第6章 アスクレピオスの杖 (6)
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壁と同じ大きさの口を開き、終演達を喰らおうとバハムートにとっては狭い部屋を昇り始めた。無理矢理昇っているのでそれほど勢いが出ておらず、体が壁にぶつかっているのか遺跡全体がガタガタ小刻みに震えている。
「時間はあまりないのう」
今度のヤダ!カラス君は飛ぶ機能は抜群らしく、片手を天井に付く事で空中静止できるほどだった。
《……それが飛ぶってやつか? 俺様にはその機械に飛ばされてるようにしか見えにゃいんだが》
「気のせいじゃ。それよりも、随分壁に攻撃したようじゃが、傷は付かんかったようじゃな」
洗濯物のように力なく吊られている雷祇と、肉の焼ける臭いが充満してくる天井付近。その2つの事に一切触れずに終演とバナンは話をする。
《悪かったにゃ、力不足で。それよりも、この状況で喋っている余裕はにゃいと思うが?》
バナンの言葉も無理は無い。無理矢理とは言え、バハムートの勢いは凄まじく、もう3分の1の高さにまで迫っていた。それを少し見やり、額に血管が浮き出てくるのを感じながら、終演は足でケルベロスを支えて構えた。鉄球以外の壁三面、丁度真ん中を打ち抜くように放たれたケルベロスは、主人の命令通り壁のど真ん中にぶつかり、弾けて爆発した。
《偉そうに言った割には、アンタの攻撃も無傷じゃにゃいか》
「まあ、これだけでは無理じゃろう。後は賭けじゃ、バハムートに食われるのが先か、ワシの思い通りに事が運ぶのが先か。そうじゃお前さん、お前さんは聞き耳を立てておいてくれよ、お前さんが重要なんじゃから、ワシの考えには。流石のお前さんでも、断りたくとも逃げ道の無い今じゃ断れんじゃろう」
言葉の終わりがバナンの頬を吊り上げ、苛立ちを覚えさせた。だが、自分の思惑通りに事が運ぶとは限らない今、道は2つあったほうがいいと判断したバナンは終演の言葉に乗り、遺跡のざわめきを断ち切るように静かに目を閉じた。
“まだか? まだ、皹が、入らんか!”
バハムートの巨体が部屋の半分近くにまで届いていた。空気の逃げ道のない部屋、空気のある空間は既に四メートルに縮まり、終演達の体も空気に押し潰されようとしていた。力を抜いていても、強制的に全身の血管が皮膚の上を走り回り、行き場の無くなった血の塊達は体の外へ抜け出そうと、血管の中でさらに暴れ狂う。
“静華は、無事だにゃ?”
部屋の空気が凶器に変わる少し前の辺りで異変に気づいたバナンは、鬣の中に空洞を作ってその中で静華を守っていた。ただ、大きく作った空洞もあと少しでなくなりつつあった。
“チィ! このままじゃ、喰われる前に、潰されちまう。幸い、今目覚めてる、のはこのジジイだけ。まあ、一番嫌だと言えば――”
いくつかの血管が切れ、またこの瞬間新たな血管が切れた。それと同時に、耳の中に響いた新たな音で終演の考えを理解したバナンが、鉄球の正面の壁を指差した。
《その壁だ!》
その言葉を待っていたと言わんばかりに終演は目を見開き、バナンの姿を目だけで捉え、体でケルベロスの向きをバナンが指差した壁に向けながら、先程撃ち込んだまったく同じ場所に狙いを定め、足の上に乗せると引き金を2度引き、今日の爆発する弾を全て使い切った。2発が連なり壁にぶつかると、残り少ない空間は積乱雲の中に入り込んだように黒い煙に包まれる。その煙の中心を貫く一筋の空気の道、バナンが壁に向かって間髪入れずに撃ち込んだ圧縮弾。一発、二発と、壁にぶつかってはただの空気に戻っていく弾。それでも諦めずに、吸い込んで圧縮していた空気を、三発目にして壁に撃ち込んだ。
“風?”
それは終演とバナンが同時に感じた事だった。黒い煙の奥にいる大きな怪物が深く息を吸い込むように、2つの体が強制的に引き寄せられる。
「お前さんから行け!」
終演の言葉を聞くまでもなく、バナンは大きく開いた壁の穴に飛び込んだ。終演もバナンの尻尾の毛先が鼻に触れるほど近い位置で穴に飛び込むと、落ち着く間もなく風の性質が変わるのを感じた。それを証明するように、目の前のバナンは床に足を付くのではなく壁に着地し、右側に行くと声を出して壁を蹴っていた。
“小さくされておった空気が、今度は背中を押すようじゃな”
終演はそう感じながら、左側を見て同じ構図だと判断すると、どちらが正解か分からないが戦力分散をするほど余裕がない今、バナンに付いて行く事を決め右側に向かって壁を蹴った。
“階段か!”
台風の最も強い風よりも遥かに強い、バナンでもまともに舵の取れない風の中を進んでいると、すぐにいくつ続くか分からない障害の1つ目、普段なら何てこと無い階段が目の前に現れた。少し体勢を上にするにしても何か使わないと厳しいと、両前足を前に突き出し階段を蹴ろうと考えている。
“触れる瞬間には蹴らにゃいと、この風に潰されるにゃ”
階段の少し手前で羽ばたくのを止める。そのすぐ瞬きの間に前足が階段に触れ、それと同時に後ろ足も階段を捉える。前足の突っ張りが何の役にも立たず、下顎の髭が階段に掠れたとその時になって、後ろ足と翼で進む方向を斜め上に変える事が出来た。それを見ていた終演も、すぐに同じようにしようとしていたが、終演の前で力なく項垂れている雷祇の背中が階段に直撃すると、ヤダ!カラス君の方向が自動に変わり階段を進む事が出来た。
“もしかすると、今ので死んだかもしれんのう”
その考えを飲み込もうと、廊下の中に先程の部屋の水が津波のように流れ込みだした。
“バハムートはまだ止まっとらんのか”
遺跡の震えが止まっておらず、バハムートが部屋を昇っているのが分かった。そんな余裕はバナンには無く、今度は階段の曲がり角が迫り来ていた。今度は前足だけでは方向転換が出来そうにないと判断したバナンは、もう羽ばたかなくても風が壁に運んでくれると確信した位置で、曲がり角の進む方向に顔を向け、左の前・後ろ足で床を削りながら曲がり角の壁に向かった。そして壁にぶつかるその瞬間に左の足で床を蹴って壁に着地し、四本の足で壁を蹴ってその状態のまま階段を上りだした。その姿を後ろから確認していた終演も同じようにしようと、体の向きを変えて壁に垂直になり衝撃に備えたが、今度はカイヤックが足から壁にぶつかり衝撃を押さえられると、そのままバナンの後ろに付く事が出来た。
“カイヤックは無理じゃろうな……”
そんなふざけた思いは遺跡の震えではなく、崩壊を思わせるほどの揺れで消し飛んだ。それと同時に、すぐ背後にまで水が迫っている事を感じ取りバナンを急かす。
「もっと速く飛ばんか!」
《こっちだって限界の速さで、光!》
話の途中にも拘らず、バナンが希望の道を見つけた。それは終演の背中に水飛沫が飛ぶその時だった。
“間に合った”
“飲み込まれるか!”
バナンはその光の中に飛び込むと、大きな部屋の中に出たと分かり、天井付近にまで飛ばされたがその時には空中静止できるほどの風に戻っていた。しかし、バナンの後ろにいたはずの終演はその部屋にすぐに出てこず、少し遅れて階段から水の柱が天井に突き刺さるような勢いで吹き上がった。
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“不味い!”
手を伸ばせば光を掴めるところまで来ていた。だが、それよりも先に水が終演の体を掴んで、激流の中へと引きずり込んでいた。その時の衝撃で最後の階段の角に頭を強く打ちつけ軽く意識を失いそうになりながら、それでも正気を保とうとあえて傷口に手を伸ばす。
“か、べ!”
その時に見たのは、目前にまで迫っていた壁だった。そう気づいた時には受身を取る体勢も出来てなく、水に体の自由を奪われていたので壁を避ける事も出来ない。体は間違いなく打ち付けられると確信したが、次に頭を打ち付ければ気を失いかねないと、傷口に伸ばしていた腕で頭を覆い隠した。
目の前ではほんの少しだけ水の勢いが弱くなった様に感じる。その水に飲み込まれ3人が死んでいるかどうかなどバナンにとって重要ではなかった。この部屋が何の部屋かという事も気になるとこではあったが、何よりも一番重要な事は。
《静華、大丈夫か?》
鬣を布団代わりにして床に寝かせている静華の音を聞こうと聞き耳を立てた。
《……》
聞こえるのは未だ吹き上がる滝とは正反対の位置に存在する水の柱。まだあまり勢いの変化がなく、集中して聞こうにも頭の中では洪水の時のような川が流れ続けている。
《五月蝿い! とっとと止まれ!!》
振り返り苛立ちのあまり水の柱にバナンが怒鳴りつけた。すると、その言葉に反応した訳ではないだろうが、水の柱が噴水の終了のようにピタリと止まって、水が突き刺さり続けていた天井から終演達3人が大人の男の膝下辺りにまで水が溜まった床に落ちてきた。
《……そうだ、静華――》
少しの間だけ体があった3人を見ていたバナンだったが、本来一番見なければいけない静華の事を思い出し振り返った。鬣がシーツの役割をして、まるで水のベッドの上で寝ているお姫様かと思わせる静華に見惚れたバナン。
“は! イカン、イカンまずは静華の無事を……。はぁ〜、大丈夫か”
遺跡に入るとき以来目を覚まさない事には不安を覚えつつあったが、取りあえずは水のベッドが気にいったのか、スヤスヤと心地良さそうな眠りに就いている寝息が聞こえてきたので安心した。
「のあぁぁ、か、顔がぁ〜! 顔が痛い!」
徐々に水位の下がりだした部屋の水を膝立ちで何度も顔にかけながら、顔を握り潰されたような痛みを和らげようと雷祇はしていた。その少し離れた場所で、「あれ、俺生きてんだ」と胡坐を掻きながら呟き、顔の火傷に水をかけているカイヤック。
《にゃんで死んでにゃいんだ!》
もうちょっとの間、気持ち良さそうな顔で眠っている静華を見ておきたかったが、この姿を他の3人には見せたくないと背中に乗せてから、見れなかった怒りを乗せて2人を睨み付けた。
「そうじゃ、何で死んでおらんのじゃ」
それに賛同したのは、水に漂う流木のように流れに身を任せていた終演だった。
「終演のせいで死に掛けたんでしょうが! それなのに何で死んでないってどういう意味ですか!」
「何言っておる。今こうして生きておるのはワシのお蔭じゃろうが、本来なら遠の昔に死んでおろうが」
「何時の話まで持ち出してるんですか! 僕は今の話し――」
「無論、お前さんを助けた時の話じゃ。あぁ、こんな育ての親不幸もんに育つとは、どこで教育を間違ったんじゃろう」
全てだろうと思うバナン。カイヤックはまだ、「あれ? 俺生きてたんだ」と疑問の念を強くして呟いている。そんな中、水はどんどん階段に流れ出し、排水溝の上に渦を作っている。そんな事とは知らないで、怒りで立ち上がった雷祇はその時初めて気づいた。
“しゅ、終演回ってる!!”
その排水溝代わりの階段に吸い寄せられ、渦の中心でクルクル回っている終演。それに気づいていないのか、ケルベロスを持ったまま腕組みをしている終演だったが、渦が出来る最後の浅さになったとき、床を蹴り上げて立ち上がった。
「おふざけはこれぐらいにして、次の罠を抜けるとするかのう」
その目線の先には、明るい部屋の中央で一体の鎧が体の中心に剣を構えて仁王立ちで佇んでいた。
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水が完全に部屋の中から引いて、落ち着いて部屋の全貌を見回す事が出来るようになった。今雷祇達が居る部屋の出入り口は2つ。雷祇達が水に流されてやってきた階段と、雷祇達から見て鎧の後ろにある扉もドアもない出入り口だけ。それ以外には、最初の部屋が長方形で、今の部屋が縦長である事ぐらいで、最初に入った部屋と大した違いはなかった。唯一あるのは鎧だけといったところ。
「ややこしいのう」
すんなりと進めると思っていた雷祇にとっては意外な言葉だった。
「え、何がややこしいんですか?」
「奴じゃよ」
終演が指差すのは、派手な装飾はされておらず観賞用にはなりそうもない戦うための鎧。そんな鎧には似合わない、1匹の蛇が枝に巻き付いている模様が描かれた紋章が胸にあった。そのことと何か関係があるのかと思っていた雷祇の背中を押して、終演が言った。
「雷祇よ、お前さんちょっと向こうまで歩いていってくれんか」
「え、僕ですか? わざわざこの中で僕を選びますか」
「大丈夫じゃ。ほれ見てみい、おかしなところがあるじゃろうこの部屋」
「おかしなとこですか……」
終演の言葉で部屋を見回してみたものの、雷祇の目には特に不審な場所は見当たらなかった。その様子を見ていて、まったくと溜息に乗せて言った後に言葉を続けた。
「ワシと一緒に過ごしてきてこの程度とは」
「悪かったですね」 “何だよ、さっきまであんなに愛想悪かったのに、急に態度変わってるじゃないか”
「ほれ、水の跡を見てみ」
終演は部屋の中に出来ていた水の跡をなぞった。
「あれ? なんですか、どうなってるんですか」
それはまるで透明な壁でもあるかのように、ある一定の場所から突然水の跡が線引きされていた。
「まあ、そういうことじゃ。大体は想像出来ておるが詳細が分からん、じゃからお前さんに頼んでおるんじゃ。そうじゃな、右端まで行って剣は鞘に収めたまま、向こうの壁にいくように歩いてきてくれんか」
何か言おうとした雷祇に、「時間がないんじゃ」と終演が急かして言葉を遮る。その言葉に渋々従って、小走りで右の壁際まで行くとゆっくりと歩き出した。
「緊張する必要はないぞ、奴はお前さんが攻撃せん限り襲ってこんはずじゃ」
はずって何だよ、そう思いながらも歩く早さを上げて水の境界線に踏み込んだ。まずは右足、次にいつでも雷命を抜けるように力を入れている左手、そして体や顔といった部分がどんどんと境界線を跨いでいく。
《どうにゃってるんだ》
「さぁ? 俺に聞くなよ」
立ち上がりながら少しふら付いたカイヤックはそう答えた。
“チィ! 随分回ってきてやがる”
“にゃにふら付いてやがるんだ”
そんな事には興味も持たないで、終演は今の出来事を納得していた。それは雷祇の動きに合わせるように、左の壁際から雷祇と同じ順序で、同じ格好で現れた鎧の動き。最初真ん中に佇んでいた鎧は左の壁際に現れる鎧と同じ部分だけ無くなり、雷祇が水の境界線を跨ぎ終わると左の壁際の鎧一体だけが部屋にいるようになった。
「雷祇、その辺りで本気で剣を抜いてくれんか」
「え、何で、ってあれ何時の間に……」
近くにばかり神経を張り巡らせていた雷祇は、振り返った時に鎧が左の壁際にいることに気がついた。
「さっさとせんか。時間は無いんじゃぞ。それと、剣は抜いたままで鞘に収めんでいいからのう」
ブツブツと文句を言いながらも、鎧の方に体を向けて居合い抜きの構えを作った。すると、それを真似するかのように、まるで同じタイミング、同じ動作で鎧が居合いの構えを作った。その事に驚きはしたものの、剣を抜けと言われていたので、自分の限界の速さで剣を鞘から抜き取り居合いを見せた。
「え……」
そして同じように鎧も居合いを披露していた。