第6章 アスクレピオスの杖 (2)
4
段差を一歩踏み間違えば、奈落の底に引き摺り込まれそうな錯覚に陥る階段。その暗闇の中を、終演は躊躇う事無く先頭に立って小走りで駆け下りていた。
「また豪く早く下りるな、爺さん」
最後尾にいた、普通に立っていられず前屈みで階段を下りているカイヤック。
「そうですね。で、ここどこなんですか?」
未だにここがどこか教えてもらえずに、現状を把握出来ていない雷祇はカイヤックに目をやる。その瞬間、躓くように階段から足を滑らせ後ろに扱けてきた雷祇を受け止めると、カイヤックはそのまま抱えて階段を下りはじめた。
“あ、これは楽だ”
そう思っていたのも束の間だった。駆け下りていたはずの終演の足音が消え、代わりに立ち止まる姿が見えてきた。そこは階段の終わりにして、遺跡の本当の入り口。それを示すように、長い廊下には皆を導くような先に続く明かりが灯された。
「奥まで案内してくれるようじゃのう」
その灯りが続く、どこに繋がるか分からない光の先を見ながら終演が話す言葉に、バナンは引っかかりを覚えて仕方がなかった。
“ようだ、じゃにゃいだろ。案にゃいしていると間違えたのか? どう考えてもこの遺跡は静華の力とつにゃがりがある。アスクレピオス、神のにゃ、か。この遺跡と静華とはどんにゃ関係にゃんだ。もしにゃにかあるようにゃら、その時は静華以外は殺す。俺様の命を賭しても”
慎重に、けれど迅速に歩く終演と、その後ろに何か怪しい行動をしないか睨みながら、静華に何もないように鬣に神経を注いで付いていくバナン。一人と一匹の間には言い知れぬ緊張感が漂っていたが、その雰囲気とはかけ離れたカイヤックが雷祇とゆっくりと歩いていた。
「よお、雷祇。雷祇はこういう所慣れてんのか?」
「まあ、それなりには。何でそんな事聞くんですか? カイヤックなら僕よりもこういう所慣れているでしょ?」
「いや、あんまり、ってか初めてだ、遺跡ん中入るなんてな。基本は戦場やら、賊狩りぐれぇしかやらなかったからよぉ」
その言葉にかなり納得した雷祇。その様子に気づく事無く、カイヤックは首の運動をしているかのように上下左右に遺跡の中を見回した。その時に床や天井、壁に何か引っかかりのような物を憶え、それを確かめようと屈んで、床の気になった部分をじっと見つめた。
「何やってるんですか、カイヤック。終演たちに置いてかれますよ」
後ろから大きな影がなくなった事に気づいた雷祇が、カイヤックの側に近寄っていた。そのカイヤックはというと、床の小さな、普通なら気づかないような穴を見つけていた。それを覗き込むように、大きな体を屈めて腰を落としていた。
「いやよう、本なんかじゃこういう場所ってのは、罠なんかがあるはずだろ? それで周り気にしてたんだが、なんか感じ取っちまってな。気になって床見てたら、穴見つけちまったんだ」
雷祇でも屈まないと見つけることが出来ないような小さな穴が、壁、床、天井至るところ無数に鏤められていた。そんな穴この大きな人がどうやって見つけたんだろうと疑問に思いつつも、振り返ればかなり小さくなっている終演達とこれ以上離されるのは不味いと思い、カイヤックを急かすように立ち上がらせた。
「確かに気になりますけど、急がないと本当に置いて行かれますよ。何度か経験あるんで」
「あぁ、そうだな。確か本じゃ、一本道とも決まってなかったしな」
どんな本を読んでいるんだと思いつつも、行く気になったカイヤックに何も言わなかった雷祇だった。
「何をやっておったんじゃ」
遅れていた雷祇達が追いついた事に、特に心配する素振りも見せないで冷たくあしらった。そんな終演の態度を気にする様子もなく、カイヤックは平然と話し出した。
「いやよう、罠がねぇか捜してたら、床や壁やらに豪く小っこい穴見つけてな。それが何か調べてたんだ」
“調べるって程、何かしてたか?” 「そうなんですよ。けど大した事ない、ただの模様だったみたいです」
立ち止まる事はなかった物の、一度だけ振り返りギロリと鋭く睨みつけながらこれもまた鋭い言葉を投げつけた。
「何もなければ、そんなくだらん物になんぞ気を向けるんじゃないわい。まあ、くだらん‘モノ’同士が引き合ったのかもしれんがな。ワシらには、紫月には時間がないんじゃぞ」
ここで漸く紫月の事を思い出した雷祇だったが、どう考えても終演が怒っているようにしか感じられない今、小声でも喋る事を許さない雰囲気になっていた。聞きたいけれど聞けないもやもやした気持ちのまま、雷祇は曲がり角を曲がった。
「バナン君、気を付けて」
それはバナンにしか聞こえない、口だけを動かしたような警告の言葉。間違いなく静華からの物だったが、まだ目が覚めてはいなかったので、寝言か何かだと思った。そう思えたのも一瞬だった。遠くで何かが動き出し、迫りくる音が聞こえ始めたから。
「うん? 何か聞こえねぇか?」
「本当だ、何か聞こえる……。後ろからですね」
二人は立ち止まって振り返った。
「分かんねぇな。強いて言うなら、鉄が摩れる音、ぐらいか」
「そうですね。終え、あれ? いない」
二人が進む道に視線を戻した時、先程までそこにあったはずの二つの影がなくなっていた。
「これってよぉ、不味いんじゃねぇかな。なんだか嫌な予感がしやがるんだが……」
「僕も同感です。それじゃあ、一緒に走りますか。そろそろ走り出さないと、手遅れになるような気がするんですよね」
「よし、じゃあ、振り返えらねぇで、全力で行こうじゃねぇか」
曲がり角近くまで何かの音が迫ってきた時、何が迫ってきているのか確かめる事無く、全力でその音の正体に掴まらない様に走り出した。もちろんそれは、振り返っている時間がないということを示していた。
“絶対に振り返れない。余裕が、そんな余裕が今この状況にあるはずがない!”
《随分酷い事するじゃにゃいか。下手するとあいつら死んじまうぜ》
二人を置いて、かなり先まで進んでいる終演とバナン。バナンはあの二人がどうなろうと知った事ではないが、終演が見捨てるとは思ってなかったらしく、同じ速さで進みながらそう声を掛けた。終演の答えを待てないバナンの尻尾は、獲物を狙う時のように右に左と波打っていた。
「この程度では死なんだろう。それにはまあ、この程度で死ぬようならこれから先は生きていけんよ」
《それはこの遺跡の事を言ってるのか? それともその後の事か?》
どちらもじゃ、と答えた終演はスピードを上げると、既に見えていた部屋の入り口に向かった。その時、脆くなっていた床が崩れて、遥か底に落ちて消えた。
“水脈か?”
「無理ですって! このままじゃ追いつかれます!」
限界で振り返った雷祇が見たのは、上下左右全ての方向から飛び出す細く鋭い長槍。それも見事としか言いようがないタイミングで、上・左・下・右と順を追って飛び出している。恐怖のあまり足が竦んだ雷祇が自分の足に躓いて扱ける寸前、カイヤックが雷祇を掴むと、そのまま肩に担いで走り出した。
「ちゃんと掴まってろよ。少し早く走るからよぉ」
その言葉どおり、今までよりも早く走り出した。背中目前にまで迫っていた槍の藪が遠ざかる事に少し驚くと共に、カイヤックを少しだけ凄いと思っていた。かなりの距離が開いた所で降ろしてと言をうとした時、突然カイヤックの動きが止まった。
《さあ、どうする糞人間。お前でも飛び越えれにゃいだろ》
その言葉の意味が分からない雷祇はカイヤックから降りようとしたが、カイヤックがそうはさせず、左手に雷祇を持ち返るとキャッチボールの時のようにそれほど力を入れずに終演達に向かって放り投げた。突然急スピードでカイヤックが遠ざかり、飛んでいると理解すると、どこに飛ばされてるのか心配になり猫のが落ちるように空中で体を回転させた。
“壁!”
回転させた事で目の前の壁に手を付き、押し返す事で直撃を避け終演の横に着地する事が出来た。雷祇は怒ろうとカイヤックの居る方に体を反転させ始めたが、終演の危ないぞという言葉で、怒りよりも身の危険を感じて終演の居る方に跳んだ。
“か、風!”
背中を掴まれ、投げ飛ばされるような風が通り過ぎた瞬間、部屋の中に金属が擦れる音が響く。それはイクリプスが強烈な、雷祇とはまるで違う速さで部屋の中に飛んできて、床に当たると跳ね上がって壁にぶつかり起こった音だった。そのイクリプスを見届けた終演は、カイヤックの方に目をやった。
《形見の積もりか? それにゃら、ありがたく俺様がどこかの海に捨ててやるよ》
「うるせぇ、糞猫」
《威勢がいい割には、打つ手にゃしか? ほら、とっとと跳んで来ればいいじゃにゃいか? でもまあ、人間には到底飛べにゃい距離だにゃ。翼もにゃいしにゃ。でもまあ、安心する事だ。落ちても即死はにゃい、下は水脈だ。落ちたところでそのまま海にでもにゃがれるだろう。まあどの道そこで死ぬだろうが》
カイヤックの前にはあるはずの床がなく、代わりに10メートルはあろう地下水脈に続く大穴が開いていた。
「ごちゃごちゃごちゃごちゃ、よく喋る糞猫だ。いい加減、少し黙ってな」
挑発に乗る様子がないカイヤックに、不満一杯の表情でバナンは黙り込んだ。
「いい子じゃねぇか」
その言葉と共に1つ息を吐くと、ギリギリまで引きつけていた槍の藪と一緒に大穴に向かって飛び出した。5メートルは難なく越えたが、8メートル付近では流石に体が沈み始め、到底大穴を飛び越える事が出来そうになかった。
“そのまま落ちて死ね”
“なるほど、だから態々槍を限界まで引き付けたのか”
空中で長く太い足を縮ませる事で、槍を避けると同時に次に伸ばす時には槍を踏み台にしようと考えだった。成功すれば飛び越える事は可能だが、失敗すれば槍の藪に全身を貫かれて死ぬ事が決まる。しかも槍はそれをさせない様に出来ているのか、槍を蹴れる時には次の槍の先がそこにはある。それでもカイヤックは強行した。
“刺さったにゃ。それで、にゃに!”
足に槍の先を突き刺さらせたままカイヤックは無理矢理跳び、大穴を飛び越えるとその勢いのまま終演達の居る部屋の中に飛び込んだ。それと同時に、槍が部屋の入り口を塞ぐように大きな音と共に天井に突き刺さった。
《随分ギリギリだったにゃ。でもまあ、足を傷付けたこの遺跡を褒めるか》
「何言ってやがる、無傷じゃねぇか。そんな事よりも、この部屋は一体何なんだ? 入り口が三つもあるじゃねぇか」
部屋の中を見渡しながら、カイヤックがそう言った。その言葉に、雷祇は正確には4つだと思っていた。
“うん? ……そうか、先ほどの音はこれの合図か” 「さあ、さっさと扉の開け方を捜すぞ。でなければ、ここで潰されるからのう」
「潰されるって何ですか?」
雷祇が問いかけると、終演は天井を指差した。雷祇達が一斉に見上げると、そこにはある異変が起こっていた。
「よくある話じゃ。天井が床に向かって降りてきておるんじゃ」