第6章 アスクレピオスの杖 (9)
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全身が炎に包まれたような熱さの中、最も熱を帯びている発火点が指先にあった。まるで炎に腕を掴まれ、引かれるような感覚。静華は気を失いそうになる中で、炎の手を離さないように、しっかりと握り締めるように手を伸ばして透明な道の上を歩いていた。
雨の降り始めならポツリポツリと聞こえるはずだったが、今雷祇達に降注ぐのは無数の杖の雨。その雨にいち早く降られたのは透明な壁の天井。一つの杖が、カーンという音と共にぶつかり回転すると同時に、その横を通り過ぎた杖達が雷祇達に襲い掛かる。
《避けるのは不可能か!》
羽根を一段と大きく広げ、雷祇達から離れるように床スレスレを飛びながらそう呟いたバナン。終演は結局、先程杖の動きを止めた弾を発射する事無くケルベロスで頭上から降注ぐ杖達を防ぎながら部屋の壁際に向かった。
“やはり撃つべきだったかの……”
雷祇も透明な壁に杖がぶつかる頃には部屋の壁の近くに移動しており、雷命と鞘を構えて待っていた。
「多す――」
「行くぜ!」
雷祇の弱音が口を衝いて出たのと同時に、カイヤックの口からは気合を入れるための雄たけびが上がる。その時の大きく開いた口に目掛けて落ちてきた杖を、カイヤックはイクリプスの一振りで無数の杖と一緒になぎ払い、透明な壁に向かって一歩踏み出した。
「糞!」
しかし、その振り払ったはずの杖の数本が目の前で止まっており、防ぎようのない体勢のままカイヤックは顔に杖の体当たりを受ける。
「グゥウ!」
踏み出した足を下ろす前だったために、片足では体のバランスも杖の勢いに浚われそのまま後ろに扱けそうになる。が、体勢が不十分だったのがこの場合には幸運に働き、バランスの崩れた体をイクリプスが支える形になった。
“助かっ、!”
イクリプスに力を込め地面を押し返そうとしていたそこに、先程カイヤックが振り払った杖が足とイクリプスにぶつかってきた。
「ウラァ!」
そのまま崩れても良さそうな抜群のタイミングの連携だったが、カイヤックは気合一発イクリプスを無茶苦茶な体勢のまま振り上げ杖を払い、頭に降ってきた杖の攻撃をまるで感じていないように透明な壁にまで走り寄った。
“振り切れにゃいか”
鬣がまだ言う事を聞きそうにもない状態ではあるが、飛び回りながら何とか杖の攻撃は避けていたバナンだった。ただ、避けて飛び回っていた分、バナンの背後に付き纏う杖の数が他の三人に向かうはずだった杖まで引き寄せ、振り返って見たバナンの目には床が見えないほどの数に膨れ上がっていた。
“試すか……。いや、やるしかにゃいか”
雷祇は色んな場所を狙ってくる杖の攻撃を踊るように避けながら、避けきれない杖だけを雷命と鞘を使って叩き落としていた。
“う、く! 斬れないか”
杖の動きにだんだんと慣れ始め、避けるためだけではなく攻撃の意味も込めて杖を斬りつけたが無傷。
“失敗か!”
しかも、反撃に転じようとした攻撃だったはずが、その一撃は避けるためには無用な動き。それを知らしめたのは、殆ど伸ばしていない脇の真下に一本の杖が狙いを定めて攻撃を仕掛けてきたため。
“弾、いやかわす!”
頭の中では瞬時に弾き飛ばそうと鞘を持つ腕に信号を送ろうとしたが、それよりも先に視界の端に見つけた危険が脳を支配し、避けさせるべく体を信号が駆け巡る。
「当たるわけには」
雷祇は脇の下に迫っていた杖の攻撃は避けれると早めに判断すると、杖を弾かず避けなければならなくなった危険を見遣る。
“二本、いや三本”
脇の下から顔にかけて杖が通過する風を感じながら、体と鞘を持つ腕を伸ばして後ろから飛んで来ていた三本の杖を打ち落とそうとする。が、その攻撃で打ち落とせたのは二本だけ。
“これってもしかして、日頃の成果?”
最近は少なくなった物の、小さい頃には死ぬほど、本当の意味で死にそうになるほど終演から銃撃されていたのを思い出し、少し嫌になった。ただ、体は脳が考えるよりも先に動き、勢いの付いている向きとは反対に回転しながら打ち落とせなかった杖を避け、後ろから飛んできていた杖を剣で叩き落とした。
“少し、落ち着ける”
そこまでの一連の動きを終えると、本当に僅かな、戦いの中では休憩を取れるほどの間が空き、部屋の中を確認した。静華の状況、苦戦するカイヤック、姿を捉える事の出来なかったバナン、そして――
“あれ、終演?”
“不味い、不味いのう”
意外にも苦戦を強いられる終演の姿だった。
“どうしたんだろう”
雷祇は人の心配が出来る程余裕があるわけでもないのに、現にバナンの事は微塵も心配する様子がなかったのに、終演の動きの悪さに気を取られ、自分の状態までもまた悪くしていた。
“動かんか。この杖ども、一体何、! そうか、麻酔か……”
だらりと力なくぶら下る機械の腕を何とか動かそうと肩を揺するが、まったく動く気配がなく、そればかりやっている余裕もない。左手一本でケルベロスを振り回すのはやろうと思えば出来るが、隙ばかりが目立つようになるため、終演はあえてケルベロスを地面に立て、左手で押したり引いたりを繰り返して何とか凌いでいた。
“こんな避け方では持たんか。仕方ない、戦い方を変えるか”
その不安を余所に、杖の猛攻は勢いを増すばかり。それは雷祇も、カイヤックも同じだった。ただ1匹を除いては。
“ギリギリまでは……”
バナンは部屋の中を飛び回るのを止め、壁と天井がぶつかり合う角に向かって一直線に向かった。後ろを追いかけてくる杖達をギリギリまで引き付けるかのように、先程のように全力で飛ぶのではなく、追いつかれない程度の駆け引きをしながら。
“まだだ、まだ――”
まるで根性試しでもしているかのように、杖のギリギリを飛び、角に向かうスピードは緩めないでいた。
“まだ、まだ、まだ……”
今のバナンの勢いでは到底止まる事など出来そうもない距離まで近づいた角に近づいたその時。
“今!”
ギリギリで保つ事が大事だったらしく、心の中の“今!”と同時にバナンは一気に空気を吸い始めた。そして、それと反比例するようにバナンの体がどんどんと小さくなっていく。それはまるで退化でもしているかのように小さく、幼く。
“こいつ等に触れるのは危険にゃんだ”
小さくなり、息を吸い込んだことで勢いが止まると、壁を蹴りながら体を反転させ、勢いの付きすぎで止まらない杖達の行進を逆走する。その姿は一番小さかった頃よりもさらに小さく、生まれたての子猫ほどの大きさのバナン。
“突っ切にゅ! 突っ切にしゃまにふち込んでやにゃ。塔の砲ふぁんの時よひも力は回復してるふぁふ!”
鬣が何度が杖に引っかかり戻されそうになったものの、体が杖に触れる事はなく、魚の群れの中を突っ切るような感覚が光が見えたことで終わりだと告げられ、最後の杖の先を避けたところでまた体を反転させ始め、空気をさらに吸い込み始めた。そして今度は、吸う空気で体が膨らんでいくように、バナンの体が巨大化していく。
“今持てる、我の全力”
杖達か勢い衰える事無く角にぶつかり、物を落としたように部屋の角に張り付き広がる。その姿を捉えながら空中に佇むのは、雷祇との戦い敗れた頃と変わらない程の大きさ、威圧感、威風を纏った一匹の話獣。
“散るがいい!”
ぶつかり合う勢いが止まり、漸く角からバナンに向かって攻撃を始めようとしていた杖達に向かって、砲弾よりも硬く固められた空気の弾丸が杖達の密集している中心に向け放たれた。
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“あ、危なかった……”
そう思いながら、何も掴む事の出来ない状況のまま静華は立ち上がった。
“けど、一体何の揺れだったんだろう? いや、そんな事よりも、まずは杖を取らないと”
扱けた弾みに指が透明な道の上からはみ出し、底に引きずり込まれそうになったのをなんとか引っ張り上げた時に出来た中指と人差し指の裂傷の痛みに耐えながら、血が滴り落ちる指を前に突き出した。
“痛みで消えると思ったけど、大丈夫、行ける”
何が待っているのか見る事の出来ない暗闇の中、日の光に反応するように伸びる向日葵のように、静華は熱だけを頼りに歩き出した。
「早く、離れて、くれませんか?」
「はぁ、はぁ、はぁ、すまねぇ、な」
遺跡全体とは言わないものの、雷祇達が居る部屋は相当な揺れと、まともに立っている事の出来ない、カイヤックでも飛ばされるほどの風が暴れまわった。その時に、カイヤックは雷祇の真正面に飛ばされ、壁に埋まるほどの状態だった雷祇は押し潰されると危険を感じ、両足を蹴り上げ、壁に首を固めるように両手を付いてカイヤックを受け止めていた。
「は、早く、早くして、おわぁ!」
いつでもカイヤックが離れていいように準備していた雷祇だったが、雷祇の両足に全体重を掛けているまま崩れるとは予想しておらずに、雷祇は受身を取れないまま、背中からカイヤックの全体重を乗せて落ちた。
「すまねぇ、マジで……」
強く打ち付けた背中を擦りながら、当然ここは誰でも怒る場面。勿論雷祇もその通りに怒ろうとしたが、目を開いてすぐにカイヤックがおかしな事に気付いた。
「どうしたん、ですか?」
汗だくの表情に、小刻みに震える体。そして、膝立ちになった時に見えたのは、僅かな時間にも拘らず、雷祇のズボンにまで染み込むほどの大量の血の水溜り。
「ちぃとな、血が、止まらねぇんだ」
“まったく、無茶しおって”
盾にしたケルベロスを肩に担ぎながら、床一面に転がる杖を見てそう思っていた終演。
“あ奴、杖の攻撃を喰らいおったか? 血の出が半端ではないの。この杖ども、能力は麻酔だけではないみたいじゃ”
杖が一本も飛んでいないのを確認している時に、カイヤックが膝を突いている姿が見えた終演は、冷静にそう考え、杖を止める事に成功したバナンを捜す。
《よ、予想よりも、風が部屋をま、静華は?!》
思っていたよりも風の勢いが強く、今の普通の状態に戻っているバナンは杖の中に埋もれていた。しかし、呟く言葉の中で静華の事を思い出したバナンは翼で杖を吹き飛ばし、すぐさま静華を確認した。
“よかった、無事か……。もうあと少し、頑張れよ、静華”
バナンの目算では、杖まで直線距離にしてあと二メートル半ぐらいの所を静華が歩いていたのが見えた。ただ、手を出す事が出来ないバナンは、悔しくて奥歯を噛み締める。
“もし、落ちる事ににゃれば……”
そんな言葉が脳裏に浮かんだバナンは、自分自身を嫌になったのか、振り払うように頭を壁に叩きつけた。その衝撃で一瞬フラッと来たのか、空中に浮いていた体がよろけた。しかし、その効果か、先ほどのような暗い言葉は消え去り、“取りあえずは”と考え終演の元に向かおうとするが、自体はそれほど楽観視できる状況ではなかった。
「ちょっと、大丈夫ですか、カイヤック」
膝立ちのまま動けそうにないカイヤックの肩を揺さぶり、雷祇は気を失わせないようにする。
「あぁ、心配……。雷祇、まだ、終わっちゃ、いねぇみてぇだ」
カイヤックの言葉が飲み込めない雷祇だったが、揺さぶっていた手を掴まれ反転させられると、終演の方に向きを変えられ強く背中を押された。
「ちょ、何す、!」
強く押されたために前のめりになった雷祇が、振り返り様にカイヤックを見る。それで知るのは、まだ終わらない杖の雨撃。
「爺さん、とこまで、走んな!」
声を張り上げそう叫ぶと、動き始めた杖達から雷祇を庇うように立ち上がり仁王立ちになる。
「何じゃと、まだ動くか!」
床に転がり寝ていた杖達が、カイヤックの声に反応するように一気に浮かび動き始める。
《にゃに!》
雷祇は動き始めたばかりの杖達の間を縫い、終演の側の壁に張り付いた。バナンもすぐさま天井付近まで飛び上がり、天に開いた針の穴のような空を見上げる。そして気付いたのは、その穴の途中に、壁があるということ。それは、静華が誰の干渉も受ける事無く、神の導きを試されている透明な部屋の壁。
“そうか、どの道この部屋は、杖を取らにゃいと出れにゃいわけか”
「ウグゥゥ!」
体の痛みは既に消え失せたカイヤックだったが、イクリプスを放してしまっている為に、杖を素手で殴りつけていた。そんなカイヤックに容赦なく杖は襲い掛かり、頬や額、腕や体から血を吹き出させる。
「糞、ったれぇぇ!」
杖が勢いよく体を掠めるたび、勢いよく体にぶつかるたびに血が吹き出るのが分かり、雄たけびを上げながら、ただただカイヤックは拳を振り下ろした。
“増えてないか、さっきよりも”
カイヤックのことが気になりながらも、雷祇は先程よりも明らかに増えたように見える杖達の攻撃を凌ぐので精一杯だった。その雷祇の横で終演は、肩や首、腰や使えないはずの右腕の上を滑らせ回転させながらケルベロスで戦っていた。
“もしかして、近づいたの、失ぱ――”
そんな無駄な事を考えていたのが隙を作ったのか、鞘で弾ききれなかった杖が雷命を持つ腕に向かって攻撃をする。それは、避けきるのがほぼ不可能に近い伸びきった肘の部分目掛けて。
“しまった。どこで受ける、どこで受けるべきなんだ”
頭を回転させながらも、着地点が見つからない。避けきるのは難しいと判断して受け方を考えるが、どこで受けるべきなのかが分からない雷祇はいつもの癖で、自らの考えとは違う避ける事を選択する。
“避けれないのに、どうしてなんだ”
自分自身でも嫌になりながら体を捻り、回転の勢いで杖から腕を遠ざけ縮め始める。この状況で、たった一本の杖の攻撃を避けるためだけに。
“回転が終わったら、鞘で打ち落とす。タイミングが狂ってるんだ、杖の飛んでくる数、向きも確認してな――”
頭は次の動作の指示を、動きを練り始める。そんな思考を粉砕するように、雷命を持つ腕の手首に杖がめり込み、壁にぶつかる。その衝撃に声が出せずにいたが、手首から血が吹き出るのを見て、歯を食いしばりながら鞘で斬り上げ杖を弾いた。
“腕が、グゥ! そう、だ、後ろ、は……”
壁に糊で貼り付けにされたわけでもないのに、ゆっくりと腕を引き剥がすように動かす。けれど現状は、腕を庇っている余裕などあるはずもなく、頭の中ですぐさま後ろの状態の事を思い浮かべた。
“駄目だ。どう動くんだ? 数は? 考えて良いのか? 自然と体が反応するのを待つのか?”
頭の中に言葉が響く。そのどれもが不確かで、体の反応を鈍くする。それは、雷祇の戦いの経験値の低さを意味していた。それでも、そんな状態の中では咄嗟と呼べる速さで動いていたつもりの雷祇の頭上を、大きな物体が通過する。
「何やっとるんじゃ!」
ケルベロスが雷祇の背中に向かってきていた杖を全て叩き落した。
「お前さんは当たるのを怖がりすぎておる。こういう場で当たり方を覚えぇ!」
終演が声を張り上げ、また動き始める。しかし、左肩に三方向からの杖の攻撃を受けてしまう。終演の肩からは杖がぶつかる鈍い音。だが、その音よりも大きな音が聞こえると三方向の、正面と上の杖を回転して飛んできたケルベロスがなぎ払い、終演は後ろから来ていた杖の勢いを借り、回転しながら動かない右腕を鞭のように撓らせ杖を弾き飛ばした。
“す、凄――”
「さっさと動かんか! 次は助けんぞ!」
床にケルベロスが落ちると、持ち上げながら足で蹴り上げまた回転しながらケルベロスを操り始めた。その姿に雷祇は落ち着きを取り戻そうとしながら、まだ落ち着けはしないものの、いつものように動き始めた。
“鬣が使えにゃいのが、こんにゃに不便とは”
爪と尻尾、小さめの風の弾丸で杖を弾き飛ばし何とか凌いでいたバナンだったが、
“ヤバイかもにゃ。動けにゃい”
己自身ではっきりと分かるほど、体力低下を感じていた。それは攻撃時に顕著に現れ、爪の先で杖を斬りつけにいっているのに触れるのが肉球の部分であったり、風の弾丸を咄嗟に撃ち出そうとしても体の中で弾丸が出来る前に杖が到達してしまったりと。
“にゃがくは持たにゃ――”
「どうした! もう痛くも痒くもねぇぞ、ゴラ!」
バナンの弱気が聞こえていたかのように、部屋の中にはカイヤックの暴走具合がよく分かる咆哮が響く。
「あぁ?! そんなもんかよ!」
痛みなど感じなくなった体に突き刺さる杖を両手で引き抜き床に投げ捨てる。その際、体にはまた無数の杖が突き刺さり、カイヤックを激昂させる。
「俺を殺したきゃ、一気に止め刺すこった!」
体中に穴を開けている男とは思えないほどの気迫を前面に押し出し、恐れなど知らない杖達を睨みつけながら殴り、蹴りを繰り出す。
“糞ったれ、埒が明かねぇ! もう持たね、あぁ、何だありゃ?”
叫びまくり、暴れ回っているだけに思えたカイヤックだったが、もしかすると終演達よりも死を目前にして冷静だったのかもしれない。それは、ある一つの場所に気付いたのがカイヤックだけだったから。
“何だ、あそこだけは杖が動いてねぇのか? ……いや違う、あそこじゃ動けねぇんだ”
杖達の攻撃を受け、自身は拳を繰り出しながらある一点を見つめて、カイヤックはそう答えを導き出した。それは確信にも近い自信。そこまでカイヤックが自信を持てた理由は、キャッチボールも出来ないほどの杖達が動き回る部屋で、その場所だけは杖が一本も通っておらず、避けるようにして杖達が動き回っていたから。そして、その場所に入っている杖達は床で微かに揺れる程度しか動けていない。
“取りあえずは、行くしかねぇだろ”
そう心に決めると、攻撃する手も、杖を抜く事も止めてその場所に向かって走り出した。
「爺さん! 雷祇! こっちだ!」
その声に雷祇と終演は一瞬止まりそうになったが、動きは止める事なく走っているカイヤックを見た。
“あ奴、何を考えておる”
そう考えたのは終演だけじゃなく、雷祇も同じように思っていた。けれど終演は、それだけではなかった。
“……あそこは……神無水、か?”
終演もカイヤックが見つけた杖の動けない場所にすぐに気付いたが、その理由になりそうなものは一つしか思い浮かばなかった。けれどどうも納得できないのか、直ぐに行動に移せない。
「終演! あそこ、おかしくないですか? ほら、杖が動いてない」
そんなもたついていた終演に、杖の動かない場所にようやく気付いた雷祇が声を掛けた。
「行きましょう!」
目の前の杖を鞘と雷命でなぎ払うと、捻じ込むように僅かに出来た空間に体を入れ、後ろから来る杖を気にせずに、その場所に向かって走り出した。
“今は考えるよりも、動くべきかの”
雷祇の動きを横目で確認していた終演は、必死にもがくように前に進む姿に考えるのを止め自らも動き出した。
「どう、に…か……」
杖の動けない空間に着くと同時に、カイヤックは走りこんできていた勢いのまま頭から床に崩れ落ちた。
「はぁ、はぁ、大丈夫ですか、カイヤック」
床に転がっていた杖がカイヤックによって外に押し流され、浮かび始めたその上を跳び越えて空間に入った雷祇は、体に杖が刺さっているカイヤックにそっと手を伸ばした。
「はぁはぁはぁ、大丈夫……」
手が振るえ、肩に刺さっていた杖に指が触れると、体から抜け落ち血がまたあふれ出す。それが、今目の前で倒れているのが血まみれの生き物だと改めて確信させ、震えを止めれず、体から力が抜け落ちる。
「カ、カイ、ヤッ――」
《は! 死んだか、糞人間》
その言葉を聞いて、その空間まで辿り着いていたバナンを雷祇が睨みつける。バナンも雷祇も、自分の体に二本ずつの杖が刺さっている事にも興味を示さずに。
「やめんか、鬱陶しい。まだこやつは生きておる」
緊迫と平穏、火花の渦巻くその空間に、終演が割り込み空気を換える。
“しかし、息はもう殆どない、か……。持たんな、これでは……”
「あ、あの……」
「なんじゃ」
唾と同じように言葉を飲み込みそうになったが、言葉だけは残り口から零れる。
「大丈夫、ですか、カイヤ――」
「無事に見えるんか、お前さんには」
「……」
足に刺さっていた杖を抜きながら、終演は辿り着いた時よりも杖達が近くを飛びまわっているのに気づき、カイヤックを空間の中心に引き込む。
“神無水は揮発性がないはずじゃ……。この現象自体がおかしいんじゃが、気体になると効果も薄いんか。不味いのう……”
その緊急事態に雷祇とバナンもすぐに気付き、慌てた声を出してしまう。
「ちょ、ちょっと、小さくなってませんか、ここ」
《またこいつ等と戦わにゃいといけにゃいのか》
水を掻き混ぜた渦がどんどんと小さくなるように、天井付近にまで伸びていた杖の動けない空間が見る見ると小さくなり、雷祇達のいる付近も小さくなる。それに対応するように、終演はリュックを背負ったままカイヤックを背負った。
「あ、あれ」
そんな終演に凭れ掛かるようにして、雷祇が膝をつく。その力の入っていない雷祇を見て、終演はしかめっ面になる。
“そうか、当然雷祇にも効果が出てしまうんか”
動く足が止まる。それは、ある一言が切っ掛けだった。
“ここまで来れたあたになら分かるはずですね”
この透明な部屋に入った最初以来のアスクレピオスの声。その声に答える前に動こうと足を上げるが、前に踏み出せずにそのまま同じ場所に置いた。
“……はい”
“惹かれる指は三本の指、繋がる道は一本の道。五歩も歩けば杖に辿り着け、間違えば五歩で死館に辿り着く”
“……”
“選びなさい、そして、あなたの運命を知りなさい。世の地獄を生きるか、死の天国を彷徨うか”
見えない目を見開くと、静華は一歩踏み出した。その姿に、静華には聞こえない思いを心の中で告げていた。
“本来なら、あなたはここで死ぬべきなんです。もしあなたが、私の力を手に入れてしまえば……”