第9章 雪・乱レ、蠢キ、映シ出ス (3)
6
「――じ…ん、おじ、さん、おじさん!」
「……真っ暗じゃねぇか」
「それ、木ですよ」
木にぶつかりながら、カイヤックは足踏みをしていた。
「何してるんですか?」
自分でもよく分からないのか、瞬きを何度かして「よく分からねぇ」と返す。
“何で今頃、ビックママンズなんて思い出したんだ? やべぇ、吐き気してきた……。そういや、元気にしてるかな、あの二人は。ルット、ファーリー”
少女は上を見上げて物思いに耽るカイヤックに、指差し「あそこです」と言葉を発する。
「あそこ、って……」
指された場所に、景色に近づく。数歩歩いた先で突然森が開け、目の前には巨大な崖が現れつま先がはみ出る。それはカイヤックの一歩が大きいためで、崖から森までは木が生えていない物の、雷祇なら四歩は掛かる。
「何だ、ここは」
カイヤックの目の前に広がる崖下の景色。地上から一段も二段も低く、大きな町でも、小さな島ならスッポリと収まってしまいそうな、巨大な大地の大穴が口を開けている景色。
「ラグナロクの痕。神々の争いの断片。欠けた炎がこの地に落ちて、同じ高さにあった大地を焼いて落とした。でも、ホーラキ様の力で、この場所以外は焼かれなかったけれど」
あまりにも深すぎて、丸い円の中に描かれた絵のようにさえ見える、現実味の感じられない下の森。
「でもよう、焼かれたってのに、随分森はスゲェじゃねぇか」
穴の中の森はこのホーラキの森と大して違いないように、鬱蒼として見えている。
「それもホーラキ様の力。そして、雪月鏡花はあの森にあるんです」
「そうか、あの森にか、って、どうやって行くんだ?」
とても人が崖を下りれる高さではない。この寒さの中、崖も凍りついており、雪も積っている。流石のカイヤックでも平然と下りれると言える状況ではなかった。
「……飛べば――」
「どう考えても死なねぇか?」
「冗談です」
唯一子供の感情を探れるだろう目を見てカイヤックは思う。
“冗談には聞こえねぇな”
「こっちです」
崖の淵を歩き出した子供の後に、疑う気配が微塵も無いカイヤックは付いていく。木が無い分、風がまともに当たり、防寒具を着ていても身に凍みる場所を、二人は一切気にする事無く。
“似てるな……。崖、か。あそこは、十分な広さがあったかな”
雪に照らされ、カイヤックの心にはあの光景が映し出される。あの時の、あの光景が。
「ここです」
今にも始まりそうな過去の思い出の映像が目の前に現れる寸前に、子供の足が止まる。
「お、どこだ」
「あそこです」
子供は座り、崖から上半身を乗り出し指差す。そこには小さな、大人の歯の大きさ位の蕾を二つ付けた草があった。
「あれ、か?」
「そうです。雪月鏡花の蕾です」
「じゃあ――」
「取ったら枯れますよ」
その言葉に、座って崖から身を乗り出し取ろうとしていたカイヤックが止まる。
「それに、十メートルは下ですから、どんなに伸びても、取れないと思います」
「そ、そうか」
崖から体を戻してカイヤックは座り、顔を見てくる子供に尋ねた。
「じゃあ、どうすりゃいいんだ?」
カイヤックの事が珍しいのか、まじまじと見つめていた子供だったが、「これに入れてください」と、ポケットに手を入れ取り出した物をカイヤックに差し出す。
「これは?」
「ホーラキ様の髭の小袋」
手に取り見つめていたカイヤックは、納得したのか頷き袋を覗き込む。が、
「ホーラキって、話獣のか?」
「他に居ますか?」
「……。何でそんなスゲェもん持ってんだ?!」
徐々に陸の亀の動きのように驚きは後からやってきた。
「内緒です。いらないなら――」
「いや、ありがたく貸してもらう」
小袋を取ろうとしていた子供の手が届かないようにカイヤックは腕を高々と掲げ、もう一度崖から身を乗り出す。だが、雪月鏡花にはどう考えても届きそうにない。
「あのよう、どうやったら――」
「こっち向かないでください」
「どう――」
「向かないなら取らしてあげます」
半分子供の方を向きかけていた上半身を、カイヤックはまた崖に戻す。
「絶対に向かないでください」
「何するつもりか知らねぇけど、落とさねぇでくれ、おわぁ!」
カイヤックの体が突然崖の底に向かって落とされた。カイヤックは慌ててイクリプスに手を伸ばすが、落下は途中で止まった。
「こっちは向かないでください。後、どれくらいですか、雪月鏡花まで」
「お、おう。後、二メートル程下か」
その言葉に、カイヤックの体が下がり始め、ゆっくりと、ゆっくりと雪月鏡花に近づく。そして、カイヤックの「もういける」と言う言葉と共に降下が止まった。
“これが、雪月鏡花、か”
先程子供に貰った小袋の口を開け、カイヤックは雪月鏡花の蕾を地面ごと掘って入れた。
「質問、いいですか。勿論、こちらは向かないでください」
「……いいけどよ、早くしてくんねぇかな。頭に血が昇る」
「分かりました。では、最初。何で見ず知らずの私に付いて来たんですか?」
「そりゃぁオメェ、雪月鏡花の場所知ってるって言うからよ」
「もし嘘だったら?」
まったく考える時間もなくあっさりと言って退ける。
「また探しゃぁいいじゃねぇか」
「……じゃあ、次です。どうして雪月鏡花を探していたんですか?」
今度の質問は少し間が空く。だが、それは考えてではなかった。少し微笑み、頭に血が昇って顔を赤くして答える。
「名前を呼んだ女のため、かな」
「名前を?」
「惚れたの方が分かり易いか? 見せてぇんだ、一度でいいから世界を。手遅れなんだが、見せてやりてぇんだ」
「そんな、理由、ですか」
驚きの言葉を上げる子供に、カイヤックは答えていた。
「くだらねぇ理由かも知れねぇけど、俺に取っちゃ全てなんだ。俺を見せてぇから」
「……。分かりました、目を閉じてください」
ここでもまたカイヤックは目を閉じ、体が引き上げられるのを感じていた。そして、体は崖の端で身を擦り剥かされながら引き上げられ、雪の上に寝転ばされた。
「体、痛ぇんだけどよ」
「崖に引っ掛かったんです」
「そうか、目――」
「その袋もあげます。それじゃあ」
子供の最後の言葉に、カイヤックは慌てて目を開け辺りを見回す。
「これは……」
子供の姿は既に無く気配も消えており、カイヤックの周りには無数の人の物でない足跡と黒い毛が落ちていた。
「化かされたか? ……いいか。嬢ちゃん、ありがとよ!」
誰も居ない森に礼を言い、カイヤックは小袋をしっかりと握り締め町に向かって歩き出す。
「って、帰り道分からねぇ。まあ、適当に歩けばどうにかなるか」
7
雷祇はメメティコアの背中に乗せられ、森の上を飛んでいた。
「あの、どれぐらいで着きますか?」
《そうですね。後数分もすれば》
バナンは姿が見える程度、離れて飛ぶ。
「気になるんですけど、何でバナンは空を飛ばなかったんだと思います」
道を知っていると嘯いていた物の、結果は三時間程の無駄足。メメティコアは普通の会話よりも大きな声を上げて雷祇の質問に答えた。
《それは、私や他の話獣に見つからないようにするためでしょう》
「何で、そんな事を?」
声の大きさは依然大きいまま、会話が続く。
《バナン様が、王にならなければいけなくなるから、でしょうか》
雷祇の頭の中でメメティコアの言葉が分解され、意味を理解しようとするが、何をどうしても今のバナンの姿から王という言葉に繋がる物がない。
「あの、どういう――」
《見えてきました。あれがホーラキ様でございます》
思考が途切れたまま雷祇の視線はホーラキに向く。だが、すぐにホーラキを探し出せずに、視線は、ただ線が引かれた山に向かう。
「どれが、ホーラキなんですか?」
メメティコアの伸ばす腕の方角には、やはり山しかない。そう思っていた雷祇に、次の言葉が重く深く入り込む。
《山に見えるそれこそが、ホーラキ様の甲羅ですよ》
「え……。あれが、ホーラキ。い、生きてる、んですか?」
《勿論。そうだ、雷祇さんは何故我々の存在を一般人が知らないのか、知りたくはないですか?》
意識は完全にホーラキの全貌を捉えるのに使われていたが、少しでも自分の無知を解消しようとしてか、体は自然と頷きを返していた。
《これは私も聞いた話ですが、怖がるからだそうです。喋る話獣や、山よりも大きな者、川や湖よりも大きな者、やろうと思えばいつでも人など消し去れる程の力を持つ者など、さまざまな話獣の存在が人間に知れると、あなたのような戦いに身を置く者でもこの狼狽。それこそ、我々の参加しなかった戦争のような混乱が起こってもおかしくない、と。まあ、話獣の一部には、人の生活に慣れ親しむ者も居るようですが……。おっと、もう着くようですね。しっかりお掴まりください》
急降下の始まる中、まだ捉えられない顔を捜す。上に、下に、真ん中に。だが顔は一切見つかる事無く、あるのは巨大な洞窟の入り口の穴。
「大、きい……」
《どうぞ、お降りください》
穴の大きさを正確に捕らえれる距離で降りた雷祇の体に、穴の中から生暖かい生き物の体温が乗った、踏ん張らないと飛ばされそうな風がぶつかる。
《来たか》
頭を下げ《はい》と答えるメメティコア。それと共に、巨大な穴の中から地響きを上げながら、何とははっきりと分からない物体が出てくる。その物体の正体が頭だと分かった時には、見上げるだけで首が疲れる場所に目があり、瞳が雷祇を捉える。その瞳ですら雷祇よりも遥かに大きい。
《ほう、テスタメントか》
まだ何も答えていない、答える事が出来ない雷祇を見てホーラキがそう言う。バナンと始めて対峙した時よりも、遥かに大きすぎる恐怖が心を支配し、全身に警告音が響き体を縛り付ける。
《しかし、まだまだ契約出来ては居らんな。テスタメントよ、主の神の名はなんだ?》
自分に対しての質問と分かりながらも、雷祇の口は言葉を作り出せずにいた。
《まだ知らん》
そんな雷祇の後ろに遅れてきていたバナンが降り立つ。すると、ホーラキの雰囲気に異変が起こる。
《おぉ、久しぶりだな、バナンよ》
《フン。お前に会いたくて来たわけじゃにゃい》
立ち眩みを起こしたように、雷祇は雪の上に尻餅をつく。熱くない、いや寒いはずの今、何故か立っているだけで息が上がりに上がり、汗も湧き上がるように溢れる。
《勘違いするなよ。我は何もしておらんぞ》
《別に構わにゃい。それよりも、渡し舟の手形をこの人間に渡せ》
《ほぉ、お前もとうとうテスタメントと戦うか。知識ばかりあるようになってい――》
《さっさとしろ》
急かす言葉にホーラキは少し目を閉じると、首を傾げ、見開くと同時に雷祇を見る。その直後、カランカランという音が森に響き、《渡したぞ》とのホーラキの言葉。
《そうか、にゃら、もう行――》
《バナンよ、お前は残ってもらう。メメティコア、そのテスタメントを送ってやれ》
頭を下げたメメティコアは流れるように行動し、羽で拾い上げた、未だ心が潰れてまともに動けない雷祇が落ちないように、ゆっくりと浮き上がり、ある程度の高さまで上昇すると町に向かって羽ばたきだした。
《久々だな、バナンよ》
《二度と会うつもりはにゃかった》
《その喋り方、止めたらどうだ。その大きさと感じる力。今見せれる最高の状態はどの程度だ》
無言でバナンは二、三歩進んで急に反転すると、雷祇達と戦った時よりも一回りも違わない位の大きさに化ける。
《まだまだ子供か。バロンには程遠いな》
獣王の名が出た瞬間、バナンはホーラキを睨み付け奥歯を鳴らす。
《そう恨むな、バナンよ。仕方のない事だったのだ、バロンの事は。それよりも、お前がやられたのは、今のテスタメントの成り損ないか》
《奴ではない。我は奴の中の別人にやられたのだ》
《どういう意味だ? そんな話聞いた事が無いぞ。始めて戦ったのだろう、テスタメントと。それで勘違いをして――》
足を地面に叩きつけ、《違う!》と思い出した怒りをホーラキにぶつける。
《……そこまで言うのならば、信じよう。それよりもだ、何故人間と共に行動している。今のこの世界の歪。見えずとも感じているだろう。奴等、己に自惚れし神どもが騒ぎ立てているのを。我等がこの星を守らずして、誰が守ると言うのだ。そして、我等を纏め上げるのがバロンの、いや、獣王バナン、お前なのだ。それが何故、バロンのような動きをする》
《……》
《よもや、我等の目的を忘れたのではなかろうな?》
バナンは暫く無言でホーラキを睨みつけ、口から水を零すように答えた。
《人との共存のため、言葉を――》
《そのような建前など要らぬ。ここは我の世界。神どもの不干渉地。我等の本当の目的の事だ》
二匹の間に雪を溶かしてしまいそうな、黒い異様に熱を帯びた空気が流れる。その狭間、生き物ならばとっさに身の危険を感じる空間に、一人の子供が入り込む。
《何だ?》
《おぉ、帰ってきたか。どこに行っていた?》
バナンや雷祇と対応する時には見せなかった優しさの混じる声が、その子供に向けられる。その子供は一瞬バナンを見ると、ホーラキに告げた。
「あの話獣と一緒に居た人に、雪月鏡花をあげてた」
《な、何。何故そんな事を――》
「よく分からないけど、あげてもいいと思えたから」
違和感のある光景。バナンの心の中にも、それを確かめろと言葉が溢れる。
《その人間は、何者だ?》
だが、バナンの中には確かめてはいけないという言葉も幾つかあった。なぜなら、それは――
《この子は人ではない。ただ、獣でもない》
見ては、知ってはいけない現象が起こり始めていた可能性があったから。それを知らしめるために、《見せてあげなさい》とホーラキがその子供に言う。
“止めろ、止めろ!”
子供が服を脱ぎ始め肌を露出し始める。そして、全てを曝け出した時、中から現れたのは黒い毛に包まれた紛れもない人の体をした生物。
《この子はあの塵どもの中から進化したのだ。神どもに見捨てられ、人にも獣にもなれず、我等話獣や神獣のように輪からも逃れられなかった塵どもの中から、新しい命として進化したのだ。バロンの言っていたようにな。もう時は近い、覚悟を決めろ。バロンの時の様には行かんのだ! バナン、貴様が纏め上げろ! それが貴様の定めだ!》
《対話は、人との対話は――》
《そんな建前、神どもと交わしたものに過ぎんと言ったはずだ! 時は近い、我等の戦いもな。その時、お前が我等を纏めろ。よいな、獣王バナンよ》
僕は町の近くで下ろされたらしい。けど、どうやって支部の中に戻ったのか記憶が無い。気付いた時には、カイヤック以外ストーブの周りに皆が居た。そして、その日は支部の宿泊施設を借りて一泊。でも、支部の人が一人いなくなったらしく、四人で支部の中を巡回する事になったらしい。正直、僕も手伝った方がいいと思ったけど、体が言う事を利かなかった。まだホーラキに会った時の痺れが全身に残っていて。
そして、翌日。僕達は探してもらっていた白霧での依頼があると教えてもらい、町を出る。けど、何か忘れてるような……。まあ、いいか。
頭の上に雪が積った巨体が、森の中から姿を現した。
「はぁ、はぁ、死ぬかと、思った……。で、何で雷祇達町から出て、って、忘れられてんのか、俺。おい、雷祇、嬢ちゃん、嬢ちゃんズ、糞猫! 忘れてんじゃねぇ!」
ホーラキの甲羅の中に響く会話。
「ねぇ、ホーラキ。あの話獣、バナンはどうするの? 私たちは、どうするの?」
《まだ動かんだろう。少なくとも、今の繋がりがある限りは。切っ掛けが必要だ、バナンを縛るバロンからの因縁を断ち切る切っ掛けが……》
「そう……。あ、そう言えば、町に変なのが居たよ」
《変なの?》
「そう。あれ人じゃないよ。一人女の子、取り憑かれてたから」