第12章 無い柱 (2)
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風の口弾も、鬣も迫ってこず、意外に感じながらも繰り出された前足を空洞のイクリプスで受け止める。激しい衝撃。並みの剣ならそれだけで粉々になりそうな一撃。初めて交えあった力は、圧倒的にバナンが上だった。時間は数ヶ月。急激な成長などあるはずがない。なら今の状況をどう説明するべきなのか。バナンの顔が、必死で相手を押し倒そうとしているにも拘らず、片手だけで握る空洞イクリプスの涼しい顔のカイヤック。相反する表情は、考えも正反対になる。
「お前ぇ、こんなに力なかったか?」
消して隠すことのない苛立ちが歯を鳴らす。何も口は、特にバナンの場合は喋る、食べる、感情表現をするだけではない。噛みしめて開かなそうな口を、今の怒りでどうにかこじ開ける。意味する行動を理解した時には、空洞イクリプスでバナンの前足を弾き上げた。抵抗もしているし、力も抜いていないのに、軽々とズレる前足に顔までズレて的が逸れる。カイヤックはもう一方の太陽の剣で顎を切り落としにかかる。掠める顎。バナンは後ろ足で立ち上がり、羽ばたいて後方回転。さらに一撃を加えようとしていた空洞イクリプスを後ろ足で蹴り、距離ができた。
《貴様、力を隠していたのか》
二人の頭の中は同時に、最初に交えた時のことが流れる。その時とのあまりの違いに、加減か何かしていたのか疑うバナン。カイヤックは答えない。答えられないようだ。自分自身でも驚きながら言い切る。両手を眺めていた視線を戻した。またぶつかり合うために。
「いや。強くなったんだ、俺がな」
《ふざけるな! 時間などそうは――》
「今までも戦ってきた。それこそ、お前ぇと会ってから戦った数とは比べられねぇほど、戦闘も、人数も、修羅場も潜ってきた。だが違ぇんだ。今までは数とやってきた。いかにして多くを一撃で倒すか。だからこそ、感覚が違ぇんだ。それに一番デケェのは、雷祇だ。やる度に強くなっていった、雷祇も、俺もな。強くならなきゃならねぇだろ、雷祇だけを人から離れさすわけにはいかねぇからな」
《抜かせ!》
空気に食らい付き、体の中に流し込む。一方カイヤックは、足を開いて地面の中にめり込ませるように動かす。砂地のように足が土の中に入り、爪が隠れるほど深くなったが、まだ不十分だと感じていたカイヤックに、小さく限界まで押し固められた口弾が放たれた。その圧縮率や、空気の色が見えそうなほど。片手で持てるほどの大きさの口弾が迫ってくるのがはっきりと見え、押し出されるように風が撒き上がる。徐々にではなく、一気に近づく嵐のように間近に来た。空洞イクリプスが口弾に切りかかる。触れた瞬間、カイヤックの体全体が後ろに動く。しかし、吹き飛ばされることも、弾き飛ばされることもなく、しっかりと受け止めていた。一本だけでは初めから無理だと考えていたカイヤックは、実体はなくともそこに確かにある口弾を消し去るため、太陽の剣を空洞イクリプスに叩きつけた。
「うらぁぁあ!」
自ら動いたわけでもないのに三歩ほど下がった場所で森を、毛を浚いそうなほど、暴風音と共に風が巻き起こった。それでも二人の眼差しを逸らさせることすらできない。
「行くぜぇ!」
駆け出す。バナンも同じように。足の勝負は圧倒的にカイヤックが遅く、獲物に襲い掛かる如く翼の力も借りた獣が飛びかかりる。衝撃に備えるように、走っていた足を止め、一本後ろに残して足を大きく踏み出し倒されない格好を取る。それでも襲いかかってきた時の衝撃は恐ろしいまでに力強く、後ろの足が大地を割って深くめり込む。クロスさせていた剣の中心に、後ろ足で立ち上がって体重ごと押しつぶそうとしている。前回は前足一本動かすのが精一杯だったのに、力が漏れないように代わりに漏れ出す唸り声が、耐え凌いでいるのだと分かる。このまま行っても、確実にバナンが押しつぶせるが、逃げもできないように鬣がカイヤックに伸びる。別にこの時を待っていたというタイミングでもなかったが、空洞イクリプスをクロスさせている点から斜め上に抜いた。
《何!》
それは正しく字の如く、肉を切らせて骨を断つ。太陽の剣は胸の辺りに落ちると、バナンの力と体重に足の部分まで肉を削り上げて地面に落ちた。この行動は予想していなかったのか、自分の体重にひっぱられ、バランスが崩れた。ただ、扱けることはない。それはカイヤックも分かっていた。翼が動く、後ろに避けるために。自分だけ傷を負えば、字とは違うようになる。別にそんな思いはないだろうが、カイヤックは飛び始めたバナンの首を切りつけた。噴き上がる血と同時に浮き上がる巨体。逃がさないと、落ちた太陽が昇る。先ほど逃した顎を捉えるために。だが、浮き出したせいもあって空振り。
《そんな物、無駄だ!》
まだやめるわけにはいかない追撃。骨を断つまで届いていないのだから。空洞イクリプスを投げつけるが、バナンが言ったように弾き落され地面に突き刺さった。もう立ち直っていたカイヤックは走りだす。もう届かない位置に浮き上がっていたバナンに向かって。だが、バナンに余裕はなかった。なぜなら、
《台か!》
空洞イクリプスに足をかけ、踏み台にして人にしては大きすぎるカイヤックが飛びあがった。
「遅ぇよ!」
分かった時には避けるタイミングではなかったので、前足で払いに向かう。鬣は切られた首を庇っている。だが、普通のイクリプスに比べて軽い太陽の剣の速度に及ばず、今度は右目を掠めて鼻に剣筋が走る。痛みに漏れる獣の唸り。カイヤックは着地すると、すぐに空洞イクリプスを掴んだ。バナンも木を後ろ足で蹴りつけ、態勢不十分のカイヤックに飛びかかった。二人の戦いは、さらに熱を高める。
心臓が口から飛び出る前に喉の辺りで破裂死しそうな速さで鼓動を刻む。突然落ちたことも要因ではあるが、何よりも一番の要因は、裸の美少女が裸の雷祇に乗りかかっているからだった。頭を打たないように押さえて落ちていたが、衝撃が凄かったため静華は気を失っていた。
「大丈夫、僕は大丈夫。そんな、あ、ふぅー、大丈夫だから。落ち着け、落ち着けよ僕」
体の上で少し動かれる度にギリギリな声を出して、色々な意味の我慢で流れそうになる涙を堪えて、ゆっくりと、動かれないように慎重に肩を掴んだ。
「大丈夫だから。本当に、僕は大丈夫だから」
意識をするだけでは無理。口で喋り、耳で聞いて何とか正常な意識を保って静華を横に寝かせると、股間に挟んでいた自分の服と雷命を掴んで部屋の角に走り寄った。何とか正常な意識のままここまで来た雷祇は、逃げるように瞬く間で服を身に纏った。別に服が暖かいわけではなかったが、言葉で表わすならほっとしたと言っているだろうため息が出た。
「これから、って、ここは……」
落ちてから初めて視野が広がり気が付いた。鋼色の部屋、檻のような柵に獣が暴れた爪後。ここがどこなのか。ミラージュキングダムの城の地下にあった施設だと、直観と客観が働いた。地下に入ってから、雷祇が見たのは三体。廊下の容量に比べて明らかに少ないのは明白。もしかすれば仲間はこの近くにいるかもしれないと、慎重に檻を掴んで覗こうとしたが、雷祇の小顔でも顔が挟まってしまう。入り口がないか探そうとしてか、部屋を見ようとしたが真ん中には裸で眠る静華がいることを思い出して留まった。冷たい、本当に冷たく生き物の温かさの欠片もない鉛色。
「本当に……冷、あ、冷たい。僕は良くても、これ、静華には……」
風邪を引くかも、お腹を壊すかも、どれを思い浮かべたのか知らないが、雷祇の顔が曇る。そして始まるのは、苦悶と苦悩の時間。
「やっぱり、服、着せるべきだよな……。でも、さっきのことが、って、あれは、静華の意思じゃないよ! 多分……。う〜ん、どうするべきなんだ。着せるべきだよ、体調が悪くなるの、かわいそうだし。よしそう、でも、でも、着せるべきだ! よし、大丈夫、僕は大丈夫だから」
ここに来てから何度言ったか分からない、「僕は大丈夫」を最後にまた呟いて振り返った。見えてくるのは美少女の裸。覚悟を決めて、引き締めて。静華の眠る場所を見た時、視界を覆っていたのは、
「足?」
鳥の足。
「はぁ! 目が、目の中に!」
隙しかなかった目に直撃した。膝を突いて目を抑える雷祇の頭の上に、一匹の鳥が着地した。
《やっと出られたわ、まったく》
しばらく姿の見えなかったギムンだった。
「いきなり、何するんですかギムン」
《雷祇君が静華を襲うと思ってね》
「しませんよ、そんなこと!」
大きな声に、小さな寝息を立てる。
《で、何でそんなに焦ってるの?》
出れないと先ほど確かめたのに、柵に顔をねじ込む。動揺を隠すのをあきらめたのか、「危なかったですよ」と前置きをしてから頼んだ。
「あの、ギムン。静華に服、着させてもらえますか。じゃないとほら、話も、出来ないので」
両手を広げて呆れる格好と同じように羽根を広げて、《分かったわ》とため息をついた。雷祇は部屋の隅で、鉄の壁と柵の部分と同化するように固まった。後ろではギムンが静華を起こす声と、目覚めの一声。
《ほら静華、服着ましょ》
「ギム、ンさ、ん、久しぶ、り、!」
体を起こされていた静華の全身、それこそ本当に全身が赤く、全身隈無く叩かれ痛いと感じるほど染まっていく。
《あの、ギムンさん、私――》
「いいのよ。私が説明してあげるから、まずは服をね」
素直に従って、静華はギムンに服を着る手伝いをしてもらった。《終わったわよ》とギムンの声が響く。聞こえないような大きさでもないのに、初めから作られた飾りのようにピクリとも動かない。もう一度ギムンが話しかけたが埒が明かないと、静華の肩から飛んで雷祇の首筋に嘴を突きさした。悲鳴が上がり、落ち着くまでに少し要した。
「あ、そ、その、あ、こ、ここから、早く出ないと、ね」
《雷祇君、ちょっと待って》
向き合って座っている二人。いつもと違う雰囲気の理由は一つしかなく、雷祇がここまで焦っているのも同じ理由。
「いや、あまり遅くなると皆が――」
《だからちょっと、話を聞きなさい》
じっとしてられずに歩き出そうとしたのは、なにも静華の前にいるのが耐えられないためではなく、言葉にも出ている遅くなった時のことを考えてだったが、ギムンに呼び止められて反応したのは体ではなく心だった。
「話って、何ですか」
ちゃんと座りなおして静華の肩に止まるギムンを見る。
《静華も心の準備をしなさい》
無言で髪が流れた。
《最近私はいなかったし、静華もおかしかったでしょ? なぜだか分かる?》
二人同時に首を横に。
《シャーミとミーシャのせいよ》
それぞれ何を思ったのか違いがあったにせよ、面を食らった「え」の言葉がギムンに向けられる。
《彼女たちは信仰心や拠り所に取って代わり、人を惑わし、惑わした相手を自分たちの駒へと変えて命を喰らう、悪魔どもよりも質が悪い、天使よ。私はあの二人に静華の中に閉じ込められてた。多分、静華の肉体を強くして、私を出させないようにした。彼女たちの力は、多分増幅ね。それが、欲望なのか願望なのか、肉体そのものを変えるのかまでは分からないけど。で、静華は彼女たちに毎日のように唇を奪われていた。それは餌を巻いていたのと同じ。多分、今日のために》
「ちょ、ちょっと待ってください。一体、何の話をしてるんですか。彼女たちが天使? それに、その、毎日、ま、まあ、それはいいとして、今日のためって、今日は一体何があるんですか?」
頷いてギムンは話し始めた。
《私の感よ。なぜか知らないけど、あの二人はカイヤック君のことを嫌ってたし、なによりカイヤック君は二人の力に靡かなかった。あの猫ちゃんは効かないだろうし、雷祇君には使った素振りはない。だから、静華と雷祇君を引き離したかった》
表情が変わっていく。静華は何のことかまだ分かっていない表情だが、雷祇は違った。痛いほどの驚きに包まれている。
「それって、まさか――」
《あくまで、私の感よ。猫ちゃんに、カイヤック君を殺させようとしてる》
ある程度覚悟を決めていた雷祇とは違って、予測も何もできていなかった静華には重く伸し掛る。
「な、にを、言ってるん、ですか? そんな――」
《理由を知るわけじゃないわ。でも、障害なのよ、彼女たちには。だって、猫ちゃんならあなたを人質にとれば勝てるもの。けどカイヤック君は、どうかわからない。まあ、十中八九はいけるでしょうけどね》
もう何も言わずに雷祇は動き出していた。落ちてきた穴は塞がっている。出入り口は見当たらない。檻を何度か揺すると、しっかりと固定されている感じではなく、微かにだが前後するのが感じられた。廊下は随分と広く、向き合って檻はない。
「ギムンは、静華を掴んで飛べますか?」
まだ整理ができず、混乱の最中にいる静華の肩の上から返事が返ってきた。《いけるわよ》
「じゃあ、お願いします。檻をこじ開けますから」
足で蹴ったりするのではなく柔らかいだろう、音もならない羽根で頬を叩いた。
《静華。あなたは知らないことも多いだろうし、覚悟も足らないだろうけど、この世界ではよくあることなのよ。それが営みの一部なの。もし二人とも無事でいてほしいなら、行動を起こすのよ。いいわね》
叱られることもなかっただろう、地下の箱入りお嬢様にはこれでも堪えたらしい。頷いて立ち上がった。ギムンはそこから静華の肩を掴んで、足を掴ませて羽ばたく。羽根や足、体の隅々至る所が、軋む音が聞こえてきそうなほど必死に羽ばたいて、どうにかこうにか静華の体が宙に浮いた。
《浮いたわ!》
ギムンの声が聞こえ始めた時には、雷が鉄の上を縦横無尽に駆け抜けていた。静華の中から見ていただろうギムンだったが、雷祇の成長をどう感じたのか。鉄柵が廊下に倒れ込む大きな音と、消えていく雷を見送って静華を床に下ろした。体を廊下に覗かせて、何も来ていないか確かめてから静華の手を取って歩き出した。
《出口は?》
「分かりません。でも、じっとしてても変わりませんから」
まだカマキリの言葉から抜け出せたわけでも、ここで昔を知っている者に出会す可能性がないわけでもないだろうが、雷祇は前に進んでいた。昔よりも今、その言葉に向かって歩いているように。
歩き始めて数分。この間の彷徨い続けた時間と比べると随分と早く変化がやってきた。
「何か来ます! これは……よかった。僕が壊しますから、静華をお願いします、ギムン」
静華の柔らかな手を離して、硬く破壊を生む鞘を掴んだ。
「ギムンさん」
《大丈夫、相手は機械よ》
走り、飛んで向かってきていたのは、精巧に作られていると遠目に見ても分かる機械の巡回者。数えて三十はありそうだが、大きさもなく、飛び道具もないのか雷祇との距離がグングンと縮まっていく。雷命が鞘を走りぬけて一番手前にいた機械を叩き斬った。斬鉄をするほどの技術を持ち合わせていない雷祇だったが、後ろに下がりながら飛んでいる二機を同じように破壊。雷命の切れ味もさることながら、雷祇の腕に巻きつく雷の襷が一番の理由だろう。止まることのない相手に、雷祇も足を止めずに飛びまわって息つく暇なく壊し続けた。もしカイヤックが同じようにここで戦っていたら確実になかっただろうが、無傷での勝利を雷祇は収めた。
「ふぅー、行きましょう」
静華の手を取ると、すぐに歩きだした。
3
意外といえば失礼になるだろうが、静華にとって雷祇は頼りになる存在なのだろう。信じ切って後ろに続く。忙しなく周りを見渡している姿を見れば、決して落ち着いてるわけではないので、一変するかもしれないが。ギムンには分かっているだろうが声を掛けることはなかった。
そんな三人の前に、見上げるような大男が出入りすのかと思わせる大きな扉が現れた。硬く閉ざされているだろうと近づいて行くと、扉は意志を持っているかのように音もなく開いて行く。一歩近づけば一歩分開く。怪しさしかない扉だったが、他に行く当てもないので、躊躇いなく進んで部屋へと出た。
見渡す必要もないくらい閑散とした、広い半円形の空間を有した部屋。ガラスの筒はない。しかし、他の物はあった。
《酷いわね……》
「なんの、臭いですか」
異臭、悪臭、一番合うのは腐敗臭だろう。腐った動物の死体が数々放置されていた。その中には、随分と強いとされている魔獣の物も。一体何があったのか、その答えはすぐに目の前に現れた。三人が入ってきた扉が閉じる。すると反対側の壁が開いていく。徐々に見え始める体。驚き声を失う雷祇とギムン。一体なにが起こっているのか分からない静華だったが、分かったことがあった。
「これは、終演さん、ですか? でも、音が違いすぎる」
そこにいたのは、成長しきったフォレスト・ディスペア。ただ、分類は別になるだろう。肉ではない、命なんて通わない一本の前足に腰から伸びて一本の後ろ足、右目から右耳、そして何より、腹の真ん中、地面に向かって、粉砕するためだけに付いているだろう大きな口を開けている、終演のように鉄の色した皮膚を付けた化け物。
「これは、なんて事を……」
痛々しいのは言うまでもない。終演は自ら望んで付けたのだろうが、魔獣がそんなことを望むのか。答えは、違うだろう。こんなことをするのは、できるのは、人。憤りも、言葉にできない怒りも、雷祇は内に込めて見据えた。
機械の魔獣は部屋の中に進み入ってきた。前足だけで雷祇よりも大きい。そこまで大きいと、動きが読める。鞘に収めた雷命で床を叩きながら、静華から離れるように走り出していた。
「こっちだ!」
襲いかかる姿勢に入っていた機械の魔獣は雷祇に標的を絞った。それを告げるように、もう一つ音が鳴り響く。煙を上げる四本の足と地面の接着面に、雷祇がまさかと思った時には轟音を上げて機械の魔獣が空を走り始めていた。
その速さ、ヤダ!カラス君の比ではないくらい圧倒的。体格を考えれば、一撃喰らえば必死。左右にかわす想像は、機械の魔獣の爪に引き裂かれた。全てが賭け。終演みたいなことはしたくなかったが、百パーセントの負けよりも勝ちが見える命の博打を打つしかなかった。
大きな口に喰らわれる寸前、飛び上がって鼻を叩きつけた。鞘を抜く暇などなかった雷命では、ダメージは皆無。叩かれた鼻で雷祇ごと機械の魔獣の体が浮き上がった。空を飛んでいる。
後ろを振り返ると見る見るうちに天井が迫りくる。叩きつけられる。押し潰される。どちらか一方かも、どちらもかもしれない。雷祇は機械の魔獣の鼻の短い毛を掴むと、体をひっぱり牙の真横に体を持っていく。暴れ振る機械の魔獣のタイミングを計り、その時しかないという隙間に、足を出して鼻を蹴りつけ、顔を飛び越し背中まで跳んだ。このまま落ちていける、確信ではなかったが、そう思った、そう思えただろう。だが、甘くはなかった。
「嘘、でしょ」
下半身、機械の後ろ脚が生身ではありえない、尻尾のような動きをする。尻の辺りに移動した足が、雷祇の体に向かって落とし蹴りを繰り出す。咄嗟にだったが、直撃を避けることができたのは雷命で足の爪の触れる部分を叩き返せたから。ただ、勢いは殺せず雷祇の体は受け身も取れないスピードで地面にまで落ちた。
「ヵ゛ハッ!」
声も出ない。全身が壊れたように震え、動けない。そのまっすぐ上、天井にまで達した機械の魔獣が天井を前足で押し返すように動いた。勢いを殺さず地面に向かって落ちてくるため。動きを見れていた雷祇は、本来なら動きを制御される痛みを、全身に雷を走らせ打ち消す。すぐ上には火を吹かない巨大な後ろ足が迫る。雷命と足に雷を集めて後ろに飛びだすために叩いた床は、雷祇の影を飲み込み機械の魔獣の足に踏み潰されていた。
一足飛びで、常人では考えられない距離の出た雷祇だったが、相手も常識外の魔獣。四本の足が床についた時には、小さく纏まっていた体が伸びあがり、後ろ足から雷祇に飛びかかる。
頭の中には、普通とは違いすぎる魔獣の狼型の戦いについていけない部分があったが、今この相手から静華を守れるのは自分しかいないと、蹴りだされた後ろ足を先ほどと同じようにガードして反対側の壁にまで吹き飛ばされた。
振り返り雷祇を確認した機械の魔獣は、火を緩めることなく雷祇に襲い掛かる。向かってくるのを床に降りてみた雷祇は、相手の速さを計算に入れて影が食われる距離まで我慢して上に飛びあがる。もちろん、足には雷を纏って。
また影しか壁に捕まえられなかった機械の魔獣は、雷祇自身を喰らおうと追い飛びあがる。雷祇の足はもう次の動き、空中で回転し、天井と床の半分くらいの距離に着いた。今度は地面に向かって壁を蹴りつける。機械の魔獣がバランスを変えようとした横を通り過ぎ、床に着地。機械の魔獣が雷祇と同じ壁に触れた時は走りだしていた。
天井付近で見降ろす機械の魔獣。なぜ追ってこないのか、警戒を解かずに走りながら見ていた雷祇の目から、瞳が外れる。
「静華!」
こんな動きは予想していなかった。機械の魔獣の狙いが変わった。
《不味い。静華、私を持って》
杖に変わったギムン。
《いい静華。よく聞くのよ》
目が見えていたなら恐怖でそれどころではないだろうが、静華は冷静に頷く。
《この杖の力は、何もアスクレピオス様と契約を結び、力を使うためだけの物じゃないの。物理的防御、光蛇のウロボロスで身を守ることもできるの。いい、行くわよ》
状況が切迫していることは、ギムンの焦る言葉で理解できていた。頷くと、髪と目が夜空に燦然と輝く白月よりもさらに白く輝きを放つ。
「お願い、力を貸して、アスクレピオス」
《ウロボロスは早く静華を守りなさい!》
杖に巻きつく蛇がスルリと抜けだし、静華の体に巻きつき始めた。ごく僅かな間で、全身に巻きつき、球体を作り出す。
機械の魔獣はそこに牙を突きたて、噛み殺す。雷祇の頭の中ではそうなっていた。だから懸命に追いかけ、もう少しで足に斬りかかれる距離に届いていた。
雷命が鞘から抜ける。放つのは本来持つ殺気。ただ、そんなものを雷祇は持ち合わせていない。では、どこから。真後ろから後ろ足を斬りやすいように踏み込み、見えるようになった先では、静華の姿はなく、何かが球体になっていた。目と目があった。
“僕を、まさか――”
球体に噛みついていない。殺気はここから、睨みつけていた機械の魔獣の瞳から届いていた。
静華に向かった理由を、襲うためだと雷祇は感じていた。ただ、ここではっきりと分かった。釣ったのだ、静華を餌に雷祇を。どの道、今の格好で防御は不可能。斬りかかるしか道はなかった。鞘から抜けきらない雷命に、煙を上げた後ろ足は容赦なく襲いかかり、雷祇の体を蹴り飛ばした。地面に叩きつけられるわけでは無かったが、浮き上がった瞬間、踵が床に引っ掛り、バランスを崩して頭を打ち付けると、山を転がるに無抵抗な人形のように壁まで一直線に転がり、体を叩きつけられて動けなくなった。
急に動き出さないか慎重に確認すると、機械の魔獣は蛇の球体に噛みついた。
「ギムンさん、これ、は……」
両手足を突っ張る静華。球体の中にギムンの声が響く。
《魔獣が噛みついてるの。耐えなさい。でないとあなた、死ぬわよ》
励ましでも、脅しでもない、真剣な言葉に唇を噛みしめた。何度か強い衝撃があったが、何とか耐えきった。少し間が空いたこともあってこれで終わったのかギムンに確かめようとした。
《力を込めなさい、ここからが本番よ!》
ギムンの言葉ごと噛み砕きそうな勢いが、静華の足と手の関節を曲げさせる。あまりにも強い衝撃に、一気に崩れてしまいそうになったが、どうにか留まり耐える。その姿はあまりにも弱弱しく、風に消されて煙を上げるだけの蝋燭のように儚い。静華自身は頑張っているのだろうが、ギムンには長く持たないのは目に見えていた。
雷命を杖に、どうにか体を起こす。遠くの蜃気楼、豪雨でまとめに目が開けられない、二つを足したような視界だったが、迫ってくる大きな影が危険なものだと、無理矢理目を見開いて雷命を構えた。輪郭を確認できるたのは、開いただけではなく風が感じるほど近かったのもあった。
「くっ」
前足によって下から体が宙に浮く。翼のない物が空中で取れる動きなど高が知れている。機械の魔獣は追撃に空中を駆け出す。雷命を構えるしかできていない雷祇に襲い掛かる。
あくまで噛みに拘っているのか、大口を開けた機械の魔獣の鼻に雷命を叩きつけ、体重を乗せて牙の餌食にはならなかった。しかし、雷祇を待っていたのは、動かない天井。
「しま、ゥグッ!」
鼻先が腹にめり込む。天井に背中をつけているのに、体が浮く不思議な感覚など味わう暇もなく、足を重力に逆らい天井につける。その間にも腹の中の内臓が悲鳴を上げ、雷祇は口から血と嘔吐の涙を少しながら流す。この状況を打開はできないが、苦痛の叫びを上げたい。しかし、まだ諦めていないし、まだ手はある。
全身を走り始める雷。それが徐々に広がり、天井から部屋、機械の魔獣までも包み込む。今まで味わったことのない痛みに、機械の魔獣は暴走気味に足の火力を上げる。悲鳴ではないが雄叫びをあげた雷祇の雷は凄味を増し、部屋の明かりを吹き飛ばし、おかしな音を響かせ始めた。
互いに上がる息。死力と呼ぶような戦いに入っていた二人を、聞きなれない音が止めに入る。
「何の音だ……」
襲ってこない確信で構えを解いて辺りを見回す。バナンも同じように見回す。そんな二人は、地面から這い出すように芽を出す、雷の草花を見た。綺麗に咲き誇っていると眺める余裕はない。こんな芸当できる人物はただ一人。
「雷祇か」
花の寿命が一時なのと同じように、雷の花が散った地面が崩れ落ちる。霧が晴れてしまいそうな爆音と煙を上げて荒れ狂う機械の魔獣と、今にも気を失いそうな雷祇の姿がそこにはあった。