第13章 不器用な悪魔のラブソング (3)
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ホテルの外は昼の賑わいとは違う、色鮮やかに人を惑わす夜花が咲いていた。ルットはそんな花には目もくれず、昼間鈴奈たちが襲われたような路地に入った。
「で、なんだ」
カイヤックの言葉に止まる足と、動き出す腕。昼間は持っていなかった剣を抜くために。
「お前を選んだ。ここで死んでもらう」
冗談だろと動こうとした口だったが、頭に浮かんだ言葉が直に出てきた。
「本気か?」
何も返ってこない。
「理由はなんだ」
「ファーリーのためだと言ったら、死んでくれるか?」
それぐらいしかないだろう理由。分かって聞いたのだろうが、はいそうですかと命を差し出すことはできない。
「……なら仕方ねぇか」
いや差し出してしまう。カイヤックとはそういう男なのだ。全力で向ける殺意が、あっさりと抜けて後ろの壁にぶつかる。命を奪う眼差しも、動揺で薄くなる。それは同時に頬を緩めた。
「らしいな、お前らしいよ。十年以上経つのに、何でお前はそんなに変わらないんだ」
担いでいたイクリプスを地面に突き刺し腕組み。殺す決意が揺らいだ目を、しっかりと見据えたままで。
「変わったさ。本当は死にたくねぇし、生きなきゃならねぇ。まあ、寿命まで全うするつもりは毛頭ねぇがな。でもよ――」
幾つも奪ってきた命の想いも、人の無様な生き方も見てきた。澱んでも濁っても、誰も文句をつけることはないのに、只管澄み切った水を目の海は湛える。
「お前ぇだし、ファーリーのためなんだろ。断る理由はねぇよ」
理由は明確。ファーリーを助けるため。その思いに揺らぎはないだろう。カイヤックに向けられる刃が何よりの証拠だが、目を逸らしたのは、自分の穢れが反射するのを恐れたからだろうか。瞼を閉じて一呼吸置く。カイヤックは胡坐を掻いた。
「で、どうすんだ。俺も痛ぇのは嫌だからよ、やるなら一撃で頼むぜ」
さあやれと言わんばかりに、両膝に手を乗せた。「だったら――」
遅れて瞼が開いて行く。覚悟が決まったのか、黒目が光を全て飲み込む。
「これでもお前は素直に渡すか、命を」
月が作る建物の影に入ったわけではない。だが、背中は黒く影を伸ばす。
「なんだ、それ」
影じゃないのは月の方に伸びているので分かるが、物自体は何か分からない。影じゃない、だったら一体何なんだ。答えは分かっていたのかもしれないが、頭が繋ぎ合わせなかったのかもしれない。似た存在はしているのだから。
「売ったんだ、体を悪魔にな」
理解できないと首を振るカイヤックに、これでも死んでくれるかと言葉を残してルットが消えた。飛んだのかと顔を上げるが姿はない。地面に戻しても影がない。
「下だ」
自分の武器に伸ばしていた腕に、刃物の気配。取るのを諦め、体をひねって肩を支点に一回転した。
「どうしたんだ、死んでくれるんだろ」
イクリプスに踵を合わせて凭れかかるルット。カイヤックは目を離さずに立ち上がった。
「本当なのか、ファーリーのためってのは?」
刃が向いてイクリプスから離れる。口が動きだすが、カヤックの言葉はかわされていた。
「いくぞ」
真っ暗な部屋と、暗い闇に落ちた心。一人と一匹は互いが起きているのを知りながら、一言も話さず、天井と床を見つめていた。言葉に出してはいないが、容易に二人の心の蓋を閉じている物が把握できる。空気など二人きりになった時点で沈みきっているので、心苦しくはないだろうが、雷祇はベッドから起き上がると、雷命片手に部屋を出た。夜には当然廊下は明かりに照らされるが、それすら鬱陶しいのか消えろと瞳が切りつける。丁度隣の部屋から出てきたホテルの従業員と明かりが被って、女性の従業員の目を貫いてしまい、片付けていたグラスが落ちたことで雷祇の目が元に戻った。
「すいません」
「い、いえ」
三つ転がるグラスのうち自分で二つを拾い上げていたが、最後の一つは雷祇が拾い上げる。気遣いで手渡していたが、女性従業員は接客業としたら廃業しなければならないほど怯えた笑顔を隠せず、唇が震えていた。
「あ、ありがとうございます」
もう一度雷祇は謝り、震える手にグラスを預けると階段に向かい、外へと出た。
頭を押さえつけ見上げるなと突き刺さる昼の日差しが嘘のように、空を埋め尽くす星はどうぞ見てくださいと数え切れない線画を描く。月は満には後少しだが、それでもお見事。
頭も心も冷めるのではなく、この町の夜空のように明るいながらも落ち着いてくれればいいのだが、大げさに描かれた絵よりも遥かに多い数の星が描く、十個ほどの星座をなぞると、感動することなく瞳を落として歩き出した。
昼は周りの明るさや終演の電話もあってかここまで酷くはなったが、夜にはよく自分が見えるらしく、落ち込み方が比較できないほど悪かった。昨日までなら、カイヤックが馬鹿みたいに雷祇や静華が眠るまで喋っていたが、今は姿がない。行く当てもない雷祇はただ歩くしかなかった。
「熱いな……」
歩き出して数分。昼の砂漠なら歩かなくても誰もが発するセリフだが、夜の砂漠では人々は口を揃えて寒いというだろう。
「どうしてこんなに、熱い――」
両手を見ると汗が噴き出し、息は何キロも全力で走ったように乱れている。夜の匂いに釣られて歩いていた男や女が不思議そうに雷祇を見送る中、空を、建物を、町全体を見回し、何かに怯えているように、逃げるように走りだしていた。
もう少しで指が反攻の切っ掛けに触れようとするが、掴ませまいと肘の腱を裂くように細く鋭い刃が迫る。
「チィ!」
掴むことができなくなるが、振るえなくなるよりはマシだと肘を曲げる。血が出る既の所で、夜空を刃が駈け上がる。態勢なんて関係なく、まずはイクリプスを、対抗できる剣を取らないと始まらない。幸い腕に来ていた刃は高く、前のめりだった体を無理矢理倒れるように腕を伸ばす。しつこいと言われても仕方ないが、同じようにしつこく肘を羽ばたき浮かび上がって蹴りあげた。普通に蹴られただけならそのまま力で押し切れるが、今戦っているのは空を飛べる人外。黒き翼で羽ばたき、強引にカイヤックの体をイクリプスから遠ざける。
「目ぇ覚まさせてやるって言ってんだ!」
「俺は冷静に事を運んだんだ」
腕はもう一本。今から体を伸ばしてもイクリプスには届かず、ルットの剣の錆になるだけ。ならば鬱陶しい物を排除しようと考えるのが当然。カイヤックの腕の少し上で、飛び跳ねた魚のように体を曲げて宙返りをしつつ、もう一本の腕の攻撃に備えようとしているルットの視界からは見えなくなっただろう。
「邪魔なんだよ、これが」
背中に伸びていた。例え武器が無くとも張り合えるくらいの実力差はあるだろう二人の競り合いがここまで激しいのは、この翼のせいなのは間違いない。引き千切るのでも、破り捨てるのでも、まずは使えなくするのが先決。見た目だけで失礼かもしれないが、頭の良さならカイヤックは圧倒的にルットに劣るのは間違いがない。今の言葉尻から、翼に腕が伸びたのは読み取れるはずだが、羽ばたいているだけで対策を取ろうとしていない。確実に捕まえられる、それどころかカイヤックは確実に掴んだ。
「無駄だ」
どうなるか知っていて、敢えて行動していなかった。強い握力の隙間から、翼は影のようにスルリと抜け出す。驚いている間などなく、捕まえられなかった事実が目の前にある。もう翼のことを構っている時間はなく、剣の動きに合わせてカイヤックは動き出していたが、僅かに遅く二の腕の辺りの肉を少し持って行かれていた。せっかく近づいたイクリプスから離れるのだけは避けたかったが、態勢を立て直すにはそれしかなく、ルットの足が地面に下りた時には、二人の間合いは踏み込みあう寸前の距離になっていた。
「抵抗はしなくていい。お前はただ死んでくれるだけでいいんだ。それで、それだけでいいはずなんだ……」
青年期を共に過ごしただろうカイヤックには、当然、この迷いのあるルットの顔がどんなものであれ、本心ではない何かを持っていると分かっただろう。だが、聞きだそうにも頑なにルットは口を噤む。
「ルット、お前、何か隠してんだろ? じゃねぇと、そんな姿になるはずねぇだろ」
「ファーリーのためだ」
「だから、なんでそんな体にならなきゃいけねぇんだ」
「救うためだ」
「もっと他にやりようがあっただろうが!」
届かない自分の声に対する苛立ちが語気を強めさせるようだった。足踏みするような言葉を、カイヤックに向けた刃で切り落としたルットがまた踏み出そうとしたのを邪魔に入ったのは、彷徨っていた雷祇だった。
「カイヤックに、ルット、さん」
カイヤック以外には見せたくなかった。たとえそれが、今日会ったばかりの少年にも。ルットの顔がそう変ったが、雷祇は空を見上げる。何かに怯えているように、弱き動物が強き動物から身を隠すように小さくなる。
「来るんだ。今ならはっきり分かる、今までと感覚が違うんだ」
恐怖に押し潰されそうな、脆い脆い少年がいる。異常なまでの怯えように、ぶつかり合うのを忘れて二人が耳を傾ける。
「一体何が来るってんだ」
「分からない。でも、分かるんだ。前までは分からなかった。言えな、どう言えば、分からない――」
「神が引き合うんだ。君はそれだけじゃなく、僕たちとも引き合っているんだけどね」
屋根の上から言葉が下りて三人に挨拶をした。
「やぁ、雷祇。久しぶり」
満月であっても彼の美しい微笑みに花を添えるだけ。怪しく輝く月よりも艶やかな、風牙の微笑みに。
「どっかで見たような……」
屋根の上、突然現れた少年の顔をどこかで見たはずだと、記憶の引き出しを蹴り開けるが出てこない。三人の中で唯一呆けた顔をするカイヤックに、風牙は優しく微笑みかけた。
「あなたとはほとんど初めてですよ、カイヤックさん。ただ、二度と会う事はないと思っていたのに……。そうそう、サイロックさんの葬儀は盛大でしたか? 剣神と言われた身ですし、殺した僕としても気になっていたので」
何か返そうと積み上げていた言葉が、頭の中で一気に崩壊した。綺麗に話す気はなかっただろうが、それでも普通に話そうとしていたのが、まったく並びきらない乱雑な言葉となって口から這い出る。
「お前ぇ、サイロックの爺さんを、お前ぇが? うん、どういうことだ。なんでそんな、お前ぇが、殺せるか? いや、でもよ――」
「僕と同じです。同じなんですよ、カイヤック」
細かく話す必要が無いほど、簡潔で分かり易い。目はイクリプスへと移るが、殺意はない。他の物を守るためではない、感情に負けて刃を相手に向けることはないが、それでも心は十分に乱れ、波立つ。
「悪いですが、あなたの相手は僕じゃない」
カイヤックが見上げた時には、すでに的が絞り込まれていた。
「君はどれだけ強くなった? 僕の相手に相応しい存在になったかい。もし無理だとしたら、この町の人間、全てが君の糧になるよ」
町が怯えたように、風が舞い起こり揺れ震えた。
「さぁ、始めよう。宴だ、天使と悪魔のね」
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肉食の動物ではない、草食動物が見せるような辺りを警戒する動きを一瞬取ったが、遅れを取ったと思った時には翼が動き出していた。
《邪魔だ!》
鬣を使えば開けられるだろうが、口に含んだ風の口弾で二枚の扉を吹き飛ばした。まだ煙立つ中を一気に駆け抜け、勢い余って前の壁に着地。それでも上手く勢いを殺さず逆に増して、三人が寝ているはずの部屋に向かう。あまりの音の大きさに顔を出した者の前を強烈な風だけを残して、静華のいる部屋の扉を破壊して入った。
「な、何!」
鈴奈は下着姿のまま、いきなりの出来事で上下左右に視線をグルグルと回す。フリシアは、やはりと言うべきかきっちりとパジャマを着て、起き上がって両手に剣を持っていた。
《静華は、静華はいるか?》
煙の中から現れたのは、喋れるはずがない獣。二人は昼間に聞いた声と同じと顔を見合わせた。
《どこだと聞いている!》
その声でハッとなり、鈴奈が部屋を見回す。今度は目を回してではない。
「いない、静華ちゃんいないよ」
「な、一緒に寝てたんではないのか?」
大きく足を踏み鳴らして、バナンが入ってきた煙に体が入ろうとしていたが、窓ガラスが部屋の中に、何者かによって飛び入る音が響いた。連続で起こる訳の分からない出来事に、頭は理解の外に行く鈴奈。窓から入ってきたのは、黒い翼と白い翼の二匹の人外だった。フリシアは何とか状況を把握して侵入者に対して戦う意思を示したが、入ってきた二匹に絡みついた鬣が自由を奪い、引き寄せられた先でバナンの爪にあっさりと引き裂かれた。
《お前ら二匹も一緒に来い。死にゃれたら厄介だ》
匹に二人とも引っかかったが、《次は助けにゃいぞ》と煙に姿が消えた途端に、また変な者が侵入してこようとしているのが見え、慌てて追いかける。晴れそうもない煙の中を突っ切っていると、進んでいる方向から一匹の悪魔が吹き飛ばされてきた。バナンは容赦なく一撃で切り裂き、煙から飛び出す。
「あんただったのかい」
待っていたのは、鉄手袋の鉄槌。足で踏ん張り、翼で回避行動を取り何なく避けたが、代わりの廊下はバナンサイズの大穴が開いた。睨みあう両者。いつもの、普段のバナンなら飛びかかっていそうだが堪えている。
「ちょっと、ママン」
「待ってくれ、バナン君」
緊張感高まる二人の間に、煙の中から飛び出した二人が間に入った。無傷の二人に、小ママンの張り詰めていた空気が戻る。
「無事だったのかい」
「そう、あの子のおかげで」
鈴奈が指差したのはバナン。「そうです、ママン」
《静華はいるか》
尻尾は痙攣を起こしたように小刻みに震える。苛立ちが限界を超えそうなのを振り払っているように見える。小ママンも静華がいないのに気付き、こっちには来ていないと言った。ならもう一つと、口に出す前に体が動く。二人の後を追ってきていた一匹は、小ママンの一撃の前に沈み、鈴奈が昼間と変わりない服のリンリの手を引き、皆がバナンの後を追う。最後の部屋、ファーリーが眠る部屋の扉も、例外なく破壊しようとしたバナンだったが、横からの怒鳴り声で口を止めた。
「お待ち! 中には病人がいるんだよ!」
口の中で弾ける空気。
《だったら速く開けろ!》
小ママンはせっかちな子だねと言いつつ、ポケットを探った。が、今着ているのは普段の服ではなくネグリジェ。バチンと太ももを叩きならすと、ノブを持ち、体当たりで扉を壊した。
《お前も同じじゃにゃいか!》
「カギを忘れちまったんだよ」
先に部屋に入り、奥の扉を開けて早足に皆が部屋に入った。そこには静華がいた。驚愕する姿の静華が。
「こんなのは、初めて見たよ」
他の三人は声すら出なかった。人が光りを放つ姿。白く、穢れも欲も、全て洗い流してくれているような、暖かい光を。後姿だけでも、拝みたくなるような銀髪の少女の姿。
《静華。その力を使ったまま、光蛇のウロボロスも使ってちょうだい》
どこからともなく部屋の中に響く声。小ママンの声にピクリとも動かなかった静華が頷く。
《数が多いわよ。いけるの?》
バナンがどこではなく、静華の放つ光を睨んだ。
《無論だ》
《そう。だったら、まずは落ちるのを助けることね》
軋むホテル。振り下ろされる、カイヤックよりも大きな斧が部屋を叩き斬った。崩れる部屋の中で、バナンは一人一人に鬣を巻いて、落ちて崩れた部屋の側に下ろした。そこで見たのは、惨劇と呼ぶには言葉が安っぽすぎる、悪魔と天使による壮絶な宴。リンリは口に手を当てるが吐いてしまい、《光の中に入りなさい》との言葉に鈴奈が中に導いた。新たな餌の登場に、周りに無数の人外が寄ってくる。あちらこちらから悲鳴も、助けを求める声も、快楽に溺れる声も上がる。夜だと言うのに、だ。だが、まだ全てが下りたわけではない。空には、星の数に負けるとも劣らない数の影があるのだから。
「チィ!」
向かってくる翼ある者を次々と殴り、蹴り飛ばすが、流石にそれだけでは倒せず、苦戦が顔に出る。
「カイヤック、受け取れ」
手で受け取るには低すぎる位置に飛んできたイクリプス。前にいた一匹の白い翼ある者を払い除けると、足の甲で受け取り蹴り上げた。
「もう終わりだぜ」
縦回転で浮かび上がってイクリプスの柄を掴むと、飛んできていた四匹を、たった一撃で翼の藻屑に化した。そんなカイヤックの背中に、翼が触れる。
「いいのかよ。お前はあっち側じゃねぇのか?」
「今だけだ」
笑ってしまった。
「そうかよ」
そして、二人の背中は離れて駆け出した。
まだまだ始まったばかり。何匹もの天使に押さえつけられる少女や、すでに二匹の悪魔と快楽を楽しむ男。弱い者を殺すのを楽しんでいる者もいるようだ。天使と悪魔と、人。混乱に乗じない、こんな欲が溢れ返る場所で押さえつけるのは馬鹿らしいと、本能のままに動いている、一種類の動物と二種類の人外。殺すだけじゃない、襲ってもいる、人が人を。頭が狂いそうな光景だったが、抵抗する者は意外と多い。ここが星の守護が集まる町だからかもしれない。
「フフ、良い眺めだね。人っていう生き物の本質を見ているようだ。目の前で起こる、普段なら止めるはずの光景も、誰も止める者がいなければ自分自身が参加者になる。でも僕は、これでいいと思うんだ。だって、それが動物のすることじゃないか。人だけが特別なんて考え、端からおかしいんだよ。さあ雷祇、僕たちも始めようじゃないか、二度目の交わりを」
二人は屋根の上にいた。動けなかった雷祇を風に包んで、わざわざ連れてきたのだ。この絶望的な絶景を見させるために。風牙の手に風が集まり、槍を作り出した。震えながらも雷祇は剣を抜く。
「行くよ」
地面を這いずる動物からの進化を見せつけるように、風牙は足を屋根に付けることなく雷祇に向かって飛び出した。風だ、風になっている。夜の血の臭い混じる風が雷祇の真ん前まで来たところで、ようやく雷命が動き出した。あまりの遅さに、風の槍は雷祇の顔を貫いた。コメカミを囲むように、三叉の凹んだ部分が触れる。
「何をしているんだい? ふざけているのか」
あまり不甲斐なさに、言葉の風が乱れる。震える手がガタガタと音を立て、あまりにも惨めだった。明らかな劣化に、風牙はため息と、含み溜めた頬笑みを見せた。
「そうだった。君は目の前で人が死ぬのは嫌なんだよね。初めての時もそうだった」
サイロックの姿がチラつく。戦いの最中にもかかわらず、風牙はあっさりと背中を向けて遠ざかる。震えが止まらない一人の少年など、相手にするのも馬鹿らしいと言いたげに。暫く歩くと立ち止り、手を無数の天使に襲われる少女へと向けた。天使たちはまだ気づいていない。風牙がゆっくりと、ついて来いと言うように雷祇から目を手の先に向けた。
「邪魔だな」
話しかけたのではなく、口に出しただけ。一匹の天使が風牙に気づいて指差した。他の天使も手を止めて顔が一斉に風牙に向くと、醜く汚らしい獣を軽侮した目があった。天使たちに怯えが見えた時には、一番風牙に近かった天使が風に切り刻まれ、白い翼が崩れ去った。自分たちよりも上の存在の攻撃に対処する方法を知らないのか、統率なく散り散りに逃げようとした全ての天使が、同じように翼になって崩れた。
「彼女も守るかい?」
風の槍が、理解の範疇を超えた出来事に茫然と見上げることしかできない少女に伸びる。体は自然と動いていた。先に伸びていたはずの槍を追い越し、少女の前に下りた瞬間には雷命を抜き踏ん張っていた。
「君は不思議だね。襲われていても、絶命の声を聞いても動かなかったのに、殺されると分かったら動くんだから」
眠りに就くことができない夜は、まだ始まったばかり。