない。だったらどうするべきなんだ。立ち止って、お願いでもしてみろというのか。出来るわけがない、それこそ本当に無駄なのだから。一閃、この一撃で切り開ける何かがある。

 人が走る場合、地面に触れるのは片方の靴底。走っている途中で両方の靴底が触れたとしても、その場で止まることはできず、身体能力が飛躍的に増す雷を纏っている雷祇も例外ではない。沈み込む上半身、着いたばかりの両方の足が答えるように折れて行く。勢いの付いている上体に引っ張られ、全身は前に、早くあいつを殺そうと囁く。溜め込むバネが、熱く熱を持ち始め、勢いの付き過ぎた体を支えようと片手が地面に触れる。目は繋がれているように一点を見つめている。片手だけでは足りずに、雷命を握っていた手も地面に触れる。広がる土の感覚が指の背から体全体に広がると、十七本の指が地球を掴み取りそうな勢いで開き地面に食い込む。さあ行こう、この一撃で仕留める為に。

「それじゃあ、まるで獣だよ」

 何をどうやっても、例えどんなことをすることになっても、殺してこようとする一匹の獣と化した姿が堪らなかった。

 関節の可動域を遥かに無視して捻り、背中を一周して脇の辺りまで回された腕。芯の強くない枝が撓り反動で戻るように、決められていた動き通り風牙の首筋に一本の線を描き向かう。終演の義手と同じように雷祇の腕も鉄製になって、雷命と一体になっていた。どんな妨害が起こっても揺らぐことなく目的を果たそうと、完全に一致する思いが軌道を描くが、狙うべき対象の力がそれを阻み、頭上を斬り裂くに留まった。

「ほら、力一杯に振り過ぎて、隙だらけだよ」

 雷祇のような一撃で相手を仕留められないタイプが絶対にしてはいけない攻撃。先のことを考えずに、次の動ける状態を作り忘れること。細かな攻撃を連続して、自分のダメージを最小限に抑えて戦わなければ勝機は見いだせないのだから。

 落ち着き冷静な頭ならこんな戦い方はしない。推定をしなくても断定できる。だが今はその断定も虚しく、腕に引っ張られて体の向きが変る。嫌がり主人を守る風の言葉に耳を傾けず、斬り返す刃を繰り出そうとしていた雷祇の顔面は、黒く視界を奪われる。走っている人間には絶対に出来ない、大人の腹筋の辺りに立ち、屈み込みながら繰り出す蹴り。

 防御をする暇がなく、無防備に浮き上がる体。蹴り上げられただけでならどうという事はない。ただ着地すればいいだけの話だが、相手はそんなに優しくない。

 全身を風に縛られ、取ることが出来ないのは受け身。迫っていた壁に勢いを殺す体勢でぶつかれず、全ての衝撃が骨を直接叩く。痺れるが回る前に壁は壊れ、中にあった、昨夜をどうにか無事に乗り切り冷めてしまった夜食が並ぶ食卓を吹き飛ばし、家の中の壁は頭からぶつかり、壊して砂漠に放り出された。

 よろめく砂漠の町。いつも以上に足を取ってくる砂漠の砂を、全身猫のように震えて払う。雷祇が開けてくれた穴を通ってもよかったが、乱雑な家の中を通るくらいなら、一匹もいなくなったがら空きの空の道を通ろう。高く飛ぶには屈んだ方がより空に近く跳ぶことが出来るが風牙には必要なく、均一の高さに並ぶ街並みを一気に駆け抜けた。

「何だ……ほとんどやられたのか……。役立たず共め」


 無傷で終えることが出来ない戦いの中で傷つき倒れる者がいる。光は益々小さくなる中で、安全な場所はなく、まだ戦える星の守護が庇いつつ、交戦を繰り広げていた。それでも順当に減っていく翼ある者の数。期待を持たれていた三人は、殆どこれには貢献できていなかった。なぜなら、強き翼ある者三匹相手に戦うカイヤックとバナン、ルットは二匹相手にしていたから。

 紐のように細長くカイヤックに絡みつき動きを制限する悪魔。これだけなら大したことはないだろうが、厄介なのは二匹の天使。一匹は白い翼を動かし、甘く痺れるような幻覚を見せる。カイヤックに対して使われている力でも、周りにいる星の守護が同じように幻覚の中に落ちてしまっている。襲うには好条件になった獲物を喰らおうとする翼ある者たちから、集中的に幻覚を浴びせられるカイヤックが庇い翼に変えていた。動きにくいだろう悪魔を振りほどかずに戦っているのは、やはり幻覚との戦いが熾烈だったから。見ている幻覚、それは――

「悪ぃな、もう死んでんだよ、アリーリアはな」

 遥か昔に思える約束の女性。見えているものこそが全てと馬鹿になる頭。なるなら口で言い聞かせるしかない。幾ら記憶の中にあるあの時の光景を見つめて生きているカイヤックでも、見えている物が嘘だと言わなければ落ちてしまいそうだから。

 不審に蠢く指先。カイヤックの背中に張り付いているもう一匹の天使は、何もせずに頭に触れていた。自分で自分の頭を触るだけでも何かに掴まれていると感じるのに、自分以外の手が触ってきたなら振り払うのが普通だろう。だが幻覚と現実の狭間に立つ男は気付いている様子がない。両手で顔を覆うように広がる幻の女性の向こう側に見える、襲われそうになっている星の守護を守ろうと、弱い翼ある者を翼へと変えるのですら一杯一杯なのだから。

「話獣がさ、何で人と一緒に行動しているんだ」

 三匹の悪魔がバナンの動きに反応できる距離を取って佇む。

《貴様らが知る必要のないことだ》

 バナンと話がしたい。気持ちが前面に出ている面持ちで尋ねてきたのは、真ん中で腕組みをしている大人の男ぐらいの背格好をしたリーダーらしき悪魔。疑問符だらけの話獣の行動に質問攻めにしようと頭を働かせ、せっかく話せるこの獣から言葉を引き出そうとするが、リーダーらしき悪魔の左右の足それぞれに掴まる、足よりも短い二匹の悪魔が我慢できないと足踏みして指差す。

「ねぇ、もういいでしょ? 本気でやっても」

「話獣ってどんな味がするのか食べてみたい」

 この二人に歯車が組み合わせ悪くしっくりときていない。獣の王と呼ぶにふさわしい見た目を持つこの話獣に言えば確実に不満が爆発するだろうが、迷い躊躇うこの姿を現すに相応しい言葉はこれしかなかった。人間らしい。人と長い間一緒に行動することで、染み付いてしまったのかもしれない。

 頷いたリーダーらしき悪魔に、ありがとうと両方から頬にキスして、肩にぶら下がっていた格好から二匹は一気にバナンに飛び向かった。これだ、これが狂わせるんだ。それでも避けるのは容易く、反撃も十分にできる。強いと踏んではいたが、実力は知れていた。圧倒的実力差は、この二匹を避けるようにし、鬣を伸ばして翼ある者を翼に変えていることからも窺い知ることが出来る。

 なのになぜ攻撃されても反撃しない、なぜ直視をすることさえも避けている。これだけの実力があれば、自分だって簡単にやれるはずなのに、一体なぜ。疑問符だらけの話獣の行動に、戦う事よりも知りたい欲求が上回ったらしく、腕を組んだままリーダーらしき悪魔は口に出して尋ねた。

「君はさ、この子たちが苦手なんだろ? だったら殺してしまえばいいじゃないか」

 軽々と避けているバナンを追い掛けていた二匹が同時に酷いと言うが、リーダーらしき悪魔は気になる内にも入っていない。期待の籠った目でバナンがどう返してくるのか待っている。

《答える必要はない》

「違う、答えられないんだろ?」

 腹が立つ。強いと言ったところで所詮は悪魔。自分よりも遥か下にいる分際なのに、中身を見透かされたようで、異常なまでに腹が立った。

「俺はさ、長く生きられるからこの姿になったんだ。体をくれてやった悪魔も、俺の意見に賛成でさ。色々と見て知りたい、この世界の不思議を。だからさ、教えてくれ。何で俺たちよりも強いはずの話獣が、躊躇い攻撃できないのか」

 知識を広めたくて堪らない瞳をしたリーダーらしき悪魔を止められないと、渋々二匹の定位置、両方の足に戻っていた。何時までも待つ構えでいるリーダーらしき悪魔だが、尋ねた相手は答えを返せない。二匹の悪魔は頷き合って飛び向かう、欲望赴くままに。

 一瞬、ほんの数秒だけリーダーらしき悪魔は止めようと、手を伸ばした。その気になればこの二匹を紙でも破り捨てるように消せるだろう。それでもいいとさえ思って、手を伸ばすのを止めた。どう動く、どう動いてくれるのか確かめるようにまた腕組み。視線だけは相変わらずバナンから離れない。

 チラつく影、二つの幼く無邪気な天使と悪魔が手を取り合って踊る。ガチガチと歯を鳴らし、噛みつこうとしてくる二匹。爪を伸ばして喉を掻き切れと促す本能に、本来持ち得ない理性が肉で爪を埋もれさせる。武器にならない前足と後ろ足を駆使して、割れ物を扱うように優しく遠ざける。これから見ても相手になるレベルではない。

 それなのに未だ避け続けている。注意深く見守っていると、チラチラと視線を送っている先があった。気付いてから三度目にして、ようやく投げかけられた視線の場所を見つけ出した。

「あの女の子を見ている、のか……。そもそも彼女は何なんだ?」

 自分の翼を数枚千切り、光に向かって投げる。普通ならフワフワ、ヒラヒラと落ちていく翼が、リーダーらしき悪魔の手から離れた途端別の物体に変化して、落ちるのではなく狙い向かう。翼が変わった物、それは大きな大きな蛇だった。ウミヘビが泳ぐように体を動かし、空を飛び静華に向かっていた蛇は、口を開けることすらできずに光に触れた瞬間消滅した。

「変わった力を使えるしな……う~ん。調べたいのは山々だけどそろそろ頃合いだな……ムァ、ビィ! 行くよ」

 一匹は尻尾に噛みつき、もう一匹は肩に噛みついていた。攻撃をしているつもりなのだろうが、王者の肉体に歯形さえ付いていない。どうしてと不平不満が出てきてもおかしくなかったが、唇に一本人差し指を立てる。「いいから」

 行動と言葉に、永遠に始まらないメインディッシュを諦め、口惜しそうに牙を離した。二匹が動いていない時には、ここにしか行かないのだろう、先程までと同じ悪魔が同じ足に抱きつき、なぜダメなのか見上げる。

「どうして急に?」

「そうだよ、もう少しだったのに」

 やはり不満だったようだ。頬が膨らんでいる。

「もう少しって、彼をかい? 多分、二人から受けたダメージなんて、彼にとっては蚊に刺されたようなものだよ」

「でも全然動けて――」

 始めからあまりなかったが、戦いの緊張感が欠ける三匹が向ける後姿を呼び止める。《素直に行かせると思うか?》

「行くさ、素直に。それとも何かい、俺を殺すかい? ムァ、ビィ、もし俺が殺されたら、あの女の子に近づくといい。そうすれば安全だ。大きくて強い話獣が守ってくれるだろうから」

 指の先には、気遣いで扇がれただけでも倒れてしまいそうになっている弱く光を放つ静華。気付かれていた、それとも気付かれたのか。バナンは近づいていた羽根を止めた。

「これでも殺せるなら、殺すといいさ。行こう、二人とも」

 攻撃できない確信を得て、三匹はバナンに背を向け、飛んで町を離れた。バナンはそれをただ見送った。

「大丈夫なの、風牙は」

「彼はどうやら、これだけ大掛かりなことをして、玩具を手にしたかったみたいだ。それに集中していて、俺たちになんて感心はないさ」

「でも、何で離れる必要があるの? 勝てたんじゃないの?」

「あの状況で? まず無理だよ、俺たちの方が圧倒的に不利だったさ。剣士の悪魔は十分に強いし、何より俺よりもやりたいことがあるように見えた。話獣の彼は言わなくても分かるだろう? それに一番厄介なのは、大きな剣を振り回していた戦士。見たかい?」

「うんうん、見てない」

「見ておくとよかったよ。あれだけ人間離れした人にはそうそうお目にかかれないだろうからね。いや、あれは凄いよ。体躯もそうだったけど、何より、天使お得意の精神攻撃を二匹から同時に浴びていて、普通に他の悪魔や天使と戦っていたんだ。いやぁ~、俺が何十いた所で歯すら立たないだろうさ。っとさぁ、無駄話は後にして行こう。命は大切にしないと、これが本音だからさ。あ、死んでるだったっけ?」

 足に掴まり、後で話を聞かされるんだと不安に思う小悪魔たちだった。

 二匹の悪魔に刃を向けるルット。一匹はすでに腕を一本失くし、一匹は片翼をもぎ取られている。

「貴様は俺たちを裏切るのか!」

「何か勘違いしているな。俺は心まで売ったお前たちとは根本が違う」

 一本の腕を失くした悪魔の残っている腕が薄平たくなると、ルットに伸びる。「ふざけやがって!」

 布のようになった腕が近づく。もう一匹は周りを飛び回り近寄る。

 素早く剣を構えて布のようになった腕に斬りかかった。見た目だけではなく本当の布のように、空中で切り落とすことができず、勢いが死んだ切り返しを狙って、グルグルと刃を包み込もうと動く。厄介な攻撃だが、上下左右させるのではなく引き抜く形で剣を取られずに済んだ。そこにもう一匹が拳を繰り出す。

 引き抜いたばかりの肘で弾くと、殴り掛かった勢いで通り抜けざま、足が飛んでくる。状況判断を的確にするなら足を受け止めるか、避けるべき。最初はルットもそうしただろうが、相手の特徴を知ると、行動の意味が分かる。翼を見ている。形状が変わって、刃物のように鋭くなった翼を。

 扱けさせるような位置に来ていた蹴りを向こう脛で受け止めたのに合わせるように、体の中心よりも少し上、心臓のある高さを水平に斬る動作で通過する翼。横に避けるが胸が軽く裂かれた。与えられたダメージは深くなかったが、いけると踏んだ悪魔はすぐに切り返して翼を水平に動かす。

 そこで待ち構えていた、掌で動かされていた感覚になる黒い眼。振り返らずに切り返される翼が届く前に踊るように回転するルット。遅れて見える先で、背中を向けている裏切った悪魔に容赦は無用と繰り出される刃物と化した翼は、もう止まらない、止められない。狙い通りだった。回転を終えて交錯する瞳の向こうには、ルットの剣に絡まった薄平たい腕。

 気付いた時には翼に肉の感触が触れていた。もう簡単だ、同じ軌道で剣を動かすだけでいい。それだけで、空中で切れない薄い紙でも容易く切れる。最初に腕を斬ったのは元に戻った一瞬だった。これさえも餌に、戻す気が失せるように撒いていた。簡単に釣り上げられた悪魔の腕はもう永遠に元には戻らず、舞い上がった黒い翼。 「糞! なんでこんな奴が――」

「想いが違うんだ、お前たちとは!」

 それほど大きくはない振りだが、ルットの剣筋は小さな振りで繰り出される。恨み節を連ねる予定だった悪魔の言葉を喉の中心で突き刺し、翼へと変えた。両腕を失くした悪魔は逃げ出そうとしていたが、背中を向けた時点で勝負が決まっていた。

 首を振るのは、カイヤックの頭を掴む天使。触れていたのが何時しか自然と、爪が食い込むほど強く掴んでいた。もう一匹、羽ばたき風を送る天使は、より強く頭を振る。焦り、不安、怯え。二匹の天使が感じていた不安の塊が、現実に変わる。

「何でこんな、綺麗な、綺麗な、昔が見えんのかと、思ったら、そうか。俺の、記憶だからか。読んでんだろ、頭ん中」

 体も心も縛られ動きが制限される中、眩惑の足止めを聞かずに動いた腕は頭に伸びた。天使が気付いた時には、細い腕の感覚が無くなるぐらい強く握りしめられていた。顔が、視線が、剥き出しの敵意が自分に向かってくる。怖い、目を合わせることが何より怖い。なのになぜか動けない。体が逃げ出さない。

「悪ぃな。こんな綺麗なもん見せられても、嘘臭くて堪らねぇんだわ」

 準備を整えていたイクリプスが、天使の腹に触れる。斬り裂くというよりも押し込むように力を込めて突いた刃先が天使の腹を引き裂く。何か抵抗しそうなものだが、勝負は幻覚を破った時点で付いていたようだ。綺麗で、永遠に留まりたかった世界から連れ戻された瞳が語った思いに、すでに天使は壊れていたのかもしれない。

「何だ、こんなもんが撒きついてたのか」

 動きにくい自分の体を見ると、懸命に解いて逃げようとする紐状の悪魔。一刻も早く離れたいのだが、何分動かないように何重にも巻きついていたので、中々体が自由にならない。緩んで解き、やっと逃げ出せるところまで来て、対象の動きを確かめようと振り返り見た。あったのは巨大な剣の影。空中でやっていると大変だろうが、大地に足をつけるカイヤックには地面という台がある。一言待ってくれと言葉に出そうとしていた悪魔に触れたイクリプスは、台を使おうと地面に触れた。途端に体は一刀両断。

「で、最後はお前ぇか」

 一瞬でここまで悪くなった形勢。異常なまでの精神力。人間なら誰でも夢の世界に入り込むと帰ってこれないが、この男は確かにこうして戻ってきた。恐怖の先行が番号のない選択肢を選ばせる。カイヤックに飛びかかるという最悪の番号を。直接のやり合いで勝てる要素は一つもなく、案の定赤い血ではなく白い翼だけが舞い上がった。


「やっぱり、あの二匹が鬱陶しいなぁ……」

 強き翼ある者の姿はすでにない。残っているのはカスばかりで、それも空中で消していくバナンと、地上で消していくカイヤック。忌々しいと二人を、今すぐにでも踏み潰すように睨んでいた。最大の目的が変更しようとしていたが、そうはさせないと地上から響く本来の目的の相手。人間が作る物とは到底思えない、相手に向かっての叫びとも怒りともどちらとも違う声を発し、跳んで向かってくる雷祇に風牙は言葉を投げ落とした。

「君との遊びもここまでだよ。プレゼントしなくちゃいけない物ができたんでね」

「お前ぇで、最後だ」

 最後の一匹を白い翼に変えた。静華の光を感じられないほど明るく開ける空。暑さを撒き散らすのはもう少し先だが、眩しさを湛え始める空の色に対して、光はあまりにも脆弱な光を放っていた。中心で膝を突いている静華に終わったことを伝えようと近づこうとしたが、一人の上げた声に足が止まる。

「まだ戦ってるぞ、二人」

「チィ! おいテメェら、光ん中に入――」

 雷祇の体が、まるでそこに落ちるのが決められている流れ作業のように、一本の垂直な線を描いて地面に落ちてくる。カイヤックは他の皆を光の中に押し込めようとしながらも、雷祇を受け止めるべく駆け出す。

 間に合わない。格好を見ると着地できずに背中から落ちてしまう。どうにかしたいと足を動かすが、こちらもすっかり弱くなった光を纏っている体が、遥か遠くの地面に衝突した。物が落ちただけでは絶対に起こり得ない、全てを吹き飛ばしそうな衝撃風が巻き起こる。咄嗟とはいえ、両足を広げて踏ん張るので精一杯のカイヤックは、近寄ることが出来ずにその場に釘付けになった。

 巻き起こる砂ぼこりに目をやられそうになるが、飛んでくる石や砂が目に入らないように前に突き刺した太陽が、全てを弾き返してくれていた。色々な風と向き合ってきたカイヤックだからこそできる芸当であって、普通の生き残っている星の守護は、惜しくも命を落としてしまった体と同じように飛ばされたり、上手く光の中に逃げ込んだり、風を遮る角度で光の後ろに身を隠す者に分かれていた。

 爆心地で数十、数百の風の手に押さえつけられている体を、必死で動かそうともがく瞳にしっかりと映る姿。風の槍を手に持ち、あの時と、一度目と全く同じ格好で落ちてくる風牙の姿。

 せめて、せめて一撃を。その意志だけで風に抗い、地面に張り付き根を張る腕を無理矢理引き抜き上げる。雷命を持つ腕も同じように地面から抜き掲げると、先に挙げていた掌に雷命の刃の腹を乗せ握りしめた。槍を、この一撃を耐えなければ、反撃の一撃など夢のまた夢。だからこそ、指から流れる血も気にせずに待ち構えている。さぁ、こい、受け止める。

「これで今日は終わりだよ、雷祇!」

「やられて、堪るか!」

 両手で槍の柄をしっかりと握り、力も体重も、風も重力も、あらゆる力を借りて落ちてきた風の槍をしっかりと受け止める雷命。風牙の足が地面に着地する。両脇にあった建物は一瞬にして吹き飛んだ。さらに凄味を増した風に、イクリプスを突き刺す地面ごと後ろに下げられる。

 一瞬、砂時計の砂が零れてしまう最後の十粒のように一瞬の時間も、ぶつかり合う二人には日が昇るように遅く感じられていた。流れが止まる汗と血。上げ続ける二人の声に混ざって聞こえる、金属が削れる音。一番初めに限界を告げたのは、相棒の雷命。折れる音。防ぐ物がなくなると、流れ込むように肩の付け根と肋骨の下の辺りを、綺麗にではなく、掘り進むように風の槍が突き刺さった。

「よく頑張ったよ、雷祇」

 刃は体の半分辺りまで抉り進んだところで動きを止めた。体が半分になったような痛みに上がる苦痛の悲鳴を聞きながら、風牙は冷静に、今日一日見せてこなかった顔を作った。楽しみは終わった。次は、噛み砕いて流し込むだけ。狂いそうになる痛みにも、笑う事を忘れた瞳からも一切目を逸らさず食いしばる。飛ぶな、飛ぶんじゃない。指から血を流す腕を、何十倍にも感じる重力に抗い微かに浮き上げた。もしこれで折れた刃が刺さっても、傷は無いに等しい。今日はそれぐらいサービスしてあげてもよさそうだが、彼にその優しさはなかった。体の中で止まっていた槍に体重を掛け、雷祇の体を一気に貫通させた。

「ああぁぁあ!!」

 動け、動け。狂いそうになる中必死で送る命令も、痛みの感覚に食われ苦痛の声を引き連れ外に漏れ出る。風はもう止んでいる。風牙は槍を消して、雷祇の両手を両足で押さえつけ、ゆっくりと胸に腰を下ろした。

「今日はこれで終わりだよ。次が最後だ。その時もまた、同じ顔を見せてくれよ、雷祇」

 気が飛ぶまでではなく、敢えて気絶の出来ない痛みを体全身で堪え、漏れ出る声と涙に涎と汗と血。心震える光景に風牙の顔は、遠慮せずに崩れて笑顔。これほど素晴らしい悔しさを堪え切れない顔を見たことがない。このままずっと見ていたい。時間を止めて眺めていたい。気分が高まり最高潮を迎えたが、こんな時に限って邪魔が入る。不快で汚らわしい声が。

「気を失うんじゃないよ」

 閉じてしまいそうな目に見える残し方をした言葉。自分の言葉なき涙で聞こえない音を見たが、何もできない。ただ痛みでおかしくなりそうな頭の中で、反響させるように同じ言葉を繰り返すしかできなかった。逃げて。

「そんな遅い足で僕に届くと思ってるのかい?」

 雄叫びを上げ向かって来ていた。二人の激突で出来上がった巨大な窪み、半径二十メートルはありそうな風の傷跡。風牙は雷祇から十メートルほど離れて手を翳した。

「何だ、糞!」

 走り向かっている巨体を、風が皮膚を切り裂き吹き纏う。小さい刃物が一振りで何十の傷をつける。常人なら一秒も正気を保っていられない切り傷を全身に浴び、綺麗とさえ思ってしまう血飛沫を平然と纏い、風の塊ごと走り向かってくる。

「鈍い体をしている。だから大きな奴は嫌いだ」 

 この攻撃で足を止めるのは無理だと思ったらしく、風を消して手に風の槍を握りしめた。そこにイクリプスが遥か高い場所から打ち下ろされる。

 戦ったことも、どれほどの力を持っているかも知らない風牙はこれでいけると思ったらしい。だが見通しは甘かった。両手で掲げた風の槍に、土門の一撃を思わせる重たい攻撃が襲いかかる。表面が脆くなった大地に足がめり込む。振り下ろしている段階で額にぶつかった風の槍の柄からは、血が流れていた。

「どうしたよ。力は普通なのかい?」

 並みの人間でないのは見た目からでも分かるが、力の強さそれ以上。押し返せずに、額にドンドンとめり込んでいく風の槍の柄。ふざけるな、こんな人間が僕を傷付けたのか。激昂の声なき怒りに、風の槍から猛烈な勢いでイクリプスを押し上げる風が巻き起こる。力では圧倒的に上でも、別の力を持つのがこの少年。額から徐々に離れた風の槍。余裕なんて見せていなかった二人の力関係が均衡に変わったことを伝え、まだ足りないとさらに大きく押し返しがくる。両腕が弾け飛びそうな力を込めないと、簡単にイクリプスごと吹き飛ばされてしまう。

「図に、乗るなよ!」

 傷をつけた、雷祇が出来なかったことを、こんな男にされてしまった。気迫を取りこんだ風にとうとうイクリプスが弾き上げられたが、頭上まで行かずに額の辺りで、意思に反した動きをピタリと止める。力なら負けないのだから、もう一度と斬りかかる。上段の打ち下ろしは一番繰り出しやすく、力も込めやすい。だが小さな相手には大きな、穴だらけの空間が出来上がっていた。大きな間合い入り込むのは容易いと、あっさりと入り込み、掌を腹に直接当てた状態で風の塊を破裂させた。

 これには堪らず浮き上がって吹き飛ばされてしまい、二回三回と転がり大穴の端にまで後転をした。相手を見くびった思いをそのまま苛立ちに変え、すぐに追撃の風を放とうと手を向ける。警戒の音も言葉もないが、下から感じる刃の気配。後ろに上半身を倒してかわしたが、もう一撃が迫ってくる。

「雑魚が!」

 追撃しようとしていたが、これ以上の傷は絶対に受けるわけにはいかない。もう一撃は蹴り上げ、両手が上がった小さな男の顔面を浮き上がって蹴り吹き飛ばした。空中でバランスを取りながら飛んでいく小さな男の両脇を走り抜ける二人の女が、丁度の間合いに入り込み跳び蹴りを繰り出す。まだまだ向かってきそうな格違いの雑魚の大群。苛立ちは頂点に達していた。女二人を小さな風の塊で吹き飛ばす。髪と瞳がより深い緑に染まると、風の槍を雷祇の体に投げ、三叉の部分で綺麗に囲って地面に貼り付ける。二丁拳銃の男を始め、小ママンやもろもろ続きそうな人間に向ける両方の掌。

「雑魚は死んでろ!」

 静華の光りがある方向、星の守護が向かってくる道に、怒りに我を忘れた起伏激しい声を張り上げた。雑魚なのに、なぜこんなに粘り強くて、鬱陶しいんだ。圧倒的な力の違いを今一度見せつけるように、反動で自分までもが後ろに下がる風の砲弾を撃ち出した。

 吹き飛ぶ人々、耐えきれずに舞い上がる建物や瓦礫。細かな砂の粒子の波が、この町を囲む砂漠の向こうにある森にまで空高く天井に届きそうな高さで振りかかった。

 ほぼ全力を出し切って、息が切れる。黒と間違われそうなほど緑が薄くなるが、やっと向かってくる気配が無くなって、強いと認めざる負えない男に向き直る。今度は甘く見積もらず、本気でやろうと風の槍を手に持った。

「ゴミはゴミらし!」

 何もない。誰もいない。ましてや隙をついて攻撃できる者なんているはずがない。だが風牙は横に跳ぶ。

「分かってたさ――」

 体の中心、腹の辺りから生える細く鋭い刃。

「お前が俺の望みを叶えてくれるはずがないことくらい、分かっていたさ」

 風牙の影から現れた一撃。思わぬ攻撃、完全に貫いた隙。心臓を仕留めたはずの刃は、腹の辺りまで外れている。切れかかった力ですらこの反応、すぐにでも止めを刺さないとやられるのは自分だ。容赦はできない、する暇はない。斬るのには向かないが、体を引き裂こうと横に進もうとする。それがピタリと止められた。触れてしまった瞳によって止められたのだ。

「ふざけるなよ、貴様!」

 伸びてくる腕。捕まえられるわけにはいかないと影に沈もうとしたが、先に風に捉えられた。自分の影がなくなるのも構わないと、体半分消えかかったルットと影を吹き飛ばす。直撃を受けたものの、しっかりと剣は握り締め離さなかった。体が離れるのと同時に、栓が無くなった風牙の腹と背中から抜けだす、血と力。

「まだ終わってねぇぞ」

 走りだしていた男から届く言葉は、粘りが取れない汚れそのもの。槍を消して、消えかかっている緑の風を拾い集めて、大勢いた星の守護に向けて撃った風の砲弾並みの風を放った。そのつもりだった。だがカイヤックに横に飛ぶだけで、あっさりとかわされてしまう。

 さっきのような風が打てない。バレてはいけない事態に、焦りからから状況も見ずに両腕にありったけの力を送り込む。走ってこちらに向かうにしては角度のおかしかった男の動きだったが、溜めきった風の砲弾は火を消せずに放たれてしまう。しまった、後悔の言葉までも吹き飛ばす位置に、カイヤックと雷祇の姿。別に風牙のためではない。仲間を助けるだけの行為。力なく倒れ込む雷祇をしっかりと抱きしめ、盾になりつつ砲弾をかわしきれずに派手に転がった。

 一体なぜこんなことをしたのか、まさか巻き込もうとして。ありえない考えが頭を過った。雷祇との戦いが終わってから訳が分からなかった。しぶとく折れない男が、イクリプスを突き刺した。もう相手が何を考えているか知る必要もないし時間がない。雷祇を引き離して殺す、それだけでいい。巨大な剣の後ろに隠れていた顔が覗く。胡坐を掻いてしっかりとイクリプスに掴まるカイヤックの顔が。「おい、ちゃんと――」

 確かに向けられていた、始めは風牙に。その視線が徐々に上がっていくことで理解した。この男の狙いが何なのか。その正体を見た時、風牙は屈辱に次ぐ屈辱を味わう。

「決めろよ、糞猫」

 砂ぼこりが晴れる、自然な風ではなく、作り出された風によって。どうにか口の中で形を保つ、固め留める口弾を銜えているバナンの姿。

 この状態で今から作り出せる風で迎え撃てるのか、いや無理だ。自分自身が風の力を感じられるからこそ分かる破壊力。何よりも底を尽きかけている力と、燃料切れにも拘らず逃げる力が、この場を切り抜けるのは不可能だと弱音を吐く。全身が震えだす怒りに満たされていく瞳に向かって、バナンは口弾を放った。

「あれ、おい、ちょ、こ、この角度は不味く――」

 静かに元に戻ろうとしていた砂たちが、また一層派手に舞い上がり、剛風吹き荒ぶ。本日三度目の風の傷がウェイポイント・ファイブに出来上がった。


「死、死ぬかと思った……」

 目を開けられないほどの砂が、何事もなかったように砂漠の町を彩ろうと地面に降り積もっていく。遥か昔に作られた遺跡のように茶色一色に染まる建物。視界はゆっくりと、今日の空のように晴れていく。生き残った人間は太陽を目にしていた。生き残った、生き残ったんだ。湧いてくる実感。ポツポツと、自分たちの勝利を噛みしめる声が、雄叫びが、生きていた歓声が沸き起こり始めた。

《逃げたのか、あのタイミングで……。そうだ静華は、大丈夫、か……》

 回避不可能のタイミング。自信はあった。相打ちも無理だろう。なのにまるでない倒せた感触がない。なら逃げたのだろうと、方法を考えようとしたが、守るべき者に心配が移った。

 光の安全地帯は悪い夢の終わりと共に、淡く記憶の中に忘れられ、消えてなくなっていた。唯一安らげる場所を作り出していた女神は、鈴奈の足の上で気を失っていた。近づかなくても、胸の動きで、ゆっくりと睡眠に入ったのを確かめることができる。近づくことをしようとせずに、何も言わずにバナンは地上に降り、人がいない方、いない方に歩いて影に入った。

「アンタ、カイヤックなんだろ。もっとイカレタ奴かと思ってたけど、そうでもなかったんだな」

 負傷者の手当てをしている者も数少なくないが、同じくらいの数がカイヤックの周りに集まり始めていた。圧倒的強さで人を、特に星の守護の旅星になるような人間を惹きつける。握手や抱擁をしようと集まっていたのは理解しているが、「まずは雷祇の手当てだ」と誰に託そうかと足を止めずに動き回っていた。

「私が手当てしよう」

 どこかの家の服を数枚、許可を貰い持ってきていたフリシア。旅慣れしているだろうこの子なら大丈夫だと、そっと地面に置いて雷祇を預けた。

 自分も傷の手当てを受けるべきだろうが、全員が終わるまで待つ姿勢だ。それよりも、水の一杯でも欲しいと願い、一息吐いた。どうにかなったという思いもあったのだろう。他の皆だってそういう気持ちだ。湧き上がる歓声や抱擁が未だに続いているのが何よりの証拠だった。ただ一人、たった一匹の悪魔を除いては。

「カイヤック、決着をつけよう」

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