第7章 用意されていた別れ道 (2)
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「はい、どうぞ」
目の前に出されたグラスには、薄明かりでは麦茶と間違えてしまいそうな液体が入っていたが、この店の雰囲気で麦茶な訳がなかった。
「いや、僕お酒飲めないんで、というよりも、お酒飲んではいけない歳なんで」
堅苦しく、笑顔一つ見せないで断った雷祇だったが、それでなくても巨大な男と少年という見慣れない客で目立っているというのに、カイヤックには関係ないのか体に見合った大きな声で笑い声を立てた。
「なんだ雷祇、酒飲めねぇのかよ。俺は十の頃から飲んでたぜ。まあ、飲まされてたんだがな」
雷祇の目の前に出されたグラスを、マシュマロでも摘むように親指と人差し指だけでそっと掴むと、酒を一気に酒を飲み干した。その姿は、先程の言葉が本当かどうか疑わしく思える。
「僕は酒なんて飲みませんよ。そんな体……!」
言葉が詰まったのか、突然驚いた顔をすると、雷祇はぼやくのを止め考え込み始めた。
“ま、まさか、幼い頃から酒を飲んでいたから、こんなに大きくなったのか? いや、まさかそんな……。でも、でも、僕がこの人と違う……。何か、全部違うような気がする”
う〜んと唸りながらまだ考え込む雷祇の背中に、そっと手が回され耳を舐め回すような息が吹きかけられる。
「どうしたの、そんな考え込んで」
背中に虫が這うような気持ち悪さに、雷祇は手を払い除けながら体を起こし、声を掛けてきた人物を睨みつけた。
「何するんですか」
大きな声は出さなかったものの、明らかに怒っているというのがすぐに分かる雰囲気だったが、それに一切引けをとらずに、その人物はあるポーズをとった。
「そんなに怒らなくても、ね、小さいお客さん」
胸元が大きく開いた、たわわな胸をさらに強調するように寄せて作る谷間。もちろん、男ではなく妖艶とも言えるような色気を纏った女がしている事だったが、雷祇はその女を、道端に捨てられている生ゴミでも見るかのような蔑んだ目で睨みつけた。
「落ち着いてますよ、あなた程度の人間に言われなくてもね」
確実にあのスイッチが入りそうな雰囲気に、カイヤックは思わず息をするのを止める。そして、そんな言葉と視線を投げつけられた女はというと。
“え……な、何この胸の高鳴り……。ま、まさか、これが……恋”
この心の声が聞こえるものがいれば、「ねぇよ」とツッコミを入れたくなるような事を思って、ソファーにベッドの上で男を待つような格好で雷祇を見つめていた。
「で、カイヤック。終演はどこ行ったんですか? こんなゴミばかりがいる店で晩ご飯だなんて、僕は聞いてませんでしたからね。問い詰めないといけないじゃないですか」
雷祇はその視線に気づいているのかいないのか、まったく無視してカイヤックにそう尋ねていた。
「え、いや、店に入ってすぐに、電話する用があるとか何とかで、すぐに店の奥に行っちまったが……」
なぜかカイヤックを一度睨みつけると、「そうですか」と雷祇は腰を掛けた。
“え……なんで俺睨まれたんだ? 何かしたか? で、でもまあ、今は雷祇をそっと――”
「ご主人様」
カイヤックが先程の事をそっと胸の奥に仕舞ったその瞬間、雷祇に間違った恋心を抱いてしまったこの店のホステスが、雷祇の肩に張り付きながら、完全に心奪われ堕ちてしまった声を出していた。
「何ですか、ってか、ご主人様って何ですか。僕は雷祇ですよ」
「も、申し訳御座いません、雷祇様」
少年に、年の差二倍以上の女が完全に謙っているこの関係を、まったく理解出来ずにカイヤックはただ瞬きをする。
「おぉ、何じゃ、楽しく――」
そんな何とも言えない場面の中に、最悪なタイミングで終演が来てしまった。
「遅かったですね、終演。何してたんですかぁ?」
モナリザの笑顔でさえ霞んで見えるほどの雷祇の笑顔。その笑顔を見た瞬間、終演はとっさにまずい雰囲気になっているのだと気づく。
「え、いや、あ、ちょっと、電話、を、し、してたん、じゃが……」
「そうですか、電話ですか。で、このゴミ捨て場で、一体何を食べればいいんでしょうか?」
店にいる全員に聞こえるような雷祇の声に、流石に黙っておく事が出来なかったのか、店の店長が雷祇達のテーブルに歩み寄ってきた。
「あの、お客さ――」
「何でしょうか? あなたに話しありませんよ? 邪魔しに来たんですか? 殺されたいですか?」
まったく相手に話をさせる気などないのが丸分かりな、一息もつかない雷祇の流れるような言葉。それとともに、その店の人間の首に沿うように当てられる雷命。そして、この店の人間は気づいてしまう。
“目が、目が笑っていない”
顔は人間以外の動物でも惚れさせてしまいそうな女神の微笑みだったが、その顔の中で明らかに異色の雰囲気を放つ、黒く拳銃の銃口のような瞳。
「いえ、ど、どど、どうぞ、この、ごみの中で、楽しんでもらえれば、と、思いまして」
その事に気づいてしまったのだから、店長が雷祇に何か言えるわけもなく、あっさりと引き下がった。
「ありがとう。で、何を食べればいいんですか終演? こんな僕のような純粋無垢な少年が、こんな糞だらけの店の中で」
店の中が、息をするのさえ困難なほど重苦しい雰囲気になっていく。その雰囲気を察しつつ、終演は後悔していた。
“や、やはり、このような店に来るんじゃなかったかのう……。じゃがしかし、ここしか、あそこには繋がらんかったんじゃし、し、仕方ないんじゃがのう……”
「失礼します」
一般の家では絶対に使い道のない、美術館にでも飾られそうな装飾を施された大きな木の扉が開かれ、一人の男が部屋の中に入った。
「何、呼んだ憶えはないけど?」
その男を見る事無く、机しかない殺風景なテニスが出来そうなほどの広さの部屋に、一人の白髪混じりの淑女が机に向かって書類整理をしている。
「ルミナ様に電話がありまして。終演様からです」
まったく男を見る気配がなかった淑女、ルミナの手が、終演という言葉で止まった。
「終演から……珍しい。で、あの子から何の用だって?」
終演の事をあの子と言えるのだから、相当な年齢であることは疑いようがなかった。ただ、歳の割には随分と艶っぽい表情をする。その顔に見惚れたわけではないだろうが、男が何も言わずにルミナを見つめて固まった。
「どうしたの? 何だって?」
「あ、すいません。え、それでは……。ようババア、生きてるかのう? ……、あの、これは、終演様の言葉をそのまま――」
手に持っていた紙をそのまま読んでしまった男が慌てて訂正に入ろうとしたが、ルミナが笑いながらこう言った。
「いいのよ、気にしないで。あの子らしいは、その言い回し。そのまま、全部読んでちょうだい」
男が慌てて紙に何が書かれているかを確かめ、困惑の表情と共に、「し、しかし」と声を上げる。が、ルミナは「いいから」と念を押し、促す。
「は、はい、分かりました。ま、ウ゛ン。まあ、星の守護が動いとるんじゃし、生きてるわのう。前置きなぞは必要ないじゃろうし、さっさと本編を話す。一人の少女を、星の守護本部で保護してもらいたい。相手は並みの戦力では歯が立たん。じゃから、お前に直接頼む。ルミナ、その子を保護してくれ。どの道、ワシの研究の跡を継いで、色々と画策しておるんじゃろう? それなら、十分に対抗できるはずじゃ。そうじゃの……。船も使わんといかんし、掛からなければ二月、掛かれば四月といった辺りで着くはずじゃ。よろしく頼む、ルミナ。との、事です」
「……」
眼鏡を拭きながら話を聞いていたルミナが、終わると同時に眼鏡を掛け直して男を見た。
「それだけ?」
「は、はい」
「そう。それだけ、ね。ふ〜ん、どうしようかしら……。あなたは、どう思う?」
「え、あ、それは、やはり、終演様ですし、その――」
突然話を振られてうろたえる男を少し楽しむような笑顔を見せ、ルミナは話し始めた。
「あの子がそんな頼みをしてくるというのなら、相手は相当な者なんでしょう。はっきり言って、それに対抗できる手段は‘まだ’整っていない。あなたも知っているでしょ、今している実験」
「はい……。しかし、形は大分整いつつあると――」
「それは、私以外の幹部に対しての建前よ。私に隠す道理はないでしょ? だから、研究している者意外で知っているのは、私と、今知ったあなただけ。けど、どうすれば成功出来るか、もう突き止めてはいるのよね。だから、それが手に入るまで、なるべく大きな争いには係わりたくないないのよ」
その言葉に、男は「しかし」と何かを言おうとしたが、それよりも先にルミナが話を続ける。
「もちろん、あの子からは随分と貸しがあるから、そろそろ返しておかないと駄目なのも分かってるわ。仕方ない、人間だけで対抗できるか分からないけど、星の守護を集めましょうか」
「はい、分かりました。しかし、どういった理由で集めましょうか?」
「理由? 理由なんて要らないじゃない。私の命令。星の守護総帥、このルミナのね」
暗い夜道を、一人の少女が歩いていた。
「あ、あの、そんなに喧嘩、しな――」
《静華は少し黙っててくれ。今はこの胡散臭い幻獣と話し――》
《胡散臭いねぇ〜。あなたほどじゃないと思うけど》
ただ、その一人の可憐な少女を挟んで、二匹の珍獣が睨み合っていた。
《にゃんで昨日は出てこずに、今日は出てくる!》
静華の肩に止まっていたギムンが、まるで髪を掻き揚げるかのように翼を動かす。
《昨日の夜は、雷祇君が居たからよ。出る必要ないでしょ? でも今日はあなたしか居ない。出るしかないじゃない》
《にゃんでそうにゃる!》
牙を見せ付けるように噛み締めながら、唇だけを動かしバナンがギムンを睨みつける。
《当たり前よ。あなたを信用できる道理なんてないじゃない》
《ハン! 自分達の事は棚に上げるのか? 貴様ら幻世界の住人どもも十分信用に値しにゃいだろうが! にゃに考えてやがる。神々の動きも活発で、今までににゃいようにゃテスタメントの数。しかも、貴様のようにゃこの世界に滞在できにゃいはずの幻獣も現れた。にゃにが起こってる、いや、にゃにをするつもりだ》
《さぁ? 私が知るはずないでしょ。私はただの幻獣。今この現世界に起こってる不思議は、私だって気になる。けど、私は知らない。ただ……》
恍け続けていたギムンが、バナンの視線をしっかりと瞳で受け止めると、それ以上の視線を投げ返す。
《この混乱に乗じて、悪魔どもや天使どもが騒ぎ立てるかもしれない。もちろん、私のような幻獣も。そうなった時、あなた達現獣は、この世界を守りきれるんでしょうね。話獣、神獣、魔獣、獣、全てを纏め上げていた獣王バロンなくして》
《……》
ギムンに気圧された訳でなく、ただ何もいえなくて目線を逸らしてしまう。
《まあ、その様子じゃ無理でしょうね。どうせ、人を滅ぼしさえすればどうにでもなると思ってたんでしょ。そんな事で、この世界が元に戻るわけないでしょ。神々が自然の中で進化させ、作り出した物よ、人は。あなた達、話獣や神獣と違ってね》
少しだけ睨み返すことが出来たバナンだったが、先程のような猛烈な勢いは夜風の中に紛れて消えていた。
「あの――」
その何とも言えない雰囲気の中、静華が声を上げた。
「足音が、無数の足音がすぐそこ……これは、囲まれて……」
普段なら臭いで気づくバナンが、今の今まで気づかなかった。全方向を人間に取り囲まれるという今まで。
《チィ!》
その数、十と三。
「う、ん……」
「どうですかい、頭?」
その男達の中で、頭と呼ばれた男は腕組みをして静華を見つめる。その顔には、目と口だけを切り抜いてある覆面がしてあり、他の男達も同様の格好をしている。
《にゃんだ貴様ら》
一気に戦闘体制に入ったバナン。その膨れ上がる体に、靡く鬣を見て、
「猫が喋ってる」
喋っていることに驚いて、十一人が一斉に喋り始める。
《次期獣王さん、ちゃんと静華を守りなさいね。私は雷祇君達を呼んでくるから》
その言葉を残して、ギムンは森の中から夜の空へと飛び出した。
「カラスも喋ってる」
「ってか、あれってカラスなのか? 真っ白だったぞ?」
男達の、いかにも賊といった雰囲気とは違い、なぜかまったく緊張感なく好き好きに喋っているこの現状に、先程一気に高めた緊張感が薄れる。
“にゃんだ、こいつら”
「う、ん……。随分と違わないか? 背の高さも半分くらいしかないし、色気も足りない。何より、美しさがない」
「最後のは賛同しかねますぜ……」
「何か言ったか?」
「いえ、何も。しかしですね、頭。あっしらは、村の奴等には顔がバレてますし、女に頼むにはこういう方法しかありやせんぜ。それに、随分と愛らしい顔してますぜ?」
男達の中で一番小柄な男が、頭と呼ばれる人間を説得させたのか、「仕方ない」と呟き頷かせた。
「おい、てめぇら、用意しやがれ!」
体格に似合わない、よく響く低音を張り上げた小柄な男。それに伴い、先程までバナンとギムンのことを口々に話し合っていた男達が、一気に静まり返り静華とバナンを睨む。
“にゃんだ、にゃにする気だ?”
男達全員が右足を前に出し、そして、
「……あ、あの、バナン、君。どう、なったの?」
五分が過ぎようとしたところで、静華がそう尋ねた。なぜなら、一斉にざざっという音とともに、周りが静まり返っていたからだった。
《はぁ……。よく分からんが、膝を突いて、頭を地面に擦り付けてる、全員――》
「お願いします! 手伝ってください!!」
騒がしい森の夜の音を全て掻き消す、男達全員の地を這う頼みの声。
「え、えぇ!!」
店の中の全員が、まるで宗教で雷祇を崇めているかのように正座をしていた。
「まったく……どいつもこいつも、くだらないことばかり……。何で無駄にお金を、レンを使うんですか? ちょっとは学習してくださいよ」
終演は頷きながら、「反省してます」と軽々しくも口に出してしまった。
「へぇ……。反省、してるんですか? 反省、ねぇ。まあ、反省はしてるんでしょ。けど、学習は! 出来てないんですね。学びましょう、ねぇ、終演」
明らかに目の中に炎が揺らぐのが見え、下手に何か喋るのは危険だと終演はただ頷くだけにした。
「まあ、いいですよ。その代わり、次はないと思ってくださいね。何せ僕達は、今現在、レンがないんですから。ゼロ、ですよ」
この言葉に、思わず店の店長が反応してしまった。
「え、何ですか? あぁ、心配しないでください、お酒の二杯分ぐらい払うお金はありますよ。それともなんですか、女が横に来て喋るだけで、金跳ね上がる、何てことないですよね? そんな無駄な金はないですよ。あったとしても、払うわけないでしょ」
“そうじゃった、そうじゃった。言うておったな、『僕はこういうお店大っ嫌いなんですよ。喋って食べるだけでお金がもらえるなんて、許せませんから』と”
今頃思い出しても、完全に後の祭り。雷祇の愚痴は止まるどころか、ますます加速するばかり。そして、一人のホステスの足が正座に耐え切れなくなり、限界に達したその時、店の扉をすり抜けて、ギムンが飛び込んできた。
《居た! 雷祇君、ちょっと来てくれる!》