第12章 無い柱 (3)
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崩れた地面を這いずり出た機械の魔獣が、鼻の頭に乗っていた雷祇を振り飛ばした。今閉じてしまっては二度と開かないような重たい瞼をどうにか開いているだけの雷祇に、うまく着地できる力は残っておらず、地面を転がり背中から木にぶつかった。
「なんだこいつぁ……」
《どうしてこうも、人間というのは命で遊ぶか!》
踏み出させること躊躇させる姿。人と獣の感覚の違いは言葉が十分に表現していた。機械の魔獣は二人を見比べるとゆっくりと、慎重に動かさないと崩れてしまい兼ねない腕で体を起こしている雷祇に向かって飛びかかる。呆けていた自分の頬を殴る代わりに足を動かして、カイヤックは前に立ちはだかった。襲い掛かる前足を二本の刃で受け止める。当然、力負けをするはずがなく、軽々と受け止めた。
「カイ、ヤック、静華が、あそこに……」
息も言葉も絶え絶え。体の中で唯一順調に動いているのは流れ出す汗と血のみだったが、伝えなければならない、自分の弱さを露呈する、銜え囚われている静華の場所を指した。腹の下で球体が光りを放つ。カイヤックも反応はしたが、一番反応したのは囚われの姫のことを一番思い、動きを見せる獣。
《何だと! 誠か、それは》
振り返る力もない。やっとの思いで座ったばかりの雷祇は、見えているかも分からないまま、頷くだけは頷いた。囚われていると知った時点で動きだしていたバナンには、雷祇のその姿がはっきりと見えていた。哀れに遊ばれた命に憐みを持っていた獣の王者の顔が、別の物に変わるのは容易な状況。今いる角度的に、風の口弾を放てばカイヤックも雷祇も、二人ともが巻き添えになる位置にも、躊躇の様子は一切なく、空気を体内に取り込み始めた。
《冷静さが無さ過ぎるわね、次期獣王さん》
暫く聞いていなかった声に、一瞬動きが止まる。
《あなたがそれを放てば、静華まで粉々よ》
肺の中で集まっていた球が散り散りになった。
《では如何しろと言うのだ!》
静華の状況を最も把握しているギムンの淡々と話す声には、うろたえを必死に動きで隠すバナンとは対照的に肝の座り方が見える。
《まあ、どの道このままじゃ殺されるわね。この口、どうやらこの魔獣とは別の力で動いているようだし、この子を殺しても無駄。いえ、雷祇君の力を浴びて動いていることからすると、殺すのは逆効果かもしれない。牙だけを破壊するか、抜き出すしかないわよ。それでもこの犬ちゃんを殺したい時は、牙も同時に破壊しないと無理よ、それも静華を傷付けないように、ね。壊すことしか頭にないあなたに、そんな高等な事ができるかしら?》
苛立ちも込めて地を一度踏み鳴らし、しっかりと土を爪で噛み締め、機械の魔獣に伸ばし捉える鬣。足の関節に付け根、首に、愛しの姫が囚われている腹の口まで。締め上げるようにきつく締まり、カイヤックに前足二本を使っているため、後ろの二本で堪えようとするが、踏ん張りなど利くはずもなく、体が動く。カイヤックは機械の魔獣の力が抜けたのを感じて声を上げようとしたが、先に目の前から瞳がバナンに向かう。
《好都合だ!》
万全とはいえないが、一匹の魔獣に力負けするわけが無い。二匹の肉食魔獣が走り寄ると、咬み合うのではなく後ろ足で立ち上がり、前足が同士に振り下ろされた。高さは負けていたが鬣で動きを制限し、腕を鈍らせたバナンが静華の囚われている口に両前足を突っ込んだ。バナンが立ち上がったのは、相手を立ち上がらせ、こうするためだった。必死で抜き取ろうとするがビクともしない。引き抜こうとしていた一本の腕の脇が閉まり、機械の口と魔獣の体の付け根に向かって繰り出そうとした時、背中に圧し掛かる重み。二本の前足。程度とすればカイヤックの一撃にも満たない攻撃に、後ろ脚二本だけでも踏ん張り耐え、低く屈んだまま、バナンは前足を繰り出した。
もし普通の魔獣、フォレスト・ディスペアならこれでいいだろうが、今相手にしているのは機械の魔獣。背中の辺りから聞き慣れない、自然の生物では発生させることができない音が体を伝わる。理解できる前に、背中がジリジリと熱く、燃え上がる。火を機械で噴く音と、焼かれる背中の肉の臭い。痛みの質は今まで味わったことが殆どなく、突き刺した爪も前足も静華から遠く離れ、鬣までもが緩んでしまった。自由を取り戻した機械の魔獣は、顔面から地面に落ち、立ち上がろうとしていたバナンの顎の下に前足を潜り込ませ、蹴りあげた。
浮き上がる体。屈辱と焦りで睨みつける瞳の前に差し出された、火の口が見える前足。防御しようにも取りようがなく、顔半分を焼かれて噴き飛ばされた。
「何やってやがる、糞猫!」
後ろから空洞イクリプスで斬りかかっていたカイヤックに、振り返りざま前足を繰り出す。
「負けるわけねぇだろ!」
前足を弾き飛ばす、そんな考えを持っていた。自らの持つ、信念を貫くために。飽く迄殺さずの、何度か破ってしまった自分の弱さを確認できる約束を守ろうとする思いで。
刃ではなく腹で切りかかっていた空洞イクリプスの大きく開いた部分から、前もって噴き出していた火が腕を焼く。なぜバナンの顔から煙が上がったのか、これで説明がついた。が、焼かれながらも、自然の中ではなく戦場で戦い慣れた痛みに、前足をしっかりと受け止め、もう一撃、もう一本の足は空洞がない太陽の剣で受け止めた。
「さっさと、助け出せ、糞猫」
動けないカイヤックではあるが、この状況では機械の魔獣も同じ。振り払う事もできるが、先ほどのギムンの言葉に、自分が打てる手は数少ないと知っていた。だからこそ、バナンが静華を助け出す時間を稼ぐ。
足音が聞こえる。小さな足音が。状況が状況だけに、戦える者の中で走れるのはバナンだけだったが明らかに違う。この足音の正体を最も早く気づいたのは、雷命に体を預けていた雷祇だった。
「何をするつもりなんだ、二人とも」
この言葉の意味は、一つしかない。カイヤックが見た時には、白い羽根が風に乗り、機械の魔獣の腹の下に潜り込む姿だった。
「ミーシャ、テ、ノばしテ」
牙の上に乗ったシャーミがミーシャの手を取り持ち上げた。潜り込むことに成功した二人は手を離さず、何があっても解けないように逆に強く握った。強く硬く握られ、本当に絡み合った一本の手。二人合わせて三つ手が、光蛇のウロボロスを包み触れた。
「あれ、少し、楽に……」
まだ使いこなせずにいる静華だったが、突然軽くなったことだけは感じ取れていた。
「何をしてるんだ二人とも、早く――」
心配の声を上げる雷祇に返ってきたのではなく、平然と命を奪える者へと言葉は投げかけられた。
「静華ちゃんの守りを強くしたから――」
「ウってもイけるヨ」
二つの言葉が混ざり、溶けあうように。「風の球」
《貴様らを信じられる道理はない》
走り向かう姿が見えていたはずのバナンはそう言い捨てた。今にも焼き上がりそうな腕で、懸命に堪えるカイヤックは、馬鹿な提案に怒りの籠った声を掛けた。
「そんなことしたら、どうなるか分かってんのか、嬢ちゃんズ」
雷祇の声も、カイヤックの声も届いていないわけじゃない。二人は目を閉じあって、開いた時に、光蛇のウロボロスを右にズレて合わせた瞳には、覚悟が決まっていた。
「私たちの力は、増幅させるんです。刺激でも――」
雷祇には、先ほどのギムンの言葉や静華の行動、港での船乗りの姿が。
「怒りでも――」
カイヤックには、今し方戦っていた自分の姿が。
「物理的力も、全て」
バナンには、カイヤックの力の強さが。それぞれ見えていた。納得出来た、出来る内容だった、するしかなかった。信じたくないとすれば、自分がカイヤックに力で負けたこと。
《よかろう。貴様らにしては上出来だ》
止めに入ろうとしたカイヤックの腕は限界を超え、機械の魔獣に押し切られてしまう。魔獣は言葉を理解する。今の状況も把握できている。ならば向かうべきはバナン。足が懸命に動き出す。溜めきれない風が体全身から噴きだす。睨みつけた機械の魔獣を、緩んだだけで解けてはいなかった鬣で締め付け動きを止めた。
「え……シャーミちゃん、ミーシャちゃん?」
見えたような気がした、そんなはずはないのに。白い肌に、長い髪をした愛らしい女の子と、黒い肌に、短い髪をした綺麗な少女が。見えたような気がした。
「バイバイ――」
「静華ちゃん」
カイヤックに放ったのよりも強力な、確実に命を消し去ることができる風の口弾が機械の魔獣の頭に触れ、瞬間的にバナンが小さな風の弾丸も放つ。命はその時点で消えていた。軽くなったはずの力が、また一段と強く、静華を噛み殺そうと動きを強める。首の辺りまで進んでいた巨大な風の口弾の中心部を貫いた小さな風の弾丸。纏まり切れなくなった風が方々に逃げるように破裂を起こした。吹き飛ばす肉塊、舞い散る血、キラキラと綺麗に散る鋼色の肉体に、二人の命。
「シャーミ、ミーシャ!」
動かない体は、雷祇の意識に突き動かされ、二人の下に足を運ばせる。杖がいつもの形に戻った静華。状況把握はできでいない。でも無性に心配で不安だった現実、消えかかった二つの鼓動に這いながら駆け寄った。
「おい、やりようならもっとあったろうが」
焼かれていない腕には、太陽が月によって隠された剣。足は四人の方にではなく、自然と命奪った者に向いていた。荒ぶる気持ちは揺れる鬣で見て取れていたが、徐々に収まりだす。それをじっと待っていたカイヤックに、目が向けられた。
《そうとは思わんがな。あの者共を正当な理由で殺せることなど、次にあるかどうか分からん》
引っかかるように言ったのか、それとも無意識なのか。カイヤックを怒りに導くにはもっとも適した言葉。
「正当な、理由だぁ? ぅんなもん、命を奪うってのにあるわけ――」
《己の糧にする、己を守る、己が思う者を守る時。正当な理由など数え切れぬほどある。その一つだった。もっとも好機だったと言える》
理由付けならバナンの方が正しい。理解はしている、頭でも、心でも。だが、抑えられない。抑えられるはずがない。
「だったら、だったらその正当な理由で、守られたモンが泣いてんのは何でだ!」
何も言えないのは分かっていた。答えられないことも。予想通り何も言えずに、カイヤックの横を無言で過ぎる。四人に近づくために。バナンの体はいつもと同じ大きさに戻っていた。
「大丈夫、二人とも。今すぐ治して――」
《無駄よ。二人には効かないわ》
静華がシャーミの手を、雷祇がミーシャの手を握る。二人の手は繋がれて離れていない。
「どうして! 何で無駄――」
《静華の力は、御主、アスクレピオス様の力は、基本は生きている者に使う力》
淡々と、冷静に。
《けど、彼女たちは天使に食われて、死んでる身。だから無駄なのよ》
手がない。そんなことはない。言葉の隅々を見つめていた雷祇が見つけたのは、「基本的に、って?」
「それじゃあ、死んでる人にも使える力が――」
《あるにはあるわよ。でも、今は無理》
「どうしてですか?!」
《準備がいるのよ。あなただけの力じゃ不可能なの。諦めなさい。この子たちに待つのは、消滅だけ》
告げられる冷徹で、真実の言葉。覆せない現実に、打つ手は消え失せた。
「静華、ナいてるノ?」
閉ざされていた目が開いて、見えない瞳に微笑みかけた。
「ダメだヨ。カワイいのニ、ワラってくれないト」
無茶なお願いだ。経験の多い雷祇でも仲良くなった者の死は知らず、ここまでうろたえているのに、静華ほど全ての経験が貧しく、無菌状態でここまで育った子には、到底、無理なお願いだ。
「雷祇君、顔近づけて」
涙袋に留まっていた涙が頬を伝って流れた。跡がくっきりと残る頬に、唇が触れた。
「初めての、頬にキス。プレゼント」
消えてなくなることを分かっているのか、二人の行動はいつもと変わりがなくフワフワと揺れる。
「忘れないでね、雷祇君」
頷く、もう涙袋に留まりきらない涙が宙を舞う程。
「私のことも、シャーミのことも」
二人の顔が天使の優しい笑顔に変わった時、重さが無くなり白い羽根が霧と混ざって空へと消えた。二人の手には、まるで遊びに出かけたように、楽しげに舞い上がった二枚の羽根だけが、美しくも儚げに残されていた。
《静華、これ――》
「どうして! どうしてこんなこと……」
後ろから届くバナンの声。立ち上がりはしなかったが、聞こえた方向から逃げるように擦り下がる。それでも足音が一歩近づくと、機械の魔獣が開けた穴もある危険な方向に立ち上がり走り出した。ギムンがすぐに背中を追い、バナンも向かおうとしたが雷祇が前に立った。その顔を見ることすらできない。
「バナンは、来ないでください」
強くはない、これ以上言葉を続けるつもりもない。重い言葉だった。後を追う事は出来なかったバナンを残して、雷祇はギムンと同じように静華の後を追いかけた。
「こうなることも予想できなかったか? それとも、そうまでしてあの二人を殺したかったか」
その後に続くことなく、カイヤックは立ち止るしか術を知らない長く生きただけの幼い獣の側に、ゆっくりと腰を下ろした。
情けなかった。僕の、力のなさが、堪えられないくらいに情けなかった……。もし僕に、もっと力があったら、もしあの時、静華を捕まえられなかったら……。何度も何度も落ち込んだ。その度に、馬鹿みたいに笑って、いつもカイヤックが慰めてくれた。静華にもそうだった。その姿は、冷たく見えなかった。終演だったら、終演がいたら、どう、だったんだろう……。
僕らは森を抜けるのに五日かかった。食材は森の野草だけだったけど、カイヤックは意外とこういう時料理ができて、助かったりする。本当なら僕も、手伝うべき何だと思ったが、出来なかった。忘れられないから、忘れたく、ないから。
森から出た直後に設置されている、誤って森の中に入らないように星の守護の警備隊が駐屯する小屋で、食料を分けてもらった。森とは違って、砂漠には食糧がないから。
そして今、僕たちは砂漠の道を歩いています。静華はあれからカイヤックや僕に手を引いてもらっています。バナンとは言葉を交わした様子は一切ありません。バナンも僕たちから数歩下がった場所を一匹で歩いています。何も話さない、落ち込んでいるのは見て取れるけど、話す気になれなかった、話したくなかった……。ただ、カイヤックだけは、僕が静華の手を引いている時には横にいたけど……。
この次の町は確か、ウェイポイント・ファイブ。砂漠の五街道。
「ルミナ様、ミラージュキングダムの施設が落ちたようです」
掛けていたメガネを外して、大量の資料から部屋に入ってくるなりそういった男に目を移した。
「どういう事?」
「連絡が取れなくなったので確かめに行ったところ、施設が破壊されていたそうです」
別に頭が痛くなったわけでもないだろうが、額を抑えた。相変わらずと言っていいほど、ルミナは色の艶が薄れない。
「それともう一つ、情報が」
「いい情報?」
男が答えないのを見て、ため息をついた。「何?」
「ミラージュキングダムから出てきたのは、翼の生えた獅子の獣と少年と少女、そして、カイヤックだったそうです」
より深いため息をついて、今度は両手で頭を押さえた。
「まったく……。あの子は余計なことしかしてくれないわね。で、あの子は?」
「終演様のことですか?」
頷くルミナに、男は「居なかったそうです」と答えた。
「居なかった? 別れていたのね……。それで、全部壊されたの?」
「被害は合成獣数匹と、機械化魔獣一匹。技術を持ち出した三人、もっとも成功していたフォレスト・ディスペアは殺されています」
具体的な被害にため息はより深くなるかと思いきや、意外とそこまで深くはなかった。
「はぁ、まあいいわ。コクーンシステム自体は、もうここにあるのだから。そうだ、この間もあなただったわね?」
何の事を言っているのか言葉に出さなくても顔が素直にそう言っている。
「あの子のお願いを言いに来たのも、あなただったでしょ?」
男は頷いた。
「どうやらあなたは、私のところに厄介を持ってくるみたいね。伝言係は五人いるのに、どうしてあなたの日だけなのかしら?」
そんなこと言われても男にはどうしようもできない。困り悩む男の表情をじっくりと眺めて、「冗談よ。で、名前は?」
「ブレストアです」
「憶えておいてあげるわ。行っていいわよ」
一礼して部屋を出た男を見送ってルミナは呟いた。
「違うわね。厄介を持ってくるのは終演、あの子だったわね」