第10章 真夜中の白昼夢 (3)
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船が港を出て五時間
「凄い霧ですね」
船の縁を伝って、舵を操る船長の下まで辿り着く。するとナダ船長は、鉄板から伸びるに輪に繋いだ、脆いナイフなら刃毀れを起こしてしまいそうなロープを四本括りつけていた。
「あんた等の仕事は夜だぞ。寝てなくて良いのか」
「あ、僕は大丈夫です。それよりもそれは……」
「昼一番対策だ」
あまりにも太いロープに、どれ程の風かは容易に想像出来る。が、得てしてそういった想像は、本物よりも小ぢんまりとなる事が多い。
「その風って、後どれくらいで来るものなんですか?」
これも仕様なのか、船の上にある出っ張りは帆と少し低めに作られた舵くらい。
「季節、天候、風の質、様々な条件で変わる。下手すると直に来るかもしれん。早く部屋に戻っておけ」
「そんなに気まぐれなんですか」
「……朝一番は単純なんだがな。昼はそうでもないだけだ」
最初に雷祇を確認して以降、霧で何も見えないはずの前方だけを睨みつけて仁王立ち。必要最低限の答えだけに、雷祇はこのナダ船長という人物を掴みきれず、年上の相手は得意だと思ってた自分のプライドがどうしても質問を続けてしまう。
「朝一番は、どんな風に単純なんですか?」
「日が昇ると同時に吹く」
「じゃあ、何で昼は――」
「来る。こい」
小さな声で呟くと、ロープを触っていた雷祇の首根っこを捕まえ、舵と体の間に挟むように押さえ込む。
「あ、あの――」
「目を閉じて、頭を舵に押し当て低く踏ん張れ。皮膚ごと持ってかれるぞ」
海の上を走っている筈なのに、地震の前触れの地響きのような音が鳴ると、体が、船が、空気が、霧がビリビリと痺れた音を上げる。その異常な変化に、ナダ船長に言われた通りに雷祇は舵の真ん中に額を当て、その上にナダ船長が覆いかぶさる。
「来るぞ! 飛ばされるなよ!」
その言葉が霧に反響して、山彦の響を持たせる。その静寂が、あらゆる物の音を潰すような唸りを上げて、風の壁となって二人に襲い掛かる。巨人が振り回した腕で体を殴りつけられた痛みと共に、体の毛穴から風が無理矢理入り込み押し広げて皮を、身を持って行こうとする。
“体が、削り、取られる”
気を抜けば、体が一瞬でバラバラに切り刻まれると分かっているが、どうしても力が抜けてしまいそうになる。毛穴から押し出されるように流れる血が、一息吐く間に港にまで戻っているんじゃないかと思わせ、握力も踏ん張る力さえ奪い取ろうとする。
「仕事の前に、死ぬつもりか」
そんな雷祇を、ナダ船長が後ろでしっかりと支える。もう既に半分近く身を任してしまっているという罪悪感が、唯一雷祇を踏ん張らせて、正気を保たせる。
“まだ、なのか!”
髪の毛は少しは風を避けているはずなのに、二人も三人もぶら下られているような感覚になる。そんな中で、舵が微調整されているのが額から伝わり、雷祇は驚きと共に感動さえ覚える。
“限、界、だ。も、う、む――”「ぎぃ!」
弱音と共に、雷祇の手が舵の台から離れようとした時、その風の壁が霧を運び終わるのと同時に終わり、舵に押し当て踏ん張っていた首をグネリながら甲板に顔面から落ちた。
「死んでないか」
色々な痛みに、体を脱ぎ去りたい感情の中にいながらも、いつもと変わらない愛嬌たっぷりなスマイルをナダ船長に向けたのだったが、雷祇が見たのは壮絶な姿。
「な、だ、大丈夫、なんですか」
ギシギシと船は今にも壊れてしまいそうな音を上げる。それ以上に傷を負っているように見えるナダ船長は、雷祇を覆った両腕が赤い皮膚に変わり、白と黒だったはずの頭が真っ赤に染まっていた。そんな壊れてしまいそうな姿にも拘らずに、ナダ船長は平然と言ってのける。
「船の上では死なん。お前こそ大丈夫か、仕事はまだまだこれからだぞ」
“カ、カッコいい! も、もしかして、僕は初めて尊敬できる大人に会ったのかもしれない”
勇ましい、正に海の男に、雷祇は感動さえ覚えていた。
「だ、大丈夫です! 任せてください。絶対に依頼、成功させます」
雷祇は立ち上がり、霧の晴れた素晴らしい海の草原には目もくれず、「その為には、体力回復」と部屋に向かった。その背中に、ナダ船長は思っていた。
“来なければ、いつもと変わりがなかったんだがな。さて、帆を広げ碇を上げるか”