第6章 アスクレピオスの杖 (10)
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《どうにゃってる! にゃんで雷祇まで》
息が殆どなくなったカイヤックに、蒟蒻を立てた時のようにプルプル足が震えて立ってられずに、意識が遠退く雷祇。
“これは不味いのう。まともに戦うことすら出来そうにないわい”
そんな二人を抱えながら戦う事など出来るはずもなく、杖の渦の中にケルベロスを手放して、終演は二人を杖の動けない空間の中心部に背負い立たせる。
《にゃに考えてる! アンタが戦えにゃくて、どうやってここを切り抜けるつもりだ!》
二人を支えるために両手が塞がった終演に掛けた声は、一人ではここを切り抜けることが出来ないと知った上での言葉。そして、二人を見捨てろという意味。
「すまんのう。カイヤックはまだ良いにしても、雷祇を失うわけにはいかんのじゃ。少なくとも、ワシの命よりもな」
終演の返しに、バナンは益々苛立ちを覚えたが、声には出さずに大きく深呼吸をする。
「さあ、来るぞい。頼むぞ、バナン」
“無茶言うにゃ”
万全ではない体に鞭打つように尻尾を一振りして、さらに大きく息を吸い込んだが、体が先ほどのように大きく膨らまない。それは、杖達が動けない空間が刻一刻と狭まっているためと、体力低下のため。
“限界まで引き付けるしかにゃいだろうにゃ……。ただ、一撃で道が開けるとは思えにゃいが”
“さて、どうやればこの場を切り抜けれるかの……。はぁ〜、何も思い浮かばんか”
杖達の渦がどんどんと小さくなる。そして、杖達が渦巻くのをやめると、四人に向かって向きを変え、一斉に攻撃を開始した。
“道を、開けろ!”
「行け!」
“やはりあなたは、手に入れてしまうのですね……”
「お願い、アスクレピオス!」
風の弾丸が天井に向けて放たれたその音が、無音の白い光によって掻き消された。その一瞬の、瞬きの間ほどの僅かな時間の中で、白い光は遺跡全体を癒しの力で包み込む。
“にゃ、にゃにが、にゃにが起こった?!”
“この光は……静華嬢が契約を終えたんか”
風の弾丸が天井にぶつかり、ガラガラと音を立てて杖達が終演たちに降注ぐ。その時に落ちてきた杖達の中で、止まりきれない杖達は穴の中へと流れ込む。先程までとの幾つもの違いがこの部屋に齎すのは、杖達の猛攻の終わりと、静華への試練の終わり。
《はぁ〜、っと落ち着いてる場合じゃにゃい!》
杖達が降り止まない視界の悪い中で、バナンはアスクレピオスの杖が置かれていた場所に視界を走らす。その時には既に、静華は杖を手にしながら後ろへと倒れ始めていた。
《チィ!》
体力はすでに底の底。それでも体は直ぐに反応し、翼を大きく広げると、まだ降り止まない杖の雨を体に浴びながら静華の元に向かった。この時に、バナンは自分自身の異変に気付く。
“にゃんだ、体力が回復してるのか……”
そう感じたのは、静華が倒れ始めてから床と同じ高さにまで倒れこむ時には既に下に回り込み、体を受け止められていたから。
《大丈夫か、静華!》
「あ、うん、ちょっと、疲れた、だけ、だよ」
その言葉と共に、溢れ出す汗の中に血の臭いが混じっていた。
《静華、どこか怪我したのか? 大丈夫か?》
バナンの気遣いに「大丈夫だよ」と答えた静華は、改めて右手に出来た傷を擦って思っていた。
“あの揺れは、私に答えを教えてくれるためだったのかな?”
「う、あぁ、はぁ〜、何だ、随分面白くなさそうな地、獄……。あれ、俺生きてんのか?」
床から上半身を起こし、部屋を見回したカイヤックがそう呟く横で、雷祇も同じように首を起こした。そんな二人の鼻からは、同じように鼻血が出ている。
「何だ、おかしいぞ。さっき杖どもに喰らった攻撃の痕は消えてるってのに、何で鼻血出てんだ?」
胡坐を掻いて座ったカイヤックが、杖に喰らった傷や痛みが消えているのに、足に垂れる鼻血がよっぽど不思議らしく、座っているカイヤックがほんの少し見上げて終演に話しかけた。
「なぁ爺さん、何で傷治ってんのに、鼻血出てるか知らねぇか?」
「さぁのう。どこからか落ちたんじゃろう。そんな事よりもバナン、お前さん、体力は回復しておるか?」
疲れきっている静華の体に、布団をかけるように鬣をゆっくりと被せていたバナンだったが、終演のその言葉が優しい空気を一変させた。
《おい爺さん、もし俺様がいにゃかったら、静華がどうにゃってたと思ってる! もう少しで、遺跡の底にまで落ちるとこだった――》
「その様子じゃ、回復しとるようじゃな。早速じゃが、紫月のとこにまで向かってくれ」
静華の事を微塵も心配する様子のない終演に、バナンは怒りの感情を露にしようとした。が、それを制したのは当の静華。
「大丈夫だよ、バナン君」
先程の光のように淡く優しい、今にも消えてしまいそうな囁きに、バナンは少し落ち着きを取り戻し、終演の側に飛んで向かう。その横で雷祇は立ち上がりながら、先程のおかしな感覚を忘れられないで、無言で両手を見つめていた。その雷祇の肩に、イクリプスを背負い直していたカイヤックが手を置いた。
「どうした、雷祇」
「え、いえ……」
「あのよ、俺死んだんじゃなかったのか? って、杖はどう、動いてねぇんだな。やっぱ、嬢ちゃんの力か……」
答えは分からないにしても、二人はバナンの背中で包まれている静華を見た。その手に握られる杖と共に。
《あぁ、回復してる》
「そうか。すまんのう、静華嬢。もう少し頑張ってもらえんか?」
静華は小さく頷き返事をする。その姿に終演も頷き返して、バナンの肩を叩いた。
「頼むぞい、全力で」
《こんにゃことにまでにゃったんだ。当然、紫月を助けるしかにゃいだろ。だが忘れるにゃよ、アンタからはちゃんと話は聞かせてもらうぞ》
そう言い飛び上がろうとしたバナンに、静華が声をかける。
「バナン君。皆を、連れて行かなきゃ」
その意味を分からないバナンは、静華を見ながら話をする。
《にゃに言って――》
「うわぁ!」
傷がすっかり癒え、立ち上がっていた三人が同時にバランスを崩すと、遺跡が腹を空かしたような揺れと地響きが起こる。そして、部屋の中央の台座が崩れ、穴が開いている部分には、天井から石が落ちていった。それは遺跡崩壊の序曲。
「ほぉ、崩れるか……。まあええ、バナン、早く行くんじゃ」
「ダメです。それじゃあ、終演さん達が――」
ここで漸く、終演が聞き取れるほどの声を静華が出した。バナンの背中で心配そうな顔をしている静華に近寄ると、終演は頭を撫でながら囁いた。
「心配せんでも大丈夫じゃ。実はな、隠しておったんじゃが、ワシは空を飛べるんじゃよ」
「でも――」
「大丈夫じゃ。それよりも、静華嬢には紫月を頼みたい。ワシ等がもしバナンの背中に乗ってしまえば、それだけ遅くなってしまうんじゃ。時間はもう殆どないじゃろう。ここまで来て、ここまで来れての時間切れは、どうしても避けたいんじゃ。なぁに、心配せんでも、ワシはこんなとこで死にはせんよ」
まだ納得できてはいなかったようだが、終演がバナンに合図を送る。天井を指差すという形で。
「バ、バナン君」
《静華も爺さんの気持ちを汲んでやらにゃいとにゃ》
「……」
《あの家まで静華は寝てるんだ。体力回復しにゃいと》
透明な天井が無くなった地上に続く穴を通って、バナンと静華は遺跡を脱出した。
「行っちゃいましたよ」
「あぁ、行っちまったな」
その姿を見送りながら、揺れが止まらない床の上で仁王立ちになる二人。
「さて、どうするかのう」
そんな二人に軽い言葉を投げ掛けながら、終演は腕組みしながら近づいた。
「え? どうするって、ヤダ!カラス君使うんでしょ?」
「あぁ、そうだ。今回は爺さんの体に掴まらせてもらうぜ」
体に掴まろうとしたカイヤックの腕を引き摺っていたケルベロスで叩き落すと、終演はまた腕組みをして、崩れる遺跡の中でありえないことを呟いた。
「いやの、燃料がないみたいなんじゃ、ヤダ!カラス君」
「……へ?」
当然その言葉の意味を飲み込めない二人は、固まり終演を見る。その視線が鬱陶しいのか、少しイラついた声で、「燃料切れじゃ」と言う。
「そっか、燃料切れなんだぁ〜」
「そうなんじゃ、燃料切れなんじゃよ〜」
「それじゃあ、仕方ありませんねぇ〜」
「そうじゃ、仕方ないんじゃよ〜」
「あはは、そっかそっか」
「そうじゃそうじゃ」
突然テンションの上がった雷祇に合わせて終演も同じようはテンションになった。そんな二人の無意味なテンション高めの声とは違い、冷静にカイヤックが、「じゃあよ、どうやって脱出すんだ?」と、流れを汲まずに雰囲気をぶち壊した。別にカイヤックが悪いわけでもないのに、雷祇はカイヤックを可能な限り目を見開き睨み付けた、と思った次の瞬間には、地面に崩れ落ち三角座りで項垂れた声になっていた。
「なんで現実に引き戻す事言うんですか。あぁ、もうダメだ、もう絶対にダメだ。だって逃げ道ないですもん。あぁ〜終わった、終わった。あそうだ、もういっそのこと、穴に飛び込もうかな」
投げやりな言葉と共に、どんどん暗い言葉と気持ちになる雷祇の周りには、また暗い雲が纏わりつく。そんな雷祇とは対照的に、終演は至って冷静に「まぁ――」と話を切り出す。
「燃料は飛べるほどはないんじゃが、代わりになるものを足せば十分に飛ぶ事が出来るんじゃが……」
言い辛そうに詰まった言葉を吐かせるように、先程までどこか違う世界に行っていたはずの雷祇が、溺れる者は藁をも掴むを終演の体で実践して見せた。
「鬱陶しい、離れんか!」
「嫌です! なんですか、なんなんですか、燃料って!!」
終演が雷祇の顔を押さえつけるが、その腕の力に顔は負けて後ろに押されるものの、体は離されまいと必死にしがみ付いて、何度も「燃料何ですか!」と懇願とも取れる叫び声を上げていた。そんな二人を見てカイヤックは、“この二人、二人の時はいっつもこんなんだったのかもな”と、なぜかそんなことを考え思っていた。
「えぇい、言うから離れぇ!」
膝蹴りでとうとう手を離して床に倒れこんだ雷祇の上に、天井から大きな石が降ってきた。それに気づいて、雷祇が立ち上がるよりも先にカイヤックが首を掴んで石を回避させた。そんな事されなくても避けれたと思った雷祇だったが、「ありがとうと」と一応礼を言ったので降ろしてくれるだろうと思ったようだが、カイヤックは雷祇を降ろす事をしないで終演に、「で、燃料は?」と問いかけた。
「仕方ないのう、本当は嫌なんじゃが……仕方ないかの」
そして、終演は話し始めた。ヤダ!カラス君の普通の燃料の代わりになる物を。
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はぁ はぁ はぁ
体は形状を維持するのに限界な程の熱を帯びているというのに、ベットや衣服からは一切の水っ気がなくなっていた。それは魔渇病が体を完全に蝕み終わり、今すぐにでも体を灰に還す事が可能だという合図。そんな状態の紫月の手を握り締め、黒火は誰にとは言わずに願いを呟き続けた。
「黒火姉ちゃん!」
そんな黒火の願いが通じたかのように、夕日が差し込む廊下には複数の影。その中の一つ、杖を手にする静華を見つけた黒火は、驚きと混乱が入り混じった声になる。
「ま、まさか、アスクレピオス様の杖を、手に入れたん――」
「黒火さん、私を紫月さんの側に」
静華の手に握られている杖を見て、何度も瞬きをして現状を把握しようとしていた紫月に、静華からそう声が掛けられた。その言葉で握っていた手の熱を思い出し、慌てて立ち上がろうとしたが紫月に、丸一日同じ格好で座り続けていた足の痺れが襲い掛かり、派手に転んでしまう。けれど今はそんな事を気にしている場合じゃないと、擦りむいた肘を気にすることなく這って静華の側に行き手を取ると、今度は膝立ちで黒火の側にまで連れてきた。
「あの、手を握らせてもらっていいですか?」
黒火は静華を紫月の側に立たせると、ゆっくりと遠ざかっていた。しかし、静華にとっては紫月がどこにいるのかが分からない。慌てて我を忘れている黒火は、静華の言葉で紫月の手を取り、静華に握らせた。
“熱い、とても……”
人の放つ熱とはとても考えられなくなった紫月の手を握りながら、静華はそんな風に感じていた。異常体温とも言うべき熱を感じ取り、もう時間の猶予が無いと悟った静華は早速行動を開始する。アスクレピオスの杖を紫月の腕に這わせ、額にまで杖を持っていくと、そこで杖をピタリと止めた。それで誰もが、静華が何かするのだろうと息を飲んで待っている中、震えたとても小さな声が部屋の中に呟かれた。
「ど、どうすれば、いいんでしょう……」
静まり返る部屋の中、聞こえるのは紫月の苦痛の死に息。その息に紛れるように、静華からもう一度、「ど、ど、どう、すれば……」。目頭に涙を溜め、不安げに辺りを見回しながら、さらにもう一言同じような言葉が呟かれるだろう口の動きになった静華に、黒火が駆け寄り肩を掴むと、振り絞るようにして声を張り上げた。
「どうしようって……どうしようって静華さんはアスクレピオス様の杖を手に入れたんですよ! 魔法使いでもないあなたが! そ、そんな、そんな凄い人なのに、なのにどうしようって、ふざけないでください!!」
《黒火、手をはにゃせ》
声に混じった想いは、黒火の懇願するように縋りつく姿で想像が出来た。そんな黒火の気持ちを知りながらも、バナンは静華を守るために黒火の首に爪を宛てがう。目の前でのバナンの行動を知らない静華は、小さく何度も「ごめんなさい」と謝るだけ。その普通の女の子の姿を見ても、黒火の指先は静華の肩に食い込む。
「……すいま、せん……」
自分の気持ちをどうにかこうにか押さえつけた黒火は静華から手を離すと、紫月の額に乗せていた御絞りを取り上げ、顔の側の台の上に乗せていた水の入っているお椀に浸けると、冷やしてまた額の上に置いた。
「まさか、だったもので……。アスクレピオス様の遺跡に行くといっても、本物の杖を、持って来れる方が居るとは、思わなかったもので……」
誰に向けて話しているわけでもなく、冷たくしたはずの御絞りが直ぐに熱くなったのを分かりながら、それを敢えて触らぬようにゆっくり頭を撫でる。
「でも、そうですよね。たとえ杖を手に入れることが出来たとしても、目の見えない静華さんが、魔法使いな分けないんですから、テスタメントであるはずないですもんね。確かに、魔法使いでない静華さんが、杖を手に入れることが出来たのは、凄いです、でも、でも、テスタメントでなければ、そんな杖、ただの木の棒、ですから……」
“魔法使い……”
バナンはその一言だけが引っかかったが、まだ謝り続けている静華を落ち着かせるために肩に体を寄せ、入り口付近にまで移動させた。
《謝らにゃくていいんだ、静華は。にゃにも悪いことしてにゃいんだからな》
慰めるようなその言葉も、今の静華の心には届いていなかった。
「何、どうしたの紫月!」
立ち尽くし、只管に謝るだけの静華の耳に黒火の声が響き、口の動きを止める。
「何で、黒火が、い、るの、よ……」
「何でって、あなたの看病――」
「だから、何で、黒、火が、してる、の、って」
状態的には他人の心配などしている場合ではないはずの紫月。けれど語りかけられるのは、一族の心配と黒火の体の心配。
「もう、私、助からないん、だから、あなたに罹って、欲しく、ない。早く、部屋から出っ、て、よ。どうせ、あんたに、何も、できない、ん、だから」
冷たい言葉とは裏腹に、涸れたはずの水分が流れ出す涙。
「うんうん、嫌だよ。私は、ここにいる。絶対に、離れない」
鼻水も涙も一切拭う事をせず、黒火は紫月の手を握り締めて離さない。紫月は黒火から手を離そうとしたが、その手に幾つもの小さな、廊下で見ていた子供達の手が重なって離させないようにしていた。
「大丈夫、絶対死なないから!」
「紫月ねぇちゃん!」
「これやるから、死なないでよ」
「俺、ちゃんと手とか、体とか洗うからさ」
「私、お手伝いする。だから、だから――」
何人もが溜め込んで話さないようにしていた言葉が、一つの言葉と共に一斉に紫月に流れ出す。何人もがそれぞれの言葉で、精一杯紫月を励まそうと。
“まあ、無理にゃものは仕方にゃい。杖は手に入れてしまったが、静華が静華であるにゃら、俺様はそれで――”
「おねぇちゃん」
バナンが涙ぐましい場面には相応しくない冷めた目線で見つめていると、静華の足元から小さな言葉が上ってきた。
「あのね、これ、あちしの、たからもの」
静華のヘソの辺りに差し出されたのは、綺麗な一輪の花。
「これ、あげるから、しづき、おねぇちゃん、たすけてください、おねがい」
力なく垂れ下がっていた静華の手に、黒土がその花を握らせた。けれど静華は、俯き言葉を口に出すことすら出来ない。黒土のその行動がよっぽど疎ましかったのか、静華の陰に隠れるようにしながらバナンが険しい表情で睨みつける。その間にも時間は刻一刻と進み、とうとう紫月の皮膚から水っ気が無くなり始めた。
“まったく、仕方のない子だ。ギムン”
“はいはい、御主人”
“あなたに少し頼みが”
“なんでしょう?”
“静華の契約獣として、現世に行ってはもらえませんか?”
“! 御主人、それは無理ではないでしょうか。そもそも彼女は今までのテスタメントとも、今何人もいる他のテスタメントとも違う、新しいテスタメントですよ。不可能だと思いますが”
“それが、もし可能だとすれば、あなたはどうしたいですか?”
“そ、それは……”
“決まり、ですね。あなたには今までとは別の、まったく新しい形の契約獣になってもらいますよ”
部屋中が涙の中に包まれる。その中心では、体中の水がなくなってしまう寸前の紫月。その事が分かっていて、契約できたはずの力が使えないもどかしさで、静華は唇や掌を血に染める。
《ちょっと! 痛いわよ、静華》
そんな部屋の中とは対照的な、随分と明るい遊ぶのが待ちきれない子供のような声で、静華に注文が飛ぶ。
《手、離してくれないかしら? 飛び回りたいの、皆に見られながらね》
本当に部屋の中とは対照的な明るい声が響くが、その元が分からず、静華や紫月の手を握っていた子供達までもが部屋を見回す。そんな中、バナンだけは声の場所を突き止めていた。
“杖、から聞こえる……”
静華にその事が分かったのは、手に持っていた杖が突然震えだしたから。それに驚き、手を離した瞬間、朝日が昇る時の空のような白銀の羽根を持つ、一羽のカラスが羽ばたき静華の顔元に飛び上がった。
《う〜ん! 良いわね、現実世界の風って。この世界に居たは居たけど、幻の中だったから風とかは感じられなかったのよね》
突然の出来事に、部屋の中が一気に静まり返る。そんな空気を諸共せずに、ギムンは静華に話し出す。
《まったく、情けないわね。今までのテスタメントで、一番情けないかもしれないわね、あなた。けど、そんな所嫌いじゃないわよ。っとそれよりも、早速あなたには御し、アスクレピオス様を呼び出して、力を使ってもらうわよ》
周りのことなど一切気に止める様子もなく、ギムンはマイペースに話しを続ける。
《そうは言っても、自分の意思で扱うのは初めてだから、私が手伝ってあげる。さあ、行くわよ》
ギムンが胸の辺りにまで下がると、そのまま体の中に入り込み、その勢いのまま心臓を貫き体を抜け出した。
《あなたがどう望んでいるのか知らないけど、彼女は正真正銘のテスタメントよ。次期獣王さん》
バナンはギムンが現れたことによって静華から少し距離を取っていたが、態々側にまで近寄られそう声を掛けられたので、ただ睨み返すことしか出来なかった。
“はぁはぁ、分か、る。これが、これが、アスクレピオス”
ギムンが現れた時には無かった銀色の発光。それは目を開けていられないほどの、眩しすぎる光。部屋が一瞬にして光の中に包まれ、次の瞬間には光が静華の髪と瞳の中に吸い取られた。
「ごめんなさい、退いていてください」
手を翳しながら紫月に近づく静華。その姿があまりにも神々しかったために、子供達は言葉を失くして固まっていたが、黒火はなんとか正気を取り戻し、慌てて子供達の手を引いて入り口に居たバナンの側に駆け寄った。
“感じる……。紫月さんのいる場所は、ここ”
静華の手が紫月の額に触れる。
「お願い、アスクレピオス」
その言葉と共に静華の体がまた光に包まれる。その光が広がり、紫月の体まで包み込んだ。
“これは……私の力で消滅させる事は不可能……。ならば”
その時間はほんの僅かな時間だったはずなのに、見ていた者たちにとっては丸一日、太陽の昇りから沈むまでを見ていたような感覚だった。その光が収束し終わると同時に、膝から崩れ始めた静華に気づいて、バナンが慌てて静華を受け止めに向かった。
「あぁ……」
終演の腕にしがみ付きながら、かなりへこんでいる雷祇。けれど三人は今空の上。
「どうした、何落ち込んでんだ雷祇」
終演の体で掴む所が無かったので、仕方なくヤダ!カラス君から伸びる二本の腕に掴まっていたカイヤックが、雷祇の異変に気づいて声を掛けたのだったが、それが火に油を注いだ結果になった。
「当然でしょう! 代わりの燃料がおならって、ヘコむでしょ! しかも状況が状況だったのに、おならを出せって!」
「そうか? おりゃ、楽しかったぜ」
空を飛んでいる風の中に紛れるような小声で雷祇はブツブツと呟いた。決して他人に聞かれる事の無いような、小さな小さな声で。
「一ついいかのう」
そんな二人のやり取りの間に終演が割って入った。ある事を伝えるために。
「なんですか?」
「いやの、実を言うとこの屁の燃料には欠点が、というよりヤダ!カラス君との相性が最悪なんじゃ」
その言葉で、雷祇の頭の中のそれほど大きくないコンピューターが働き出し、過去の記憶を掘り起こし始める。そして、雷祇は一つ一つの記憶を見ていく過程で、顔が見る見ると凍りついていく。
「あ、相性が、良くな……は、あぁ、あ、ま、まさか――」
「何そんなに怖がってんだ?」
カイヤックはこの事態の重大さに気づいておらず、少し笑いながら雷祇にそう言った。そのカイヤックに答えたのは、こちらも大した事態ではなさそうな声の高さで話す終演。
「ヤダ!カラス君は冷却するために空気を取り込む仕組みになっとるんじゃがな、その時に燃料から出る余分な成分も外に出すんじゃ。じゃが、その成分は引火することはない。それと違っての、屁と混ぜた燃料はどうやら、引火するようなんじゃ。昔お前さんで試して、山火事起こしたのを憶えておらんか、雷祇よ」
声にならない声が漏れる雷祇。カイヤックは終演の言葉をゆっくりと頭の中で並べている。
「あぁ、先に言うとくがの、ヤダ!カラス君に止まったり降りたりする機能はないぞい」
その言葉も含めて頭の中に並べ終わったカイヤックが、眉を顰めて終演に尋ねた。
「それってよ、不味いんじゃねぇか?」
「そうじゃよ、かなり不味い状況じゃ」
「お、おぉ、やっぱ、そうか……。いや、下、森だしよ、木に突っ込んじまったら――」
「もしそれをすると森が吹っ飛ぶが、お前さん、責任取れるか?」
「……無理、か――」
「そんなことより、どうにかして止めてください――」
雷祇のこの状況では普通の反応をした直後、ヤダ!カラス君から異様な音が聞こえた。それは空気を取りこみ始めた音。
「降ろしてぇ〜〜!!」
“にゃんだ? にゃにか爆発したのか?”
倒れた静華をベットで寝かせていたバナンが、窓の外、遥か遠くの方で何か爆発したのを見つけた。
“まあ、想像はつくし、後ででいいか”