第11章 蜃気楼は幻の城と共に (1)
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遠くで誰かの呼ぶ声が聞こえる。本当に小さな声で、目を細めるように耳をそばだてる。体なんて動くはずのない行為でも、全身には激痛が走りぬけ、歪んだ表情でさらに痛さが増していく。永遠に抜け出せないとさえ感じる痛みの輪の中にいるが、脳は意外にも冷静に、苦痛のランプを灯しつつも、真ん中にある炎を消すよう言い聞かせていた。強い気持ちがなければ、すぐにでも意識は頼りなく眠りにつくだろう。ただ彼の場合、強い気持ちというよりも、すんなり命令を聞く人間ではないだけで、脳からの指令も無視して顔中をしわくちゃにしながら口を開いていた。
「ここ…は……何処じゃ……」
「きの、おうち」
無視したといっても、消え去るはずのない痛み。大声をあげながら他の人を呼びに階段を駆けて行った黒水に代わって残っていた黒土の言葉は、あまりにも弱弱しく、痛みの中では聞き取ることができずに同じ言葉を繰り返し呟く、「何処……」と。明らかに普通ではない終演の様子に、不安の籠った眼差しを黒土は廊下に向けた。まだ誰の姿も見えない。
ただ一つ、確信が持てること。叫びだせるなら喉が切れるほど声を上げたい。この痛みは、生きている、死んでいない証明。そしてまた呟く。「ここは……」
もうどうしていいのか分からない黒土は、終演から離れようと立ち上り、でもなるべく終演から目は離さず、入り口に着くと廊下を覗き込む。少しの音も聞き逃さないと敏感になっていた黒土には、階段下から声と共に、見えるよりも先に足音が階段を駆け上がるのを、察知するのは容易かった。それほど長くなかった時間だが、途方もない長さに感じられていた黒土は、階段まで迎えに走る。
「黒土。どうだ、終演の爺さんは?」
「あのね――」
「嫌だ。黒火」
先に上がってきた足音に追いついた黒水。黒土は終演の様子を伝えようとしたが、それを遮る階段下に姿を現した、黒火に無理やり手を引かれる紫月の姿。
「ほら、紫月」
「だから、何で私が行かないといけないの?」
「なんでって、あなたのおじい様でしょ」
黒火の正論に、力強く反らす上半身とは対照的に、口はモゴモゴと動くだけ。不思議にも、嫌がる上半身や腕とは違い、気持ちは口と同じなのか、本気で嫌がりつつも、一段一段上がってくる。黒土の性格を知っている黒水は、頭を撫でた。「喧嘩してるわけじゃない」、それに続く、「終演の爺さんは?」
「ずっと、おなじこといてる」
「同じこと?」
「ここはどこ?」。終演は確実にしていない、首を傾げる行為を黒土がする。
終演が眠る部屋に目を向ける。動いている気配はない。一応のつもりで、「動いては?」と尋ねるが、頭に乗っている手を振り払うことなく、斜めのまま黒土は首を振る。
「じゃあ、起き上がってないんだな?」
半分近くまで上ってきても、なお嫌がる紫月にもはっきり聞こえるような、無駄に大きな声。驚く黒土に、対照的に耳を付けても聞こえないほどの小さな声で「どうなんだ?」。答えるのがアクションに変わっていた黒土。階段半ばから騒ぐ音は聞こえない。黒土は首を傾げつつも、「めもあけてないよ」
「じゃあ! あ……」
冷静なら引っかかるはずの無い餌に食らいついた紫月が、今まで引っ張っていた黒火を払いのけ、階段上の幼い餌の肩を掴んでいた。不思議と驚きの混ざりあった顔を見て、我に返った時には既に遅かった。
「黒水、どういう事?」
「終演の爺さんがさ、痛そうな声を上げたんだ。それで、起きたと――」
「そんな、痛がるのなんて普通――」
「じゃなかったろ。最初の頃は痛がってたけど、最近は息をしてるだけで死んでるみたいだった。だから、起きたと思って……」
一瞬にして紫月の顔が曇り始め、悪くなる雰囲気。嘘をついたわけではない。会いたくないわけではない。
「でも、黒土。終演の爺さん、喋ったんだろ?」
このままでは何も動かなくなると、黒土に話を振り、頷きをもらう。流れを変えるための行動だったが、紫月には逆効果。この場に留まるのも、進むのも居心地が悪いと、視線を上ってきた階段に向ける。
「こっちじゃないでしょ」
上る時には最後の、下りる時には最初の段差の前に、細い二本の足。おいてけぼりをくらった黒火の言葉が、紫月に踏み出させない。「どいて」と動きだそうとする口よりも早く、「逃げないで」の言葉が耳に入り込む。視線が黒火の体を上り、目と目が合う。やさしく揺れる髪から流れるようにもう一度、「逃げちゃ駄目」。
「どうして、どうしてそんなに――」
「自分の気持ちに素直になって欲しいから。本当は心配でたまらないんでしょ?」
親の世代がいなくなってから、世話役になった黒火だったが、紫月とは対等に付き合っていたつもりだった。周りから見れば、子供と親の関係に見えていたとしても。そして今も、生き残った同じ世代として、それ以上に友として言葉を掛けた。
靄が立ち込める。建物、木や空を、大地や月、太陽すら、すべて黒に覆い遮る。動かす指、感覚はない。まるでなくなってしまったかのよう。確かめようにも、動かせない。それ以前に、何も見えない。さっきまで感じられていた痛みで、死んでいないと確信を持てていた。だが今は、生きているのか、死んでいるのかもわからない。
――ここは、何処じゃ
同じ言葉を呟いた。確かに、呟いていた。それは覚えている。生きていると教えてくれていた痛みの波の中で、かき消されないように、呟いた。
――ここは、何処じゃ
動いていない。口が、喉が、揺れない、空気が。だったら、自分は何処にいる? 誰に対して、何を聞く? 全ては霧の中、すべては闇の中。
――ここは何処なんじゃ
藻掻こう、忘れないように、必死で藻掻くんだ。手を伸ばそうとする。腕が何処にあるのか分からず、伸ばせない。探そうとする。瞳がどこにあるのか分からず、探せない。
――何処、なんじゃ
全てが分からなくなっていく。ここが何処なのか、今何をしていたのか、体は存在するのか、自分は誰なのか、ちゃんと息をしているのか。
――教えては、もらえんか
自分が何をするべきか、自分が何をしたいのか、自分が何をしてきたのか。答えが分からなかったから、遠回りをした。だから、せめて、これくらいは。
――ダメ
声が聞こえた。確かに聞こえた。聞きたいと思い、探し続けた声が聞こえた気がした。何となくだが、分かった気がした。呼ばれているのも、まだ呼ばれていないことにも
「おじいちゃん!」
動いていなければ、ただの小さな老人のそれと同じ。嫌味を言う事もなく、暴力的なわけでもなく、ギャンブルもしない。強くもない。嫌がることすらせずに、揺すられる。人形と同じ。幼い子供と理性のなくなった大人は、歯止めが利かなく、物は加減することなく壊してしまう。それを止めるのも、ダメだと言い聞かすのも、この場合には行動で示すのが一番よく、そっと肩に手が乗る。掴むと言うより触れるに近い感覚で力を入れようとしたが、先に肩から力が抜けおちていく。
「紫月……」
「私、私は、ただ……」
見たこともない動きをしていた終演が、動きを止めた。いや、止まった。周りに子供がいるにもかかわらず、黒火の肩に顔をうずめる。真横にいる子供たちだけでなく、下にいる子供たちにまで届くような声で涙が流れ出す。黒水は直視できずに、外の緑に目をやる。何が何だか、理解のできない黒水はただ言った。「おはよう」
あまりにも不謹慎な言葉に、黒水が怒ろうと視線を戻している途中、何かがおかしいと感じた。
「おはよう」
「いたくない、ですか?」
「死ぬほど、痛い、わい」
黒水の中で、おかしなことがなんなのかわかった時には、紫月も黒火も気づき、一斉に視線が注がれる中心では、栗の皮のように傷一つないスベスベな手が、毬に刺されたように傷しかない頭を撫でていた。
「いたいの、とんでけ! どうですか?」
「すまん、のう。もう大丈夫、じゃよ」
せっかく言葉に出したのだから、今この体を支配する感覚に舌を出して、地面から伸びる手と握手していた腕を持ち上げ、黒土の頭に手を置き撫でた。
「おい、本当に痛く――」
普通の人とまではいかないが、とても痛みがあるようには見えない終演の動きに驚く黒水。返ってきたのは狡猾なジジイの笑顔。とても痛みにもだえている表情には見えず、呆れて首を振る。
「本当に大丈夫なんですか?」
その表情に顔を背けた紫月に変わって、彼女が真っ先に掛けたい言葉を黒火が代弁する。ただ、もうすっかりペースが戻った終演を止めるのは容易ではなく、「死後の世界は、退屈そうで、返って、きたんじゃよ」。平然と話す内容ではなかったが、このジジイは笑顔で話す。「だったら――」と、先ほどまでの泣き顔が嘘のように、冷たい表情の紫月が言葉を吐き捨て部屋を出た。
「今すぐここから出て行ってください」
多分、目の前で行われた死闘を目にしていなければ、返事まで聞いていたのだろうが、少しは優しくなったと感じた終演は、階段にさしかかった背中に届くように、喉に掛け声の息を吸い込み言葉を伝えた。
「動ける、ようになるまで、待ってくれんかの」
返事は階段と靴底が伝えてくれた。
「終演さん、紫月は本当は――」
「いいん、じゃよ、あれで。じゃ、なければ、ワシが、困る」
終演がどんな人なのかまでは分からない。けれど、紫月があれほど心を許せない何かがあるのなら、それが溶けるまでは待つしかないのだろう。黒火は口をつぐんで頷いた。
「で、黒水、じゃった、かな?」
「あぁ、そうだけけど」
「すまんが、水、もらえんか?」
部屋を出ていく黒水が、「黒土もいくぞ」と無理矢理手を引っ張って下に降りはじめた。階段から足音が消えるのを待って、黒火が口を開いた。
「ここを襲撃してきたあの人たちが、この間言っていた作り出した人、ですか」
予想していた問いかけに、笑顔は消え、普段の終演よりも一層本音が消えた声が顔を変える。
「今は、今はまだ話せんのじゃ」
「……分かりました」
踏み込めない、踏み込んではいけない思いにかられ、黒火はそう返すしかなかった。終演はその隠された言葉と同じところで、ある疑問をつぶやいていた。
“しかし、何故じゃ。何故、異世界の神々ばかりなんじゃ……”
2
「ちょ、ちょっと待ってください。いきなり何を言い出すんですか」
列車に向かう人の流れを歪ませる、大きな石と小さな石。その大きな石が、平然と言う。
「いや、だからよ、お前ぇ達だけで行ってくれ、って言ってんだが」
迷惑そうに見送る人や、あまりの大きな人間に驚き見上げる人間。様々な反応の人の流れを気にすることなく、小さな石が流れに飲込まれないように踏ん張り言う。
「だから、それが何を言い出すんですかに繋がるんですよ」
「あ〜、そうか。まあ、そういうことだ。よろしく頼む」
肩を叩いて切符を買おうと、振り返りそうになるカイヤックの腕を掴んで引きとめる。
「分かりました、分かりましたから、少し話をしましょうよ。せめて理由だけでも聞かせてください」
あまりにも必死な雷祇に、カイヤックも振り返るのをやめた。
「ちょっとな、寄りてぇ場所があんだ」
「それなら――」
バナンの顔はそのまま行けとなっているが、その上にいる静華は話に加わる。
「一緒に行けばいいんじゃないでしょうか?」
「そうですよ、そうしましょう」
なぜか慌てている雷祇に、カイヤックはらしくなさを感じつつ「でもよ」と一人で行こうとしている理由を聞かせる。
「かなり遠回りになるぞ」
「どれくらいですか?」
驚かせるわけでもなく、駆け引きをするわけでもないカイヤックは、「倍ぐらいじゃねぇかな」。頭はいつも通り回転し、距離か時間を尋ねる。カイヤックからは「時間だ」。
「列車で行く場所ですか?」
まだ引くわけにはいかない雷祇は、しつこく尋ねる。
「少しだけな」
《これだけ言ってるんだ。一人で行かせればいいだろ》
「お前が一番一人で行かせねぇと思ったんだがな」
カイヤックの指の先には、ベンチの上で色々な場所をフリフリさせて踊るシャーミとミーシャ。バナンはすぐに言葉を足そうとしたが、カイヤックに先回りされてしまう。
「糞猫は一人で行っていいって言ってんだし、もういいじゃねぇかな」
「駄目ですよ! 分からないんですか?」
口は動いていたが振動が出る前に雷祇から空気が震えて届く。
「終演がまだ戻ってないのに、これ以上戦力が減るのは危険なんですよ」
「お前ぇもいるし、糞猫もいるじゃねぇか」
「それでもです」と言い切る雷祇の目の中には、不安の二文字が黒い水を濁らせる。何を怖がっているのか、何をそこまで焦っているのか、理解できないカイヤックだったが、「本当に遠回りになるぞ」と、折れてしまう。それがどんな事態になるのかも知れず。いや、どちらに進んでも、同じだったのかもしれないが。
「いいですよ、僕は。終演からはまだ連絡もないんですから、遅くなるんでしょうし」
「私もそれでいいです」
《俺様は――》
カイヤックが指差すのは、いつの間にかギャラリーの出来上がった二人の美少女の方。果物程度ならつぶせそうなほど深く眉間に皺をよせながら、《いいだろう》と言った。ため息一つ吐き、カイヤックは行きたかった場所を口にする。「ミラージュキングダム、戦争をおっぱじめた国だ」
僕も話には、資料では知っている国の名前です。いや、少し知識を学ぶところに行っていれば誰でも知っている国の名前です。ミラージュキングダム、半世紀大戦を開戦させ、数々の、少なくとも五つの大罪全てに関与していた国。滅び、これも聞いた話ですが、半世紀大戦を終わらせる最終段階の一つ、星の守護が一番最初にやった名を上げる大きな仕事、ミラージュキングダムの人間すべてを、例えただその国の人間というだけでも、苦痛を与えて惨殺して滅ぼしたということ。数々の悲劇を生み、最後には自らも悲劇の一つになった。僕は行ったことがありません。終演は口に出すことすらありませんでした。そんなところに、カイヤックは一体何の用があるのかわかりませんが、僕は、どう言っていいのかわかりませんが、何か感じて、別れてはいけないような気がして、一緒に行くことにしました。