第11章 蜃気楼は幻の城と共に (3)
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クネクネと滑り落ちる中、カイヤックは胡坐を掻いて寝ころんで坂を滑り落ちていた。最初は抵抗しようとしたカイヤックだったが、イクリプスを突き刺そうにも突き刺さる角度にすらできず、手で止めようにも片手では無理。足で止まろうと試みはしたが、裸足ならまだしも、靴のせいで勢いを削ぐことさえできなかった。
「ヤベェな。雷祇だけじゃ守りながらやり合えねぇだろうな……早く戻らねぇと」
結局、カイヤックが呟いてから丸二分滑り落ちた。勿論終わりましたと言ってはくれない坂は突然終了し、何も用意してなかったカイヤックは珍しく声なき声で蹲った。いくら鈍感とはいえ、胡坐のまま無抵抗に、男の大事な部分をデコボコした床に叩きつけられれば、蹲るのも納得できる。どこか違う場所に痛みを散らそうとしてか、何度も何度も頭を床に叩き付けているカイヤックに、真っ暗な部屋の片隅から声が掛けられた。
《何だい。久しぶりの餌だってのに、男で、しかも大人かい。せめて子供ならねぇ》
声の方向を見たいが、まだ体は奥底を握り絞められた痛みで動かない。
《ただまあ、この大きさなら腹いっぱいにはなるかねぇ!》
何かが地面を這う音が聞こえるが、手を股間から意識的に離すので精一杯。蹲り丸々背中に鋭い、そのあとは鈍い痛みが四ヶ所。最初は間隔が広かったが徐々に小さく集まっていく。流れるだけだった血も噴き上がるようになると、四ヶ所に痛みを与える者の喉を潤すようになる。存分に楽しめる量の食事だからか、一気にではなくゆっくりと深く狭くなる。だが、その考えは間違いだった。
「あ、あぁ〜、痛ぇわ。いろんな箇所が」
上に何かが乗っているのだが、カイヤックは関係なくそのまま立ち上がると、背中に両手を伸ばし、四つの痛みの両端を掴む。
「痛みが散ってくれて、助かったぜ!」
ブチブチと肉を引きちぎる音を耳にしても、容赦なく痛みごと投げつけた。「そうかい」 目の慣れてきたカイヤックは、足元のイクリプスを拾い上げて肩に担ぐ。
「蛇の話獣か」
薄く見える部屋の中に蛇の尻尾が見えたのだが、自分の言葉を覆したのは自分の目だった。
《おや、驚いた顔をしているねぇ。私の姿にかい? しかし、よくよく見ればいい男じゃないか》
「何だ、その体……」
笑う、人のように。全身鱗には包まれているが、起こしている体の上の部分は、老婆の上半身をしていた。腕は四本。
《どうだい、私の慰み者にならないかい?》
「悪ぃな。ある女からの誘い以外は断るようにしてんだ。それに、人じゃねぇのはな」
戸惑いはしたが、今は上の、カイヤックは四人でいると思っている静華たちの下に行かなければという思いが勝つ。
《何か勘違いしてるねぇ、お前さん》
「遊んでる時間もねぇしな!」
切れないよう剣の腹を相手に向けながら振り下ろした。蛇婆は起こしていた上半身をさらに斜め後ろへ持ち上げ、天井に四本の腕で捕まりイクリプスをかわした。
《ほぉら、捕まえたよ》
イクリプスが地面を叩きつけた音が響く中、蛇婆の尻尾がカイヤックの腕に、恋人同士が絡めるように巻きつく。舌舐めづる蛇婆に向けて笑いかけたカイヤックは、絡んでいる方の腕でイクリプスを持つと、もう片手で巻き進む尻尾を捕まえた。
「今度は逃げられねぇぜ」
天井に力強く掴まる蛇婆だったが、カイヤックの背負い投げにあっさりと手が離れる。何かに掴まろうと四本の腕をせわしなく動かすが、天井は遠く壁までも遠い。結局どうすることもできず、もがくだけで無抵抗に床に叩きつけられた。
《少し遊んでやろうと思えば調子に――》
「今度は――」
四本の腕で起こしていた上半身に、先ほどとは間逆の状況で言葉がかかる。
「アンタぐらいが好きなのが来るといいな」
見えない恐怖に襲われた蛇婆が何か言おうとしたが、その言葉ごとイクリプスに押し潰された。
「外には――」
部屋を見回すと、あっさりと道が見つかった。
「お、扉あるじゃねぇか。それじゃな」
だらしない姿で眠る蛇婆に声をかけてカイヤックは部屋を出た。
「グウゥ。上に、戻ら、ないと」
止めるものがなく息を吐くように流れ落ちる鼻血。壁の中に落ちる時、何かに掴まろうと腕を伸ばしたものだから、思い切り坂に顔面をぶつけ、口の中には血の味が広がる。鼻を啜るとさらに広がるが、例え前に水があったとしても四本足の蜘蛛の格好をした雷祇には口の中を漱ぐことはできそうにない。
「早く戻ら、ないと」
心とは裏腹に足は数センチ登るだけでバランスを崩しそうになり、止まった位置から三歩ほど上がれただけだった。焦りもあるが、汗を掻かないように息を整えるのも忘れておらず、一息吐く。
「何だ、何か、近づいて……」
必死になりながらも、警戒を怠らなかった雷祇の耳に、坂の下から何かが近づいてくる音が入ってきた。
「これは、羽根、か」
そうですと言わんばかりに、坂の中に大きな羽音が幾つも重なる。羽音で大きさは手のサイズだろうと想像はできたのだが、何重もの音が響き合うせいで数はまったく分からない。ただ――
「下りる、べきだよな」
動けない今の状況では一匹でも十匹でも同じこと。雷祇は思い切って手を離して滑りだす。徐々に近づいてきていた羽音が一瞬で近づき、足に何かが当たったと思ったら次々と体にぶつかり、慌てて体を丸めた頃には何かの群れを通過していた。安全だとわかって、目を開けると、真っ暗だった坂の中に明かりが差し込んでいた。
「もう終わり、か」
いつでも坂が終わっていいよう、足でブレーキをかけ、上からまた下りてくる羽音に近づかれないような速さを保つ。すぐにでも終わると思っていた坂だったが、意外と長く感じていた。落ちたり怖い思いをすると長くなる感じる感覚のせいかもわからないが、雷命に指をかけ、上半身を起こして下を覗くと、ようやく終わりが見え、雷祇は坂から飛び出した。
《あれ、生きていたんだ。てっきり、死体を放り込んだと思って、私の子供たちを迎えに行かせたんだけど。知らない?》
軽い発声。昔からの知り合いのように、着地した雷祇に掛かった言葉。全く知らない声だったが、いつでも雷命を抜けるよう声の主に振り返った。大きなお腹、色っぽいとさえ思ってしまう若い女性の上半身裸の、女王蜂。ぱっと見ただけで雷祇も女王蜂だと分かったのは、乳房に何匹もの手サイズの蜂が集り、体の後ろの壁に六角形の茶色い部屋が数え切れないほどあったから。
《坊やも吸う?》
後ろから差し込む霧を突き抜けて届く日差しで、美しく体が光りを放つ。頬は少し赤くなるが、心と体は一致している。
「遠慮します」
《意外ね。もう少しはしゃぐかと思ったのに》
乳房に吸いついていた数匹の蜂が一斉に雷祇を見た。話獣だろうと考えていたようだが、普通の蜂に見える子供の蜂の中心、見えない部分にいた三匹の子蜂を見たことで頭に動揺が走る。体は冷静に雷命から手を離さない。
《この子たちが、どうかしたの?》
微笑む顔は、金を払ってまで女性と喋りたいと思っている中年なら一撃で落ちている。雷祇にとっては武器の笑顔より、乳房に掴まる三匹の子蜂から目を離せない。
《どう、素晴らしいでしょ? 私の子供の中で、もっとも綺麗に生まれた子たちよ》
上半身につく、二本の人間の腕に抱きかかえられた三匹の子蜂。小さな人間の子供の体に、尻尾と思う所に生える蜂の腹。勿論、人間の下半身のお尻から生えているので、二本の人間の足もあるが、蜂部分の腹に生える虫の足も六本付いている。上半身には、昆虫なのだと訴えかけるように四本の腕。二本の足と合わせて、六本。眉毛、額、頭の天辺と三匹それぞれに触覚の生える位置のズレ。人間の目は当然のことながら白目と黒目をしているのだが、子蜂の目は網目状の模様の中に幾つも白目があり、その中に小さな黒目があった。人間の目の中には昆虫の目。背中から生えている、茶色い透けそうで透けている曇りガラスの羽根。
《この子たちはね、捧げものなの。早く成長出来るようにね、栄養が欲しいのよ。坊や、あなたのね》
吐き気さえ覚える姿。普通とは違う、この場合の普通は恐れたり嫌悪の眼差しを向けることだが、そのどれとも違う、食い入るように、引きつけられるように見つめる雷祇に、随分と変なのが来たと女王蜂は思っていた。雷祇も三匹の子蜂に対して、言葉では言い表せないほどの気持ち悪さを感じてはいた。しかしそれ以上に、そう、それ以上に……
“何で、何で僕は……ぐっ!”
爪が割れる一歩手前まで強く握られる手の中に、頭の中で出てきそうになった言葉を詰めて握り潰し、一刻も早く三人の元に戻ろうと出口がないか探しだす。突然変わった雰囲気に、女王蜂は遠慮なく合図をする。
《餌の時間だよ、私のかわいいかわいい子供たち》
三匹の特別な子供たちを抱えていない方の腕で、自分の乳房から子蜂を離して飛ばす。女王蜂の体に隠れて見えなかった何匹もの子蜂も飛び始める。
「少し縛られてもらいますよ」
一斉に飛んで向かってくる子蜂たちに、雷命を抜かずに前に突き出した五本の指から細い稲妻を走らせる。一つの目標に向かってくる蜂たちの統率のとれた動きを利用し、群れの真ん中に差し掛かったところで雷が広がり、一匹一匹に触れ、羽ばたく自由を奪って地面に落とす。目の前で起こった異常事態にも、女王蜂は落ち着いて自身に向かってくる細い光を、後ろ足で床を削って投げつけ、消した。僅かにだが出来た隙間に、雷祇は窓に近づく。窓といってもガラスがあるわけではなく、ただ穴があいているだけだったが。
「高い」
もっと下にまで来ているかと思っていたが、覗き込んだ外は、上と下を見る限り崖の半分に来ているくらい。飛び降りて上に戻ったとしたら、全力で行っても十五分は掛かる。それも飛び降りて無事だったらの話。眼差しが部屋に戻り、ここから直接上に戻ることはできないか探しだす。
《坊や。あなた、おかしな力使うのね。ますますこの子たちの餌にしたくなったわ》
「悪いですが、時間がないので一気に行きますよ」
足に纏わる雷が高速に走ることができる翼の生えたブーツを作る。飛ぶように女王蜂に向かって一歩踏み出す。もし扉があるなら、女王蜂の後ろだろうと考えが働いたから。女王蜂はそんな事とは関係なく、向かってくる敵を討とうと床を削り取りながら腹を向ける。
《避けきれる?》
「何!」
二歩目を踏み出した雷祇に向けられた女王蜂の腹には、何十本もの毒針。それがパチンと音を立てて弾ける泡のように一気に離れて飛び出す。まだそれだけなら問題はなかった。
《まだまだ行くわよ》
避ける体制に入っただけの雷祇に届く知らせは、不吉な二度目の毒針の剣山。同じように弾けた頃に、雷祇は一度目の毒針をよけ始めた。一つ、二つ、三つとかわすとまた新たに見える毒針の剣山。雷を溜めようにも、動き回り、集中もできず、避けることに意識が向かい溜められない。このままでは不味いと分かっているのだが、二度目の毒針を避けた雷祇は、まだ続くことを女王蜂の笑顔で知る。
「クゥ!」
雷命ではじき落とし、少しでも前に進んで散弾毒針が切れるのを待つ。それから続けざまに六連射。普通に避けているだけなら息も上がらないのだろうが、テスタメントの力を使っているために疲れが二倍。汗も薄らと掻き、息も上がり気味だが、頭に酸素はちゃんと届いている。女王蜂の顔の変化を見逃さないようにしていた雷祇は、笑顔が消え焦りの表情に変わっているのを逃さない。通算十一度目の毒針を交わしたところで一気に仕掛ける。距離も行ける距離。毒針が弾けた瞬間、毒針が出てくる針の穴の部分に向かって雷命を投げつけた。
《そんなもの!》
叩き落そうと二本の足を振り上げた。雷祇の近さ以上に女王蜂は感じる。力の入り方が悪い。飛んでくる速さは叩き落とせないわけではない。しかし今は、足を振り下ろす前に雷命が腹に突き刺さった。上がる悲鳴。タイミングはその瞬間。弾けない毒針を確認した雷祇は雷命に向かって走る。
「うぉぉ!」
雷命の柄に鞘の先を押しつける。より深く突き刺さる痛みは相手の動きを封じるのとは逆に、狂ったような力を発揮させ毒針が弾ける寸前まで突き出した。
「いけ!」
触れてしまえば弾ける寸前、パチンと静電気が起こった時の音を立てると、女王蜂の気を飛ばすには十分な量の雷が注ぎこまれた。それでもいつ目覚めるか分からない相手に、止まらず雷命を抜き女王の横を駆け抜ける。雷祇はそのまま駆け抜けようとしていたが、ゴトンと、真横に何かが落ちた。それは足を止めるには十分な物。見た瞬間、雷命を突き上げ、体重も、この心の中にある気味の悪い感覚も全て乗せて突き立てた。
「くそ……」
気味の悪い子蜂の横の床から雷命を抜き取り、今度は足を止めずに女王蜂の後ろを覗きこむ。巣にいる幼虫は、見慣れぬ者の侵入に体を懸命に動かし警告を発する。ほとんど終わった戦いにようやく坂から蜂の援軍が届く。
「あった」
雷祇はその援軍とは戦うことなく、巣の後ろにあった扉を開いて外に出た。
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「まだ痛ぇな」
体の中にめり込んでいるような息のできない感覚が残ってはいるが、消えるのを待っている時間はない。落ちてきた階に明かりはなかったが、百段はあるんじゃないかと思わせる下の階に続く階段を、痛みを下に落とすように少し飛び跳ねるように降りると、電気が廊下についていた。明るくなった階をある程度探し回っても自分が下りてきた階段以外で上に行ける階段はなく、仕方なく見つけていた階段で下りる。同じように長い階段を、最初にいた階から三つ下りた階に今はいる。
「上に行く階段はねぇのかよ」
独りで文句を口にして、イライラを紛らす。足は止めずに、動き回る。もう何度目かわからないほど曲がった、何度も見た角を曲がる。そこで足が止まった。
「何でここにいやがる」
少し広く部屋のような形の、扉もないので廊下なのだろう場所。カイヤックとは反対の通路から、二人を下に落とした異形の者が歩いてきていた。驚いているのはカイヤックだけではないのか、異形の者も足を止める。よくよく見れば、腕の長さが違い、大砲を持っていた腕はもう片手より明らかに太く長い。
「四人をどこにやった?」
最初の異形の者や蛇婆と会っていたので、もしかと思い尋ねたのだったが、言葉は返ってこず、武器になるだろう腕に軋む音が聞こえてきそうなほど血が溢れ、膨らんでいく。
「答えちゃ、くれねぇか」
足の速さでは圧倒的に相手の方が上なのは、最初の戦闘で知っている。もし対等にできるとすれば、常人では相手を見て一番最初に避けるだろう力勝負。イクリプスを切れないように剣の腹を向けて構える。相手は待っていたのではないだろうが、構えて完全に戦える準備の整ったカイヤックに向かって走り込んできた。
“こりゃ速ぇ”
感じるこの速さは、雷祇が力を使った時と同じ。まだ見ていない力を考えれば強張るだろう表情も、何を意図するのか読み取れない歯を見せる顔で、イクリプスを低く構える。異形の者は思い切り上から拳を振り下ろす。
《……!》
とても肉体と剣がぶつかりあったとは信じられない、鍛え上げられた鋼と鋼のぶつかり合う音と、ワラや木の枝で出来た家なら吹き飛びそうな風が巻き起こる。
「どうした? 一発で折れるか、俺が力負けすると思ったかい?」
二つの余韻がすぐに治まらず残る中、カイヤックが腕に力を込めて笑う。異形の者も力を緩めずイクリプスを地面に叩きつけようとさらに力を込める。しかし、保たれる均衡。両者の腕には、野菜がすれそうなほどの血管が浮かび上がる。ただ、ぶつかり合う点は動かない。空気までもが握り拳を作りそうな均衡が、合図をしたわけでもないのに同時に解かれ、二人してぶつけ合う力を肩と平行に振る。
「うぉらぁ!」
足がぶつかりあうまでの踏み込み。頭もぶつかりそうになるが、イクリプスを、拳を打ち込むことで自然と遠ざかる。それぞれ限界まで力を込め、攻撃の勢いを殺さないように互いの武器をぶつけ合う。また鋼と鋼がぶつかるような音を立て均衡を保つ、ことはなく、思ってもいなかった、殴りかかった方向と真逆に腕が持って行かれた。
「驚いてる暇はねぇぞ!」
がら空きになった脇腹に、すぐさま切り返したイクリプスが叩きつけられる。直撃を受け、先ほどカイヤックを投げ飛ばした時のように吹き飛ばされる異形の者。けれど、タダでとはいかない。追撃に向かおうとしたカイヤックの視界の端で、殴り飛ばしたはずの腕が妙な動きを見せる。攻撃なのだと咄嗟に判断したが、肩を上げて少しでも直撃を避けるだけで精一杯。異形の者は吹き飛ばされながらもカイヤックのコメカミを殴りつけた。追撃を少しでも遅らせるため。おかげで、異形の者は受け身もとれずに壁に勢いよく体を叩きつけられる。カイヤックは片膝を着いたは着いたが、すぐさま体を引き起こして追撃の一撃に向かう。
「痛くても我慢しろよ!」
体よりも遅れて届いた腕。カイヤックは頭に向かって攻撃を仕掛けるが、異形の者は体をひねり、鞭のように腕をしならせる。直線同士のぶつかりなら対等以上のカイヤックの力でも、横から来る力にはそうはいかない。異形の者はイクリプスの歯の部分に肘をぶち当て、斬道を逸らす。加減なく振り下ろしていたイクリプスは地面を叩き削る。異形の者の腕は回転を終えて壁にぶつかると、ただ前に突き出すだけのカイヤックの顔面に向かう。顎を引き、額を突き出し、せめてもの防御の姿勢を取ったカイヤックの顔面を打ち抜く巨大な拳。上半身と下半身が別物のように、踏ん張る下半身を無視して上半身が抵抗するのを忘れたように後ろに、遠い壁からの重力にひっぱられる。異形の者は容赦なく、もう一撃を加えようと踏み込みと同時に拳を打ち出す。
「当たるか!」
額から噴き上がる血の滴の隙間から見えた異形の者の動きに、足を一本後ろに踏み下げ、イクリプスを頭の上に持ち上げながら屈みこんだ。異形の者の拳はイクリプスにぶつかると勢いよく上を滑り、またもや腹が無防備に。異形の者は腕に力と体重を込め、動き出そうとしているカイヤックをそのまま潰そうとする。この圧力に歯を噛み締め堪え、前に進んで腹の横に顔を持っていき、そこから腹に向かって全力でイクリプスを振りきる。腕の皮膚を削っているとは思えない音が鳴り響く中、もう少しで大きなダメージを与えられる一撃の妨害は、踏み込みすぎたカイヤックの顎に、異形の者の膝蹴りが直撃したから。浮き上がる体を何とか踏ん張らせ、異形の者の腹をどうにか振り叩き、壁にまで吹き飛ばし、本人は堪え切れずに後ろに三歩下がる。
「顔ばっか狙わねぇでくれねぇか? これ以上傷、増やしたかねぇんだ」
外れていないか確かめるように顎を右、左と動かして笑う。額とコメカミ、口の中から血を流して。異形の者は笑いかけられた言葉に反応することはない。胸の辺りと腕から血を流す。
「時間かかるかな、こりゃ」
ぶつかり合う前のひと時が終わると、始まるのは削り合う命、体、気力のぶつかり合い。開戦を告げるのは、それぞれが構えを取った、今。
「また降りる階段か……。いや、迷ってる暇なんてない」
蜂の部屋から出て、まともに息を整えることなく、階の全てを見て回ってから下りていた。特におかしなことはなく、変化のない廊下。同じ階を周り続けているようで不安になりながらも下っていた雷祇の耳に、何かがぶつかり合う音が聞こえ、何かがいるのだろうと足を向けさせる。物の数秒で音の主のところに着くと、そこには力比べのような格好でイクリプスと拳で競り合うカイヤックと、先ほど自分を落とした異形の者の姿。
「な、カイヤック」
「あ! おぉ、雷祇か。丁度、よかった、お前ぇを……って、なんで、一人何、だ?」
またもや異形の者の腕を弾き飛ばし、今度は追いかけるのではなく雷祇の側に近寄った。
「なんで一人でいんだ?」
異形の者から目を離さず、横に言葉を滑らせる。雷祇は上で起こった一瞬の出来事を話す。「それなら、三人は?」 答えにくい質問だったが正直に「分からない」
「そうか。雷祇、向こうの廊下に行ってくれ。あいつはあっちから来たみてぇだからよ」
小さくなった声。走りだすカイヤック。雄叫びと共に振り下ろされるイクリプスと打ち出される拳。そのぶつかり合いの横を、カイヤックの後ろに付いて走っていた雷祇が異形の者の目を盗んで駆け抜ける。異形の者も気づきはしたが、カイヤックに集中しなければやられると分かっているようで、目が一瞬影を追っただけで、戦いの気配を消さない。
懸命に、焦る気持ちよりも速く回転させる足。廊下に何かないか、何もないのか探しながら。カイヤックと別れて三度目の角を曲がった時、今までにない、色々な物を見てきた雷祇が見たことのない、けれどすぐに分かる、機械仕掛けの扉。ただこれは、雷祇にとっては好都合。終演に言われて知っていたから。機械は電気で動き、雷は電気を狂わすと。
“何があるのか分からない。けど、迷ってる時間はない”
心の不安を目を閉じ隠し、扉に触れて雷を扉に送り込んだ。