第12章 無い柱 (1)
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一ヶ月と少し前
「ネェ、おキャクさん。おミセ、ヨってイかない?」
ノースクローに向かう道中の森で、突然掛けられた言葉。町もまだ遠い。雷祇はどこから現れたとのか不審に思い、聞こうとしたが、先にもう一人がカイヤックの足元に来ていた。手慣れた動きで指を絡めると、自分の指も一緒に銜えた。厭らしく、飲み込みそうなほど深く。小さな体には大きく太すぎる指を懸命に銜える姿は、目が離せないほど。やられてる当の本人も、抵抗する様子なく、おいしさを表現するように指の先まで舐め切ったところで、初めてカイヤックと少女の目が合った。
「駄目、ですか?」
幼い子供独特のかわいらしさと相反する色気の眼差しに、カイヤックも落ちてしまったのか涎で輝く指を眺めた。雷祇は呆気にとられ、バナンは静華を鬣でくるんでいる。そんな中、カイヤックは光る指と少女を見比べると、徐に指を銜えた。少女とは違う指を。誰も予想してなかった行動に、呆然とする皆をよそに、自分の指を嘗めながら何かを考えた表情。右の頬に左の頬を突いてから指を離した。
「上手かったか、俺の指?」
少女は今までにない展開からか、カイヤックを茫然と眺める。
「いやよ、随分うまそうに舐めるから、てっきり喰いモンが付いてたか、甘ぇモンが付いてたかと思ったんだが、何も味しなかったぞ?」
誘いが全く効かないことに驚いてか、少女は一言も発しない。行為自体の意味を大体知っている雷祇は、何も感じていないカイヤックに驚くだけだった。
「あ? なんだ、何で静かなんだ?」
一言も喋らないのが理解できないのか周りに聞くが、誰一人答えようとしない。代わりに森の中から答えが来た。
「その子たちは、誘ったんですよ。いや、値段交渉か……。どれにせよ、売りたいんですよ」
商売人独特の相手を乗せ、購買意欲をそそる口ぶりでも目つきでもない、金が欲しいだけの男の顔。気に食わないと直接口には出さなかったが、空気が受け付けない物が来たと教える。
「売る? 何をだ」
大男のこれだけ嫌悪な圧迫感も、相手の男の顔に厭らしさを足す香辛料になるだけだった。怯みそうな動きはない。町との距離感、先ほどの行動、皆の前に現れた男。どれをとっても、どこをとっても、この世界を生き抜いてきた者の頭の中では答えが纏まる。
「体を、ですね」
この言葉を聞かせたくなかったわけではないだろうバナンは、警戒を解かずに少女二人を睨みつける。「お前ぇ、雷祇よぉ。馬鹿言っちゃいけねぇ」と図太く生き抜いてきたはずの男が、冗談を言う場面でもないのに雷祇に言っていた。カイヤックに話の続きを聞かせたのは森の男。「えぇ、その通りで。ところで坊ちゃん、あなたからも同じような匂いがしますね。うちで働く気は?」
「結構です。それとも払えますか、星の守護以上のレンを」
目上の人間に対して向けるキラースマイルが本当にできるのかと疑いたくなるほど、雷祇の表情は冷たく自分よりも下の者を見下す瞳を向ける。
「おや、星の守護だったんで。これは失礼。ただあまりにも美丈夫だったので、男色にも受けがよいと」
大人というよりも、影の当たらない路地裏の話。確かに堂々と日の当たる道をカイヤックも歩んできたわけではない。それでもコソコソと逃げることも隠れることもせず、普通の人と同じように、体躯や顔で避けられはしたが肩を並べて歩いてきたカイヤックにとっては、信じられない話。
「オイオイ、本気か?」
「えぇ。うちは良心的なんです。親から直接買うので」
足元で見上げる少女は、まだ本当に小さい。掌よりも顔が小さい。爪と同じくらい目も小さい。何を言うわけでもない、言えないの間違えかもしれない。カイヤックは少女の頭を撫で、男に向かって歩き出した。「おい――」
「悪いですが、買いませんよ」
一直線に向かおうとしていた進路の前を塞ぐ。ここまでの言葉にはカイヤックも頷くが、この先があった。
「さっさと連れて消えてください」
何年も一緒にいたわけではないが、カイヤックはこの時、雷祇が触れられないほど冷たくなったのを見ただろう。
「おい、雷祇何言ってんだ? お前ぇ、見捨てんのか?」
何も答えない。怒りとは別の感情だが、怒鳴りたくなる気持ちを抑えて雷祇の横を通り過ぎようとしたカイヤックの首に、鞘の中に入ったままの雷命の刃が向けられた。
「どういうつもりだ」
「今ここでこの人をどうにかしたら、その後ろにいる十数人の子供がどうなるか」
止めるにしては言葉足らず。男への怒りがさらに増し、「素晴らしい読みですが、二十二人です」と悪びれる様子のない態度が発火を促した。
「テメェは何考えてやがる! こんな――」
「子供のことをですよ」
「なんだと!」
聞こえなかったので言ったんじゃないことぐらい分かっていて男は言うのだろう。「子供のためですよ」
「よく言えるな! 何が子供の――」
「だから言ったじゃありませんか。うちは親から買うと。孤児院の親からね」
衝撃を与える方法を熟知しているかのように、男は畳み掛ける。
「別に私を殺しても構いませんよ。ただね、うちほど良心的なところは他にないですよ。何せこの子たちの稼ぎの五十分の一を毎月送ってあげてるんですから。孤児院にね。それに、ちゃんと三食与えてる。勘違いしてるところは、成長させないために餌をやらないと言いますが、それは間違ってる。客が一番に臨むのは健康なんですから。うちにいる二十四人は全員が健康そのもの。この二人だってそうでしょう? さあどうします、私を殺しますか? だったら覚悟しておいてください。二十四人をちゃんと育て上げると。いや、それだけじゃない。世界中にはまだ数え切れないほどの、死んでいくためだけに生まれる子供がいるんです。全て助けてあげるんですよね? まさか、私のところにいる二十四人だけじゃないでしょうね? 偽善などという個人の自己満足のために、この子たちの生活を壊してもいいんですか?」
「生活だ? そんなもんのどこが生活だ!」
「生活ですよ。死んでないんですから」
抑えの利かなくなりそうなカイヤックの後ろから、嘲り笑うような言葉。《不便だにゃ》
「あぁ?!」
《お前たち人間の世界だけだろ、血の繋がりもにゃく、弱き死にゆくだけの同種を庇い、やしにゃうのは。他の生物は血が繋がっていれば考えられにゃくもにゃいが、それ以外にゃら考えられん》
もっとも一般的な常識を言っていそうなカイヤックも、偽善などとは無縁のジジイに育てられ嫌という程汚い物を見てきた少年と、野性の、本来なら話のできない獣の前では、綺麗な綺麗なガラス玉ほど脆い考え。抑えきれない気持ちをどこにぶつけていいのか分からないのか、何度も何度も頷き、突然雷祇のポケットを探りだした。
「ちょっと何を――」
「買う。ほらよ」
一銭も入っていない財布を投げつけた。
「おや、何も入っておりませんが」
「ああ、そうだな。買う」
イクリプスが刃を首に向けて男の肩に乗った。
「随分と乱暴な……。仕方ない、いいでしょう。シャーミ、ミーシャ、しっかり尽くすんだよ」
頷く二人。シャーミとミーシャの手を握って先頭を切ってカイヤックが歩き出す。バナンも少し離れて進みだした。静華はバナンの鬣から解放されて何があったのか聞くと、《変にゃのが二匹増えた》とだけ言った。雷祇はため息をついて最後尾で歩きだした。
「これは?」
目の前に、ほとんど自分の働きをさせてもらえないかわいそうな財布が差し出された。一瞬睨みつけ、奪い取るように受け取りゆっくりと追いかけた。男は見えなくなった頃、森の中へと姿を消す。
「お買い上げ、ありがとうございました。気をつけてお扱くださいますよう、気を許さぬよう申し上げます」
唯一の弱点といっても過言ではないカイヤックの寝起きの悪さ。色々と試したらしいが一向に良くなることはなかったのは、今までを見てきて十分見て取れた。ただ例外もあった。そう、
「うん? あれ、普通に起きれてしまったな」
今と同じような事が。滅多に、いやほとんど起こらないのだから、いつ起こったか思い出せば何かしら異変が起こっていると感じるのは当然。鋭いカイヤックのことだから、
「治ったのだろうか、寝起きが悪いの?」
一切気づくことはなかった。痛みにも鈍いが、異変に気付くのにも鈍かったらしい。イクリプスを担いで立ち上がったカイヤックの周りには誰もいない。昨日雷祇だけは一人で寝ると言って離れてはいたが、後は近くにいたはずなのにいなくなっている。流石にこれはおかしいと思うだろう。
「なんだ、みんなもう先に行ってしまったのか? せっかちだなぁ〜、僕を忘れてるじゃないか」
何も思わなかったらしく、急ぎ足で歩きだした。しばらく歩いていると、さわやかで気持ちの悪いカイヤックがいつもと変わらない雰囲気に戻ってきて、周りの異変にも気付き始めた。
「こんなに、濃かったか霧……」
周りには誰もいないから濃く感じるのか定かではなかったが、慎重になるには十分だった。本当に誰もいない。生き物の気配は元々ない森だから、何かあればすぐに気付く自信くらいは持っているはず。慎重に歩きだして十歩ほどした時だった。自身も何も吹き飛ばす、真後ろから聞こえてきたバナンの雄叫びに振りかえったのは。
《貴様ら! 早く静華のいるところを教えんか! さもなくばこの場で切り刻んでくれよう》
「……いいですよ。そんなことして、本当に静華ちゃんを見つけることができるのなら。もしできたとしても、私たちを殺した貴方を受け入れてくれるでしょうか?」
雰囲気は最悪。それ以上に、本当に真後ろ、三歩いけばバナンの横にいたことに驚き、慌てて近寄った。
「お前ぇ、いつからそこにいた?」
突然話に入ってきたカイヤックに、大きな、最初に出会った時と差を見分けられないほど大きくなったバナンが睨んだ。
《何を言っておる。我は元々ここにいた。それより、貴様は何処にいたのだ》
「俺ぁ、ここを歩いてた」
食い違う二人の話。一瞬だがおかしなものを見る目で見あったが、互いに“変だから仕方ないか”という意見に達した。
「で、何怒ってんだお前はよ」
《おらんのだ。静華が》
来た時点で分かってはいたが、やっぱりな理由に頷いた。
「雷祇のとこに行ったんじゃねぇか? 落ち込んでたからな」
《一人で行ったというのか? 何を馬鹿な――》
唯一俯いてたシャーミが顔を上げてバナンに向けて舌を出した。子供っぽくではなく、妖艶に。
「ナグサめにイったんだヨ、こんなフウニ」
顔を見合わせた二人が溶けて混ざり合いそうな、潤ったキスを交わした。普通の感覚の人間なら、正常な思考を失いそうな光景。ただ今前にいるのは、獣と色のない男。
「雷祇はどうか分かんねぇが、嬢ちゃんはねぇだろ。それに二人はまだ子供だ」
全うというべき反応。二人の少女の交わりはそれほど子供同士では似合わない。二人だからこそ、だろうが。獣とはいえど、静華と長らく共にいたバナンなら落ち着けば理解できる。カイヤックも当然そうなるだろうと思っていたが、横から上がったのは踏ん張らないと転んでしまいそうな、落ち着きとは無縁の怒りに満ちた声。
《これが最後の警告だ! 教えろ、いる場所を!》
焦っている。普段の斜に構えている姿とは違い、確かに静華のことではあるが、それでもこの姿はあまりにも不可解。怒りが、自分の中の感情が抑えきれない、カイヤックにはそう見えた。
「おい、落ちつけよ」
《この状況で、どのようにして落ち着けと言うか!》
「おかしいぞ、やっぱりお前ぇ」
おかしいに微かに反応を見せたが、すぐにまた怒りが先を走る。
《我がおかしいと? なら貴様はどうなのだ。二人はいないのだぞ。貴様は見ていないのだろう? 二人がいない、万が一があるやもしれんだろう!》
「おいおい、雷祇もいんだ。ねぇだろう」
《随分と貴様は奴に信頼を置いているようだが、一番得体が知れんのは奴だ。貴様も見ただろう、塔で別人になった奴を。まぁ、秘密ならばあの者の方が遥かに上だろうが。それでもだ! 今は静華の姿がなく、奴もいない。落ち着く方が不可能だ!》
何彼に付け怒りがぶり返す。まともに話せないと思ってか、二人に歩み寄った。
「嬢ちゃんズ。本当のこと言ってくれねぇかな。あの糞猫、なんだか変だからよ」
「本当のこと? 本当は静華ちゃんが雷祇君を襲ってるんですよ」
「いやだから――」
随分と近い場所から声がする。
《無駄だ。この者共は話す気などありはしない。言ったはずだな、人間。もし静華に何かあれば――》
向かってくるのは微塵の迷いもない殺意。屈んでいる状態でイクリプスを盾になるよう動かしながら回転するが、端で見えた爪の軌道に合わせて動かすのが限界だった。
《貴様を殺すと!》
衝撃に備えて何かに掴まることもできず、カイヤックの体は霧の中へと飛び、木の折れる音を立てて姿が見えなくなった。
《奴は後で始末する。まずは貴様らからだ!》
なるべく時間を稼ごうとしてか、ミーシャが話しかけようとしたが《黙れ》の一声で消されてしまう。二人の顔にも焦りが見え隠れ。少しでも永らえようと手を取り合ったまま尻を擦らせて下がるが、バナンの一歩一歩が死の足音に聞こえ、着実に終わりの時間が近づく。
「痛ぇじゃ、ねぇか!」
霧の中、姿ではなく声が物と一緒に飛んできた。まだ見えはしなかったが、後ろに飛んで避けると地面に突き刺さる大きな剣。前に見た光景がチラつく。飛んできた方向から目を離していなかったバナンの耳に、真横から森を走りぬける大きな生物の音。目の前には剣。武器のない人間相手に負ける可能性はまず零。地面を削りながら爪で引き裂く体制。遅れて届いた視界。見えたのは目の前に刺さっていたはずの剣。
「気づけや!」
鼻から左目を掠めて一線が走りぬけ、血が噴き上がる。痛みと斬撃の勢いで同時にイクリプスと視線が空に駆け上がる。はっきり見える刃に流れる自分の血が、また迫り向かってくる。距離など見えるわけがない。それでも前足が自然と敵を払うように引き裂こうと動きだす。もしミスをしていたなら鼻を切り落とされるくらいの覚悟だったが、イクリプスの軌道に変化が起こる。まだ捉えられない姿だが、苛立ちの籠った舌打ちが聞こえ、当たるのだと確信が持てた。爪の先に何かが触れた感触があった。響くのは肉の悲鳴でも、男の苦痛の声でもなく、主人を従順に守る刃物の音。これでようやくはっきりした。二本、剣が二本あるのだと。大きな翼を羽ばたかせ、後ろに距離を取る。
「随分慎重じゃねぇか」
両肩に乗る少し小ぶりの太陽の輪がある剣と、剣の枠だけしかないような丸い鍔のいつものイクリプスの大きさの剣。
《二本か》
「残念、一本だ。そうだ、お前ぇは死なねぇんだよな」
肩から下りてきた二本のイクリプスを構えた。
「だったら、また小さくなれや」
目が違う。口も、表情も、全てが。作りは変わっていな、そんなことは分かっている。では何が変わったのか。バナンには分かっていた。
《それが貴様の本当の牙か。何故隠していた》
「……さぁな」
深く聞く気はなかった。答える気配もないのがあるが、何よりもいつでも殺せると思っていた男の持つ、ひた隠しにされていた、力の上に立つ者が放つ気迫がそうさせた。
《そうか……。貴様の全力がどうであろうと、我が全力を持って殺してくれよう》
「殺される気はねぇな。それに――」
腹をイクリプスの柄頭で突く。
「前みてぇに、触れただけで血を噴き出させることもできねぇようだしな」
同時に一歩踏み出した。ぶつかり合う、望んでいたとはいえ、互いに抑えきれない怒りに身を任せて、ここまで共に来た二つの力が。見つめ合うのは、巻きこまれないようにギリギリ見える範囲まで下がった二人。頷き合うその手は、しっかりと握られていた。
「ちょ、ちょっと待って、静華」
足の上に静華の柔らかいお尻が乗り、擦りあがってくる。静華には見えてはいないだろうが、雷祇は無意識に股間を抑える。背筋に電気が走るほどはっきりした柔らかさが、脳を刺激する。なぜなら、
“何で僕も裸なんだよ!”
雷祇も裸だったから。股間を押さえながらも、片手で後ろに下がる雷祇と離されないよう、静華も下腹部から伝わってくる熱で一緒に動く。何とか近くに置いてあった、二人の綺麗に畳まれた服を掴んで、上に置いてあった雷命ともども股間に挟むと、両手で下がる。が、背中がこれ以上下がるなと止められてしまう。見上げた雷祇の後ろには、高さと幅が、五メートル前後ある小高い崖。森ではこういう変わった地形が多いが、この森では初めてで完全に逃げる道がなくなった。動きが止まったこともあり、ゆっくりと二人の距離が近くなる。静華の小さな胸の谷間に雷命が押され、柄が雷祇の胸に当たる。
「雷祇、お願い」
首を伸ばして逃げようとするが、静華が四つん這いの態勢に変わり、高さが上回る。もう完全に逃げられない。正確に言えば、両手を使えばいくらでも逃げ道はあるが手が静華をどけようとすると動かなくなる。唇の距離はもうない。触れる寸前で雷祇はかわしたが、静華が気づいて耳にキスをする。胸はすでに触れ合っている。そしてもう一度、交えようと体重を雷祇に掛け、背中を壁に限界以上に貼り付けていた二人に思わぬことが起こった。地面に押し付けていた雷祇の指が土の中にめり込むと、二人の体がふわりと浮きあがった。それとよく似た経験をこの間していた雷祇はすぐに何なのか分かったが、抵抗する時間もなかった。
「また落ちる、この状態でぇ〜!」
二人の体は壁の中へと消えて、無くなった。