第5章 魔女の住む森 (6)
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「糞、今度は風か!」
塔全体を揺らすほどの風が最上階の壁や床、天井を少しずつ吹き飛ばしているが、カイヤックは黒火を抱え、もう片手でイクリプスを床に突き刺し持って踏ん張り、その横でバナンは羽ばたき風の魔法を打ち消して耐えている。雷祇と終演は雷命を床に突き刺し、何とか皆飛ばされないように耐えることが出来た。その姿を見た黒いマントは風の魔法をすぐに止めた。
《チィ! もう次来るぞ!》
黒いマントが羽も無いのに空高く飛び上がった姿を見てバナンがそう言うと、2人は剣を抜き今度は部屋の中央に集まった。そこで雷祇がある事に気づく。
「終演、何か聞こえませんか?」
《これは、対空用の砲台の音》
「対空用じゃと。何者が来てるが知らんが、今はここをどう乗り切るかが先決じゃろうて」
空高く飛び上がった黒いマントは空の闇に紛れて確認する事が出来ないが、代わりに見えるのは月よりも近い場所にある惑星と見間違うほど大きな岩の塊。
「なあ爺さん、ありゃ月じゃねぇよな」
「当たり前じゃ。あんなデカイ月見たことないわ」
空に突然現れた月よりも大きな巨大な岩。その岩が空を押し潰しながら雷祇達のいる塔に向かって落ちはじめた。
「どうする? 避けるにもどこも逃げ道はねぇぜ」
「階段も駄目ですし」
《下手に飛び降りて海に落ちれば、それでも死ぬしにゃ。ってことで、俺様は魔法の泉の水と黒火を連れて逃げ出すと――》
飛んで器に向かおうとするバナンの尻尾を雷祇とカイヤックが掴んだと同時に、器の手前に黒いマントが降りてきて器を守るようにしっかりと巻きついた。
《クソ、もう俺様の尻尾はにゃせ! 折角の器を取れるチャンスを無駄にさせやがって》
「おめぇが逃げようとするからだ糞猫」
「そうだバナン、黒火さんだけでも連れて逃げてくれないか。後で器――」
「駄目ですよ! そんなの静華さんに合わす顔がありません」
そんな事を話している間に雷祇達の視界から空が消え、雲の代わりに地面のような岩が夜空を覆い隠す。それはまるで空が落ちてきているようだ。
「この魔法の直撃で、塔は完全に破壊されるはずじゃろう? なのに何故奴はこんな事を」
「それは、塔が破壊されても魔法の泉さえ無事ならば何度でも再生できるからです」
《そういうことか。にゃら仕方にゃい、この岩ぶっ壊すだけだにゃ!》
バナンは大きく息を吸い込み、岩の空に向かって空気の弾を撃ち込んだ。が、その弾は泉を守っていた黒いマントによって潰され、岩の空は傷1つ付かなかった。
「駄目だったようだな糞猫。万事休すってやつか」
《クソ》
「こんなとこで死ぬわけには……」 “このままではワシの願いが……”
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「い、一体、何が起こった?」
《さあにゃ》 “ただこの感じは知っている。俺様を倒した時の雷祇の物と似ている。いや、あの時の悪意よりかは薄く感じる。が、それでもこの俺の体を貫くようにゃ、突き刺さるようにゃ威圧感は同じ”
驚き黒火は声も出ていないようだ。雷祇達の身に一体何が起こったのか、それは突然ドーム状の向こう側が透けるほど薄く青い鏡のような物が現れ、それが塔よりも遥かに大きな岩を受け止めたのだ。その鏡に守られ雷祇達は無事だった。皆がそれぞれに驚いている中、指先だけが触れるように慎重に鏡のような物に伸びる腕。
“やっぱりだ。これは、氷。あの、あの女の子が、この近くに……”
“やはり来おったか。次は逃がさんつもりか”
まったく動かなくなった巨大な岩。その岩に異変が起こり始める。鏡のような氷に触れていた部分から、まるで氷の中に取り込まれていくようにゆっくりと表面が凍りついていく。それは目に見えるほどの凍り付き様。
「氷か?」
「そのよう――」
ここで岩が全て凍り付き、ピシピシと音が鳴り始める。それは氷の冷たさに耐え切れなくなった岩が上げる苦しみの音だったのかもしれない。
《崩れるぞ!》
その言葉が最後の引き金になり、少し膨張したかと思うと次の瞬間には破裂したかのように一気に大きな岩が崩れ落ちる。
「す、ごいです。こんな大きな岩が、崩れてるのに、この氷は、ビクともしない、なんて」
今目の前で起こってる信じられない光景に黒火の言葉は途切れ途切れ出てくるが、雷祇達を覆う氷には止め処なく岩の氷が滝の様に流れ続ける。それは数分間だったが、雷祇達にとっては何時間にも感じたであろう恐怖。その岩の滝が終わった時、覆い隠されていた夜空の星が輝くのが見えてほっとしたのも束の間だった。
「何だ、先客はキミだったんだ雷祇。この前よりもちょっとはマシになった?」
それは氷の靴を穿いて、空を歩いている女の子の声。
「って、そんなにビックリしなくてもいいんじゃない?」
想像はしていた、この子だと。ただそれは階段から来るものとばかりに思い込んでいた雷祇は、心だけではなく驚きが顔にまで表れていた。
「嬢ちゃんよ、何で空飛んでんだ?」
それは場の空気を壊すのには十分な一言だった。それに気づかずにカイヤックは塔の反対側近くにいる女の子に凍った岩の残骸を越えながら近づき、不思議そうに近くで見る。
“ボクの事、すぐに女の子って見抜いた”
あまり言われ慣れない言葉に少女は驚いた顔をしたが、塔から落ちる寸前まで近寄り靴をじっと見ているカイヤックに疑いの目を向ける。
「ヘェ〜、ボクを始めて見てすぐに女の子って分かったって事は……。おじさんってロリコン?」
「何でそうなるんだ。俺はな、嬢ちゃんが嬢ちゃんの顔してるし雷祇と雰囲気も違う、髪を伸ばせば普通と変わらねぇ、可愛らしい嬢ちゃんの顔だから嬢ちゃんって言っただけ、っておい、話聞いてるか?」
空中に佇んでいた女の子は顔を赤くしたかと思うと、しゃがんでカイヤックから遠ざかりに背を向けた。
“カ、カワイイ……。カワイイなんてボク初めて言われたよ……。どうしよう、何かボクドキドキ、ってダメダメ、ボクには、ボクには風牙っていう歴としたカレシがいるんだし。でも、で――”
「嬢ちゃん!」
「え」
「え、じゃねぇよ。何やってんだ?」
「べ別に何もしてないよ」
何かを隠すように慌てて立ち上がり、わざわざカイヤックよりも高い場所に歩いて移動する。
「そんなね、たかがカワイイとか言われたくらいで、ボクの心は動か、な……」
女の子の動きが固まりカイヤックの視線の先を辿る。
「あのよ嬢ちゃん。浮いてんのも不思議だが、何でパンツ穿いてねぇんだ?」
カイヤックの言葉で顔が茹でた瞬間の蛸のようにさっと紅くなり、「きゃ」っといいながらいかにも女の子らしい声で悲鳴を上げて、何も無いはずの空中に尻餅を付いてスカートを押さえた。
「……やっぱりロリコンだ」 “普段なら見られても何とも無いのに、どうしてこんなに恥ずかしいんだろ?”
「だから違うって。嬢ちゃんが――」
その時、氷の岩の下に埋まっていたはずの黒いマントが、風船の様に膨らみ岩を吹き飛ばして姿を現した。器の中の水は一滴も零れていない。
「厄介な時に来てくれたもんじゃな。今お前さんと遊んどる暇はないんじゃよ、カイヤックよさっさとこっちに来い」 “せめて水だけでも手に入れて、紫月の元にバナンと黒火に届けてもらう。3人がかりなら、疲れているとはいえ1人ぐらい殺れるじゃろうて”
「あっそ」といいながらカイヤックから大分距離を置き、ゆっくりと塔の床と同じ高さにまで下がってから女の子は立ち上がり、終演を横目で見た。
「今回はボクもボクの為に来たんじゃないし、遊んでるワケじゃないよ。それに、ボクだ――」
空中を歩く女の子とカイヤックの間を、黒いマントが放った火の玉が2人の鼻先を掠めた。
「いやなんだ、鼻が焼け焦げた様に熱いんだが気のせいか?」
「違うわい。さっさとこっちに来い、どうやらあの黒マント――」
「あれ? もしかしてボク、狙われてる?」
カイヤックは振り返り、女の子はそのまま真っ直ぐ雷祇達に視線を送りながら首を傾げた。しかし誰も答えずにいると、女の子は突然下を向き塔の下に大声で話しかける。
「大丈夫だよ! 問題ない!! ……うんとね、何か変な黒い布がいる。……え、これがこの塔の守護なの。なんか頼んないなぁ〜。もっと強そうなの想像してたのにぃ〜。……そうだね。水希ネェも上がって来たほうがいいよ。だって、ここに用があるの水希ネェだもんね」
その間にカイヤックは女の子から離れ、雷祇達と合流する。そして女の子は下にいる誰かとの会話を終えてから塔を見た。
「うわ、ちょっと凄いね、その大きさ」
カイヤックと女の子に当たらなかった火の玉も相当の大きさだったのは間違いないが、今度のはさらに、さらに巨大な炎の玉。それはまるで空に輝く太陽のような熱さと輝き、大きさだった。その太陽のような炎の玉が、少女が塔を見た瞬間には飛んで来ていたのだ。その時に最上階に残っていた岩はすべて溶けた。雷祇達はバナンの鬣で何とか無事に済んだようだが、女の子は逃げ出す余裕は無く、何かをする余裕も無いはずだった。それを示すかのように、雷祇達が見たのは炎の玉が何かにぶつかり大爆発を起こしたかと思うと、次の瞬間には空を走る列車の為のレールが2本夜空に架かり、今が夜だとは誰も思えないほど明るくなった世界だった。
「な、何て威力じゃ……」
「おいおいおい。今、夜だったよな? それとも真昼間か?」
《これも、これも魔法の一種にゃのか? どう考えてもただの火の魔法とは、信じられにゃい》
「ち、違います。こ、これは、ただ純粋な、本当に純粋な、火の魔法の、威力です。けれど、こんな威力、聞いたことありません。夜を、昼に変えてしまう、こんな力」
「これなら、これならば、もしかすると死んでくれたかもしれんな」
“違う、まだだ、まだこんな事じゃ――”
雷祇にだけは少女がどうなったかが分かっているようだった。それを証明するように無傷だと雷祇が呟くと、夜を昼に変えた炎のレールの始まり、まだ爆発し燃え続けている太陽の残骸が一瞬にして、ほんの瞬きほどの一瞬にして氷のオブジェへと姿を変え、炎のレールの上を氷の列車が走るように一気に炎が凍り付いていく。そして再び空には夜が舞い戻り、氷の中心からは先程の女の子の声が聞こえてきた。
「スッゴイ威力だね。この火力なら炎火よりも上かもよ。けど残念、ボクにこの程度の火は通じないよ」
コンと、澄んだ心地よい音が響くと、その音の広がりと共に氷のオブジェが崩れだし、それに引き摺られるように夜空に架かる氷のレールも音を立てて崩れ落ち始めた。
「あ、水希ネェ。おっそいぃ〜、折角さっき楽しかったのに」
空中を歩いて女の子が塔の床に下りたと同時に、階段の方を見ながらそう言った。それに釣られるように水希と呼ばれた女性の顔を全員が見ると、ある2人が過剰に反応して言葉をなくした。
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「そんなに驚かないでください、お父様」
水希と呼ばれた女性が言ったお父様という言葉は、終演に向けて送られた言葉。動くわけでもなく、目を逸らすわけでもなく、終演は水希を見た瞬間に時の中に置き去りにされた。
“あの時、殺したはず。にゃんの事だ、にゃにを言っている”
「水希ネェ、何でそんな奴の事お父様なんて呼ぶの?」
水希は美しく母のような優しい笑みを浮かべた。
「そんな奴って……。はぁ、私の場合は氷菜や他の子達とは違うの」
ふ〜んと気のない返事をした氷菜が何かを思い出し、水希に慌てて言う。
「そうだ、水希ネェ。早く水飲まなくちゃ。まだまだ次があるし」
「水とは、魔法の泉の水の事か?」
時間が正常に動き出した終演は水希から目を離し、氷菜を睨みつける。
「そりゃそうでしょ。ここにジジイが言った水以外あんの?」
「こら、氷菜。そんな失礼な喋り方はいけませんよ」
「え〜、だってだって、風牙に教えてもらったけどこのジジイ――」
「氷菜」
「う、うぅ。そうだ、風牙もジジ、お、お爺さんに会ったって言ってたけど、こんな感じに喋ったって言ってたよ」
風牙、この名を聞いてすぐに雷祇が反応する。
「風牙って、やっぱり、やっぱり君たちと仲間だったのか」
「ヘェ〜、ホントにちょっとはマシになったみたいだね、頭の方は。そうだよ、ボクと風牙は同じ力の持ち主で仲間、それと恋人同士。ちょっとは目を向ける様になったキミにご褒美として他に誰がいるか教えてあげる」
「氷菜、そんな事――」
「いいのいいの、だって数が分かった所で何にも出来ないよ。それにそれぐらいで香煩は怒んないよ」
“香煩。やはり奴じゃったか”
「それで他にはね、ここにいる水希ネェでしょ、土門でしょ、あとはどうでもいい弱い弱いバカ炎火。それと……」
とても幼く可愛らしい、悪戯心溢れる笑顔。
「キミだよ、雷祇」
「え……」
それぞれが違う驚き方をしていた、終演だけを除いては。
「ねぇ、氷菜。あの子が雷祇君なの?」
水希が雷祇を指差すと「そうだよ」と氷菜が答えた。それに頷くと水希はゆっくりと雷祇に向かって歩き出す。
「下がってな、雷祇」
何かを感じ取ったのか、カイヤックが雷祇を庇うように前に出た。その瞬間だった、思ってもいない場所から声が聞こえてきたのは。
「ロリコンおじさんの相手はボクだよ。弱い男は嫌いだからね」
イクリプスを構えたところだったカイヤックの横、先程までいた方向とは反対側に回り込んでいた氷菜の声だった。そして低い大勢のままカイヤックの脇腹目掛けて、先程までは持っていなかった氷の剣で斬りかかった。
「チィ!」
避けようと体が反応して横に動くが、頭では避けきれないと思っているらしくイクリプスで氷の剣を防御しにかかる。
“体が浮き上がる?”
カイヤックは氷の剣を防御できるには出来たが、体勢の悪さもあり塔の反対側にまで吹き飛ばされ雷祇達から離される。もう少しで塔から落ちそうになったカイヤックだったが、大きく両手両足を広げて床にへばり付く様な低い大勢で止まった。
「大きい体なのに、反応はいいんだね」
床に目が落ちていたカイヤックが前を向くと、そこには細く青白い2本の足。その2本の足を辿っていくと、そこにいたのはスカートを押さえながら自分を見下ろす氷菜だった。
「ダメだよ、スカートの中ばっかり覗いちゃ」
“カイヤックなら、多分大丈夫だ。それよりも……”
水希を見ていた雷祇だったが、後ろを少しだけチラリと見てまた水希を睨む。
“駄目だ、終演と黒火は動けそうも無い。バナンは、多分黒火は守るだろうけど僕は論外だろから、ここは!”
雷祇は雷命を抜きながら黒いマントが包んでいる器の近くに走って向かい、広い場所に着くと剣を構えた。だが雷祇のこの行為は水希の足を止めるには至らず、平然とした足取りのまま一歩ずつ雷祇に近づく。
「止まってください。僕は本気ですよ」
その言葉、少し震える声に水希は微笑を湛える。どう見ても武器を持っているとは思えない水希が一歩近づく度に、雷祇は押されるように半歩下がる。その繰り返しが暫く続いたが、雷祇が器の台座まで下がり後が無くなると、その頃には水希が手を伸ばせば触れる事が出来る程近づいていた。
「あなたが、あなたが悪いんですよ!」
それほどまで近づかれた雷祇は、大声の言い訳と共に水希に斬りかかった。その一撃は水希を的確に捉えた。ただ、束ねても量のある綺麗な髪数本と、雷祇よりも随分と高い位置にある強い風が吹けば折れてしまいそうな細い首筋に触れるというだけのダメージだったが。
「どうしたの? その剣で躊躇わずに私を斬り付けていいのよ」
今でも触れている雷命は、雷祇の体の震えを感じて同じように震える。その姿を見て、今までここに来てからは見せた事の無い悲しそうな、心の底から雷祇を思いやっての悲しそうな表情になった。
「可哀想に。本当のあなた、いえ、あなたの中にいる彼ならば躊躇う事無く、震える事無く、涙など流さずに私を斬り捨てているのに」
自分の首筋に触れている雷命に指を這わせ、そっと下げさせる。それに抵抗する様子は雷祇にない。そして水希は雷祇の前に立つとゆっくりと跪き、頬を伝う涙に触れ、次には覆いかぶさるように体を引き寄せ抱きしめた。その行為に驚き戸惑う雷祇の耳元で水希は謝るように囁く。
「あなたは何も悪くないわ。ただ、あなたの中にいる彼の影響で人を殺す事が、命を奪う事が怖くなったのね。大丈夫、あなたは心優しい、とってもいい子だから。だからこそ、あなたはここで死んだ方がいいの。これから先、真実に近づけば近づくほど、あなたには辛い事しか待っていないから」
水希の言葉が聞こえなくなり、顔が遠ざかると雷祇は思っていた。心と脈がとても速く動いていた。とても、今まで包まれた事の無いほどとてもいい匂いだとも、雷祇は思っていた。
「これは私が出来る、あなたへの最後の手向け」
雷祇が思っていたこと、自分は死んだ方がいいのかもしれないと思っていたことを水希に言われ、雷祇は何か思うようにじっと目を閉じている。
“僕は、僕は何なんだ?”
頬を包み込むように指先が触れた。
“僕はもう泣いてないのに”
いい匂いがゆっくりと近づいてくる。
“この匂い、どこかで嗅いだ事あるな。なんだかドキドキする”
胸が当たり顔が少し上に持ち上げられる。それにただ雷祇は身を委ねた。
“なんだろ、何するんだろ?”
無防備な雷祇の唇に柔らかい、今まで触れた物の中で何よりも柔らかな物が張り付いた。
“あぁ、これがキスって言うんだ。初め、てでもなかった。今までは痛いくらい硬い唇だったからな”
どれくらいの時間だったか分からないが、唇が離れていくのを感じた。そして離れたばかりの唇から言葉が出てくる。
「始めますよ、ハルワタート」
“ハルワ、!”
水希の髪と目の色が水色に染まった次の瞬間、2人を水の球体が一気に包み込んだ。
「さようなら」
水の中では聞こえないはずの言葉が雷祇の耳に届いた時、水希は雷祇から離れて立ち上がった。そして水希は、見ていられないといった感じで目を伏せてゆっくりと歩いて水の球体から外に出る。
“動け、ない”
突然の事で殆ど息を吸っていなかった雷祇は、動く事が出来ずにただもがく事しか出来なかった。そんな雷祇に追い討ちをかけるように、大きかった水の球体が徐々に小さくなり始め雷祇の体を締め付け始める。その締め付けが想像以上にきついらしく、雷祇の動きが一気に小さく弱々しくなる。
“ふん、俺様を殺した罰だ。ここで死んでくれれば俺様は……。って、あの水希とかいうおんにゃ、泉を手に入れるんだったよにゃ。にゃら紫月は助けれん、つまりは俺様の願いが……。いやでもまあ、俺様も精一杯がんばったと言え、にゃいにゃこの状況にゃら。黒火が見てるんだからにゃ。にゃ、にゃ、どうする?” 《爺さん! 止めにゃくていいのか!》
終演はバナンの言葉にただ下を向いて、目を瞑っていた。黒火がどうこう出来る相手でないと分かっているバナンは、心の中では嫌がりながら水希に向かって飛びかかった。
「どきな嬢ちゃん。嬢ちゃんの相手してる暇はねぇんだ」
立ち上がりながら目をやるのは殆ど動けなくなった雷祇の姿。そして、もう1つ。
「ふ〜ん。ロリコンおじさんがボクの相手してくれないなら、あっちでいいや」
カイヤックが見た雷祇とは違う方、水希に向かうバナンの姿。それをカイヤックの目の動きで分かっていた氷菜が氷の剣を矢に作り変えて、振り返りざまにバナンに向かって投げつけた。
《チィ!》
視界の端に見切れるように氷菜の姿が映っていたために、バナンは上空に飛び上がって氷の矢を避ける事が出来た。
“このまま落下と、うん、にゃんだ?”
塔の周りの僅かな地面を軽々と見渡せるぐらい飛び上がっていたバナンの周りに、風で流される小さな花びらのようなものが数枚あるのに気づいた。
「風花の矢」
その花びらのような物が意思を持っているかのように自分の周りを囲んでいくのに気づいたのは、すっかり逃げ道がないほど囲まれた時だった。
“にゃにか知らんが、こんな物!”
バナンは無視して水希に狙いを定めるために向きを変えたその時、翼に数枚の花びらのような物が触れた。その花びらのような物は水だったらしく、翼の中に滲み込み奥に入っていく。そして、翼の奥に辿り着いた時、破裂するようにして中から細い矢が飛び出し翼に突き刺さった。翼に触れた花びらのような雨は2、3粒だったのに、その中から飛び出した矢の数は千を遥かに越える数だった。
《グゥ! にゃ、にゃんだ!》
突然の激痛は後ろからの攻撃だと思ったバナンは、慌てて後ろを振り返るがそこにあるのは花びらのような雨だけ。その振り返る際に今度は尻尾と後ろ足が触れ、また雨の矢が身に突き刺さる。
“これは、この花びらの攻撃か!”
そう気づいたバナンだったが、すでに周りは風に散らされる桜の花びらのように目では数え切れないほど花びらの雨が舞いに舞っていた。羽ばたこうにも息を吸おうにも、確実にこの状況を抜けれるわけがないと悟ったバナンは、落ちるようにしてこの花びらを突っ切る事を考え行動に移す。幾つもの花びらが体に触れ、その度に数百の矢が体に突き刺さる。1つ1つは針に刺された様に細い傷だが、それが数千ともなると全身から血が垂れ落ちる。それでもようやくその花びらの攻撃が終わりかけた時、塔の最上階の先程まで屋根があった位置に来た時、バナンが耳にしたのは水希の声。
「驟雨の矢」
その言葉を聞いたバナンは水希のほうを見る。すると水希は自分に向かって手を翳しており、その手の先に今度はビー玉の様な大きさのキラキラ光る水が幾つもあり、バナンに向けて撃ち出してきた。
“避けきれにゃいか”
上に逃げる事は出来そうもなく、左右にも避ける事は到底出来ない。唯一残されたのは下に逃げる事だけ。しかしその賭けは失敗に終わり、バナンは下半身に直撃を受けてバランスを崩しながら力なく塔の下に落ちていった。
「あぁ、落ちてっちゃった」
氷菜の前に張り付けにされていたカイヤックは、氷菜が後ろを振り返った瞬間雷祇に向かって走り出していた。
「足も早いんだ。でもね」
自分の前から遠ざかるカイヤックの足音。その向かう先が雷祇の元だと丸分かりで、氷菜は今度は手に鞭を作り出し雷祇の側の床を凍りつかせた。その凍りつきがカイヤックの足元にスルスルと蛇のように伸びて床が凍りつく。
「糞が!」
カイヤックはそれでも雷祇の元に向かおうとするが、足が氷に取られまともに進めない。そんなカイヤックの前に氷菜が空を歩いて目の前に降り立った。
「ボクの相手してって言ってるでしょ?」
氷菜は手に持っていた鞭を剣に変えると、カイヤックの懐に飛び込むように斬りかかった。
“お、重てぇ!!”
体当たりのようにイクリプスに斬りかかってきた氷菜。その攻撃がとてつもなく重く、床が凍っている事もあり踏ん張りがまったく利かず、手招きされているかのように塔の外に体が流されていく。それを止めるためにはイクリプスを床に刺す以外手が無く、カイヤックもそうした。それをすると後に待っている事は1つだと知りながら。
「バイバイ、ロリコンおじさん」
“糞!”
ここで残る選択肢は2つ。避けきる可能性が低い氷菜の攻撃を避けながら反撃するか、イクリプスを抜いて氷菜の攻撃を防ぐか。その2つの内、カイヤックが選んだのは後者。イクリプスを抜き氷菜の攻撃は防げた、が。
“無理か”
勢いのある攻撃、凍りつく床。この2つで今度はあっけなく塔の外に大きな体が放り出された。
「あ〜あ、あっけなかったな。もうちょっと遊んでも良かったけど――」
ゆっくりと歩き、少し残念そうな表情になりながら下を確認しようと塔の端に辿り着く。警戒心がまるで無かった氷菜は覗き込むようにして下を見た。その時、氷菜の頬には一閃の傷が駆け抜けた。
「ヘェ〜、まだ生きてたんだ。けどボクも一応女の子だし、顔はやめて欲しいんだけど、ロリコンおじさん」
氷菜の後ろに着地したカイヤック。氷菜は振り返り頬の傷に触れながら凍らしていく。そして、拗ねるような顔でカイヤックを睨み付けた。
「なんだ、そっちが生きてたからか」
氷菜は後ろで聞こえる羽音で、バナンが生きてたと知る。
「ど、どうなって、どうなってるん、ですか、終演さん……。だ、って、だってだって、神水、さん、は死んだ、死んだはず、ですよね? なのにどうして? どうして神水さんがいるんですか? あ、もしかして、似てるだけですか? そっくりな、だけですねよ。そうですよね? そう、ですよね。そう、じゃないと……」
終演はただ無言で現実から逃避している。全てを見ないように、聞かないように神経全てに栓をして。
「さっきの魔法で、随分と力を使ってしまったのね」
器に巻きつくしか抵抗が出来なくなった黒マントにそう声をかけると、水希がゆっくりと黒マントに触れる。すると黒マントは、器からもがき苦しむかのように離れ暴れ回る。
「あなたも自由になりなさい」
それを宥めるように水希は黒マントを抱きしめる。それでも最初は水希の腕から逃げ出そうともがいていたが、自然と抵抗が弱くなりすぐに黒マントは動かなくなった。そうなったのを確認して、黒マントを畳んで床に置くと水希は器に手を伸ばした。