第6章 アスクレピオスの杖 (5)
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暴風の中に放り出されたような風に包まれる中、明かり1つない暗闇を恐れてではなく自分の考えが当たっている事を恐れて、考えが外れている事を願いつつ雷祇は終演に訪ねた。
「……あの〜、僕たち今、どうなってるんですかね?」
雷祇の不安げな声とは違い、至って冷静に、普段と変わりない口調で終演は答えてみせた。
「うん? どうなってるって、落ちてるに決まってるじゃろう」
「あ、そうなんですか、やっぱり落ちてるんだ。あは、やっぱりかぁ〜、って何でそんなに冷静なんですか!! 落ちてるんですよ僕たち!! 暗くてどこまで落ちるか分からない中でですよ!」
「ぎゃあぎゃあ騒いだ所で何も始まらんじゃろう。それよりも、何時終わりが来る――」
終演の話を遮ったのは、何か大きな物が水に放り投げられた音だった。それに気づいた2人は、すぐに自分たちも水に落ちると思い身構え、身構え終わってから暫くして体が水の中に沈む感覚に襲われた。
「ぶはぁ! はぁ〜、よかった、助かった……」
沈むと分かっていたので、落ちた瞬間に水面に向かって泳いですぐに浮上した雷祇と、既に水面に浮かんでいる終演。
「そうじゃのう、あのまま落ちていれば確実に死んでおっただろうからのう。助かった助かった」
ここで本来なら聞こえてくるであろうもう1人の声が聞こえてこない。
「あの、カイヤック、どうしたんですかね?」
「さあのう? そんな事よりも、さっさとここを脱出する方法を考えんといかん」
そんな事で片付けられるカイヤックってと思いつつ、光がないが目が慣れてきた雷祇は水面を見回してみた。この時カイヤックのことよりも気になったことがあった、それはこの部屋が異常な程広いという事。光がないとはいえ、目が慣れればそれなりに見えているはずなのに、今見えている壁は一面だけで、端は闇の中に消えている。
“随分と広いな……。さっきの部屋とは比べ物にならない”
そう思っていると、雷祇の右手の水面に泡が弾けては消え弾けては消えを繰り返す場所があった。その下にカイヤックが居るのだろうと、雷祇はその泡の場所まで行ってから肺が広がる限界まで空気を吸い込んで潜りだした。そんな雷祇とは違い、終演は動かないで指についている水を口に含んでいた。
“少し塩気があるのう。海も遠くはないし、もしや繋がっておるのか? まあ、繋がっておるといっても、泳いでの脱出はかなり無理があるのう。それならば、せめて横の湖と……。いや、横の湖と繋がっておるのはかなり危険じゃ。はぁ、どの道打つ手なしか。さて、どうしたものかの”
雷祇はそろそろ空気を吐き始めないと苦しくなってきた時、カイヤックの姿を目で捉えていた。カイヤックのところまで潜って、水面まで引き上げれるか微妙ではあったがこのまま見送れば死ぬのは間違いなかったので、賭けではあるがカイヤックの元にまで潜って足を掴んだ。
“この巨体は陸でも水の中でも邪魔になるだけじゃないか! もう少し小さくなってくれないかな!”
足を掴んだのはいいものの、水の抵抗が思っていた以上に強くまったく浮上できず、逆に溺れているのと間違えるような格好になっていた。そんな状況にイライラしながらも、沈まずに沈んでいく時よりもゆっくりの速さで浮上していたが、残りの酸素の量では水面まで到底持ちそうもにもない。苦しくて手を離そうか考えながらも、離さないで頑張っていた雷祇の前に突然終演が現れた。驚いて残り少ない酸素を吐き出してしまうのを両手で押さえ、カイヤックの足を離してしまったがその足を終演が掴んで雷祇に水面を指差して上がれと口を動かした。それを読み取って、梯子を上るように腕を動かし水を掴んで水面を目指して浮上を始めた。
「ぶふぁ! げほぉげふぉはぁはぁはぁ、死ぬ、思――」
「まったく情けない奴じゃ」
水面に届く前に限界がきて、酸素と共に水を体の中に取り込んでしまったので咳き込んでいる雷祇に、壁に向かって泳ぎながら終演が言った。その言葉よりも、何食わぬ顔で平然と話しかけてきた終演の言葉に雷祇は驚いている。
「何驚いた顔しとるんじゃ? まったく、お前さんといい、こやつといい、足を引っ張ることしかせん奴らじゃ」
足を引っ張りながら、水面にカイヤックを引き上げるのではなく、泳いで壁際まで行くと終演は潜って、一気に上昇したかと思うと空中でカイヤックを思いっきり壁に叩きつけてそのまままた水に浸かった。壁に叩きつけられたカイヤックは、それで気を取り戻したらしく水に浸かると沈まずに浮いて頭を叩いている。
「イテェ、頭が割れそうだ、って、ここどこだ? あれ、何で水に浸かってんだ? 何でこんなに真っ暗なんだ?」
状況をイマイチ把握できていないカイヤックの頭を、終演がケルベロスで殴りつけると、水切りのときの石の様に水面を何度か跳ねてカイヤックが跳んでいった。
「何しやがる爺、って、なんだ、急に明るくなったじゃねぇか」
跳ばされて、最初に出た言葉が唐突すぎる意味の分からない言葉。
「頭の打ち所が悪かったんじゃないですか? 意味の分からないこと言ってますよ」
心配していると言うよりは、可哀想な物を見る目で見つめながら雷祇が終演に言った。
「心配は要らん、元からじゃ」
《まあ、頭がおかしいのは元からだとしても、今言った言葉は本当のようだぞ》
バナンが水の上に立つように空中で止まり、水に浸かった部屋の床を見るような格好でそう言った。それに釣られて2人も下に目をやると、90メートルはあろうという部屋の底の方がキラキラと光りだしているのが見えた。
「はぁ、最悪じゃな。お前さん、神獣とは話せんのか?」
《今は無理だ。確か雷祇とか言う奴のお蔭でこんにゃ体ににゃってるからにゃ》
雷祇を睨みつけながらバナンがそう言ったが、黒火の話を聞いていなかった雷祇には何の事だか分からなかった。
「一体何のこと――」
「途中に出口は?」
そんな雷祇を置き去りに、終演はバナンと話し出した。
《にゃかった。もしあったとしたら、俺様がここにいるはずにゃいだろ》
「奴に攻撃は効くのか?」
《まず無理だにゃ。全身には鱗というにゃの盾を纏っているし、ここの水が攻撃力を鈍くする。鱗一枚剥ぐ事すら、今ここにいる戦力じゃ無理だ》
部屋はますます明るくなり、見上げれば水面から10メートル程ある天井がはっきりと見える。
「打つ手があるとしたら、この部屋からの脱出なんじゃが、相当厳しいのう。やはり、あれを出すしかないようじゃ」
《うん? にゃにか作戦でもあるのか?》
「作戦というほどのこともないが、空を飛ぶことなら可能じゃ」
《空を飛ぶ?》
「さあどうするよ? とうとう部屋の中に入ってきちまったぜ」
照りつける真夏の太陽よりも断然明るい物を、眩しさのあまり目を半分以上閉じてカイヤックが指差した。
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とてつもなく大きな巨体を擦りつけながら、壁が膨らむほど無理矢理部屋に入り込んだその生き物。光り輝くその生き物のお蔭で、部屋の全貌は明らかになっていた。高さは100メートル以上あり、20メートル、いや30メートルはある部屋の広さ。何のための部屋なのか理解できないこの部屋に閉じ込められ、逃げ場のない雷祇の混乱する頭では、この生き物が何なのか理解する事は難しかった。その光り輝く生き物が部屋の底から金色の中で一際目立つ黒い瞳が、ギロリと獲物を見るように雷祇達を捉える。
「あの、睨まれてますけど。何だかスッゴイ睨まれてるんですけど!」
「あぁ、こりゃ敵だって認めた目してるな」
「敵って言うより餌だと思ったんじゃないですかね!」
「何で大きな声出してんだ?」
「焦ってるんですよ! この状況で焦らない方がおかしいでしょ!」
カイヤックが何度か瞬きすると、終演達を見て、自分を指差して言った。
「俺、焦ってねぇけど」
“どう考えてもお前たちがおかしいんだよ!!”
心の中ではそう叫びながら口では「そうですね」と、イライラを乗せた声でカイヤックに投げ飛ばした。
「神獣バハムート、確かにワシらではちと厳しいのう。じゃが、こんなとこで死ぬわけにはいかんのじゃ。なんとしても抜け出さねば」
《そうか。それじゃ、まあがんばんにゃ。俺様は上に出口がにゃいか捜すから、お前らは精精奴の餌ににゃってくれ》
水飛沫が上がらないように水面を蹴って飛び上がると、一瞬にして天井付近まで飛び上がったバナンは、天井や壁に空気の弾をぶつけながらある事を考えていた。
“バハムートって確か、海を司るさかにゃだったはず。俺様も何度か会ったが、それは全部海だったし、デカさもあんにゃには小さくにゃかったはずにゃんだが……。まあいいか、そんにゃ事、それよりもこんにゃチャンスは滅多ににゃいんだ。俺様だけで出会えるのは初めてだしにゃ、やる事は他にも……”
雷祇は現実逃避をするように、痛くない水面に何度も何度も頭を打ち付けていた。そのあまりの壊れっぷりに、カイヤックは少し距離を置くようにゆっくりと離れて行く。そんなカイヤックに終演が手招きをした時、大きな地震で揺れる地面のように水面が激しく揺れ、大きな波が起こったかと思うと急激に水面が下がった。
「な、何ですか! 地震ですか?」
小さな波が壁に当たっては大きな波に変わって、部屋の中は幾つもの波が生まれていた。その波達に飲み込まれないように、必死で踏ん張っている雷祇をカイヤックが捕まえると、終演の側まで近寄った。
「何だ爺さん? 作戦でも思いついたか?」
カイヤックの言葉に答えるのではなく、飛魚の様に水面から飛び出してカイヤックの肩に飛び乗ると、雷祇に不敵な笑みを浮かべて尋ねる。が、部屋の底を見ていた雷祇は終演の言葉をまともに聞いておらず、バハムートを直視して固まっていた。そんな雷祇には、この時の終演の言葉が仏の声に聞こえたのだろう。本当は悪魔なのにも気づかないで、雷祇はすぐさま頷いた。
「飛べるんですね! 飛べたら助かるんですね?!」
悪魔の笑みが仏の顔に見えている雷祇は、疑う事無く終演を見つめている。
「そうじゃ、飛んで出口を捜すんじゃ。飛んで水の中から脱出するんじゃ。じゃからワシを怒るんじゃないぞ、雷祇よ」
雷祇は何の疑いもなく頷いているが、2人のやり取りの怪しい臭いを、カイヤックは嗅ぎ逃さなかった。
「おい爺さん。どうやって空なんて飛ぶんだ? 羽なんてねぇだろ? この壁じゃあ、登れねぇだろうし――」
壁は苔が生えていてとても登れそうにない。
「それに、それじゃあ飛ぶなんて言わねぇよなぁ? じゃあ、どうやって飛ぶんだ?」
ここで漸く今まで信じていた仏が似非の仏だと気づいて、雷祇が恐る恐る見上げた終演の顔は悪魔でも逃げ出すような企みの笑顔。
「ちょっと、ま――」
雷祇の声に完全に被せるように、被せるだけではなく掻き消すように終演が大声で商品の紹介を始めた。
「さあ皆様お待ちかね、ワシの作りし、最! 高! 傑! 作!! ヤダ!カラス君4号+α改12でございます! 大空を翔る鳥のように、空は貴方だけの物になる。そうそれは、空が貴方に平伏すという事……。それほど素晴らしき機械!! 今ならお求め安い8億9百万レンで、あございますぅ〜!」
終演は商品紹介を終えると、背中のリュックを中身が零れないように腕に巻きつけ剥ぎ取って、銀色に輝く機械の翼を露にした。鉄の箱に2箇所のへこみがあり、鉄の箱から仕舞われていた二枚の翼が飛び立ちたそうに勢いよく現れた。
「は、はは! +α12って何なんですか。改の後ろの数字と言葉の意味を教えろ!! 何だ、何時作ってたんですか? いつ財布から金抜きやがったんですか!! そんな時間も金も無かったでしょうが!」
「決まっているじゃろう、列車の中と、列車の中と、列車の中じゃ」
「そうか、列車の中だったんですね! そうですか、なら列車の中でも――」
今雷祇の大声を遮ったのは、終演の声ではなくヤダ!カラス君から伸びてきた腕だった。長く伸びてくる腕に反応して避けようとした雷祇だったが、水に体を掴まれいつものような素早い動きが出来ず、普段どおり動いてしまった雷祇はあっけなく顔面を捕まえられた。しかもただ捕まえるだけでなく、林檎なら軽々砕け散る程の力で雷祇の体を水の中から引き上げた。
「あ、あれ、どうしたんじゃ? な、何なんじゃ、言う事を聞かん。おかしい、おかしいの、少し壊れて――」
ヤダ!カラス君の胴体部分をゴチャゴチャ弄りながら、珍しく少し焦っているのはこの後の雷祇が怖いから。そんな終演の焦りとは違う焦りの声をカイヤックが上げた。
「ちょ、じ、爺さんよ。早くしねぇと俺達喰われちまうぞ! 雷祇のことなんざ後でいいから、さっさとどうにかしてくれよ!」
「その言葉、忘れるんで無いぞい」
カイヤックの言葉に、終演はまた怪しげな笑みを浮かべた。そしてヤダ!カラス君の点火スイッチを押した瞬間、「あのよ」とカイヤックがヤダ!カラス君のへこんだ部分を見つめて終演に聞いた。
「こういう意味かよ爺さん! ちょ、離しやがれ!」
「何言うとるんじゃ。掴んで一緒に飛ばんと、お前さんだけあ奴に食われるぞ」
食われるという言葉は、先ほどの水面の揺れと関係がある。
「そうか。でもよ、ここに固定する必要はねぇんじゃねぇか?」
カイヤックの体をヤダ!カラス君から伸びたもう2本の腕で、顔面をへこんだ部分に付きそうな位置で固定されていた。
「大丈夫じゃ。助かりたいんじゃろ? じゃったら少し熱いくらい我慢するんじゃ」
「熱い? 熱いって一体――」
そんな不安げなカイヤックの声を、ヤダ!カラス君が轟音で掻き消し、それと共にへこみから噴火以上の強烈な炎を噴出した。
「なぁ!」
炎を避けようとしたカイヤックだったが、顔面を押さえつけられていて動かす事が出来ずに炎の直撃を受けた。顔を焼かれるカイヤックに、指がめり込んで動かなくなった雷祇。そんな2人を見ようとせずに、久しぶりに終演が「出発じゃ!!」と明るい声で言った。